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第72日 出雲−須佐

2002年8月2日(金) 参加者:東戸

第72日行程  出雲市を6時58分の121D普通列車が本日の旅のスタート。レンタカーを1日中フル活用した昨日とは対照的に今日は鉄道の旅となる予定だ。次の西出雲、出雲神西までが出雲市域。出雲神西は1982年(昭和57年)7月1日に開設され、当時の駅名は神西であった。出雲市−大社間の大社線7.5キロが1990年(平成2年)4月1日に廃止された後、当時の出雲市長であった岩國哲人氏の発案により、観光振興を目的として1993年(平成5年)3月18日に駅名を出雲大社口に改称した。ところが改称直後から観光客が出雲大社の最寄駅と勘違いして下車するケースが続発。駅から出雲大社まで10キロ近くも離れているうえ、路線バスはおろかタクシーすら常駐していないため苦情が殺到した。事態を重く見た総務庁から駅名の改善を求める要望が出され、1999年(平成11年)3月13日に現在の出雲神西に改められたという曰く付きの駅だ。1面1線のホームを見る限り観光とは無縁のようで、せめて路線バスを接続させればよかったのかもしれない。
 小田あたりから日本海が寄り添い外周の旅らしい車窓になる。大田市までは通勤列車として賑わいをみせていた121Dも、通勤客を降ろしてしまうとローカル線に戻ってしまう。いつまでも乗り続けて先へ進みたい気持ちもあったが、我々も7時53分の仁万で下車した。行政上は邇摩郡仁摩町であるが、駅名は仁万となっている。行政上の表記と駅名の相違は全国でもよくあるので、仁万もその類であるかと思っていたが、駅の所在地が仁摩町仁万であった。駅近くにあった郵便局も仁万郵便局を名乗っている。
 仁万は石見銀山への玄関口で、仁万駅から5キロほど内陸部へ入ったところが戦国時代から江戸時代まで日本最大の銀山として栄えた大森だ。外周の旅で石見銀山を訪問するかどうかは迷うところであるが、度々訪問できるところでもないので、多少の無理を承知で行程に組み込んだ。次の石見銀山方面への石見交通バスは仁万駅前を8時25分と30分近い待ち合わせ。前夜の宿泊先のファミリーホテル「銀輪荘」では朝食が7時からとなっていたので、121Dに間に合わず、朝食を抜いて「銀輪荘」を出てきた。仁万駅前にあった「松尾釣具店」が開いていたので菓子パンで朝食とする。釣具店を名乗っているが、実際には食品や日用雑貨品も扱うお店で、懐かしい駄菓子などもあったので朝から手を出してしまう。
 地元のお年寄りを乗せて仁万駅前を発車した石見交通バスであったが、ほとんどが仁摩町周辺の近距離利用者で、すぐに我々2人だけの貸し切り状態になってしまう。潮川沿いに走っていたバスはやがてカーブの続く山道に入り、トンネルを抜けると銀山資料館となっている代官所跡が現われた。ちょっと腰を浮かしかけたが、とりあえず終点の龍源寺間歩まで乗り通すことにする。銀山資料館の開館時刻は9時なので、今から資料館に行っても15分程待たされる。龍源寺間歩まで行って、散策しながら資料館へ戻った方が時間を無駄にしなくて済むからだ。
流源寺間歩  間歩とは坑道のことで、石見銀山には600近い間歩が存在するが、龍源寺間歩は唯一公開されている観光坑道である。1715年(正徳5年)に開発された龍源寺間歩は、永久、大久保、新切、新横相間歩と共に代官所の直営で「五か山」と呼ばれ、1943年(昭和18年)まで228年間に渡って良質の銀鉱石が掘り続けられていた。公開されているのは旧坑157メートルと通り抜けのために新たに掘削された新坑116メートルであるが、江戸時代の開掘の長さは600メートルに及んでおり、石見銀山では大久保間歩に次ぐ大坑道であったという。坑道内の平均気温は16〜17度なのでひんやりとして気持ちがいい。旧坑の壁面にはノミで掘った跡が当時のままの状態で残っており歴史的価値がある。背水のために垂直に掘った竪坑も残っており興味深い。新坑の壁面には「石見銀山絵巻」を電照板で表わして展示しており、歩きながら当時の坑内の様子を知ることができた。
