旅行人の考え方

第71日 米子−出雲

2002年8月1日(木) 参加者:東戸

第71日行程  今回の旅のスタートは前回の隠岐に続いて米子駅からスタートする。前回は弁天町バスターミナルから日本交通の夜行バスを利用したが、今回は同行者の東戸東クンの希望もあって急行「だいせん」利用となる。東戸クンは外周常連の安藤誠クンから外周の旅の様子を聞き、興味を持ってくれた新メンバー。昨年、安藤クンと一緒に京都へ来たときに面識はあったが、今回の旅を通じて親睦を深めたい。
 大阪駅1番ホームには急行「だいせん」の自由席に並ぶ列が少しあったが、入線前にホームへ来れば多客時でも座りはぐれることはないことは以前利用したときに確認済み。もっとも、次第に三田あたりへ帰るサラリーマンが次々と乗り込んでくるので、発車間際には立ち客の出る大盛況になるので、保険のために今回は指定席券を用意した。明日はレンタカー利用となるので、寝不足で交通事故でも起こしたら大変だ。ホームには東戸クンの姿が見えず、心配になって携帯電話に連絡をとる。隣のホームのスタンドで腹ごしらえにそばを食べているとのことで、すぐに見覚えのある東戸クンの姿を確認した。
 急行「だいせん」は数年前まではディーゼル機関車の牽引する客車列車であるが、今日入線した列車は展望席を備えた派手な車両。一見してジョイフルトレインのお下がりと察しがつくが、夜行列車では展望席から見える景色も闇夜ばかりだ。
 指定された座席に落ち着いてしばらく東戸クンを談笑するものの、大阪の発車時刻が23時15分なので、早々に切り上げて就寝の準備をする。自由席はサラリーマンの駆け込み乗車で賑わっているのかもしれないが、指定席はガラガラで、東戸クンは空いているのを幸い、空いた座席へ移動して横になった。
 なかなか寝付けず、餘部鉄橋を通過する際に展望席で目を凝らしてみたが、何も見えないので諦めて座席に戻る。ようやくまどろみかけたかと思えば倉吉で、米子まであと1時間足らず。倉吉から急行「だいせん」は快速3731Dに変身する。ちょっと意識が遠のいたかと思えば、車内放送が終点米子到着を伝えた。
 米子ではわずか1分で119Dに乗り継ぎ。わずか1分でも快速3731Dが119Dを接続していることは時刻表を見ても明らかであるが、外周の旅の開始にしては慌しい。今日の予定は松江駅からレンタカー利用となっており、マツダレンタカー松江駅北営業所は8時からなので、1本列車を遅らせてもよかったのであるが、米子での時間の持て余しは、昨年も福井クンと散々経験したので、今年は松江での時間調整としたのだ。
 米子を5時44分に発車した119Dは間もなく県境を越えて島根県へ。荒島を過ぎると右手に中海が広がり、朝日が反射してまぶしい。矢田の渡しの看板が見えると間もなく松江に到着だ。
 松江駅の待合室でしばらく睡眠を補給する。レンタカーを運転するのに居眠りをしては大変だ。7時近くにキヨスクのシャッターを上げる音で起される。朝食でも仕入れようかとのぞいて見ると、宍道湖七珍味「大和しじみのもぐり寿し」(950円)を発見する。「大和しじみのもぐり寿し」と言えば、山陰を代表する名物駅弁で、耳にしたことはあったが、実際に食べる機会に恵まれなかった。東戸クンにも山陰で有名な駅弁だからと推奨し、早朝から2人でぜいたくな朝食となる。「大和しじみのもぐり寿し」は、酢飯の上に宍道湖の名産である大和しじみ、白魚の天婦羅、えび、うなぎ、かまぼこ、卵、昆布佃煮が所狭しと盛り付けられている。しかも、酢飯の中にも大和しじみが現われる。「もぐり寿し」と銘打つ由縁である。宍道湖はしじみの生産量が日本一なのだ。
 「大和しじみのもぐり寿し」に満足して、早めにマツダレンタカー松江駅北営業所へ移動する。営業所の職員がいれば早めに手続きをしてくれるだろうとの期待を持っていたのであるが、営業所にはカーテンが閉まった状態。8時になっても開く様子がないので、ガラス戸をドンドン叩くとようやくカーテンが開かれた。のんびりとした職員は貸し出し手続きも手際が悪く、ようやくAZワゴンに乗り込んだときには8時15分になっていた。レンタカーを借りるのにこれだけの時間がかかったのは初めてであり、こんな時間も貸し出し時間に計算されてしまうのだから溜まらない。
