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第61日 敦賀−常神

1999年8月4日(水) 参加者:奥田

第61日行程  京都5時29分の東海道本線上り始発列車となる900M普通列車で米原に向かう。早朝の郊外へ向かう列車にもかかわらず乗車率が高いのは沿線の工場で夜勤帰りの人が多いからであろうか。この辺りの東海道本線沿線は急激に宅地化が進み、高層マンションも目立ち始めた。
 米原駅のホームで奥田クンと合流する。奥田クンは今や貴重な存在となった寝台急行「銀河」を利用して、私よりも一足早い5時45分に米原に到着していた。
「寝過ごすかと思ったけど、車掌が米原到着前にきちんと起こしに来てくれたよ」
最近の寝台列車では途中駅の下車も自分の責任とまったくフォローしない車掌も多いと聞いていたが、時間が大切なビジネス列車には旧来のサービスが健在しているようだ。
 米原6時50分の131M普通列車で琵琶湖の湖畔を北上し、ループ線をたどって7時36分に敦賀に到着した。敦賀駅はまだ自動改札が設置されておらず、有人の改札口が懐かしくさえ感じる。こちらから申告したわけではないのに、乗車券には途中下車印が押される。いつもの外周の旅なら周遊券か「青春18きっぷ」を利用するのであるが、今回は京都市内から北陸、小浜、舞鶴、山陰経由の京都市内行き乗車券を用意した。学割で3,950円だったので、日数を考えれば「青春18きっぷ」よりもお得である。
 昨年の訪問で勝手知った駅前のバスターミナルから7時40分発の白木行き福井鉄道バスに乗り込む。本来であれば、敦賀半島の東海岸を北上し、立石岬を目指したいところであるが、立石行きのバスは7時に出たばかりで、次のバスは12時50分までない。しかも、立石集落から遊歩道をたどって立石岬に立ったとしても、そこから西海岸までは道が通じていないことは確認済み。これでは敦賀半島を半周するだけで1日を潰してしまうことになるため、思い切って東海岸を放棄することにしたのだ。一応、敦賀湾を挟んだ対岸の河野から敦賀半島の東海岸は眺めているので納得しておく。
 白木は敦賀半島西海岸にあり、高速増殖炉もんじゅ発電所にも近い。バスは敦賀半島の根元を横切ると、西海岸沿いの県道141号線を北上する。左手には朝日を浴びて輝く若狭湾が広がり、近畿圏からの日帰りが可能なところにこれほど美しい海があるとは少々驚きだ。原子力発電所が近くにあるので、敬遠する海水浴客が多いのも影響しているのかもしれない。海を汚す要因が少ないだけに美しい姿が残されているのであろう。水晶浜付近から左前方の丹生の浦に優美な海上橋が架かっているのが見えたので降車ボタンを押す。このまま白木まで往復してもよかったのだか、10分程度の滞在で引き返さなければならないため、手頃なところで下車して海辺に下りようと思っていたのだ。敦賀駅から40分で運賃は920円也。
 海上橋の正体は美浜原子力発電所への専用道路となっている丹生大橋だった。丹生大橋を渡るためにはゲートを通過しなければならない構造で、関係者以外は丹生大橋を渡ることはできない。その手前には美浜原子力発電所のPRセンターがあり、こちらは自由に見学できるようになっているが、開館時刻は9時からとなっている。折り返しのバスは9時前に来てしまうので断念せざるを得ない。
 丹生海水浴場には朝早くから大学生と思われるグループの姿がある。近くにキャンプ場があるのでここに泊っていたのかもしれない。今回はサンダルで来ているので、ズボンをまくって足元だけ海に入る。冷たい海水が心地よく、やはり敦賀半島は海水浴に来るべきところだなと実感する。京都からも近いのでまた訪問する機会もあるだろう。砂浜を歩いて1停留所分歩き、落合橋から折り返しのバスを拾った。
 国道27号線との交差点に近い北田口で日向行きの福井鉄道バスに乗り換える。ここでの接続は14分と極めてスムーズ。北田口9時25分のバスは小浜線の高架下をくぐって一旦内陸部に入り、美浜駅に立ち寄る。三方五湖の玄関口であるため観光客が数名乗り込んで来る。踏み切りで再び小浜線と交差し、右手に久々子海水浴場を眺めていると、やがて左手に三方五湖のひとつである久々子湖が現われ、景色の移り変わりが激しい。バスは久々子湖の北岸を迂回して、9時55分に日向湖畔にある日向(ひるが)という集落に到着した。