 間歩から出ると蒸し暑さが襲ってくる。石見銀山の鎮護神である佐毘売山神社を参拝し、明治時代の精錬施設の遺構である清水谷精錬所跡を眺めたりしながら石見銀山公園へ。石見銀山公園から大森代官所跡までの一帯は、武家と町家が混在する大森町の町並みが続いている。武家は通りに面して門や塀があって母屋との間に庭を設けているのに対して、町家は通りに面して母屋が建っている。大森町は石見銀山の外郭町として行政や通称的機能をもっていた町なのだ。
 1610年(慶長15年)に銀山奉行大久保石見守に召し抱えられて以来、銀山付役人を代々務めた河島家住宅を見学する。大森町には八島家、松田家などいくつかの武家や町家が残っているが、公開されているのは河島家住宅だけである。門をくぐると正面に式台のある玄関があり、その脇には大戸口と呼ばれる出入口がある。屋敷の建物に入ると土間や中ノ間は現存するものの、風呂や便所、土蔵などは残っていなかった。大半は1800年(寛政12年)の大火で焼失してしまい、現存する建物もその後に再建された一部に過ぎないとのこと。見学者にはアイスコーヒーのサービスがあり、入場料200円は事実上のコーヒー代のようだ。
 石見銀山観光のラストは石見銀山資料館へ。資料館の建物は、1902年(明治35年)に建てられた邇摩郡役所をそのままに利用し、1976年(昭和51年)に地元有志が資料館として開館した。役所というよりも小学校のような雰囲気の資料館では、石見銀山の歴史を紹介する文献や鉱山道具、石見銀山に限らず島根県内で採取された鉱石などを展示している。
 石見銀山は1309年(延慶2年)に発見され、本格的な開発は1526年(大永6年)に大内氏の支援によって博多の神屋寿貞によって始められたという。その後は、その支配をめぐって大内氏やその後継である毛利氏、出雲の尼子氏によって争われる。1600年(慶長5年)からは徳川氏の江戸幕府による直轄となり、石見銀山領が置かれた。1603年(慶長8年)には、運上銀14トンが産出されたという。もっとも、この時期が石見銀山の最盛期だったようだ。
 資料館の裏手には枯山水の石庭が整備されていた。この庭には、百姓一揆などが起こった場合の代官の逃げ道と伝えられる抜け穴が2つあり、1つは隣の勝源寺に通じているとのこと。ここには江戸時代、銀山領の支配の拠点である代官所が建っていたのである。それにしても、普段は権力を楯に威張り散らしている役人も、百姓が本気で立ち上がったら逃げるしか術がなかったのであろうかと思うと滑稽だ。
 大森代官所跡を10時48分の石見交通バスで仁摩町の中心部へ戻る。仁摩役場前でバスを降りると目の前に仁摩健康公園がある。
「ここ時間ある?ちょっと行ってくるね」
東戸クンが園内のローラー滑り台を見付けて階段を駆け上がって行く。ローラー滑り台は丘陵地を利用して設置されているため、かなりの長さで1度滑るだけでも容易ではなさそう。東戸クンが滑り台に興じている時間を利用して、私は仁万郵便局での旅行貯金を済ませた。
 東戸クンと合流して仁摩健康公園に隣接する仁摩サンドミュージアムへ。仁摩サンドミュージアムは、仁摩町シルバーランド計画のシンボルとして建設された砂の博物館。1991年(平成3年)3月3日のオープン当初は、税金の無駄遣いの象徴として散々叩かれた施設でもあり、私自身も最初はそんな悪評から仁摩サンドミュージアムを知った。
 仁摩サンドミュージアムは大小6基の総ガラス張りになっているピラミッド群を形成している。古代エジプトのクフ王の墓室にあった鳴り砂と仁摩町の琴ヶ浜のなり砂がよく似ていたことから採用されたとのこと。鳴り砂とは、粒のそろった石英の多く含まれた砂が擦れあって音を発する砂のことで、鳴り砂海岸は日本中に数ヵ所あるといわれている。ただ、よく鳴る砂浜は年々減少しているため、仁摩町の琴ヶ浜は鳴り砂が残っている貴重な海岸として注目を集めているとのこと。
 700円の入館料を支払って館内に入ると、サンドアートが目を惹く。砂が水のように流れ落ちて水車のような動きを生み出す作品やゆっくりとした2枚のガラスディスクの回転に伴いその中の砂が滑り、生成と崩壊を繰り返しながら様々な模様や美しい多数の二等辺三角形を形成する作品が展示されている。圧巻だったのは全長5.2メートル、直径1メートルのジャンボガラス容器を使い、1トンの砂を1年かけて落とす世界最大の砂時計だ。大ピラミッド館内の地上8メートルの空間に銀色の鉄パイプに支えられ、中空に浮かぶ姿は現代アート作品といえよう。もっとも、これだけのものを税金で造ったのだから、無駄遣いと叩かれてもやむを得ない気もする。