 東戸クンがハンドルを握り、ようやく旅の再開となる。宍道湖から中海へ続く大橋川に架かるくにびき大橋を渡ると左手前方に松江城が見える。松江城は、1611年(慶長16年)に堀尾吉晴が築城した。千鳥が羽を広げたように美しいことから、別名「千鳥城」と言われ、松江のシンボルとして親しまれている。小高い丘を城地として周囲に内堀をめぐらした平山城の代表的な城だ。山陰で唯一残る天守閣は、五層六階の望桜式で、黒塗りの現板で覆われている。
「お城があるね。お城には行かないの」
東戸クンが早々に希望を口にするが、残念ながら今日は1日で島根半島を攻略しなければならないので時間がない。申し訳ないがここは東戸クンに我慢してもらうしかない。レンタカーは松江城に背を向けて東へ向かって走る。
 米子からの普通列車119Dからも確認した矢田の渡しが最初のポイント。矢田の渡しの歴史は、太古の昔、ほぼ完全な形で残る唯一の風土記である「出雲風土記」にまで遡る。以前は交通の要所として大きな役割を果たしていたが、中海の河口に中海大橋が開通すると役割は大きく減退した。それでも中海大橋を渡ろうと思えば自動車が必要になるため、地元の住民にとっては矢田の渡しが生活にとって不可欠のようだ。渡船場には片道40円、観光1,000円という料金表が掲げられている。対岸に渡るのに用務だと40円で観光だと1,000円もするのかと一瞬錯覚したが、観光というのは先ほどレンタカーで渡ったくにびき大橋まで大橋川、剣先川、朝酌川を周遊しながらたどるコースであることが判明。観光コースは第1便が10時なので見送り、対岸まで往復してみようと渡船場に足を向ける。ところが、矢田の渡しの船員は、向こう岸で手を上げているお客に気を取られ、我々が乗ろうとしているにもかかわらず、気が付かずに岸を離れてしまう。なんとなく馬鹿にされたようで、時間のロスにもなるので矢田の渡しの往復は取り止め。レンタカーに戻って先に進む。
 しばらく中海に面した道路を走り、大海崎鼻から干拓のために築かれたと思われる堤防道路をたどる。道路の両側に中海が迫っているにもかかわらず、橋ではなく陸地の上を走っているだから妙な気分だ。堤防を渡り終えたところが中海に浮かぶ大根島。大根島はもともと「出雲風土記」では「たこ島」と称されていたが、これに「太根」という当て字をあてはめ、更に「大根」に変化という。「たこ」が「だいこん」になるのだから面白い。
 まずは大根島の中心街に近い由志園へ。由志園は、総面積約4万平米の山陰一の規模を誇る本格的な回遊式庭園である。由志園の歴史は以外に浅く、開園は1975年(昭和50年)4月と偶然にも私と同い年。当初から観光開発の一助に造園されたのだが、当時は陸続きではなかったため、工事は想像を絶する困難を極め、着工から開園まで8年かかったという。
 600円の入園料を払って園内に入ると5箇所も料亭が構えていたので驚く。日本庭園と料亭のどちらが本業なのかわからないが、まだ朝早いためどこも閉まっている。観光開発といっても日本庭園だけでは限界があるだろうし、アイデアには感心するが、どれだけの需要があるのかは疑問。牡丹庭園としても有名なので、牡丹の開花時期に全国の観光客を集めるのかもしれない。 充分に手入れが行き届いている園内には、松が青々と茂っており、ところどころに水蓮が顔をのぞかせている。最初に寒牡丹庭園をのぞいてみるが、寒牡丹は春と冬に開花するので季節外れもいいところ。それでも由志園には牡丹の館という施設で1年中、大輪の牡丹を鑑賞することができる。牡丹の館では、年間に100回を超える植え替えを行い、温度や湿度の調整に細心の注意を払って牡丹を栽培しているのだ。出雲神話「八岐の大蛇退治」をテーマに荒々しい渓谷をイメージした竜渓滝、黒松と大根島の島石を美しく配した枯山水庭園の白砂青松庭を順番に見学して、出口近くにある売店コーナーやまぼうしへ。入場券を購入したときにもらったチケットと引き換えにクッキーがプレゼントされた。
