仕事人間の仕事の話

第56日 輪島−金沢

1997年8月8日(水) 参加者:安藤・奥田・藤原

第56日行程  輪島へ来たからには名物の朝市を見学したい。輪島の朝市は歴史が古く、今から1,000年以上も前に神社の祭日に物々交換の市が立ったのが起源とされている。朝食後に小雨の降る中、傘を差しながら朝市へ繰り出した。悪天候にもかかわらず、朝市では「買うてくだぁ〜」という露店のおばあちゃんの声が響く。どの露店も売り子は女性ばかりで輪島の女性は働き者だ。朝市で扱っている商品は鮮魚や野菜が中心なので、買い物客も観光客より地元の人たちが多い。藤原クンが民芸品を扱う露店でこそこそと買い物をしている。聞くまでもなく彼女へのお土産である。
 朝市通りを歩いていると、イナチュウ美術館という西洋風の建物が目に入る。輪島には不似合いな建築物であるが、朝市目当ての観光客を見込んでか8時から開館していたので覗いてみる。輪島駅でもらってきたパンフレットの中にイナチュウ美術館の割引券もあったので窓口で提示すると600円の入館券が100円引きとなる。
館内に入るとまだ朝の清掃中で掃除機を掛ける音が聞こえる。それでもヨーロッパ各国の建築専門家の協力を得て、主にベルサイユ宮殿を参考に造られたという美術館だけあって、フランスにでも来たような錯覚に陥る。エントランスホールには、時価350億円とマスコミでも話題になったルーベンスの大作「マギの礼拝」や「サンマルコの奇跡」なども展示されていた。
「時価350億円と言われても、これだけ絵画や彫刻が並んでいると有り難味がないなぁ」
奥田クンがつぶやく。確かに所狭しと無造作に作品が並べられているので、なんとなく安っぽく感じてしまう。それでも館内の撮影は自由ということなので、エントランスホールで彫刻を背景にパチリ。
 展示物も西欧諸国の作品に統一されているのかと思ったが、2階に上がると「日本の王朝の間」というコーナーがあり、徳川家康、豊臣秀吉、武田信玄などの戦国武将の愛用した国宝重要文化財級の美術品が並べられている。イナチュウ美術館のコンセプトが王朝美術館であるから、日本の王朝も紹介したのであろうが少々バランスが悪い。
 概ね16世紀から19世紀当時の世界各国の王や王妃たちが愛用していた絵画、彫刻、家具、陶器、漆器、ガラス工芸品など400点あまりの美術工芸品を一通り眺めて美術館を後にする。
 「民宿白波」に戻って荷物を回収し、輪島駅へ向かう。輪島駅の向いになる北鉄観光輪島旅行センターでクーポン券を観光バス乗車券に引き換える。輪島から金沢までは、北海道の利尻島以来の観光バス利用という変則行程だ。観光バス利用にした理由は、能登半島の西海岸沿いの観光ポイントを効率良く周遊しながら金沢へ向かう外周向きの観光コースが用意されていることもあるが、路線バスが走っていない渚ドライブウェイという砂浜海岸を走るからだ。もちろんレンタカー利用という方法もあるのだが、乗り捨て料金を考えるとレンタカーの方が経済的であった。それでも料金は4,990円といささか割高であるが、昼食付きの値段なのでやむを得ない。
 「夏休み中なので、いつもの外周と違って、女子大生グループと一緒になれるかもしれないな」などと藤原クンとよこしまな会話をしていたが、集合場所に集まった乗客は我々を除くと中学生と小学生の娘を連れた母娘のグループと老夫婦が2組だけだった。 「なんだよ〜女子大生のグループなんていないじゃないか!」
藤原クンがご立腹だが、今度、彼女にこっそり耳打ちしてやろうと思う。
 大型観光バスに乗り込み、定刻の9時30分に輪島駅前を発車する。大型観光バスに乗客は11名だけなので寂しいが、中年のガイド嬢がマニュアル通りのガイドを始める。もっとも、バスが動き出したと思ったら最初の目的地である石川県輪島漆芸美術館に到着。慌ただしく席を立ち、奈良の正倉院をモチーフにした外観の建物へ入る。
 通常600円の入館料はバス代に含まれているのでフリーパス。まずはエントランスホールでガイド嬢から輪島塗についての簡単な解説が始まる。縄文時代に生まれた漆器の技法は、常に創意と工夫を繰り返しながら今日まで受け継がれてきた。輪島塗の特徴は、本型地法と呼ばれる工法によって演出される優美さと堅牢さであり、珪藻土の一種を焼いて粉末にしたものを漆に混ぜることで頑丈な下地が作り上げられるそうだ。説明が終わるとフリータイムで館内を自由に見学となるが、与えられた時間は10分足らず。館内2階にある4つの展示室を駆け足で見学する。国の有形民俗文化財に指定されている貴重な作品をはじめ、塗師道具など輪島塗に関する歴史民俗資料が展示されている日本唯一の資料館と聞けば多少の有り難味は感じるが、残念ながら私には芸術の素養がまったくないので、作品の価値はさっぱり。結果的には短時間の見学時間で充分だった。作品の維持管理費用が必要なのだろうが、600円の入館料はもう少し下げて欲しいところだ。
