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第57日 金沢−小松

1998年8月5日(水) 参加者:奥田・藤原

第57日行程  米原6時49分発の富山行き341M普通列車は定刻の7分遅れとなる10時07分に金沢に到着した。昨年までは上野からの夜行列車を利用して北陸入りをしていたが、今回は京都5時29分の東海道本線上り始発列車での旅立ちだ。外周の旅も近畿圏が近づいてきた証拠である。
 前回は金沢市内を観光する時間がなかったので、まずは奥田クンと藤原クンを連れだって兼六園を目指す。金沢駅から兼六園までは2キロ程度なので、外周の旅のウォーミングアップには適当な距離であろう。奥田クンはお父さんの実家が石川県にあるので金沢の地理にも詳しく、兼六園までの案内も任せて金沢の市街地を歩く。
 30分もかからないだろうと思っていた兼六園までは道路が入り組んでいたりして意外に時間がかかり、桂坂口にたどり着くまで40分もかかってしまう。日も高くなって汗が吹き出し、早々に体力を消耗してしまった。バス代を節約したのは失敗だったようだ。
 300円の入園料を支払って、日本三園として名高い兼六園の散策だ。しばしばテレビの被写体となり、兼六園の象徴でもある徽軫灯籠は最後のお楽しみとして、外周の原則に従って時計の反対回りで園内を周る。私と奥田クンは過去に何度か来ているので、今回は藤原クンのペースに合わせの散策だ。
 最初に茶店通りを抜けて瓢池(ひさごいけ)の東岸にある夕顔亭へ。1774年(安永3年)に建てられた茶亭で、蓮池庭にあった四亭の1つだ。本席は小間ながら本格的な茶の湯が催せるようになっており、茶室内の壁にしつらえられた夕顔の透彫りから夕顔亭と名付けられたという。海石塔を眺めながら瓢池を半周して梅林へ。季節外れなので梅を愛でることはできないのが残念だ。
 兼六園の名物である根上松(ねあがりまつ)にはさすがに大勢の観光客が集まっている。この松は13代藩主の前田斉泰(なりやす)が土を盛り上げて若松を植え、根を深く土で覆い、成長後に土をのぞいて根をあらわにしたものだと伝えられている。大小40本以上もの根が地上2メートルにまでせり上がった奇観は迫力があるものの、個人的には決していい趣味とは思えない。
兼六園  栄螺山、内橋亭、虹橋、唐崎松、蓬莱島などの名勝を眺めながら霞ヶ池周辺を散策し、いよいよ兼六園の象徴である徽軫灯籠へ。
「灯籠ってこれのことだったのか。天気予報なんかでもよく映っているよね。だから最後にしようって言っていたのかぁ」
徽軫灯籠を目の前にして、藤原クンもようやく徽軫灯籠を最後にした意図を理解してくれたようだ。テレビやガイドブックの写真で紹介された場所を実際に確認することで、その地へ行ったと実感できるのだから面白いものである。徽軫灯籠の近くには展望台もあり、金沢市街を一望することもできた。
 兼六園を後にして、隣の金沢城址にも足を運ぶ。兼六園には何度か足を運んでも、不思議なことに金沢城址へ立ち寄った記憶はなく、どんなところか気にはなっていた。ところが、実際に金沢城址へ行ってみて、これまで立ち寄らなかった理由が判明した。金沢城址には1995年(平成7年)2月まで金沢大学が存在していたのだ。敷地が手狭になったことから金沢大学は2キロほど離れた郊外に移転し、現在の金沢城址は空き地になっている。これから徐々に整備が始まるのであろう。
 金沢城址を後にすると朝から歩き続けているのでさすがに疲れてきた。兼六園近くにあったお食事処尾張屋で昼食休憩とする。金沢らしいものをと思ったものの、午後に向けてボリューム感のあるものを食べたかったので「カツ丼」(785円)を選んだ。お腹が満たされるとクーラーの効いた店内から出たくなくなるが、今後の予定に差し支えるので奥田クンと藤原クンを促して店を出る。