 大根島の南側を半周した状態で、やはり干拓のための堤防道路で結ばれた江島に渡る。江島は工業団地があるだけの面白味のない島なので通過し、中浦水門を渡って鳥取県の境港へ出る。中浦水門は跳ね橋で、船が通過する度に入口の遮断機が下りるので踏み切りのよう。総重量14トン以上の自動車は通行できないため、観光バスが中浦水門を通過するときは、観光客を降ろして身軽になった状態でバスは水門を渡り、降ろされた観光客は列をなして徒歩で後に続くという滑稽な様子が見られるそうだ。
 中浦水門を渡れば中海横断は完了。すぐに引き返してもいいのだが、折角なので昨年隠岐へ渡る過程で通り過ごした「夢みなとタワー」へ足を伸ばしてみる。県道246号線をたどって弓ヶ浜半島を横切り、美保湾に面した「夢みなとタワー」が待つ夢みなと公園へ。周囲はきれいに整備されており、緑地公園はオブジェや木で作られたボードウォークなどかなりお洒落な公園だ。隣接する境港おさかなセンターでは、境港で水揚げされた魚介類が販売されている。もっとも、旅の初日から新鮮な魚を手にしてもどうしようもない。公園の一角には大山と日本海を望む絶景露天風呂を謳う「みなと温泉館」もあったが、入浴時間は12時からとなっており、入口は閉ざされていた。仕方がないので素直に「夢みなとタワー」に向かう。
 鉄塔ともガラスの塔とも言えるような夢みなとタワーの構造は、テンセグリティーという独特なもので、鳥取県日南町の杉の集成材が豊富に使われている。展望室に上れば、否応なく階下の展示室を見学する流れになっているところが多いのであるが、夢みなとタワーの料金体系は、最上階の展望室が200円、3階の展示室が200円と区分して設定されている。展望室だけ見学して、展示室はパスする観光客が多いのであろうか。念のため東戸クンの意向を確認するが、せっかくだから両方見学しようということになる。
地上43メートルの展望室からは日本海を臨む360度のパノラマ。北東には島根半島が横たわり、これから向かう美保関が確認できる。南東を見れば、美保湾の向こうには国立公園の大山が水平線に浮かぶようにそびえており、ロケーションはなかなかだ。
 3階の展示室は、鳥取県と交流のある環日本海諸国の生活や文化を実際に体験しながら知ることのできるコーナーになっている。韓国、中国、ロシア、モンゴルの民族衣装を無料で試着できるほか、各国のおもちゃや楽器などに実際に触れることができる。境港出身の漫画家である水木しげる氏の作中に出てくる妖怪の世界の品々も展示されており、鬼太郎の家が目をひく。
 1階は古き良き大正から昭和初期の港町を再現したレトロな商店街。鳥取県の名産品や特産品をはじめ駄菓子屋もある。鳥取名産の梨を使ったなしソフト(250円)を舐めていると、瓶入りコーラの自動販売機が設置されているのを発見。中身は缶入りのコーラと変わらないことは理解しつつも思わず手が出てしまう。
 江島、大根島を経由して再び島根半島に戻る。中海沿いの県道260号線を北上していくと、途中で通行止めの看板が出ている。そのまま進めば国道431号線と合流する本庄まで4キロ弱であるが、3倍以上の距離を迂回する羽目になる。時間的なロスは相当なもので後々の行程に支障が生じるのは避けられそうもない。
 右手に続く景色が中海から境水道、美保湾と変わる。美保関港から通称しおかぜラインと呼ばれる美保関灯台道路に入る。島根県観光開発公社が1973年に総事業費3億5,000万円で建設し、2000年6月30日までは普通車460円の通行料が必要であったが、道路が島根県観光開発公社から島根県に移管されたの機会に無料化された。わずか全長1.7キロの道路に過ぎないが、ところどころで海の浸食などで傷んだ部分の改修工事が行われている。無料なので文句はないが、有料で工事による足止めばかりだと利用者の不満が爆発するのは間違いない。