 昨日、皆月から戻って来る際に通った国道249号線を南下し、20分で総持寺へ移動。総持寺の拝観料400円も観光バス代に含まれているのでフリーパスだ。総持寺と聞くと、我々のような関東出身者は横浜市鶴見区の総持寺を連想してしまうが、そもそも総持寺は1321年(元享元年)に瑩山禅師によって曹洞宗大本山としてこの地に開かれたのが始まり。最盛期の江戸時代には境内に大小70余りの殿堂伽藍を備え、全国から修行僧が集結した活況ぶりだったそうであるが、1898年(明治31年)に火災のため伽藍のほとんどを焼失。再建を機に本山を鶴見に移したとのこと。現在は、総持寺祖院と呼ばれ、山門や仏殿、宝物館などが再建されている。予約をすれば、精進料理や座禅体験、宿泊もできるらしい。
 境内の中央に威容を誇る山門をくぐり抜け、時計の反対回りに巡拝をしていく。山門の右手には調理場や浴場、客室を有する香積台が総持寺を運営する中枢部のようで、宿泊客は香積台に泊まるのであろう。正面正座には韋駄天尊が安置されている。その香積台のすぐ北側には仏殿があり、御本尊の釈迦牟尼如来と対面。右には大権修理菩薩、左に達磨大師を配している。縁起物として有名な達磨は、そもそも禅宗の開祖で、坐禅により手足が腐ってしまったという伝説から、球状の達磨ができたらしい。
 総欅造りの大伽藍である法堂で境内の半分を巡拝したことになるが、主な伽藍はここまで。後は小雨の降る中を足早に駆け抜け、坐禅が行われる僧堂を覗いてバスに戻る。総持寺の見学時間は概ね30分程度で、広い境内の割には見学時間が少ない。もう少しのんびりとした行程を考えてもらいたいものだ。
 バスに戻ると本格的に雨が降り出した。今回の旅は天候にあまり恵まれていない。総持寺から20分で関野鼻に到着したが、傘を差しながらの観光となる。日本海に向かって鼻のように突き出た岬は見慣れた光景であるが、関野鼻は、石灰岩が海水や雨水などで浸食されてできたカルスト地形で、無数の甌穴や溶食盆地をもつことが特徴。岬に向かう歩道を歩いているとバスガイドが足を止めて説明を始める。
「これが君が代でも詠われているさざれ石です」
人だかりの隙間から覗き込むと、ざらざらとした岩肌の岩がある。さざれ石とは、小さな石がコンクリート状に凝結して固まってできる岩のことであり、石灰質角れき岩とも呼ばれる。君が代の「さざれ石の巌となりて」とは、小石が集まって大きな岩となる。すなわち、国民一人ひとりが力を合わせれば大きな力となるという趣旨だったのかと今更ながらに歌詞を理解する。
「能登が君が代の縁の地であるとは知りませんでした」
バスガイドに感想を漏らすとあっさりと否定されてしまう。
「違いますよ。さざれ石は日本全国にあります。たまたま関野鼻にもあるだけで、君が代がここのさざれ石を詠ったわけではありません」
少々関野鼻のさざれ石をありがたみ過ぎて損した気分だ。
 岬の周辺には、銭洗の池や義経と弁慶が岩の試し切りによって道筋を決めたという義経一太刀岩、弁慶二太刀岩、関野鼻弁財天と裸弁財天を祭る海食洞などがあり、これらを結ぶ遊歩道も設けられている。普段の外周であれば、間違いなく雨の中を強行しているが、今回は観光バス。出発時刻があるので、泣く泣く駐車場へ引き返す。
巌門  正午に巌門に到着。巌門は、能登金剛のほぼ中に位置する石川県を代表する景勝地である。石川県羽咋郡富来町海岸一帯の29キロが能登金剛と呼ばれているのであるが、その由来は、北朝鮮にある金剛山だというのだから驚きだ。金剛山が海に張り出し、千変万化の岩礁美をもって海金剛と呼ばれており、その景勝にも優るとも劣らぬことから能登金剛を拝名したという。
 売店と食堂が併設された典型的なドライブイン施設である「レストラン巌門」で昼食となるが、冷めた弁当が学生食堂のようなところに並べられていたのでがっかりする。使い捨てのプラスチック箱ではなく、重箱に入っており、温かい味噌汁が別に運ばれてきたのが救いか。隣のテーブルでは、豪勢な刺身の盛り合わせなどがあったから、観光バスの乗客用に安い弁当をアレンジしているのであろう。