 「ポプラ仁摩店」で惣菜パンを購入して昼食を摂り、仁万駅口から12時25分発の石見交通バスで温泉津へ向かう。温泉津へ向かうのであれば、バスよりも山陰本線が外周ルートになるのであるが、次の列車は仁万13時56分の327Dまでないのでバスで時間の節約を図る。ちなみに327Dの1本前は10時48分の快速アクアライナーで、日中に3時間以上も空白の時間がある。この間に1本くらい列車を走らせてもよさそうなものであるが、利用者が見込めないのであろうか。もっとも、バスは温泉津までほとんど山陰本線に並走するので、外周の旅としてもそれほど気にはならない。
 バスは10分遅れで温泉津駅前に到着したが、温泉津の温泉街は駅から少々離れている。温泉津町営バスが駅前と温泉街を往復しているが、次のバスまで30分以上ある。駅近くにある温泉津郵便局で聞けば、温泉街まで徒歩15分ぐらいというので、それならば歩きに決定。温泉津港まで山陰本線沿いに歩いていると、駅の位置をもう少し西にあれば便利ではないかと考えてしまう。もっとも、温泉津町役場は駅から温泉街と反対側にあり、温泉津町民としては現在の位置が適切なのかもしれない。
 温泉津湾に面した温泉街の入口には、和風の外観が美しい多目的施設「ゆう・ゆう館」が建つ。2階のギャラリーに展示される温泉津の歴史を紹介する小品コレクションがあるとのことだが、時間の関係で入浴を優先して先へ進む。
 山陰のひなびた温泉街というイメージが定着している温泉津の温泉街には、石州瓦と呼ばれる独特の赤瓦と渋い光沢の黒瓦が続いており、どこか昔懐かしい雰囲気が漂っている。温泉津の地名に惹かれていつかは訪問したいと思っていたが念願が叶った。
 温泉津温泉は、旅の僧が湯に浸かって傷を治している狸を見付けたとか、縁結びの神様大国主命が病気のウサギをお湯に入れて救ったことから始まったとも言われている。いずれにしても、湯治場として評判の由緒ある温泉であることには間違いない。外湯は「元湯泉薬湯」と「薬師湯」の2箇所あり、両方とも源泉に一切手を加えない生の温泉であったが、「薬師湯」は1872年(明治5年)3月14日に発生した浜田地震で湧き出したということなので、それよりも発見されてから約1300年の歴史のある「元湯泉薬湯」に入浴することにした。
 「元湯泉薬湯」は外観もさることながら、脱衣所から浴場まで歴史を感じさせる。洗い場は茶色の堆積物で覆われているうえ、湯船の縁もキノコの傘状に堆積物が付いており、湯の濃さを感じさせる。湯は白みを帯びた緑色で、42度前後のぬるめと45度前後の熱めの2つの湯船がある。熱い湯は苦手なのでぬるい湯にゆっくりと浸かった。
 元湯でさっぱりしたものの、温泉津駅に戻るまでに再び汗だくになってしまう。温泉津14時13分の327D普通列車で江の川を渡ると島根県の旅も残り半分となる。三江線が分岐する江津を経て、14時46分の波子で下車した。
 「JRの利用者はアクアス入館料が2割引だって」
改札口を通り抜けると東戸クンに呼び止められる。波子で下車した目的は、駅から徒歩10分のところにある「アクアス」へ行くためであったが、東戸クンが目敏くホームの案内に気が付いた。さっそく、駅の窓口で確認すると、本来の1,500円の入場券を1,200円で買うことができた。東戸クンに指摘されなかったら、何も知らずに現地で1,500円の入場券を買わされるところだった。
 「アクアス」は2000年(平成12年)4月15日に浜田市と江津市にまたがる島根県立石見海浜公園にオープンした中四国最大級の水族館。総容量3,000トンの大小50の水槽には、北極海からアマゾン川まで世界各地から集まった500種10,000点もの魚類や海獣が集まっている。
 サメをモチーフにした「アクアス」に入ると、夏休み中であることから小学生の姿が多い。荷物をコインロッカーに預けて、順路を進めば、しまねの磯から日本海、そして世界の海へと徐々にテーマが大きくなっている。海底トンネルをくぐれば、サメやエイが勢いよく泳いでおり迫力がある。北極海からやってきた3頭のシロイルカが珍しく、西日本では「アクアス」だけでしか見られないそうだ。その他にも1,000トンの巨大水槽を泳ぐサメ、サンゴ礁が棲み家の熱帯魚などを5つのコーナーに分けて展示しており、微生物を顕微鏡で観察できるマイクロアクアリウムやヒトデや貝類に触れて楽しむタッチプールなど充実した施設で時間が過ぎるのを忘れそうになる。
