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第63日 舞鶴−豊岡

1999年8月6日(金) 参加者:奥田

第63日行程  「旅館銀水閣」で早めの朝食を用意してもらって、慌ただしく朝食を済ませる。「旅館銀水閣」の朝食時間は7時30分からとのことであったが、無理を言って7時に用意してもらった。西舞鶴7時36分に発車する515D普通列車に乗るためだ。結果的には30分早めの対応をしてもらって有り難かったのであるが、散々嫌な顔をされたのであまりいい気分はしない。どうせ対応してくれるのであれば、快く引き受けてくれても良さそうなものだ。駅前旅館に求めるサービスとしては過剰かもしれないが、駅前旅館だからこそ人情味のある対応をしてもらいたい。
 昨日確認した高架の西舞鶴駅に走り込み、515Dに乗り込む。今日はJRではなく、北近畿タンゴ鉄道宮津線の旅となる。手持ちの切符は京都−敦賀−小浜−綾部−京都の片道切符であるため、北近畿タンゴ鉄道線はその都度払いとなる。北近畿タンゴ鉄道宮津線は1990年(平成2年)4月1日にJR西日本の宮津線から転換された経緯があるため、最初から切符の経路に組み込むことも可能であったのだが、正直なところ今回の旅がどこまで行けるか見通しが立たなかったため、組み込みを躊躇してしまったのだ。自動券売機で買い求めた560円の軟券を握りしめて宮津へ向かう。由良川沿いにしばらく走り、丹後神崎を出たところで由良川橋梁を渡る。右手に栗田湾が広がり、外周路線らしくなったと思うと宮津に到着した。
 宮津駅は宮津線と福知山へ通じる宮福線が接続する北近畿タンゴ鉄道の中心駅。白磁タイルの外壁を持つ立派な駅舎で駅員も配置されている。まずは駅前通りを海に向かって歩き、丹後海陸交通の宮津桟橋へ20分程歩く。宮津は日本三景のひとつである天橋立の玄関口であるが整然とした街の様子にあまり観光色は伺われない。観光船乗り場に着いても先客は皆無で案内所の係員も手持ち無沙汰だ。
「観光客は車で天橋立まで行ってしまうから…。ここから船に乗る人は少ないね」
係員のぼやきを聞いた後、次の便の出航時刻まで時間があるのを幸い、これから挑む丹後半島の行程の相談をする。丹後半島は丹後海陸交通がバスと観光船の双方を一手に引き受けているので、バスのダイヤなどの情報はすべて入手できる。すぐに北近畿タンゴ鉄道の網野駅までの行程表ができあがったうえ、「記念にどうぞ」と絵葉書までもらってしまった。
 丹後海陸交通の観光船「かもめ1号」は9時10分に宮津桟橋を出航。乗客は我々以外に老夫婦が1組の合計4名と寂しい限り。船内ではかもめのえさとして「えびせん」(100円)を売っていたので買い求めるが、かもめの姿はなく自分で食べるしかなさそうだ。やがて「かもめ1号」は阿蘇海と宮津湾を結ぶ文殊水道(天橋立運河)に入り込み、川下りのような雰囲気になる。やがて目の前に中央が旋回した廻旋橋が現われる。長さ約36メートルの廻旋橋は、通常は水路に直角に架かっているが、遊覧船や鉱石運搬船が通過する際に橋の中央が水路に平行になるように旋回し、その隙間を船が通行できるようになるのだ。もっとも、船が通過する度に観光客は橋の両端で足止めされ、通過する船を白い目で眺めることになる。
 「かもめ1号」は、文殊水道の出口近くにある天橋立桟橋に立ち寄り、大勢の乗船客を迎えて船内は一気に賑やかになる。宮津からの閑散とした船内が嘘のようで、廻旋橋の手間も考えると宮津−天橋立間の航路も廃止される日が近いのではないだろうか。
