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第59日 三国−越前

1998年8月7日(金) 参加者:奥田・藤原

第59日行程  「民宿やまで」の朝食後に奥田クンと藤原クンを伴って越前松島を散策する。柱状節理の小島が点在した景観が続き、宮城の松島に似ていることから名付けられたのであろう。柱状節理の洞窟がいくつかあり、古代に住人がいたらしい。自然が作った石段を登って柱状節理の岬に立つと朝の潮風が爽やかだ。周囲は日本海沿岸にしては比較的丸みを帯びた小島が多く、優しい女性的な印象を受ける。
 民宿に戻って荷物を引き取り、松島水族館を8時48分の京福バスに乗る。目の前にはバス停の名称にもなっている越前松島水族館があり、自然景観の一部を利用した珍しい施設であるが、9時の開館を待って見学をしているとタイムロスが大きくなるので今回は見送ることにする。手頃な観光地だし、いずれ再訪する機会にも恵まれるであろう。
 折角バスに乗ったものの、わずか3分の三国海浜公園で下車。朱色に塗装された日本海に架かる雄島橋を渡る。雄島は周囲約2キロの越前海岸で最も大きな島であり、輝石安山岩の柱状節理という地質学的にも珍しい奇岩でできているとのこと。石段を登ると歴史のある大湊神社の奥の宮が現われ、神秘的な雰囲気が漂う。地元の人は昔から神の島として崇めているそうだ。境内には小さな石柱があり、「丹後国経崎四十五里」、「隠岐国百里」などと諸国からの距離が記されている。かつては全国各地と交流があった島だったのであろうか。
 大湊神社の奥の宮から先に進むと雄島に整備されている遊歩道が続いていた。樹齢100年を超える大木や海蝕崖などの景観が続き、越前松島とはまた趣の異なる景観だ。蝉が波の音を打ち消すかのように鳴いており、夏を感じさせる。
 雄島の散策を終えたが、東尋坊へ向かうバスまで時間があるので、歩いて先へ進むことにする。東尋坊方面へ少し歩くと雄島に奥の宮があった大湊神社の本殿があったので敬意を表して参拝。大湊神社の本殿は、美しい彩色が施されている桃山様式の柱や梁などをもつ一間社流造、柿葺(こけらぶき)の小社殿であった。1824年(文政7年)に建造された覆屋の中にあるため、部材の風食は割合に少ない。
 雄島から30分近くかけて東尋坊にたどり着くと、さすがに著名な観光地だけあって、駐車場には観光バスや自家用車が多く停まっている。駐車場に併設する土産物屋街を通り抜けると、日本海の荒波に削られた断崖絶壁が約1キロに渡り続く東尋坊大地が広がり、越前松島と比較すると険しい男性的な景観だ。東尋坊が日本海の奇勝と呼ばれる理由は地質学的にも貴重な輝石安山岩の柱状節理(五角形、六角形の柱状の岩の集まり)があることが挙げられ。これは東尋坊の他に韓国の金剛山、スカンジナビア半島のノルウェーの西海岸と世界に3ヶ所しかないらしい。それならば、ぜひ海上から見上げなければならないと、遊覧船乗り場へ向かうが、乗船券売り場には「強風のため欠航」との看板がかかっている。晴天なのに海上の波は高いのであろうか。東尋坊へやって来るのは2回目であるが、前回も遊覧船が欠航しており、とことん相性が悪いようだ。遊覧船に乗っていれば大池と呼ばれる高さ23メートルもある絶壁やハチの巣、夫婦岩、ライオン岩などの勇壮な景観が眺められたはずだ。
 欠航の遊覧船にいつまでも未練を残していても仕方がないので、代わりに東尋坊タワーに登ることにする。藤原クンはわざわざタワーに登っても景色がそれほど変わるわけではなかろうと言ってパス。奥田クンと2人で地上55メートルの展望台へ向かう。展望入場料は500円とまずまずの料金だ。
 東尋坊タワーは日本海唯一の大展望台を謳っているが、外周旅行でも新潟でも日本海タワーに登っており、少々誇大広告気味だ。展望室からは、白山連峰をはじめ、眼下には東尋坊、雄島、そしてこれから向かう越前海岸などが一望できる。もっとも、奥田クンの興味は景色よりもラウンジに設置されたテレビで放送されている高校野球にあったようだ。
 土産物屋をひやかしていた藤原クンと合流して、東尋坊を11時03分発の京福バスで三国駅前へ出る。ここから越前岬を目指すことになるのであるが、JR時刻表には福井駅からのバス路線しか記載されておらず、外周旅行にとっては久々の難関になりそうだ。まずは三国駅前のバスターミナルの行先表示と手許の地図を見比べて、越前岬方面へ向かう路線を探す。かなり大仕事になると覚悟したが、すぐに国道305号線沿いの集落である和布(めな)行きの海岸線という路線が見付かる。和布より先の路線については未確認であるが、地図上では和布より先もバス路線を記す点線が記載されていることから、なんとかなりそうな気がしてきた。次の和布行きは13時15分なので2時間近くの待ち合わせとなったので、三国駅の裏手に見える三国町郷土資料館(みくに龍翔館)へ足を運ぶ。
