国家資格の安定感

第60日 越前−敦賀

1998年8月8日(土) 参加者:奥田・藤原

第60日行程  かれい崎を8時45分の福井鉄道バスで外周の旅を始める。今日も天気が良く、暑い1日になりそうな予感だ。バスは別名漁火街道と呼ばれる国道305号線を淡々と走る。冷房の効いたバスから降りるのが億劫になるが、河野村役場前で腰を上げる。乗車時間はわずか10分少々であるが、運賃は520円とかなり高い。それだけ途中に停留所を設置するような集落が少なくバスは快調に走ったということなのであろう。
 今日の最初のポイントは北前船の館右近家である。越前海岸沿いの河野は、地元で北前五大船主と称される右近家や中村家をはじめ、多くの船頭や水夫が日本海海運に乗り出した地でもある。中でも右近家や中村家の廻船は、近江商人の荷所船として貸船されたほか、幕末から明治にかけて北前船交易に従事したのだ。そして、20艘近くの千石船を同時に所有して北前船交易に従事し、明治20年代には蒸気船を導入し近代船主への脱皮に成功したのが右近権左衛門家である。その右近家の館が資料館として一般公開されているのだ。今回の旅では金石、橋立に続く北前船関連の資料館である。
 9時の開館を待って右近家の敷地内に入ると、村の旧道をはさんで、山側に本宅と3棟の内蔵、海側に4棟の外蔵が建っている。1901年(明治34年)にそれ以前の建物を拡充して建てられたという本宅は、平入りの2階建で、切妻造りの屋根には瓦が葺かれている。瓦は越前瓦で、棟先に「右近」の文字の入った丸瓦が置かれている。内部は、欅や桧材の太い柱や米国産の松材を用いたと伝えられる平物、蝋色漆塗りの床框に象徴されるように豪勢な造りになっている。橋立とは比較にならない程の豪邸だ。500円の入館料を支払って本宅に入ると、航海に使われた和磁石や遠眼鏡などのほか、当時の航海安全を祈願して奉納された舟絵馬が展示されており、北前船の歴史や航海の様子、港での商いの様子を知ることができる。土蔵はいずれも2階建で、欅材が多く用いられていた。外蔵の南側3棟と北側1棟の間には塗籠の長屋門があり、海に向かって開かれている。本宅の北側には、山の斜面を背景にして造られた和式庭園があり、茶室が設置されている。
北前船の館右近家  本宅背後の高台には、西洋館と呼ばれる別荘がみえる。1935年(昭和10年)に建てられたもので、鉄筋コンクリート2階建てのしっかりした造り。屋根には茶色のスペイン瓦が葺かれ、2階部分の外壁は北欧の校倉造り風の桧丸太積みになっている。設計者は、明治末期から昭和初期にかけて日本各地で洋風建築を手がけたアメリカ人のウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏ともいわれている。外観は洋風であるが、内部は和洋折衷になっており、1階には暖炉を備えたホールと寝室を中心に厨房、洗面脱衣室、浴室、水洗便所などがあり、2階には4畳の前室を持った10畳の和室がある。西洋館は喫茶店も兼ねているようなので、館内を見学し終わったら一服しよう。西洋館の背後の山には、散策道でつながる庭園や当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りの擬木を用いた休憩所があり、そこからは日本海を一望することができた。
 北前船や旧河野村の文化に関連したテーマで年に1回程度の割合で特別展が開催されるという山荘展示館をのぞいて再び西洋館へ。300円のアイスコーヒーを飲みながら、シャンデリアに照らされたリビングルームで越前海岸を眺める。河野周辺は越前加賀海岸国定公園に指定されており、海中から顔をのぞかせる奇岩やそこに打ちつける波が独特の情景をつくっている。次のバスまで3時間あり、外周の旅では珍しくのんびりとした午前中を過ごすことになっている。
「こんなにのんびりしていると外周らしくないな」
奥田クンが海を眺めながらつぶやいた。
