ビジネスの過去と未来

第64日 豊岡−香住

2000年7月29日(土) 参加者:奥田・福井

第64日行程  昨夜から泊りに来ている福井クンと一緒に伏見稲荷の自宅から京都駅を目指して早朝から30分も歩く。自宅のある京都に近いところを旅するようになったため、始発列車で出発するスタイルがここ3年定着している。京都を5時39分に発車する山陰本線の始発列車となる221Mに乗り込むとすぐにまぶたが閉じてしまう。列車が停車する衝撃で目を覚まし、ホームの駅名標を確認すれば「園部」とある。221Mは園部が終点で、1分の乗り継ぎで福知山行き121Mの乗り継がなければならない。寝ぼけ眼の福井クン共々慌てて向かいに停車している121Mに駆け込む。2人とも朝からこんな調子では先が思いやられる。
 121Mは定刻の7時32分に福知山に到着すると、次の豊岡行き425Mまで50分間の待ち合わせとなったので、駅構内の食堂で朝食とする。駅弁の販売も手掛ける福鉄構内営業の食堂へ来るのは今回で3回目。まだ中学生だった1988年8月16日にいとこと福知山へ立ち寄ったときに、この食堂で昼食を取っている。このときに「カツ丼」を注文したのであるが、あいにく品切れで「カツカレー」を食べた。
「今日はごめんね。うちのカツ丼は美味しいからまた食べに来てね」
帰り際に意外なおばちゃんの声が印象的で、以来、福知山駅の「カツ丼」が気掛かりになっていた。そして再訪を果たしたのは、それから10年近く経った1998年4月2日。北近畿タンゴ鉄道の初乗りに来た序でに福知山駅の「カツ丼」にもめでたく対面することができたのだ。今日は「朝食(和食)」(410円)にしたが、ご飯と干物、苔、納豆、生卵と典型的な朝食メニューであった。私は今年から社会人で、福井クンはまだ学生だったので、ここは福井クンの分も含めて支払いを済ませておく。
 福知山から425Mで豊岡まで行き、ようやくアプローチは終了。前回は北近畿タンゴ鉄道で豊岡まで来て解散したので、豊岡9時36分の137Dからは外周の旅となる。車内は城崎に近くなったせいか意外に込んでおり、ドア近くで立って過ごす。もっとも、わずか1駅の玄武洞で下車するので苦にはならない。
 円山川が寄り添ってきたところで137Dは玄武洞に9時48分に到着。しばらく反対ホームで9時52分着の豊岡行き112Dを待つ。外周の旅の常連である奥田クンが112Dで城崎からやって来るからだ。奥田クンは寝台特急「出雲3号」で城崎へ先行し、温泉で時間を潰してから合流という段取りだ。112Mから奥田クンがひょっこり現われて無事に合流。奥田クンと福井クンは今日が初めての顔合わせであるが、外周の旅を通じて親睦を深めてもらいたい。
 目指す玄武洞公園は駅のすぐ目の前なのだが、その間は円山川で隔たれており、付近には橋もない。その代わりに渡船が玄武洞まで往復しており、県道3号線沿いの案内標識に従って渡船乗り場へ。玄武洞公園まではわずか5分足らずであるが往復料金は500円と結構な値段だ。渡船が住民の足ではなく、観光目的にのみ運航されていることが伺われる。買い物や通院などで豊岡や城崎へ出掛ける用事があっても、玄武洞の対岸を行き来する需要は皆無なのであろう。
 玄武洞公園では5つの洞窟が整備されており、北の玄武、東の青龍、西の白虎、南の朱雀と天の四方を守る神にちなんで名付けられている。龍が昇る姿にも似ている青龍洞は、洞の高さ33メートル、幅40メートルで石柱が中央に向かって傾斜しており、長い節理は一個で15メートルに及ぶものもある。玄武洞では最も長い節理とのことだ。青龍洞とともに天然記念物として指定されている玄武洞は、溶岩の冷えるとき起きた温度が変化していくときの動きの跡をきれいに残している。横の節理ばかりが並んだ白虎洞や小さいけれども全体の形がよくわかる南朱雀洞、洞の形が羽を広げた朱雀に似ている北朱雀洞と見てまわる。どれも入口付近が少し掘られているだけで、長いトンネルが続く洞窟をイメージしていたので少々拍子抜けする。