 「アクアス」と海岸の間は国道9号線によって隔たれているが、高さ50メートルの主塔がそびえる斜張橋「はっしータワー」で結ばれている。「はっしータワー」は、石見海浜公園全体のテーマ性を語るモニュメンタルな存在で、デザインは、打ち寄せる波のイメージを表現し、床版を高く持ち上げて明るく開けた空間作りをしている。浜田駅へ向かうバスまで時間があったので、「はっしータワー」を渡ると、砂浜まではさらに砂丘トンネルが続いている。砂丘トンネルを抜ければ目の前に日本海が広がり、砂浜でも親子連れの姿が目立った。
千畳敷  アクアス前停留所から石見交通バスを捉まえたものの、わずか5分の畳ヶ浦口で下車。畳ヶ浦のメインのスポットである千畳敷を目指す。畳ヶ浦は、波によって浸蝕された約25メートルの海蝕崖と約49,000平方メートルに及んで海蝕代と呼ばれる1872年(明治5年)3月14日の浜田地震で形成された砂岩の隆起海床が広がっている。広大な海蝕台には、縦横に規則正しく走る小さな亀裂が見られ、これが畳を敷き詰めたように見えることから千畳敷と呼ばれている。千畳敷へ向かう遊歩道を歩いて行くと、やがてトンネルが現われる。波の音が反響するトンネル内には見事な海蝕洞があり、太陽の光が差し込んでいる。海蝕洞の前には穴観音や地蔵が並んでおり、水子供養をしているようだ。このあたりは賽の河原と呼ばれる心霊スポットであったことを後で知りぞっとする。トンネルを抜けたところが千畳敷で、約1,500万年前の貝の化石や鯨骨の化石などを見つけることができる。波の浸食によってできた腰掛け状の丸い岩(ノジュール)をはじめ、多くの断層や海食洞などの特殊な地形を観察することができることから地質学的な価値も高く、国の天然記念物にも指定されている。
 時間の関係で慌しく畳ヶ浦口に戻り、17時04分の石見交通バスで浜田駅へ出る。畳ヶ浦の最寄駅は下府であり、下府からは山陰本線が外周ルートになるので、下府駅口から列車に乗り換えることも検討したが、下府17時08分の329Dに乗り継げるか微妙な状況だったので無理をせず浜田駅まで乗り通すことにしたのだ。
 浜田から再び山陰本線の旅に戻る。今宵の宿は山口県に入った須佐駅前の「好月旅館」を予約してある。本来であれば鎌手駅近くの荒磯温泉で宿泊したかったのであるが、あいにくの満室。それならば入浴だけでもと思っていたのだが、日帰り入浴は11時から14時までなのでアウト。浜田17時35分の353Dに乗っていれば、益田で585Dに乗り継いで18時55分に須佐に到着する。宿に入る時間としては妥当なところであるが、なんとなく荒磯温泉の代わりとなる温泉がないかを探してみる。何気なく地図を見ていると、須佐には温泉が存在しないものの、島根県との県境に近い田万川町に温泉マークを発見した。すぐに江崎で途中下車して田万川温泉へ立ち寄るプランに修正。「好月旅館」には到着が遅くなる旨を連絡する。
 353Dは夕暮れの日本海に沿って山陰時を走る。フラれた荒磯温泉を車窓から眺め、山口線の分岐する益田で3分の待ち合わせで長門市行き585Dに乗り継ぐ。585Dで山口県入りし、県境の駅である江崎で下車すると周囲はすっかり日が暮れていた。
 駅前に田万川温泉の案内もなく、田んぼに囲まれた道を温泉があると信じる方向へ向かって歩く。国道191号線に出れば「田万川温泉」の案内標識が見付かり、田万川沿いの道路を河口に向かって歩いて行くと、煌々と灯りの点った田万川温泉「憩いの湯」を発見した。
田万川町の西堂寺六角堂をイメージした六角形の温泉棟は広々とした立派な設備。入浴料400円を支払い、浴場へ入れば清潔で、広くてゆったりしている。温泉津温泉の「元湯泉薬湯」とは対象的だ。泉質はカルシウム・ナトリウム−塩化物冷鉱泉で、露天風呂があったのを幸い、ぬるめの湯にゆっくりと浸かる。
 近所の民家からピアノを練習する音が聞こえる江崎駅から20時23分発の587Dに乗って1駅の須佐で下車。駅前の「好月旅館」へ赴けば、老夫婦が出迎えてくれ、もう21時近いというのに嫌な顔ひとつせずに須佐湾で採れた魚料理を振舞ってくれた。

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