 時間があるので右近家の南側にある河野歴史資料館にも立ち寄る。海とともに生きてきた河野村の人々の暮らしや歴史に関する展示品が並んでおり、北前船の大型模型も鎮座していた。河野村には、奈良・平安時代の土器が出土したマンダラ寺遺跡や吹雪のため座礁した大正時代の特務艦「関東」の乗組員を地元民が危険を顧みず救助したというエピソードとともにその碑が残っており、これらの詳細な資料を見ることができた。
 さて、河野村役場から11時58分発の福井鉄道バスに乗ることには変わりないが、そのままバスに乗っていると内陸部の武生に連れて行かれてしまう。外周ルートとしては、このまま海岸線沿いを進みたいのであるが、河野から敦賀にかけては、夫婦岩をはじめ荒波に削られた大小の岩が点在しており、さながら海のオブジェといった景観が広がっているのだが、河野海岸道路という有料道路になっており、バス路線は存在しない。ところが河野役場前のバス停の路線図には、国道305号線と国道8号線(敦賀海道)の交差点となる桜橋停留所から国道8号線を敦賀に向かうバス路線図が示されている。これは好都合だと福井鉄道の武生営業所に電話をして、桜橋停留所の敦賀行きの時刻を確認する。
「桜橋から敦賀へ行くバスはありませんよ。路線図は昔のもので、今は走っていません」
福井訛の強い営業所のお姉ちゃんからはなんとも非情な回答。いつまでも廃止された路線図を掲載するなと文句を言いたいところだが、それだけ利用者がいなかったのであろう。福井県は福井・武生の嶺北地区と敦賀・小浜の嶺南地区では別の風土があると聞いたこともあり、この区間は県境を超えるようなものなのかもしれない。
 武生へ出るしかないなと思いつつ河野村役場11時58分の福井鉄道バスに乗り込む。
「あっ昨日の運転手さんだ!」
奥田クンが声を上げると、確かに昨日、左右からかれい崎まで乗車したときの話好きの運転手であった。
「おっまた会ったね。国民宿舎に泊まったのかい?」
たちまち運転しながらの談義になってしまう。国民宿舎は満室で泊まれずに、近所の民宿に泊まったことなどを説明していると、今後の行程についての話題となった。
「桜橋から敦賀に出ようと思ったのですが、バス路線が廃止されたと聞きまして、武生へ出て、JRで敦賀に向かうつもりです」
「敦賀に出るなら武生まで出なくても途中で王子保駅に寄るから、そこで乗り換えればいい。それよりも、かれい崎で温泉に入らなかったのなら、王子保駅近くの温泉に行ってみるといい。今年の6月にオープンしたばかりの新しい温泉だから」
王子保駅近くに温泉があるのは初耳だ。内陸部を迂回させられて面白くないと思っていたが、できたばかりの温泉に立ち寄れるのなら話のネタになりそうだ。運転手の勧めに従って、白崎停留所で下車。教えられた通りに丘陵へ向かう寂しい道路を歩いて行く。 「本当にこんなところに温泉があるのかね」
藤原クンが訝しげに言うが、運転手がわざわざ方向まで指定したのだから間違いないであろう。やがて周囲を木々に囲まれた真新しい建物と駐車場が見えてきた。
 運転手が勧めたのは「しきぶ温泉湯楽里」という武生市が経営する公共の宿に併設された日帰り温泉施設であった。しきぶ温泉は「源氏物語」の作者として有名な紫式部から命名したとのこと。武生は紫式部が唯一京都を離れて暮らした場所だったのである。紫式部の父である藤原為時が996年(長徳2年)の春の除目で帝に文を奉り、越前の国守に任命されたのを機会に、当時23歳であった紫式部はその父と一緒に国府があった現在の武生市にやって来たのである。
 玄関を1歩入ると吹き抜けの広々としたエントランスロビーが迎えてくれ、芦原温泉の「セントピアあわら」を凌ぐ施設だ。入浴料は600円と「セントピアあわら」よりも100円高い。藤原クンはここでも入浴をパス。奥田クンと2人で浴場へ向かう。ここは丘陵を利用した施設であるため、長さ60メートルの斜坑エレベーターを利用して丘陵の上にある浴場まで運ばれる。広い浴場には、温泉の効果を引き出すため、高温から低温まで温度の違う5つの浴槽を設置。そのほか、ジャグジーや寝湯、打たせ湯、薬湯、サウナに展望浴場など合計12種類の浴槽があり、奥田クンも大満足。ナトリウム−炭酸水素塩泉の温泉は、皮膚の脂肪や分泌物をよく乳化して洗い流すため、皮膚が清浄になり、滑らかになることから美人の湯と言われているそうだ。なんとなく肌がすべすべしてきたかなという気分になる。