 天橋立桟橋を出航した観光船「かもめ1号」は、延長3.6キロの砂嘴に沿って対岸の一の宮を目指す。この砂嘴は対馬海流から派生した海流が宮津湾に入って砂を運ぶと同時に、阿蘇海に流れ出る野田川の土砂とが長い時間をかけて堆積して形成されたという。幅は広いところで約170メートル、狭いところでは約20メートルとなっており、砂嘴の松並木は約8,000本にも及ぶという。かつて天橋立の砂嘴を歩いたことがあるが、こうして観光船から眺めると改めてその長さを実感できる。
 天橋立桟橋からわずか12分で対岸の一の宮桟橋に到着。ここまで来たからには股のぞきで有名な傘松公園を無視できないが、その前に立派な神殿を構える籠神社(このじんじゃ)があったので立ち寄る。719年(養老3年)に丹後一の宮に定められた丹後第一の大社であるが、歴史は神代の時代までさかのぼり、伊勢神宮の元になったという由緒ある神社。伊勢神宮はここから伊勢へ移されたので、籠神社は元伊勢とも呼ばれるそうだ。神殿の石段の脇には鎌倉時代の名作と言われる狛犬があり、夜な夜な天橋立に遊びに出て、村人に魔物と間違えられて前足を切られたという伝説が残っている。
 籠神社での参拝を済ませて府中駅へ向かう。傘松公園まではケーブルカーとリフトが並走しており、運賃はどちらも利用できる共通券で往復640円。私は過去にどちらも乗車済みだったので、奥田クンの意向を尊重して往復リフト利用とする。もっとも、上りのリフトは延々と山の斜面を見せられるだけなので、両方試したいのであれば上りをケーブルカー、下りをリフト利用とすることをお勧めする。終点の傘松までの所要時間はケーブルカー利用だと4分、リフト利用だと6分だ。
 海抜130メートルの高台にある傘松公園からの眺めは「斜め一文字」と呼ばれ、天橋立三大観の一つとなっている。阿蘇海と宮津湾を分けて文珠方面に伸びる天橋立がまるで鳥瞰図のようである。股のぞき台に赴けば何人かの観光客が集まっており、順番に股のぞきを試みている。天橋立に背を向けて台の上に立ち、股の間から天橋立を眺めると、海と空が逆になり、まるで天橋立が天に架かる浮き橋のように見えるのだ。我々も順番を待って股のぞきを試みるが、股のぞき台のところだけ柵がなく、股間から後方を覗こうとすると平衡感覚が一瞬麻痺するのでバランスを失う。そのまま台から転げ落ちるのではないかとおっかなびっくりで天に架かる浮き橋をじっくり鑑賞する余裕はなかった。
 笠松公園からは西国28番札所の成相寺まで登山バスが連絡しており、ここまで来たのであれば立ち寄るのがセオリーであるが、時間の関係上割愛する。かつて天橋立に来たときに訪問済みなので奥田クンに異論がなければ問題ない。成相寺は704年(慶雲元年)、真応上人が諸国を行脚しているときに天橋立の美しい風光にひかれ霊地としたのが始まりで、平成五重塔、左甚五郎作の「真向きの龍」、悲しい物語を伝える「つかずの鐘」などがある。
 リフトで府中に戻り、神社前停留所から経ヶ岬行きの丹後陸海交通バスに乗り継ぐ。バス停の時刻表では神社前10時12分となっているが、バスは一向に姿を現わさず、タクシーで代用しようかと思案していると10分遅れでバスはやって来た。このバスの始発は上宮津で、阿蘇海を迂回してくることを勘案しても10分も遅れるのは問題であり、ダイヤを見直した方が良さそうだ。
 右手に宮津湾を眺めながらバスは丹後半島を北上していく。道路は比較的順調に流れているが、バスは遅れを取り戻すような気配はなく、10分の遅れをそのまま持ち越して日出に10時48分に到着した。我々はここで下車する。