 兼六園下停留所から12時15分の北陸鉄道バスを捕まえて金石バスターミナルへ向かう。金沢西部の港町へ向かう県道17号線(金石街道)は、1971年(昭和46年)9月1日に廃止となった北陸鉄道金石線(中橋−大野港間)の鉄道敷を拡張した立派な道路で交通量も多い。終点の金石バスターミナルも金石駅跡地を利用しており、売店を兼ねた窓口が残るなど鉄道の面影が残っている。北陸鉄道金石線は、ここから現在の金沢新港に面した大野港まで軌道を伸ばしていたはずだ。
 さて、金石と言えば金沢で古くから栄えた港町で、江戸時代の末期には豪商銭屋五兵衛の活躍で北陸最大の港となったという。その銭屋五兵衛人物像、偉業についての顕彰と資料収集、保存、情報提供を目的とした銭屋五兵衛記念館と銭五の館が1997年(平成9年)7月に開館したばかりというのだから立ち寄らないわけにはいかない。金沢西警察署前まで500メートル程県道17号線を引き返し、交差点を右折したところに目指す銭五の館が待っていた。
常豊丸  銭屋五兵衛記念館との共通入館券(500円)を購入して、まずは銭五の館に足を向けた。銭五の館は、現存した旧銭屋の本宅の一部と3階建ての蔵を移築して、当時の住居を再現したものとのこと。真新しい外観からは、江戸時代の本宅を移築したと言われてもあまりピンと来ない。入口を入ったところが休憩室だったので荷物を置かせてもらって、館内を見学する。通り庭に面して床の間を備えた畳敷きの部屋が並んでおり、それぞれに海の豪商と呼ばれた五兵衛をはじめとする銭屋一族ゆかりの遺品が展示されていた。
 しばらく休憩室で汗が引くのを待ってから、今度は別棟の銭屋五兵衛記念館へ向かう。運良く14時から銭屋五兵衛の生涯を解説するシアターが始まるところだったので、すぐに第一展示室にあるシアターコーナーへ移動。もっとも、シアターを見学するのは我々3名だけで、夏休み中ではあるが、まだまだ施設の知名度が低いようである。 銭屋五兵衛は1773年(安永2年)11月25日に加賀国宮腰(現在金沢市金石町)に生まれた。銭屋というのは屋号で、両替商を営んでいたことに由来するようだ。五兵衛の父である弥吉郎は、金融業と醤油醸造業の傍らで一時海運業も営んでいたが、17歳で家督を継いだ五兵衛は、新たに呉服、古着商、木材商、海産物、米穀の問屋なども営むが北前船を使って海運業に本格的に乗り出すのは、50歳代後半からで、その後の約20年間に江戸時代を代表する大海運業者となったという。まさに典型的な大器晩成型の人物であったようだ。加賀藩からは銀仲棟取(ぎんずわいとうどり)問屋職、諸算用聞上役(しょさんようききあげやく)を任命され、加賀藩の金融経済の大切な仕事に尽くし、度々御用金の調達もしていたとのこと。しかし、晩年は河北潟干拓事業に着手するものの、死魚中毒事故にかこつけた反対派の中傷による無実の罪で1852年(嘉永5年)11月21日に獄中で80歳の生涯を終えている。どの時代にも成功者を妬む一派が存在していたようである。
 12分間で近世を代表する海運業者となり殖産事業に貢献した銭屋五兵衛の生涯を学んだ後、館内の展示物を見学する。こちらは銭屋五兵衛の生涯がメインテーマのようで、銭屋五兵衛の生い立ちなどが詳しく解説されている。一番人目を惹くのは御手船「常豊丸」の実物4分の1の模型であるが、実物を復元したのではなく、わざわざ想像模型というのが面白い。おそらく当時の状態を示す資料が何も見当たらなかったのであろう。
 1時間も冷房の効く館内でゆっくりしていたため、炎天下の中を歩くのはますます億劫になるが、それでは先に進まない。しばらく歩くと普正寺町停留所があり、バスに乗れると思ったのも糠喜び。午前中に済生会病院行きが2便あるだけでは使いものにならない。田んぼに囲まれたアスファルトの道路を3人でとぼとぼ歩く。周囲に日差しを遮るようなものはなく、直射日光が容赦なく降り注ぐ。
