第62日 常神−舞鶴
1999年8月5日(木) 参加者:奥田
「杉本旅館」で朝食を済ませて、慌ただしく7時の福井鉄道バスで常神を出発する。夕方に着いて早朝に発つのでは、寝るためだけに常神に来たようなものであるが、7時のバスを逃がしてしまうと次のバスは14時05分までない。常神にはグラスボートも運航されているので、午前中はのんびり過ごしてもいいのだが、さすがにグラスボートだけで7時間も足止めされてしまうと、後々の行程にも差し支えるので諦めざるを得ない。常神にやって来る観光客は基本的にマイカー利用なのだ。バスは三方湖畔をかすめて8時に三方駅前に到着した。運賃は1,060円。
三方駅では8時09分の926D普通列車に接続し、34分間の列車の旅となる。この区間は国道162号線が外周ルートになるのであるが、この区間を走るバス路線はない。926Dは小浜に通学する高校生の通学列車の雰囲気で、夏休み期間であるにもかかわらず制服姿の高校生が多いのは補習授業か部活動なのであろう。
8時43分に小浜に到着すると駆け足で遊覧船乗り場へ向かう。今日の最初のポイントは若狭国定公園を代表する蘇洞門(そとも)海岸を遊覧する「蘇洞門めぐり」だ。奥田クンが持参したガイドブックによれば、「蘇洞門めぐり」の遊覧船は小浜駅から徒歩20分の小浜新港から出航するとある。9時から16時まで1時間毎の運行なので慌てる必要もないのであるが、わざわざ1時間を無駄にする必要はない。駅前の商店街を走り抜け、小浜湾沿いの道路を進むと遊覧船に乗船している観光客の姿を確認する。走りながら「乗ります!」と声を上げると、船員から向かいにある「若狭フィッシャーマンズ・ワーフ」で乗船券を購入してくるようにとのこと。時間はギリギリだけど船員の指示なので置いていかれることはないだろう。1階が土産物屋、2階がレストランになっている「若狭フィッシャーマンズ・ワーフ」で2,000円の乗船券を購入して、遊覧船「のちせ」に乗り込む。
「のちせ」は小浜湾をゆっくりと進む。小浜湾は内外海半島と大島半島に囲まれた内湾であるため、湾内は極めて穏やかである。小浜はこの地形のおかげで、江戸中期まで日本海最大の港町、北前船寄港地として栄えた。これから向かう蘇洞門は、小浜湾の東側に位置する内外海半島の海岸にある海蝕洞で、花崗岩が日本海の波の作用で削られてできたものだ。内外海半島北側の海岸にこのように形成された奇岩、洞門、洞窟が6キロに渡って続いているという。「そとも」という呼称は、外側の面という意味で、古くは「外面」と表現したり、内外海半島の久須夜ヶ岳の背面という意味で「背面」と表現していたが、江戸時代の文人趣味により「蘇洞門」という漢字をあて、現在に至っているとのことだ。
内外海半島と大島半島の切れ目となる間口を過ぎると、にわかに船内の揺れが大きくなる。岩に網の目のように亀裂が入り、まるで網を掛けたように見える網かけ岩やイルカに追われたアゴ(トビウオ)が飛び越えたというアゴ越え岩などを見物する。単なる奇岩で済まさずに、それぞれによく由来があるものだと感心する。「蘇洞門めぐり」のメインとなる白糸の滝や船も通れるくらいの大門・小門という洞門を経て、「のちせ」はしばらく岩場に接岸。10分間の蘇洞門上陸が許される。断崖を見上げた先には内外海半島の久須夜ヶ岳がそびえており、頂上まで久須夜ヶ岳有料道路「エンゼルライン」が通じている。本来であればぜひ訪問したいスポットであるが、路線バスは通じていない。タクシー利用も考えたが、通行料金だけで1,660円もかかってしまう。敦賀半島、常神半島、三方五湖有料道路「レインボーライン」といい今回の外周の旅はレンタカー利用とすればよかったなと後悔する。
約50分間の「蘇洞門めぐり」を終えて、小浜市内の散策に出掛ける。小浜湾沿いの道路をしばらく歩いて行くと、人魚像の待つマーメードテラスに行き当たる。小浜には「八百姫伝説」が残っており、16歳の少女が宴会でもらった人魚の肉をこっそり食べたところ不老不死となった。周囲の人間は次々にこの世を去り、無常を感じた少女は剃髪し、八百比丘尼となって800歳まで生き長らえた挙句、洞窟に篭もって成仏したという。マーメードテラスのモダンなイメージとは対照的な伝説で、観光資源として人魚をPRするのは如何なものであろうか。
マーメードテラスのから徒歩5分程のところの空印寺へ足を向ければ、八百比丘尼が篭もったと伝えられる八百比丘尼入定洞がある。八百比丘尼の生没年で最も有力な説は、654年(白雉5年)に生まれ、1451年(宝徳3年)に京都を訪れ、その後に小浜へ戻って800歳で洞窟に篭もったという。ここまで具体的な西暦を提示されるとにわかに事実のようにも思えてくる。江戸時代に住職が洞窟に入っていったところ、丹波の山中に出てしまったという言い伝えも残されているが、現在は落盤のために途中で行き止まりになっているそうだ。空印寺には小浜藩主の酒井家墓所もあり、かつては小浜城がこの地に築城されていたようだ。