 なぜかカネゴンの等身大人形が置いてある休憩所で待っていた藤原クンを見付けて王子保駅へ向かう。白崎停留所のあった国道8号線まで戻り、バスが走り去った方向に向かって歩いて行くと、前方に北陸本線のレールが見えてきた。20分程で無人の王子保駅にたどり着く。次の敦賀行きは14時31分でまだ30分近く余裕がある。適当なところで昼食でも摂れないかと思ったが、駅近くには工場や小学校があるものの、食堂は見当たらない。
「本当にここには何にもないですよね」
我々よりも先に王子保駅に居た若者2人組に話し掛けられる。荷物もなく旅行者にも見えないが、日帰りで大阪から出てきたとのこと。鉄道ファンというわけでもなさそうだし、どうして目的もなく王子保へ降り立ったのだろうか。尋ねてみても「適当に降りてみた」というだけでかなり気まぐれだ。
 福井方面へ向かうという2人組と別れて14時31分の敦賀行き234M普通列車に乗り込む。意外に乗客は多く、嶺北と嶺南相互間の流動性もあるではないか。バス路線は生き残れなかったのだろうかと悔まれる。
 列車は南条、今庄とおよそ外周とは無縁の内陸部を走る。南今庄駅前には「今庄そば道場」の看板が顕在で、以前から気になっている。臼でひいた純正のそば粉と天然の山芋を合わせ湧き水で打つ本格そば打ちが体験できるとのことで、いつかはチャレンジしてみたい。
 南今庄を出るとすぐに列車は北陸トンネルに入る。北陸トンネルは1962年(昭和37年)6月10日開通した総延長13,870メートルの複線鉄道トンネルであり、1972年(昭和47年)に山陽新幹線の六甲トンネル(16,250メートル)が完成するまで日本最長のトンネルとして君臨した鉄道名所のひとつである。もっとも、新幹線は標準軌なので、狭軌の陸上鉄道トンネルに限定するのであれば日本最長だ。ちなみに、1982年にスイスのフルカ・オーバーアルプ鉄道に新フルカトンネル(15,442メートル)が開通するまでの20年間は狭軌の鉄道トンネルとして世界最長だった由。
 敦賀には定刻の15時00分に到着。これで内陸部の迂回ルートは終了し、本来の外周ルートに復帰する。敦賀で最初の目的地は気比神宮だ。駅前通りをまっすぐ進み、国道8号線と交わる白銀交差点を右に曲がる。敦賀駅から15分も歩くと立派な鳥居の気比神宮が現れた。地元では「けいさん」の愛称で親しまれる気比神宮は、702年(大宝2年)の建立と伝えられている歴史ある神社。7柱のご祭神をまつる北陸道の総鎮守で、明治時代には官幣大社となった。高さ11メートルの大鳥居は重要文化財に指定され、奈良の春日大社、宮島の厳島神社と並ぶ日本三大木造大鳥居の一つである。大鳥居の歴史も古く、通称赤鳥居として810年(嵯峨天皇弘仁元年)の造営時に東参道口に創建されたのが始まり。度重なる災害により倒壊したため、1645年(正保2年)境域の西門に配して同礎石を移し、寛永年間旧神領地である佐渡国鳥居ヶ原で伐採した奉納の榁樹一本で両柱を建て、再建されたのが現在の朱塗りの大鳥居である。
大鳥居をくぐって境内を真っ直ぐ進むと、左手に亀の口から不老長寿の水と言われている気比の長命水が亀の口から湧き出ている。折角なので御利益にあやかろうと奥田クン、藤原クン共々気比の長命水を口に含む。藤原クンは持参の手ぬぐいを長命水ですすぎ、顔を拭っていた。ご利益があって長生きできるのか、罰が当ってしまうのか。
 右手には松尾芭蕉が「奥の細道」で敦賀に立ち寄った時に詠んだ句と芭蕉の銅像が建っている。松尾芭蕉というと東北のイメージばかりがあるが、「奥の細道」の旅で1689年(元禄2年)8月14日から16日まで敦賀に滞在し、気比神宮−金ヶ崎−金前寺−色の浜−本隆寺を渡り歩いたという記録が残っている。