みくに龍翔館  三国町を見下ろす高台に立つ白亜の洋館は、1879年(明治12年)に建てられた龍翔小学校を模して造られたもので、重要文化財に指定されている三国突堤をもてがけたオランダ人技師G.A.エッセルのデザインによる五層八角の奇抜な建築である。300円の入館料を支払って館内に入ると、3階にわたって展示コーナーが設けられ、1階には三国の自然、2階には三国湊の発展、3階には三国の近代文学や暮らしについて写真、資料、遺品、模型などで細かく紹介されている。千石船の5分の1の模型、高さ11メートルの三国祭の山車は圧巻だ。高見順の書斎復元をはじめ、三国とゆかりの文学者たちの遺品や写真も往時の様子を連想させてくれる。4階は360度のパノラマ展望台で三国沖の日本海や古い街並みが見下ろすことができた。
 三国駅のバスターミナルに戻り、近所の食堂で昼食をと考えたが、手頃な食堂はちょうどお昼時だったので混雑しており、結局コンビニエンスストアで菓子パンを買って、バスターミナルのベンチで昼食にする。奥田クンは抵抗があるのか、菓子パンに手を付ける様子がない。
 三国駅前13時15分の京福バスに乗り込み、発車待ちをしていた運転手に乗り継ぎについて確認する。
「途中の柳原からだったらどこで乗り換えても同じだよ。福井駅から来るバスと柳原から同じ路線を走って和布まで行くから。乗り継ぎのバスの時刻まではわからないけど、もしも目の前を走っているようだったら合図をしてあげるから、とりあえず終点の和布まで乗って行けばいい」
明確な回答に安心して、座席に腰を落ち着かせる。バスは三国市街地を通り抜け、九頭竜川に架かる新保橋を渡ると工業地帯に入り込んだ。三国は漁港のイメージがあったので、立派な工業地帯に驚く。工業地帯を抜けると右手に三里浜という砂浜が広がり、車窓の変化が激しい。三国駅前を発車した時点では立ち客もいた盛況ぶりだったが、終点の和布まで乗り通したのは我々3人だけであった。
 和布はどうしてここを終点にしたのかと思うような中途半端な場所であったが、バス停の時刻表を確認すると運良く6分後に小丹生行きのバスがある。接続を図っているようでもあり、それならば乗り継ぎ割引でもあれば良さそうなものだが、和布まで乗り通した乗客が我々だけであったことからもわかるように、この辺りまで来ると三国よりも福井への人の動きが主流なのであろう。
 和布から13時44分発の小丹生行きも同じく京福バス。福井からの長距離路線であるにもかかわらず定時運行ができているのは立派だ。バスは海岸線沿いの国道305号線をひた走り、15分少々で終点の小丹生に到着。下車する際にここでも運転手に乗り継ぎ便がないかを尋ねてみる。
「う〜ん。ここから先はバス路線がないね。2〜3キロ先に大味という集落があって、そこまで行けば福井から越前岬へ向かう別系統の路線があるのだけど」
そう言うと運転手は大味での乗り継ぎ便のバスの時刻を無線で確認してくれる。
「次の便は大味14時43分だね。あんたらは若いから十分に間に合うだろう。この先の回転場まで行かなければいけないから、そこまで乗って行くといい」
有り難いことに数百メートル先の回転場まで便宜乗車をさせてくれたので、時間と体力の節約になった。運転手に丁寧にお礼を述べて先を急ぐ。
 大味までの道路は崖沿いの道路で、ところどころで崖崩れを防止するための工事が行われており、集落らしきものは全くない。これではバス路線が存在しないのも納得で、たまに自家用車が走り抜けていく。
「越前町って崖崩れでマイクロバスが押し潰されたところだよ。こんなところ歩いて大丈夫なの?」
奥田クンが顔を曇らせて言う。1989年(平成元年)7月16日15時30分頃、越前町玉川の国道305号線で高さ40メートルに渡る大規模な崖崩れが発生し、落石防止用の覆道(ロックシェード)を突き抜け、走行中のマイクロバスを押し潰し、同乗者15名全員が圧死した惨劇がにわかに思い出される。当時は大々的にテレビのニュースで報道されていたのだ。ただし、地図で確認すると事故現場は越前岬を越えたところであり、現在地からは少々離れた場所である。