小浜駅に戻る途中には、明治時代の伝統的な町並みが残されており、その装いはなんとなく京都に似ている。若狭湾で取れた鯖に一塩して京都まで運ぶと、ちょうど良い味になったと言われ、この鯖を運んだ道を鯖街道と呼称したことからも小浜と京都の結びつきが強いことが伺える。
「少し寄って行きませんか?」
呼び止められた方向を振り返ると、2階建ての木造建物の前でおばちゃんが手招きをしている。土産物屋でもなさそうだなと近寄ると「小浜町並み保存資料館」と表札があった。小浜は古来より日本海側の物資を京都へ運ぶ中継港として繁栄。その要衝の地に1522年(大永2年)に若狭守護武田氏が築城し、城下町となる。江戸初期には藩主の京極高次が都市開発に着手し、町人町、寺町、廓町をつくり、山麓に寺院を配置。江戸中期まで日本海最大の港町、北前船寄港地として栄えた。その繁栄ぶりを残すのが西組の町並みで、千本格子の家々が連なる三丁町や八幡神社以西の旧丹後街道沿いには、江戸時代から明治時代の町屋や蔵が建ち並ぶ。その一角にある「小浜町並み保存資料館」は、小浜西部地区の町並み保存を進めるための拠点として1997年(平成9年)に整備された施設とのこと。木造の建物は明治時代末期に建てられた典型的な町屋造りの家(元小間物店)を町並み保存のモデル住宅として半解体修理したものだそうだ。意匠、工法、材種など可能な限り木造伝統工法を用い、しかもシステムキッチンや水洗トイレを設けるなど、住みやすく今風に改造されているから面白い。格子越しに眺める通りも風情があった。
小浜駅に戻り、3分遅れで到着した11時12分の930D普通列車で若狭高浜へ移動。海水浴客に紛れながら15分程歩いて城山公園へ向かう。城山公園は室町時代に築城されたといわれる高浜城跡の公園で、芝生の広場に立てば海からの心地よい風が吹いてくる。その先には、「八穴の奇勝」と呼ばれる8つの洞穴のひとつである明鏡洞があり、巨岩の真ん中にぽっかりと洞穴が開いている。明鏡洞は、1393年(明徳4年)に足利義満も立ち寄ったと伝えられる高浜八穴の中でも一番大きな海食洞だ。長い時を経て、日本海の荒波がつくりあげた洞穴を通して見える水平線が、鏡に映った別の景色のように見えることから名付けられたそうだ。近くの砂浜で少しはのんびりしていたかったが、列車の時間があるので慌ただしく駅へ戻る。
若狭高浜12時39分の932D普通列車も律儀に3分遅れで、小浜線のダイヤはきれいに3分遅れのダイヤができあがっているのであろうか。932Dで外周の旅も福井県から京都府に入り、いよいよ近畿圏への突入である。我々は東舞鶴で京都府に入って最初の下車を試みる。
高架橋の駅舎から駅前通りに至るまで見違えるように整備されていた。まずは駅から徒歩20分の赤れんが博物館を目指す。舞鶴市内には、今でも数多くの赤れんが建造物が残存しており、倉庫や工場など海軍関連の施設を中心に、砲台、鉄道会社、全国に4基しか残っていないホフマン窯など、その数や用途が多い点で、舞鶴は日本有数の赤れんがの町といえよう。
赤れんが博物館の入館料は一般300円、学生150円であったが、引揚記念館の共通券もあり、こちらは一般400円、学生200円であった。引揚記念館は、舞鶴市の郊外にあるのでどうしようかと思案したが、折角なので足を伸ばしてみようとの結論に至り、共通券を購入する。
赤れんが博物館の建物は、1903年(明治36年)に旧舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫として建設されたもので、本格的な鉄骨構造のれんが建築物としては日本に現存する最古級のものと言われる。館内では煉瓦の歴史から製造方法に関する解説があり、古代のエジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明、四大文明発祥の地でも煉瓦が使用されていることを知る。今から1万年前から煉瓦が使用されたいたとは驚きだ。もっとも、煉瓦の製造方法や形、積み方などはそれぞれの文化に応じた違いがあり興味深い。日本国内でも明治から大正にかけて欧風文化の影響を受け、様々な煉瓦建造物が建築されるようになったが、やはりこれも日本独自の煉瓦文化として発展していったようだ。
大浦半島に位置する引揚記念館へは京都交通のバス利用となるが、1時間近くバスがないので駅前通りの商店街にあったラーメン店「わいが屋」へ入る。昼食時ではなかったため、店内に先客はなく「学割とんこつラーメン」(500円)を注文した。来年からは就職することになっているので、学割の恩恵を受けられるもの残りわずかだ。