 日向の集落は、日向湖と若狭湾を結ぶ小さな運河を中心にして湖岸に細長く広がっており、日向橋を境に西側を西ン所、東側を東ン所と呼ばれている。運河は日向湖を天然の船溜まりにしようとして開削され、1635年(寛永12年)に完成したという。運河に架けられた小さな石橋には「ひうがはし」と記載されていた。バスでは「ひるが」とアナウンスしていやが、橋がつくられた1933年(昭和8年)当時は「ひうが」と呼ばれていたのであろう。私自身、バスのアナウンスを聞くまでは「ひゅうが」と発音していた。日向橋の南に広がる日向湖も三方五湖の一つであるが、他の久々子湖、菅湖、水月湖、三方湖の四湖が淡水または汽水湖で互いに峡湾や水路でつながっているのに対し、日向湖のみは独立している。若狭湾につながる水道が狭いことから湖と呼ばれるが、実態は内湾と同等で、水深も最深45メートルと三方五湖の中では最も深い。橋を渡った西ン所に足を踏み入れると路地が細長く延び、板壁に覆われた伝統的な家屋、民宿、稀に土蔵も見られ漁師町的な雰囲気を濃く感じる。岸壁の傍らを通過するような雰囲気の箇所もあり、集落内の路地は軽自動車がようやく通過することができる程度の狭さだ。片側は直接家屋が日向湖に接している。
浦見運河  秘境的な日向の集落を後にして、久々子湖畔にある「レークセンター」まで歩いて戻る。「レークセンター」には三方五湖巡りの遊覧船の発着場があり、ちょうど10時30分の便があったので980円の乗船券を購入して、天井の低いジェット船「第五すいせい」に乗り込む。観光バスの団体客と一緒に乗り合わせたため、「第五すいせい」はかなりの盛況ぶりで、窓際の席に落ち着いたものの、自由に席の移動はできない。
 「第五すいせい」は南北に細長い久々子湖を縦断し、左右に断崖が迫る浦見運河に進入する。浦見運河は、三方五湖の久々子湖と水月湖を結ぶ全長324メートルの人工水路であり、断崖の高さは川底から41メートルもある。もともと三方湖、水月湖、菅湖の水は旧上瀬川(気山川)を通って久々子湖に流れ込んでいたのだが、1662年(寛文2年)の大地震により、旧上瀬川の川底が隆起して三方湖、水月湖、菅湖の水は堰き止められてしまった。この影響で海山、伊良積、田井、鳥浜、気山、田名、向笠などの湖周辺の村々は水没する被害に見舞われ、水月湖と久々子湖を結ぶ運河の掘削が早急に必要となったのだ。当時の小浜藩三方郡の郡奉行であった行方久兵衛が開削工事の総奉行として指揮をとったが、固い岩盤に妨げられるなどして工事は難航する。しかし、行方久兵衛は越前や京都から石工を呼び寄せるなどあらゆる手を尽くし、2年の歳月と延べ2万人の人力が投入されて工事が完成させたそうだ。
 浦見運河を通り抜けて水月湖に出ると、自然と調和している家並みや湖を囲む低い丘陵、湖畔沿いの梅林など、緑豊かで穏やかな風情に満ちている。目を惹くのは標高約400メートルの梅丈岳で、美浜町笹田から三方町海山までを結ぶ全長11.24キロの三方五湖有料道路「レインボーライン」が通じているはずだ。三方五湖は「若狭なる三方の海の浜清み いゆきかえらい 見れどあかねかも」と万葉集にも歌われた景勝地で、久々子湖、水月湖、菅湖、三方湖、日向湖からなる五湖は、海水、淡水、汽水とそれぞれ水質、水深が異なる。このため湖の色も四季折々に不思議な五彩の変化をみせ「五色の湖」ともいわれている。「レインボーライン」からは湖が醸し出す微妙な色あいの違いがよく分かりそうであるが、残念ながらバス路線は通じていない。タクシー利用という手は残されているが、2人だけではあまりにも散財なので船上からの確認に留めておく。
 「第五すいせい」は水路のつながっていない日向湖を除く久々子湖、水月湖、菅湖、三方湖を一周して「レークセンター」に戻り40分の湖上遊覧を終える。今度は紅葉の季節に来てみたいところだ。