「しばらく歩けば海浜公園があるので、松任方面へ行くバスがあると思うよ」
根拠のない理由付けで2人を促しながら先へ進む。金沢を代表する犀川にかかる犀川橋を渡ると海浜公園口停留所に出た。ところが期待した海浜公園からのバスは金沢駅行きのみで松任方面への路線はない。「もう金沢に戻ればいいんじゃない」という藤原クンを制して先に進む。ここまで来て金沢駅まで戻るのは癪だ。
 さらに歩くと幸いにも周囲は住宅街になって来たのでバス路線も期待できそうだ。銭屋五兵衛記念館から1時間も歩くと行政区域も金沢市から松任市に入る。ところが八田中口、宮永東と停留所を見つける度にバス停の時刻表を確認するものの行先は金沢駅や香林坊方面ばかり。松任市であるにもかかわらず、移動は金沢を中心としているようだ。さすがに気力もなくなりかけ、宮永停留所では期待をせずに時刻表を確認。ところが、宮永停留所でようやく「松任」という文字が目に入る。
「あっ松任へ行く便があるよ。次は16時50分なら上等じゃないですか」
藤原クンが思わず声を上げるが、行先が松任駅ではなく、松任となっているのが少々気にかかる。念のために通りすがりの人に確認すると、行き先の松任は松任駅前とのことなので安心する。次のバスまで20分近い待ち合わせとなり、住宅街の一角にあるバス停で松任行きバスを待つ。
 10分以上遅れてイライラしたところにやってきた北陸鉄道バスに乗り込むが、わずか10分足らずで終点の松任に到着。これなら歩いてもよかったが、結果論だし、何よりも宮永停留所から一歩も先へ進む気力がなかったのだからやむを得ない。
 松任駅は目と鼻の先で、どうせなら松任駅口とか停留所名に工夫を凝らして欲しいなと思いつつ、17時32分の2762M普通列車に乗車。午前中に京都から4時間30分も列車に揺られ続けてきたはずなのに、随分と久しぶりに列車に乗ったような気分になる。列車が寺井に到着すると「松井秀樹野球の館」の看板が目に入り、読売ジャイアンツの松井秀樹選手の出身地であることに気づく。松井秀樹野球の館は、1994年(平成6年)7月にオープンした施設で、松井選手の少年時代からの生い立ちなどが紹介されている。
「松井秀喜野球の館には行かないの?」
野球好きの奥田クンがニヤニヤしながら尋ねるが、私がまったくの気付いていないのを承知での質問だ。個人的には行ってみたいと思うものの、松井秀樹野球の館は交通の便が悪く、わざわざタクシーを利用する気にもなれない。それに野球に興味のない安藤クンがいたら猛反対していただろう。
 17時53分に小松到着。国際線も就航する小松空港を抱える都市だけあって、人の流れも多い。まずは駅前の公衆電話に備え付けてある電話帳で今宵の宿を確保する。運良く小松駅近くの「憩旅館」を素泊まり4,000円で確保。少し高いなとも思ったが、1人1室ということなので納得する。駅前の商店街から少し外れたところにあった「憩旅館」は昔ながらの旅館という雰囲気で、1人1室もシングルルームではなく、小さめの和室が3部屋用意されていた。
 荷物を置いて早めに夕食へ出掛ける。地方都市は夜が早いのでゆっくりしていたら夕食を食べ損ねてしまう。奥田クンの希望でカレー専門店「アルバ」に入ると、店内は野球一色。野球好きのお爺さんが切り盛りしており、メニューも野球に関連付けてユニークなもの。折角なので「満塁ホームランカレー」(850円)を注文する。トンカツ、コロッケ、ウィンナー、ハンバーグの4品が入っており、これで満塁というわけだ。カレーのルーは濃いこげ茶色をしているので、辛いのかと思ったがそれ程でもなかった。 「来年もまた来てくれよな。来年まで店があるかわからないけど」
帰り掛けに笑顔で送り出してくれたお爺さんの顔が印象的だった。

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