伊根の舟屋  停留所の正面にあった伊根湾めぐりの観光船乗り場へ急げば、11時出航の便に何とか間に合う。バスから降りた観光客は我々だけであったが、既に観光船乗り場には何人かの観光客の姿があり、いずれのグループもマイカー利用のようだ。660円の乗船券を2人分まとめて購入していると、奥田クンは「焼ちくわ」(350円)をかじりながら待っていた。ここでは新鮮な魚を使った熱々の「焼きちくわ」が名物なのである。それにしても、私は観光船に間に合わないのではないかとあくせくしていたのにのんきなものだ。
 伊根湾めぐりの観光船も丹後海陸交通の運営で、11時出航の観光船は「かもめ10号」とあった。宮津から乗った観光船「かもめ1号」の弟分である。観光船からは周囲5キロ程の伊根湾沿いにある230軒あまりの舟屋を眺めることができる。舟屋とは船のガレージのことで、母屋から道路を挟んで海際に建てられ、1階には船揚場、物置、作業場などがあり、2階は客室、民宿などにも活用されている。海面すれすれに建てられた舟屋は全国でも珍しく、その景観は伊根町独特の詩情を漂わせていた。機会があれば舟屋の民宿にも泊まってみたいものである。
 30分の伊根湾めぐりを終えて日出桟橋に戻るが、次のバスまで1時間近くの待ち合わせとなったので、海上から眺めた舟屋がある場所まで行ってみた。映画「男はつらいよ〜寅次郎あじさいの恋」の舞台となり一躍有名になった場所だ。1993年(平成5年)にはNHK連続テレビ小説「ええにょうぼ」の舞台としても使われている。道路に面したたたずまいも昭和の時代を想わせるようでなかなか風情がある。実際に生活している人にとっては不便が多いのかもしれないが、末永く舟屋の街並みを残してもらいたい。
 伊根役場前で12時22分発のバスを待っていると、「バス誘導車」と表示されたライトバンに続いて丹後海陸交通の経ケ岬行きバスが現れた。狭い道路を走るバスに車掌が乗務していたことはあったが、誘導車に先導されるバスには初めて出会った。もっとも、バスが停留所で停車すると誘導車だけが先に行ってしまい、誘導車とバスの間に一般の乗用車が入ってしまうこともしばしばある。時には誘導車が視界から消え、しばらく先で待機していることもあった。
 さすがにバス誘導車が先導するだけあって、片側通行しかできないような細い峠道を経て、伊根役場前から約40分で経ヶ岬に到着。運賃は830円也。バス停の前には経ヶ岬レストハウスが構えており、昼食としたいところであるが、先に経ヶ岬灯台に立ってからの方がすっきりする。案内板によるとレストハウスから経ヶ岬灯台までは遊歩道で1.4キロとのことで、片道20分ぐらいかかりそうだ。夏の日差しが恨めしく思うが、ここまで来て灯台をパスするわけにも行かず、奥田クンと2人で遊歩道をたどる。遊歩道ならハイキング気分で楽しいかと思えば、アップダウンが激しくて体力の消耗が激しい。途中休憩しながら灯台までは30分ぐらいかかった。
 炎天下の中をこんなところまでやって来るのは我々ぐらいであろうと思っていたが、先客に年配の夫婦がいたので驚く。
「こんにちは。あの遊歩道を歩いて来られたのですか?」
思わず声を掛けてしまったが、自家用車であれば灯台の近くにある駐車場まで乗り入れることができるので、実際に歩いたのは500メートル程であるとのこと。
「レストハウスから歩いて来たのか。大変だったでしょう。私たちも若い頃にはレストハウスから歩いたこともあるのだけどね。さすがにこの年になってからはきついな」
 1898年(明治31年)12月25日に初点灯した経ヶ岬灯台は、丹後半島の最先端の海抜140メートルの断崖絶壁の途中に位置する。京都百景に選ばれたこともあり、さすがに眺めは抜群。全国に6つしかないという最高級の第一等レンズを使用した灯台は約55キロ先まで届く豊富な光量を放つという。ここも映画「新・喜びも悲しみも幾年月」の舞台となった名所である。