 「レークセンター」の2階あった「レストラン湖上」で早めの昼食。久々子湖を一望できるロケーションであるが、かつてのデパートの食堂のような感じ。あまり食べたいと思うようなメニューもなく「わかさらあめん」(650円)というご当地ラーメンのようなものを注文する。しばらくして運ばれてきたラーメンはワカメが入っている程度の代物だった。
 予定では「レークセンター」を15時に出航するジェット船に乗り、海山か三方桟橋へ向かうつもりであったが、時間を持て余したので美浜駅まで戻り、小浜線で三方に向かうことにした。美浜駅に戻るバスが出る13時48分まで1時間近くあるので歩いて駅に向かう。美浜駅までは4キロぐらいなのでバスを待っている間に駅に着くだろう。田園に囲まれた道路を歩いていくが周囲は田んぼばかりで炎天下の日差しを避けるような日陰もない。歩くスピードもだんだんと落ちていき、美浜駅近くでバスに追い抜かれてしまう。おまけに14時06分の936D普通列車にも乗り遅れて散々な目に合う。
 次の列車は1時間後の15時05分の938D普通列車で、それならば「レークセンター」からジェット船で三方に向かうのと変わらなかったが、さすがに動く気力はなく、美浜駅のベンチでおとなしく過ごす。1時間も待って938Dに乗り込んだものの、乗車時間は三方までわずか8分だ。
 駅前には五木ひろしが寄贈した石碑が据えられており、五木ひろしが美浜町の出身であることを知る。美浜町出身であれば三方駅ではなく美浜駅に寄贈すべきだと思うのだが、経緯は不明。
 三方駅からは常神半島の先端に位置する常神へ向かうバスに乗り継ぐ予定であるが、常神へ向かうバスは夕刻18時05分までない。さすがに3時間も三方駅で待っているのは時間がもったいない。タクシーで常神へ向かうことも考えたが、三方駅から20キロ近くもあり、10,000円近くかかるというので見合わせる。旅館に電話をすれば送迎してもらえるのではという期待もしたが、あいにく人手がないとのこと。やむを得ず少しでも歩いてバス代を節約しようという結論に至る。ただし、バスに追いつかれるまで黙々と歩くのも芸がないので、奥田クンの希望もあり、三方町立郷土資料館へ立ち寄ってみることにする。
 三方駅に同居している三方町観光協会でパンフレットをもらい、しばらく小浜線の線路沿いに歩くと、10分もかからないうちに三方町立郷土資料館に到着した。ひっそりとしていて先客は皆無の様子。150円の入館料を支払って、館内を見学する。日本有数の低湿地遺跡である鳥浜貝塚やユリ遺跡、きよしの古墳や田名遺跡など、三方町内には遺跡が数多く分散しており、これらの出土品が郷土資料館に集められている。目を惹いたのはユリ遺跡から発見された丸木舟で、昔話に登場しそうな舟である。2階には、昔の農家の生活様式を偲ばせる台所や農具や能面、奉納彫刻、刀剣、武具なども展示されているが、こちらは全国どこも変わり映えしない。来年4月29日には、三方湖畔に三方町立縄文博物館「DOKIDOKI館」がオープンする予定との案内がされており、そうなれば資料館の展示品もすべて移管されるのであろう。帰りがけに管理人から「DOKIDOKI館」がオープンしたら再訪してくださいと声が掛かった。
 郷土資料館から三方湖畔に向かって歩いて行くと、三方湖に注ぐ蓮川と高瀬川の合流地点に鳥浜貝塚公園が整備されている。約5,000年から6,000年前の縄文時代前期の遺跡で、当時はこの辺りまで三方湖が迫り、遺跡の西方から伸びる丘陵が岬のように湖に突きだしていたとのこと。そして、貝塚の場所から人々はこの丘陵の先端の南側斜面に住居を構えていたことが伺える。鳥浜貝塚は海抜ゼロメートル以下の低湿地遺跡と呼ばれる河床の下から見付かっているため、遺物が破壊や分解されることなく残ったとのこと。
 鳥浜貝塚を後にするとようやく三方湖の湖畔に出た。夏の日差しは傾きかけており、午前中にジェット船「第5すいせい」で眺めた湖とは別の面影だ。湖畔の散歩と書けば聞こえはいいが、既に「レークセンター」から美浜駅まで4キロも歩いているので2人とも口数は少ない。おまけにサンダルで旅に来てしまったため、足への負担も大きく、自然とスピードは落ちる。30分も歩くと限界で、喫茶店があったのを幸い駆け込む。