 円山川の河岸にある「玄武洞と石の博物館」へ赴くと、レストランや土産物屋を併設した施設で、駐車場には観光バスが数台駐車している。600円の入館料を支払って、玄武洞の成り立ちを解説したマルチビジョンを見る。玄武岩という岩石名の由来でもある玄武洞は、約160万年前に起こった火山活動で山頂から流れ出した溶岩が冷え固まり、規則正しいきれいな割れ目を作り出したものである。約6,000年前に波に洗われて六角形の柱状節理が姿を現したことから採石が行われ、現在のような洞窟状になったという。また、展示物は玄武洞で採石されたものに留まらず、世界中から集められた珍しい宝石や鉱石、化石が1,500点余りも展示されている。紫外線をあてると光を発する珍しい石を集めた「光る石のトンネル」は幻想的な世界を演出しており、しばらく見入ってしまう。
 さらにここには豊岡の伝統工芸である杞柳細工も展示されている。杞柳細工は、但馬の伝統ある地場産業で、起源は27年に日本に帰化し但馬の国を開いたといわれる新羅の天日槍命(あめのひぼこのみこと)の伝授によるものという説が語り継がれている。円山川の荒れ地に自生する「コリヤナギ」で籠を編むことから始まり、江戸時代には京極伊勢守高盛が豊岡に地を移してから柳の栽培と加工技術を保護し、販売にも力を入れたため産業として成立。全国に豊岡の柳ごおりの名を広めたという。強靱でしなやかな風合い、柳の持つ柔らかさと粘りを生かしながら、職人の手によって丁寧に編み上げられている杞柳細工には、伝統の技と人のぬくもりが感じられた。
 玄武洞公園から玄武洞駅前まで再び渡船で戻る。本来は11時に玄武洞公園を出航する予定であったが、玄武洞駅前を11時09分の全但バスに乗りたいと言ったら、5分の早発をしてくれた。渡船には他に2名の老夫婦が乗船しており、他にも利用者がいるのではないかと心配するが、残りは団体客なので問題ないという。そもそもは鉄道で玄武洞へやって来た観光客のために運航された渡船だと思われるのだが、今では本来は渡船を利用する必要のない観光バス利用の団体客がお得意様となっているようだ。
 玄武洞駅前停留所で11時09分の全但バスを待つ。バスで円山川沿いの県道3号線を北上し、城崎温泉へ入る予定だ。ところが11時15分になっても一向にバスは現われない。11時から待っていたので早発したとは考えられないが、ちょうど11時18分に城崎行き427Mがあったので、予定を変更して列車利用とする。遅れたバスを延々と待っていては城崎での滞在時間が削られてしまう。
 2年ぶりとなる城崎駅には今月7日にオープンしたばかりの「さとの湯」が隣接しており、すっかり装いが変わっている。寝台特急「出雲」で6時32分に城崎に到着した奥田クンは午前7時のオープンを待って「さとの湯」で朝風呂を楽しんでいたという。料金は800円と割高であるが、それだけ施設は充実しているとのこと。和風浴場と洋風浴場を備えており、和風には岩風呂、ジェットバス、バイブラバス、中温サウナがあり、洋風にはイスラム風大浴場、ジェットバス、バイブラバス、ミストサウナがあるという。駅舎温泉なので再訪の機会はありそうだ。「さとの湯」に2度も入らされては奥田クンが気の毒なので今回は別の外湯に入ることにする。
 外湯の前にまずは城崎散策に出掛ける。城崎駅から大谿川沿いに温泉街を進むと15分程で城崎ロープウェイの城崎温泉駅に到着した。標高230メートルの大師山に建設されたロープウェイは1963年(昭和38年)5月の開業と歴史がある。大師山は高野山真言宗別格本山温泉寺の境内になっており、本堂のある中腹に温泉寺という中間駅が設置されている。往復乗車券でも中間駅に途中下車できるとのことだったので、往復乗車券を購入しようとしたが、ロープウェイの往復乗車券の他に温泉寺の拝観料と城崎町美術館の入館券がセットになったセット券(1,200円)があったので、こちらを購入する。