 樹木に覆われた広い境内を歩いて気比神宮の本殿へ向かうが、境内には末社である大神下前神社や摂社である角鹿神社もある。本殿の後方には神蹟とされる天筒山が見え、境内の配置も理由がありそうだ。
 気比神宮から市街地を抜けて敦賀港へ向かう。天然の良港、敦賀港は、わが国の表玄関として古くから栄えてきた。潮の香りが漂う岸壁の近くには古い倉庫が並び、港町独特の風情を醸し出している。県道敦賀港線沿いの本港の東側には、1905年(明治38年)に外国人技師の設計によって建てられた2棟の赤レンガ倉庫がある。6本の柱の内側に壁を設け、内部が柱のない空間になっているのが大きな特徴だ。当時は石油が貯蔵されていたそうだが、現在は海産物会社の昆布貯蔵庫として使われている。また、県道を挟み、西側には鉄筋平屋建の倉庫などが立ち並び、現在でもドラマ撮影などに使われている。
 再び市街地に戻り、今度は敦賀市博物館をのぞいてみる。敦賀市博物館は旧大和田銀行の建物を利用したもので、赤レンガ倉庫と同様に明治時代を偲ばせるが、こちらは1926年(昭和2年)に建てられた。郷土の偉人である大和田荘七が建てたもので、昭和初期の日本三大建築物のひとつに数えられていた。歩き疲れた奥田クンと藤原クンは博物館をパスして休んでいるというので、隣にある「みなとつるが山車会館」との共通入館券(450円)を購入して1人で館内へ入る。外観同様に内装も濃厚な装飾で、照明のデザインもレトロ調のままである。3階には、民具や産業遺産を展示した陳列室があり、鉄道資料や軍事資料が充実している。先に訪問した赤レンガ倉庫の近くにかつては敦賀港駅があり、1912年(明治45年)6月15日から第二次世界大戦の影響が大きくなる1940年(昭和15年)頃までは、シベリア鉄道の始発駅となるウラジオストックへ向かう船舶と接続する欧亜国際連絡列車の発着駅として重要な役割を果たしていたのだ。とんがり屋根の旧敦賀港駅舎の写真が往年を偲ばせる。1999年(平成11年)の夏に開催される「敦賀きらめきみなと博覧会」では、1913年(明治46年)に竣工した当時の駅舎が復元されるそうで楽しみだ。
 敦賀市立博物館の隣にある「みなとつるが山車会館」は、1997年(平成9年)5月1日に開館したばかりの新しい施設。館内には、毎年9月に開催される敦賀まつりの勇壮華麗な山車6基が展示されており、スクリーンシアターの大画面で敦賀まつりの様子を映し出す。日本の伝統的な祭りは山車を曳くものが多いのは偶然だろうか。 気比の松原  待ちくたびれた様子の奥田クンと藤原クンに合流し、今回の旅のフィナーレを飾る気比の松原へ向かう。静岡県の三保の松原、佐賀県の虹ノ松原と共に日本三大松原のひとつとして有名な場所だ。三保の松原へは過去2、3回訪問したことがあるが、気比の松原は初めてなので楽しみだ。現在地がわからなくなり、地図を見て右往左往しながら気比の松原を目指す。松林に囲まれた道路に出てきたので、適当なところで海に出てみると目の前には想像したよりも小ぶりではあるが、美しく白い砂浜と若狭湾が広がってきた。海水浴客の姿は時間が遅かったために少ないが、キャンプや釣りをしている人の姿もあった。家族連れでのんびりとしに来る場所なのであろう。
 敦賀駅まで戻って今回の旅は終了。昨夜は刺身づくしだったので、今日はこってりしたものを食べようと敦賀駅前通りにある「中国料理梅三容」に入る。18時前だというのになかなかの盛況ぶりで、店主は横浜の中華街で修業を積んできたというのだからかなり本格的な中華料理店だ。ホタテ・アサリ・エビ・ワカメと野菜類が入った豪快な海鮮ラーメン「荒磯ラーメン」(735円)が人気メニューのようであるが、今回は野菜が不足していることもあり、「タンメン」(735円)を注文した。深みのあるスープが美味しく、今度はぜひ「荒磯ラーメン」にも挑戦してみたい。

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