 内陸部から続く道路と合流した地点が大味で、ぎりぎり14時43分の京福バスに間に合う。ここからはJR時刻表にも記載されている路線なので安心だ。
呼鳥門  さて、越前岬方面に向かうバスを捕まえることできたものの、越前岬へ行くにはどこで降りればよいのか迷う。JR時刻表には越前岬の表示があるにもかかわらず、京福バス路線には越前岬を名乗る停留所が存在しないのだ。位置的には居倉と左右(そう)という集落の中間に越前岬が記されているので、手元の地図を見て呼鳥門という景勝地が越前岬ではないかと見当を付け、レストハウス呼鳥門で下車。同名のレストハウスが構えているが、どうみても岬のような雰囲気ではない。それでも武生からの路線が乗り入れている福井鉄道バスの停留所名は越前岬を名乗っており、この場所が越前岬であることは間違いなさそうだ。レストハウスの駐車場の左手には、ぽっかりと穴の開いた窓岩や岩の間に入った波が吹き上がるという潮吹き岩がある。これらの総称を呼鳥門というのかと勘違いしたが、しばらく歩くと風と波の浸食作用で生まれた自然のトンネルが現れ、こちらが呼鳥門であったと気付く。バス停も我々が降りたレストハウス呼鳥門の次に呼鳥門という停留所があり紛らわしい。
 国道305号線が呼鳥門トンネルでショートカットしている区間を遊歩道で迂回し、トンネルの出口近くにある左右停留所に出た。越前海岸という別名が付けられている停留所であり、近くに左右海水浴場がある。崖を登ったところに越前灯台が設置されているようだが、歩いて登る気力もなく、大人しく停留所で16時04分の福井鉄道バスを待つ。トンネルを抜けたところに停留所があるので、運転手に見落とされないように16時頃から道路に乗り出してバスを見張り、トンネルから出てきた赤と白の名鉄カラーのバスに大きく手を振った。
 「どちらまで行きますか?」
運転手の真後ろの席に陣取ると、運転手から声が掛かる。一瞬、前払い方式だったかと錯覚したが、単に話し好きの運転手のようだ。運転中は運転手に話し掛けないで下さいと中以外のあるバスも多いのだが、運転手から話し掛けてきているのだから気にする必要もないだろう。
「最近は山陰で捕れたかにをトラックで運んできてお客さんにカニを出しているぐらいだよ。お客さんは越前ガニだと思って食べているけどね」
我々の行程から始まり、先ほど奥田クンが指摘したマイクロバスの事故現場のことや最近は越前ガニ漁が芳しくないことまで話は尽きない。右手には延々と越前海岸が続き、至る所に海水浴場が見受けられるが、どの海水浴客も自家用車なのでバスの利用者は少ない。
「あそこに国民宿舎があるでしょ!国民宿舎に行けば温泉にも入れるから!」 かれい崎停留所で下車する際まで運転手の話は続いた。田舎の気さくな運転手で、まるでタクシーにでも乗っているかのようだった。
 運転手が勧めた国民宿舎かれい崎荘は、我々も当初宿泊を試みたが満室で断られ、代わりに「民宿喜八」を1泊2食付き8,000円で予約した。こちらは消費税込みで8,000円ということなので、昨日宿泊した消費税、入湯税別で7,800円の「民宿やまで」よりも実質的には安い。部屋に通されると我々の到着を見越して部屋に冷房を入れてくれており良心的だ。もちろんコイン式ではない。折角なので運転手が勧める国民宿舎の温泉へ行ってみようかと持ちかけるが、芦原温泉をパスした藤原クンはここでもパス。奥田クンも汗をかいてまで温泉に入りに行っても仕方がないと腰を上げないので、なんとなく私も億劫になってしまった。結局、温泉には入らずじまいになってしまう。
 「夕食の用意ができましたよ!」という女将さんから声がかかり、隣室へ通されると舟盛が用意されており驚く。特別料理を注文した覚えがないので、念のため確認したが、女将さんは笑って「料金に含まれていますので安心して下さい」とのこと。盛り付け方は少々乱雑ではあるものの、大きな刺身が食べ切れないほどあり、これほどの豪勢な料理は外周始まって以来だ。刺身が好物の安藤クンがいれば大喜びであったに違いなく、後日たっぷりと自慢して悔しがらせてやろう。奥田クンが少食なので、藤原クンと2人で手分けをしてなんとか舟盛りを片付けると動けないくらい満腹になった。食べ過ぎだが刺身なのでカロリーは肉料理を食べるより控えめだろう。満ち足りた気分で越前海岸での一夜を過ごすのであった。

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