大門三条から15時12分の京都交通バスに乗り、舞鶴郊外にある引揚記念公園前で下車。舞鶴湾に面した高台に引揚記念公園が整備されており、公園に隣接するように引揚記念館が建っている。ここは1945年(昭和20年)8月15日の終戦時に大陸で戦っていた日本兵がここ舞鶴をはじめ、浦賀、呉などの主要港に約13年の長きに渡って引き揚げてきた。舞鶴港での引き揚げ人数は延べ664,531人にも及ぶという。館内には当時の写真や実際に生還した兵士、その遺族の言葉を綴った手記が残されていた。私の祖父もシベリア抑留兵だったので他人事とは思えない。
引揚記念館の右に引揚記念公園へ通じる道があり、この道を頂上まで登ると「平和の群像」、「異国の丘」の歌詞を刻んだ歌碑などがある。最愛の息子を長く待ち続けたが無念の想いで死んだ「岸壁の母」は有名だ。厳しい戦争を生き抜き、何年にも及ぶ海外での抑留生活を終えた日本人には、何年かぶりに見た故郷の景色や岸壁はどのように映ったのだろうか。一度祖父に聞いてみたいと思うのだが、私の祖父も既に他界してしまった。
引揚記念館からは日本交通タクシーで東舞鶴港へ戻る。本当は帰りもバス利用にしたかったのであるが、手頃な時間帯の便がなかったのだ。東舞鶴港へ向かう道路は空いているのでタクシーは快調に走るがメーターも快調に上がる。東舞鶴港まで所要時間は10分であったが、メーターは1,900円になっていた。
東舞鶴港からは16時10分に出航する舞鶴汽船「ゆうなぎ」に乗船する。JR時刻表には「舞鶴湾内めぐり」と記されていたので観光航路と思っていたが、乗船客は地元のお年寄りが多く、地域住民の足となっているようだ。船内で東舞鶴まで1,050円の乗船券を購入すると途中の大丹生で乗り換えになるという。JR時刻表の記載では東舞鶴港から東舞鶴港まで直通便のような記載をしているが、実際には舞鶴東港湾内と舞鶴西港湾内でそれぞれ別の船が担当しており、双方は大丹生で接続しているという。「ゆうなぎ」は大浦半島の入り江をこまめに立ち寄り、先ほど立ち寄った引揚記念館も見上げることができる。入り江に立ち寄る度に乗船客が少なくなり、16時54分に大丹生に到着した。
「しばらく待っていれば西舞鶴からの船が来ますから」
船員はそう言い残すと「ゆうなぎ」は大丹生を離れ東舞鶴港へ戻って行ったが、桟橋と待合室以外には何もない大丹生で下船したのは我々だけなので何とも心細い。もしも西舞鶴からの船がやって来なかったらどうしようかとも考えたが、10分もすると1艘の船がこちらへ向かって近付いて来た。
舞鶴西港湾内を巡航する「あさなぎ」に乗り換えて西舞鶴港を目指す。こちらも舞鶴西港湾内の入り江にこまめに立ち寄るが利用者はあまりいない。今度は西舞鶴港へ向かうので夕刻の人の流れと逆になるのであろう。薄暗くなった西舞鶴港には17時46分に到着した。
舞鶴市は京都府北部を代表する都市ではあるが、JR小浜線は東舞鶴と西舞鶴に分かれており、街の様子も東舞鶴と西舞鶴に分離されているような印象を受ける。そもそも現在の舞鶴市は、1943年(昭和18年)5月27日に西舞鶴地区を形成していた舞鶴市と東舞鶴地区を形成した東舞鶴市が合併して誕生した背景があったが、戦後になって何度も分離を求める動きがあったようだ。元々本家の舞鶴はこの西舞鶴であり、東舞鶴は漁村に過ぎなかったが、海軍の鎮守府が置かれたことで急速に発展し、戦時中、その軍事的重要拠点の体質強化のために、半ば強制的に合併させられたことに対する不満があったようだ。結果的には分離は叶わず、東西が合わさったままの形で今日に至っている。
西舞鶴港から市街地へ向かって歩いていると舞鶴公園があったので立ち寄る。桜の名所としても有名な舞鶴公園は1873年(明治6年)に廃城とされた田辺城跡である。戦国時代末期の1580年(天正8年)、丹後国は細川藤孝(幽斎)、忠興親子の領国となり、現在の伊佐津川と高野川に囲まれた平野部に田辺城を築いた。これ以後、田辺城は細川氏、京極氏、牧野氏の居城として約290年間、領内統治の中心的存在となった。舞鶴という地名も田辺城の別称であった舞鶴城に由来する。本丸は存在しないが、公園内には田辺城資料館が整備されている。もっとも、開館時刻は17時までだったので公園内を散策するに留まる。
やはり高架になっている西舞鶴駅を確認し、今宵の宿となる「旅館銀水閣」へ。西舞鶴駅近くには2軒のビジネス旅館があり、奥田クンの直感で「旅館銀水閣」を選んだ。住宅街に位置するビジネス旅館であるが、庭園があり、旅の風情を感じられたのでまずまずというところか。丹後の地酒の品揃えが良かったが、残念ながら2人とも日本酒は飲まないので手を出さず終いであった。
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