大師山  マイカー客の夫婦2組と一緒になって11時50分のロープウェイに乗車。大師山山頂へ近づくにつれ、円山川の緩やかな流れとその先に広がる日本海の見事な景観が眼下に広がる。最初に奥の院がある大師山上駅まで乗り通す。所要時間は8分間であった。
 大師山上駅に併設された展望台からは豊かな自然に囲まれた温泉街の風景が広がる。強い日差しの下で木々が青々としているが、この彩りも四季折々に移り変わるのであろう。展望台の近くにはなぜか「かに塚」があり、松葉蟹の供養がされている。城崎温泉に限らず山陰地区では松葉蟹が有名であるが、毎年松葉蟹漁が解禁となる11月23日から3月末日まで「かに王国」というイベントを開催し、観光客の集客に努めている。その松葉蟹の供養と感謝の気持ちを込めて建てられたのが「かに塚」だという。もっとも季節外れの時期に旅をしている我々は松葉蟹を口にしていないので、供養ではなく「おいしい松葉蟹が食べられますように」と祈願しておく。
 奥の院を参拝してロープウェイで大師山の中腹にある温泉寺へ移動する。城崎温泉の守護寺として知られる温泉寺は、720年(養老4年)に城崎温泉を開いた道智上人により738年(天平10年)に開創された古刹である。道智上人は衆生済度の大願を発して、諸国をめぐり、717年(養老元年)に城崎の地に来て、当所鎮守の四所明神の神託による1,000日間の修行の功徳あって温泉(現在のまんだら湯)が湧出したという。
 まずは温泉寺駅の正面に南向きに建てられている本堂へ。1384〜1387年(至徳年間)に清禅法印が造営した五間四面のお堂で、和様、唐様、天竺様の三様式が絶妙に融和した折衷様式の入母屋造りとなっている。重厚な屋根のそり、主柱の均衡など建築美につつまれた南北朝時代を代表する建物で、但馬地方最古の木造建築であるという。お堂には温泉寺の本尊である十一面観世音菩薩が祀られていた。十一面観世音菩薩は、大和(奈良)の長谷寺の観音様と同木同作の由緒正しき観音様で重要文化財にも指定されている。2メートルを超えるどっしりとした力強く、温和な表情をした十一面観世音菩薩は、桧の一木彫の鉈彫りという独特の作風であった。
 続いて本堂裏の小高いところに建つ多宝塔へ。多宝塔とは中央に大きな覆鉢があるのが特徴の塔で、多宝如来の全身の舎利を一所に集めた塔のことであるが、密教では大日如来の教えを象徴する塔として重要な意味を持っている。現存する多宝塔は、1767年(明和4年)の再建であるが、再建にあたり当初の南北朝時代の様式を踏襲したとみられ、屋根がやや大きめになっているのが特色である。内部の須弥壇は南北朝時代のものをそのまま用いており、本尊は智拳印をむすぶ金剛界の大日如来坐像を安置していた。
 多宝塔から本堂へ戻る途中に城崎町美術館へ分岐する道があったので足を向ける。ところが美術館の軒下ではスズメバチの巣の撤去作業をしており、注意喚起の看板が立っている。奥田クンは刺されては大変とロープウェイの温泉寺駅へ引き返してしまうが、私と福井クンはしばらく顔を見合わせた後、意を決して美術館に駆け込む。幸いにもスズメバチに追いかけられることはなかった。
 美術館に先客はなく係員が暇そうにしている。お客自体が少ない上、スズメバチの撤去作業などしていたら誰も近づくまい。館内には温泉寺所蔵の鎌倉時代を中心とする阿弥陀如来像などの仏像や古文書、仏画を展示しており、その多くは1925年(大正14年)5月23日に発生した北但馬大地震の被害を奇跡的に免れたものだという。その他にも円山川下流の遺跡や古墳から出土した土器・馬具・太刀金具などの埋蔵物が展示されており、城崎周辺の歴史に触れる。