 美保関灯台周辺は地蔵負地として整備されており、駐車場から遊歩道を少し歩くと世界灯台百選に選ばれた異国情緒のある白亜の美保関灯台が待っていた。明治の面影が残る石造りの美保関灯台は、海抜73メートルの岩上にあり、高さは14メートル。1898年(明治31年)に67,500カンデラの地蔵崎灯台として建設され、1935年(昭和10年)に美保関灯台と改められた。もっとも、灯台内部の見学はできずに、外観を楽しむだけで終わる。
 美保関灯台に隣接して「灯台ビュッフェ」が店を開いていたのでのぞいてみる。1962年(昭和37年)に美保関灯台が無人化されるまでは、職員の官舎として利用されていた真っ白な石壁と赤い屋根の石造りの建物をビュッフェとして再利用しているとのこと。時刻は12時を回ったところだったので昼食をと考えたのだが、ビュッフェの入口の看板には名物の「シーフードパスタ」が品切れの文字がある。その他のメニューは「いかめし定食」や「灯台セット」と呼ばれるうどんの類だったので入店を見合わせる。
 気を取り直して展望台に足を向ければ、複雑に入り組んだリアス式の海岸部と美しい断崖景観が広がる。すぐ下に見える鳥居は沖の御前島で、美保神社の祭神えびす様が釣りを楽しんだところとの言い伝えが残る。晴れた日には隠岐を確認できるとのことであるが、今日は天気が良いにもかかわらず、沖合は霞んでいて島影を確認することができない。大山の稜線から昇る日の出や日本海に沈む夕日も有名なポイントであるが、天気にも左右されるので難しいところだ。
 美保関の集落まで戻って美保関神社に参拝。風格のある本殿は美保造りと呼ばれ、大社造りを2棟並べた独特のもの。左殿に三穂津姫命、右殿にえびす様として知られる事代主命が祀られている。漁業、海運、商売、歌舞音曲の神として全国に事代主命を御祭神とする神社が3,385社もあり、美保神社はその総本宮なのだ。
美保関  美保神社の鳥居をくぐり右に曲がると石畳の通りがある。有名な青石畳通りで、「歓迎青石畳通」と記されたアーチがかえって風情を欠いているようにも思える。美保関は江戸時代に北前船の西廻り航路の寄港地として栄え、青石畳通りも多くの人々で賑わったという。町並みは門前町として発展した当時の面影を残しているが、賑わいは感じられず、むしろ静けさと相俟って落ち着いた雰囲気を醸し出している。佛谷寺まで約250メートルの石畳を踏んでいると、「いい感じだね」と東戸クンは気に入った様子だ。
 佛谷寺まで青石畳通りを往復した後、美保関漁港の西の丘陵地にある五本松公園へ足を運ぶ。五本松公園登山リフトの案内板の従って歩くが、リフト乗り場は美保関港から急坂を登ったところにあり、リフトの有難味が半減してしまう。450円を500円に訂正したリフト券を購入して、リフトに腰掛ければ3分もたたないうちに終点。リフトを降りて、再び上り坂となる園内歩道を歩く。園内歩道の両脇にはつつじがあり、ゴールデンウィークの時期には、園内の5,000本のつつじが咲き乱れるという。
 5分も歩くと公園名の由来にもなっている関の五本松に対面した。この丘陵地の上にそびえる5本の松は沖合からもよく見えたため、美保関港に出入りする漁船や日本海を航行する船舶は松を目印にしていたという。ところが松江藩主が美保神社参詣の途中、眺望の邪魔になるという理由で5本の松の1本を切ってしまう。漁師たちは藩主へのやり場のない怒りと松への愛惜をこめて、「ハー関の五本松、1本切りゃ4本、後は切られぬ夫婦松」と誰からともなく歌い出し、民謡関の五本松節の一節になったと言い伝えられている。もっとも、関の五本松も台風や松くい虫の被害に悩まされており、現在の松は1991年(平成3年)から襲名披露した3代目であるとのことだ。