 再び遊歩道を引き返し、レストハウスに戻ると14時過ぎ。間人(たいざ)行きのバスは14時11分で、レストハウスで昼食を摂る時間はなくなった。やむを得ず自動販売機のジュースでのどを潤すに留める。
 丹後海陸交通バスで間人に運ばれると2分の接続で網野駅行きに乗り継ぐダイヤになっていた。目の前に丹後郵便局があるのに2分では無理だなと思いつつ、乗り継ぐはずの網野駅行きが姿を現していないのを幸い、奥田クンに断って丹後郵便局へ駈け込む。「間人皇后ゆかりの里丹後郵便局」というゴム印を押してもらい、間人の由来を教えてもらう。6世紀末、蘇我氏と物部氏の間に争いが生じ、用命天皇の皇后で聖徳太子の生母の穴穂部間人皇后(あなほべのはしうど)は、ここ大浜の里に逃げて来たという。昔は間人を大浜の里と呼んだそうだ。やがて争いが治まると皇后は大和の斑鳩に帰ることになり、大浜の里を離れる際、皇后は自分の名を取って「はしうど村」と名付けたそうだ。ところが、大浜の里の人々は、皇后の名前を口にするのは恐れ多いとして、退座されたことにちなみ「たいざ」と呼ぶようになったと言われている。
 間人から3分遅れの丹後海陸交通バスに乗って網野駅に運ばれると、朝からお世話になった丹後海陸交通ともお別れ。網野15時31分の北近畿タンゴ鉄道219Dに乗り継いで木津温泉に向かう。
木津温泉  三角屋根の比較的新しい駅舎が構える木津温泉のホームに降り立つと、行基像が出迎えてくれた。丹後半島西部に位置する木津温泉の歴史は古く、743年(天平15年)に僧侶行基が、白鷺が傷を癒しているのを見て発見したと伝えられている。正直に告白すると、当初の予定では木津温泉の立ち寄りを予定していなかったのであるが、奥田クンから歴史ある温泉だと教えられて立ち寄った次第だ。
 のどかな田園風景が広がる集落を5分程歩くと民家の庭のようなところに「木津温泉しらさぎ荘」との案内が出ている。間違いないのかと不安に感じながら庭先へ歩いて行くと、「丹波木津温泉」と表示されたレトロな建物が現れた。ローマ字で「KIZU ONSEN」とあり、駅名の「きつおんせん」と発音が異なる。
 さっそく入浴をと入口で声を上げるが誰も出てこない。館内に入ってみたが、番頭どころか先客も皆無で、どうしたものかと思案する。隣の民家に人の気配がしたので尋ねてみると、駐車場の一角にある別棟の小さな事務所が料金所とのこと。こちらも無人であったが看板に掲示されていた料金300円を窓口に置いて気兼ねなく入浴する。
 ニスを塗った入口の扉を開けると、高い天井やすりガラスの浴室が待ち構えており、楕円形のタイル張りの浴槽には澄み切った源泉が注がれている。泉質は低張性アルカリ性温泉で、36℃と温めの温泉だが夏場にはかえって有難い。経ヶ岬の汗をゆっくりと流す。
 さっぱりしたところで木津温泉駅に戻り、16時27分の221Dを捕まえると今回の旅もフィナーレ。丹後神野から右手に久美浜湾が現れ、沖合にはかきの養殖所が確認できる。久美浜を出ると221Dは山間に入り、馬地トンネルを抜けると京都府から兵庫県に入った。円山川を渡ると豊岡市街で、16時59分に豊岡到着。今回の旅はここで打ち切り、次回は豊岡から出発することになる。当初の予定では、今回の旅は丹後半島の手前にある舞鶴までが限界かなとも思っていたので、予想以上の成果に大満足だ。

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