 スズメバチの襲来に気を付けながら城崎町美術館を後にする。温泉寺駅へ戻ってもいいのだが、ロープウェイの待ち時間を考慮すれば、城崎温泉までは参道を下った方が時間的には早そうだ。周囲をぐるりと木々に囲まれた参道を歩いていると独特の静けさが敬虔な気持ちを誘う。参道の脇にぽつりとある古い石仏もノスタルジジックな雰囲気を醸し出していた。
 石段を下り終えた参道の入口には1804〜1817年(文化年間)に再建された総欅造りで四間四方の宝形造り四方縁勾欄付の豪華な薬師堂が建っていた。本尊の薬師如来は城崎温泉とその入湯客を守る薬師様として信仰を集めている。薬師如来の周囲には、日光・月光の両脇士、十二神将などが完全に揃い内陣に安置されており、「西国49薬師霊場」の第29番札所になっていた。
 温泉寺山門の左右に安置される阿形・吽形2体の金剛力士像は、天衣、手首先、頭部の髷などの後補、彩色の補修が施されているため、一見するとそれほど歴史を感じないが、注意して観ると面部の写実的な表現や堂々たる体の筋肉の表出、像全体のバランスの良さなど、鎌倉時代の金剛力士像に共通する表現感覚を見出すことができる。山門は欅造りで持送りの篭彫り彫刻など見るべき点も多い。
 山門の前で先にロープウェイで下山していた奥田クンと合流して、温泉街へ舞い戻る。最初にコウノトリが足の傷を癒したという説話が残る城崎最古の「鴻の湯」に立ち寄ってみたが、入浴時間は15時からなので断念。岩組みの露天風呂があっただけに悔やまれるが、時刻はまだ13時過ぎで、2時間も待っている余裕はない。代わりに鎌倉時代、後堀河天皇の姉が入湯したという「増鏡」の記述より命名された「御所湯」に向かった。500円の入浴料を支払うと温泉サウナがあったので試してみる。温泉水のミストサウナみたいなものだが、塩分が強い温泉の影響で髪がベトベトになってしまった。仕方がないので浴場で洗髪してさっぱりする。
竜宮城  「御所湯」の目の前に停留所があり、13時29分の全但バスで日和山公園へ向かう。日和山公園は一帯が「城崎マリンワールド」の敷地になっており、夏休み期間中のため親子連れの姿が目立つ。「城崎マリンワールド」は、自然環境を生かした体験型水族館で、イルカのショーやアシカのショーが人気の「シーランド」では、イルカに触れることのできるドルフィンタンク、映像が臨場感いっぱいで楽しめるアクアパレスなどがあり、「シーズー」では水深12メートルの迫力満点のメイン水槽でのダイバーとの交信、セイウチの食事風景、ペンギンの散歩などが見られる。しかしながら、日和山公園から竹野駅へ出るバスは次の14時05分を見送ってしまうと16時58分までない。「城崎マリンワールド」を見学するのであれば、ちょうど良い時間かもしれないが、後の行程に支障を来たしてしまうので、今回は「城崎マリンワールド」は見送ることにし、道路脇からリアス式海岸のため作られた奇岩が入り組む海岸を眺める。ここは日和山の断崖絶壁に位置し、眼下には日本海が開けるビューポイントで、山陰国立公園でも屈指の景勝地になっている。海上には、竜宮城が浮かんでいるのが見えた。竜宮城は1945年(昭和25年)に沖合700メートルのところにある3つの島に建設された。竜宮城には「乙姫」、「浦島」、「ひらめ」、「さんご」と名付けられた御殿があり、3つの島は「竜宮大橋」、「さんご橋」、「真珠橋」と名付けられた橋で結ばれている。
 竹野駅行きの全但バスに30分程揺られて海水浴客で賑わう竹野浜で下車。まずは竹野浜とは猫崎半島を挟んで反対側にある竹野川河口の遊覧船乗り場へ。ちょうど15時のグラスボートがあったので、1,000円の乗船券を購入する。河口の桟橋には出航の準備をしているグラスボートが停泊していたが、他にお客はいない。これでは商売にならないのではないかと心配していると、出航間際になって水着姿の家族連れなどが現われて、総勢大人8名、子供4名の12名となった。