 五本松公園の頂上にある展望台から美保湾を一望。その向こうの大山は霞んでいるもののかろうじて確認できる。ここから美保関灯台まで、標高210メートルの馬着山超えの遊歩道が続いているようだが、そのような時間も気力もないので再びリフトで美保席港へ下る。駐車場に戻れば汗びっしょりで、自動販売機で買った500ミリリットル入りの缶コーラを一気に飲み干す。駐車場にレンタカーを停めたときには、近くでお婆さんがイカ焼きを売っていたので、昼食代わりに食べようと思っていたのであるが、早々に店じまいをしてしまったようで姿が見当たらない。やむなく空腹を抱えたまま出発する。
 島根半島の東端は北側に道路が整備されていないため、対岸の境港と渡船が結ぶ宇井までは来た道を引き返す。宇井からは国道485号線をたどって七類トンネルを抜ける。昨年、隠岐へ渡るためにバスで通った道だ。
 1年ぶりに七類港に立つと、にわかに昨年の記憶が蘇る。ただし、今年は隠岐へ渡るためではなく、隠岐航路のターミナルビルに併設されたメテオプラザが目的だ。メテオプラザは、メテオミュージアムを中心に、温海水プール、リラックスルーム、ホールなどを備えた多目的施設になっている。メテオとは英語で隕石を意味するが、1992年(平成4年)12月10日に隕石が近所の民家に落ちたことをきっかけに、美保関隕石を展示紹介するメテオミュージアムが造られたという。
 600円という博物館にしては高額な入館料を支払い館内へ入るとドーム型の映像室に通される。「私はあなたの霊感を引き出して、あなたの幸せを引き出すささやかな架け橋になりたいと思っています。」という隕石を擬人化したナレーションと映像による説明の後、映像室の脇に展示されている美保関隕石にご対面。隕石と聞いたので巨大な岩を想像していたが、思ったよりも小さな隕石で漬物石ぐらい。重さは6.38キロとのこと。ガラスケースに展示されているので実際に触れることはできない。その代わりに自由に触れるレプリカも用意されており、持ち上げてみればずっしりくる。隕石は雷雨の夜に美保関町惣津にある松本邸に落ちたという。家主の松本優氏によれば、最初は落雷かと思ったそうだ。翌日、自宅の屋根から1階の畳まで穴が貫通しているのに気づき、床下を確認したところ隕石を発見したという。大穴の開いた天井板、カーペット、割れた屋根瓦が衝撃の大きさを物語っている。小さな隕石とはいえ、秒速14〜15キロで降って来る隕石の破壊力は物凄い。松本邸の住人に当たらなかったのが不幸中の幸い。世界でも隕石が民家を直撃することは珍しいとされているが、当てっても嬉しいものではない。
 メテオプラザからレンタカーを1時間近く走らせる。行政区域は美保関町から島根町に入る。島根町は島根半島のほぼ中央に位置し、隠岐へ流された後醍醐天皇が漂着した地でもある。後醍醐天皇が取り持った縁ではないだろうが、1998年(平成10年)から隠岐への高速船「レインボー2」が加賀港への寄港を開始した。
 隠岐航路の新しい玄関口として加賀港にオープンしたマリンプラザしまねに立ち寄る。300台収容の立派な駐車場が整備されているが閑散としている。既に本日のレインボーは隠岐へ向けて出航した後なのでやむを得ないだろう。しかし、マリンプラザしまねには、隠岐航路だけではなく加賀の潜戸遊覧船乗り場もある。加賀港の北部に位置する加賀の潜戸と呼ばれる新旧2つの洞門を海中が見える観光グラスボートで遊覧するコースで、200メートルの海中洞門の新潜戸は「出雲国風土記」の中核神である佐太大神が生まれたところと言われ、一方の旧潜戸にも賽の河原の伝説が残るという。今回の旅では島根半島のメインスポットのひとつに数えていたのであるが、鉄筋コンクリート2階建ての立派な建物の入口には「強風につき遊覧船欠航」の張り紙がある。天気は良くても波が荒れていれば船は出ないのだ。欠航とは思いもよらなかったので意気消沈する。マリンプラザしまねの2階にはギャラリー晁光があり、地元出身の日本画家松本晁光氏の作品や美術品を常時展示しているので遊覧船の代わりにのぞいてみようかとも思ったが、入場料200円が惜しくて見合わせ。美術の教養がない者が飛び入りで絵画を鑑賞しても時間の無駄で、それよりも先へ急いで他の観光に時間を費やしたい。