 偶然に入った喫茶店「WOOD HOUSE」は、ログハウス調で湖畔の喫茶店としては風情がある。先客はおばさん4人のグループであるが、観光客とも地元の人も判断できない。三方天然水を利用したブレンドコーヒー(350円)の案内が目に付いたが、とにかく暑いので奥田クン共々「クリームソーダ」(450円)を注文した。店内のクーラーが心地よく、「クリームソーダ」のアイスが溶けるまで手を付けずに涼をとった。  1時間近い休憩で気力、体力とも回復し、再び常神方面に向かって出発する。まだバスが追いつくまで1時間近くあるので、理論的には4キロぐらいは歩けるのだが、せめて2キロを目安に歩くことにしよう。もっとも、バスに乗り遅れては何にもならないので、停留所を見付ける度に現在の時刻とバスの時刻を確認していく。
 ところが30分も歩くと前方に真新しい大きな建物が目に入る。広めの駐車場には何台か自家用車が停まっており、「JA三方五湖」の看板が掲げてあった。興味本位で覗いてみるとJA三方五湖が経営する「梅の里会館」と名付けられたお土産販売施設であった。館内では、福井特産の梅を使ったおみやげを販売しており、天然のシソと粗塩で漬け込んだ「梅干し」や「梅ワイン」、「小梅ゼリー」などバラエティに富んだ商品もずらりと並ぶ。三方湖湖岸には梅林があり、ここは梅の産地なのだ。梅の加工場も併設されており、予約をしておけば福井梅干しができるまでの工程を見学できるという。その他にも梅大福や梅和菓子の手作り体験もできるとのことで、想像以上に立派な施設だ。もちろん、バスの時間まで「梅の里会館」で過ごすことにする。
 「梅の里会館」に近い別庄川停留所から18時16分の常神行き福井鉄道バスを捕まえる。「レインボーライン」の分岐する海山で三方湖と別れ、塩坂越トンネルを抜けると今度は右手に若狭湾が広がった。小川という集落を抜けるとリアス式海岸の険しい崖沿いの道路になり、やがて神子という集落に出る。神子の集落を抜けると再び険しい崖沿いの道路となり、これから向かう常神が陸の孤島であることは間違いない。携帯電話の電波も圏外になっており、だんだんと別世界へ運ばれていくようだ。
大蘇鉄  18時58分に常神に到着。バスから降りると「国指定天然記念物常神のソテツ」の看板が目に入る。「ソテツ」は、漢字で表わすと「蘇鉄」となり、字の如く蘇鉄の樹幹に鉄釘を打ち込むと、鉄の栄養分によって木が蘇るという不思議な植物だ。あまり植物に興味はないものの、天然記念物と聞いては無視できず、案内板に従って集落の細い路地を進んで行く。民家の裏庭に紛れこんだようなところに大蘇鉄は待ち構えていた。樹齢1300年を超えているという大蘇鉄は、雌株で根元から8本に分かれている。蘇鉄は亜熱帯気候の地域に生息する植物であるが、常神地区は、南向きの小湾に面していることから気候が温暖であることから、日本海側に生息する蘇鉄としては最北になるとのこと。もっとも、気候だけではなく、岩と家屋により風害から守られていることも大蘇鉄が残った要因でもあろう。
 大蘇鉄を鑑賞して、今宵の宿となる「杉本旅館」へ赴くと、意外にも先客が多いので驚く。今日の宿泊客のほとんどが釣り客のようであるが、週末になると家族連れの海水浴客も多いという。漁業が中心の集落であることから、刺身が山のように出るのではと期待したが、1泊2食付きで6,820円では期待する方が間違いだった。夕食を取っていると旅館の小学校低学年くらいの兄弟が「お兄さん!一緒に遊びませんか?」と声を掛けてくる。にわかに1991年12月27日、宮城県の朴島で地元の小学生達と缶蹴りをしたことを思い出した。
「いいよ。一緒に遊ぼう。でも、ご飯を食べ終わるまでちょっと待ってね」
兄弟に言い残して奥田クンと2人で早めに夕食を済ませたが、既に兄弟はテレビに夢中で遊ぶ約束をしたことは忘れてしまっているようだった。

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