 「まつしまグラスボート」は夏期のみ1時間毎に運航されている。桟橋を離れるとエンジン音を上げて猫崎半島に背を向ける。船底のガラス越しに海中を眺めるが、海水が濁っているので魚はあまりよく見えない。グラスボートは切浜北側、岬の先端にあるの淀の洞門前で停止。海賊伝説が残る高さ18メートルの大きな洞窟で、神秘的な雰囲気が漂っているが、これが唯一の見所らしきところであった。所要時間は35分で少々物足りない。
 竹野浜に戻り、まずは猫崎半島の根元に位置する「北前館」へ。竹野町は江戸時代中期から明治時代末期にかけて日本海航路で活躍した北前船の寄港地として栄えた歴史があり、館内には北前船「天神丸」の復元模型が目を引く。資料館もあるのだが、時刻は16時近くになっており、まずは昼食だ。同じく「北前館」にある「レストラン白帆」に入ると食事時ではないにもかかわらず繁盛している。メニューには荒磯弁当や刺身定食、白帆会席など新鮮な海の幸を活かした料理が並んでいるが、海の幸は食べる機会が多いので「カツ丼」(820円)を食べてお腹を満足させておく。
 食後は近在の旧家や神社から提供された船鑑札、船箪笥など、北前船の歴史を物語る資料を展示している「北前船資料室」を見学し、腹ごなしに猫崎半島の散策に出る。猫崎半島は、竹野川河口東岸に伸びる陸繋島である。岬端部がかつて賀島という安山岩でできた島であったことから賀島半島とも呼ばれる。遠望すると猫がうずくまった、あるいは耳を立てたように見えることから猫崎という名が付けられたようだ。一方、東から眺めるとキューピーに似ていることからキューピーさんとも親しみを込めて呼ばれることもあるそうだ。中腹には水平線に輝く美しい夕日を見られるスポットになっている賀嶋公園があり、足を運ぶ。夕日の時間にはまだ少々早かったが、傾きかけた太陽の光が日本海に反射して輝いている。
 再び「北前館」に戻り、2階の竹野温泉「湯遊館」へ。こちらも「レストラン白帆」と同様に海水浴客で混雑している。400円の入浴料を払い、湯船に浸かると目の前には竹野浜が広がる。泉質はカルシウム・ナトリウム塩化物泉で、無色透明、無臭だが、塩味と苦味がある。おそらく城崎温泉と同じ成分なのであろう。サウナやジェットバスも備えられており疲れがとれた。
 さっぱりして東西約800メートルに渡って白い砂浜が続く竹野浜に立ち寄ると、既にほとんどの海水浴客は帰り支度をして引き上げてしまっている。竹野浜は、日本の渚百選と日本の水浴五五選にも選ばれた山陰を代表する海水浴場で、私も幼い頃に両親に連れられてやって来たことがある。当時は砂浜に海の家が建っていたりしたものだが、現在はすっかり整備されてすっきりした感じだ。
 竹野浜17時55分の全但バスを捕まえて香住駅に向かう。時折山陰本線に外周ルートを譲るものの、トンネルが多い山陰本線よりも海辺を走る機会に恵まれるバスの方が外周の交通手段にふさわしい。山陰海岸の夕日を眺めながら40分かけて香住駅前に到着し、本日の行程はすべて終了。今宵の宿となる民宿「ポートかすみ」は香住駅から海に向かって500メートル程歩いたところにあった。
 夕食では季節外れの松葉蟹も登場し、大師山の「かに塚」での祈願が叶った。面白いことに部屋にカラオケ装置まで備えられていたので、カラオケ大会でも開こうかと思ったが、あいにく故障している。クーラーの調子も悪く、思い切って窓を開ければ心地の良い浜風が吹き込んできた。

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