 島根原子力発電所をかすめて、島根半島沿岸の道路を走る。横手林道という悪路をこなして忠実に外周ルートをたどったものの、途中で道路が途切れているので宍道湖半の国道431号線まで迂回する。国道431号線は渋滞気味で、並走する一畑電鉄の電車がカタカタと追い抜いていく。やがて昨年開園したばかりの松江フォーゲルパークが現われ、立ち寄ってみたい気もしたが、時間がないのでパス。一畑電鉄の沿線にある施設なので、いずれゆっくりと訪問する機会もあるだろう。
 一畑口の駅前を通り抜けて、急な坂を登り切ったところにある一畑薬師に到着した。一畑薬師は、島根半島の中心部、標高300メートルの一畑山上にあり、目のお薬師様として知られている。最近は視力の低下も著しいのでしっかりお参りしておかなければならない。足早に土産物屋が連なる参道を通り抜けると、百八基の燈籠がならぶ静かな参道に入り、左手にはうっそうとした杉林が続く。杉林を抜けると正面には本尊の南無釈迦牟尼仏、禅宗開祖の達磨大師、大帝大師の他、当山歴代祖師、檀家先亡が祀られている法堂(はっとう)が現われる。右手には一畑山の麓から続いている約1300段の石段からなる参道があった。本来であればこの参道を登って来たほうがご利益があるのだろうが、時刻は既に16時30分を回っている。日御碕と出雲大社というメインスポットをまだ控えているというのに、時間はどんどん押しているのだ。もっとも、最近はほとんどの参拝客が我々と同じように山頂まで自動車やバスで乗り付けている。
「17時から晩のおつとめがありますので、よかったらご参加下さい」
薬師本堂前の境内を歩いていると通りすがりの職員から声がかかる。朝晩のおつとめは誰でも参加できるとのことであるが、20分ぐらいはかかるとのことで見合わせた。
日御碕  十六島湾を経て日御碕へ着くと太陽が傾きかけてきた。日御碕は島根半島の最西端の岬で、隆起海岸の特徴を見せて屈曲に富み、海岸線の延長は直線距離の3倍にも達する。駐車場から「灯台と夕日の小径」遊歩道をたどって出雲松島を眺めながら岬の先端に位置する日御碕灯台へ向かう。1903年(明治36年)4月1日に初点した日御碕灯台の灯塔の高さは43.65メートルで東洋一と言われ、搭上からの463,000カンデラの光は夜間40キロの海上まで達する。灯台の上は展望台となっているようなので登ってみようとしたが、残念ながら灯台内部に入れるのは16時まで。南の山々の連なりと稲佐の浜の景観を見下ろすことは叶わなかった。
 日御碕灯台から更に海岸線沿いの遊歩道を進み、ウミネコの繁殖地として国の天然記念物に指定されている経島(ふみしま)を眺める。ウミネコは毎年12月から7月までここで過ごし、産卵、成育させ、北へ旅立つという。この季節はちょうど旅立ちの時期で心なしかウミネコの数が少ないように思える。経島は日御碕神社の神域として立入りが今でも禁止されているため、ウミネコが棲息しやすい環境なのだろう。
 駐車場へ戻ろうとすると、日御碕神社の西側にグラスボート乗り場があったが、ここにも「本日欠航」の看板が出ている。日御碕から鷺浦に至る石英角斑岩の柱状節理が発達し、ノロの洞窟をはじめとする約70の洞穴などがあり、変化に富んだ景勝地となっている。グラスボートに乗ればこれらの景観を楽しめたに違いないが、天候に問題がなかったとしても最終便は16時35分。いずれにしてもグラスボートには乗れなかったのだから悔しさも半減する。
 本来なら徒歩で充分であるが、時間の節約のため灯台の南側に位置する日御碕神社へレンタカーで移動。朱色の楼門をくぐると、正面に日沈宮(下の宮)、右手の高いとろに神の宮(上の宮)が鎮座する。日沈宮には天照大神、神の宮には素盞嶋尊を祀る。いずれも平入りの本殿が唐破風向拝付きの拝殿と続いた権現造りである。現在の建物は、徳川家光の命により、1637年(寛永14年)に藩主京極忠高が着手し、1644年(寛永21年)に藩主松平直政によって完成した。桃山時代の面影をのこす貴重な神社建築として、14棟が一括して国の重要文化財に指定されている。南本殿とも内壁や天井には、狩野派、土佐派の絵師たちが腕を競いあった壮麗な壁画があった。他に参拝客のいない静かな境内を足早に一周りする。
 高天原から下った建御雷命と大国主神が砂に太刀を立て、国譲りの相談をしたといわれる稲佐の浜沿いにレンタカーを走らせて出雲大社へ。時刻はもう18時40分となっており、周囲も薄暗くなりはじめた。私自身は3度目の出雲大社で、2年前の外周の旅の後にもひとりで訪問しているのでパスしてもいいのだが、東戸クンは出雲大社を楽しみにしていたのでそうはいかない。駐車場にレンタカーを入れている時間が惜しく、境内脇の道路に少しの間だけ停めさせてもらう。
 出雲の国は、神の国、神話の国として知られており、現在もいにしえの神社が至るところにある。そして、その中心が大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)を祀る出雲大社だ。大国主大神は、「だいこくさま」と呼ばれ、古くから福の神、平和の神、縁結びの神、農耕の神、医薬の神として慕われている。
 参拝者の祈祷が行われ、古伝新嘗祭等のお祭の他、様々な奉納行事が催される拝殿を参拝。大社造と切妻造の折衷した様式となっており、屋根は銅版だが、木曾檜材の木造建築となっている。
 拝殿の背後にある本殿には大国主大神が鎮座している。高さ約24メ−トルの偉容は、神徳にふさわしく比類のない大規模な木造建築だ。「大社造り」と呼ばれる日本最古の神社建築様式の本殿は、現在国宝に指定されている。背景には本殿を包むかのように八雲山がそびえており、神秘的な雰囲気を醸し出している。
 長さ13メートル、重さ5トンの巨大な注連縄が特徴の神楽殿へまわったところでタイムアップ。結婚式場を備えたおくにがえり会館の前を通り抜けてレンタカーに戻る。今日は出雲市駅に近いファミリーホテル「銀輪荘」を予約してあるので、後は宿に入るだけなのであるが、レンタカーの営業所が19時までなのだ。携帯電話でマツダレンタカー出雲駅南店へ連絡をすると19時30分までなら大丈夫との返事がもらえた。
 出雲市街地の渋滞で思ったよりも時間がかかったが、10分遅れで出雲駅南店に到着。1日がかりで島根半島一周を共にしたAZワゴンともお別れとなる。
 山陰本線の高架下をくぐり、西へ15分程歩くと、国道184号線沿いのファミリーホテル「銀輪荘」に到着。ファミリーホテル「銀輪荘」は出雲市サイクリングターミナルの施設。外周の旅でサイクリングターミナルを利用するのは、鳥取市サイクリングターミナル「砂丘の家」以来であるが、公共の宿でも安価で手軽なので気に入っている。
「19時過ぎに到着すると言っていたのに遅いじゃないか」
まだ、19時30分にもなっていないのにフロントの初老の職員はおかんむり。19時過ぎと言えば確かに19時15分ぐらいまでの時刻を指すのだろうが、10分程度の遅れは許容範囲ではなかろうか。もっとも、職員の機嫌が悪かったのは到着が遅れたというよりも我々が本日最後の宿泊客であったため、我々がチェックインしなければ仕事が終わらなかったからではないかと推察される。こちらに多少の遅刻があったとはいえ、サービス業としては失格だが、安かろう悪かろうというところか。
 急かされるように「ライト・オン」という食堂へ足を運ぶ。あまり期待をしていなかった夕食の食卓には宍道湖のうなぎが並んでいたのでびっくり。全体としてはお刺身やフライなど平凡なものが多いのであるが、どれも美味しい。昼食抜きだったので当然かもしれないが、聞けば「ライト・オン」のコックは一流レストランのシェフを勤めていた経歴の持ち主とか。それだけの人が公共の宿で、庶民的な料理を作るようになった心境の変化は知る由もないが、宴会などでは手腕を発揮した特別料理が並ぶこともあるらしい。夕食に大いに満足し、フロントの職員の態度に腹を立てていたことはすっかり忘れてしまった。

第70日目<< 第71日目 >>第72日目