 出発は1時間後の13時なので、早々に昼食を切り上げて巌門の観光に充てる。幸いにも雨は止んでいたので、「レストラン巌門」から海辺へ下ったところにある遊覧船乗り場へ行ってみる。遊覧船の乗船時間は20分なので、昼食を早めに切り上げれば遊覧船にも乗ることができると算段していたのだが、やはり本日はあいにくの天候で欠航。仕方がないので無人の遊覧船桟橋から日本海の荒波が大きな岩をぽっかりと彫って大きな門をつくりあげた巌門や周辺にある奇岩を眺めて過ごす。老松が茂る海食崖を日本海の荒波が削り取り、長い年月をかけてつくりだした巌門は、幅6メートル、高さ15メートル、奥行60メートルもあり、小船であれば通ることができそう。向いの絶壁は、鷹の巣があったといわれる高さ27メートルの鷹の巣岩だ。
 バスに戻って30分ほど南下して、千里浜レストハウスに到着。レストラン巌門と同じ千里浜観光開発が経営するドライブインで、北陸鉄道の観光バスの指定レストハウスのようだ。サザエの壺焼きや蛤が香ばしい匂いを漂わせているが、昼食の後なので素通りする。レストハウスの前には砂浜海岸が広がり、ここが千里浜なぎさドライブウェイの入口だ。幸いにも雨はすっかり上がり薄日が差してきた。千里浜とある記念碑の前で記念撮影を済ませて、いよいよ千里浜なぎさドラブウェイである。
千里浜  千里浜なぎさドライブウェイは、全長約8キロの日本で唯一の天然砂浜のドライブウェイ。石碑に記された由来によれば、「三十数年前、一人の観光バス運転手が、広々とした波打ち際を思いっきり走れたらと、空バスを試走させたのがデビューにつながった。」とあるが、どこの砂浜でも自動車が走行できるかと言えばそうではない。通常の海岸の砂の粒径は1ミリから0.5ミリほどであるが、千里浜海岸の砂は細粒で0.25ミリほどしかないという。その細粒に海水が浸み込んだことにより固い砂浜を作りあげ、自動車が走っても砂浜が沈まないのだ。おそらく観光バスの運転手も単なる思い付きではなく、千里浜の砂浜の性質を知っていたからこそ試運転に踏み切ったのだろう。浜辺のドライブは思ったよりも平凡で、車窓は海岸沿いの道路を走っているのと大差がない。むしろ、前方を見ていると砂浜に道路標識が立っていたりしておもしろい。やはり自分で運転してこそ千里浜なぎさドライブウェイを堪能できるのであろう。轍に沿って走っている限りは、初心者でも問題なく運転できそうだ。藤原クンは彼女とドライブに来るとのことで、ドライブウェイに並行している能登有料道路を利用すれば、京都からのアクセスも良さそうだ。
 8キロのドライブウェイはあっと言う間に終わり、今浜インターチェンジから能登有料道路に入る。30分も走れば能登有料道路の起点である金沢市粟崎で、北陸鉄道浅野川線内灘駅に近い。外周旅行としては、ここで降ろして欲しいところであるが、大人しく金沢駅まで運ばれる。金沢駅前には14時55分に到着し、観光バスの旅は終わった。
 北陸鉄道浅野川線の北鉄金沢駅はすぐ目の前にあったが、観光バスで到着した我々をあざ笑うかのように14時56分発の列車がホームから出て行く。昼間の他の時間帯は毎時00分と30分の発車が原則であるにもかかわらず、15時00分だけがなぜか4分発車が繰り上がり、乗ることができなかった。もっとも、次の列車も発車が10分繰り上がり、15時20分である。
 気を取り直して15時20分の内灘行きに乗り込む。北陸本線と少しだけ並走した後、高架下をくぐり抜けて内灘を目指す。北陸鉄道浅野川線の前身は浅野川電気鉄道であり、地元では「浅電」とも呼ばれている。初乗りの路線であるため、楽しみにしていたものの金沢の住宅街を走るので車窓の変化は乏しい。終点の内灘まではわずか17分だ。
 内灘も金沢郊外の閑静な住宅街であるが、実際にやって来るまではもっと殺伐とした雰囲気を連想していた。内灘という地名を初めて知ったきっかけが、歴史で学んだ内灘闘争だったからであろう。内灘闘争とは、1952年(昭和27年)に米軍砲弾試射場が建設されたことに対する反対運動であり。米軍基地の反対運動の先駆けとなった。当時、朝鮮戦争の影響で砲弾の需要が大きくなった米軍が、長い海岸線を持つ内灘の砂丘地が試射場として適しているとして摂取したのに対して、内灘村議会は反対決議を行い、北陸鉄道労働組合も浅野川線で資材搬入に対するストライキ行った。内灘闘争は1957年(昭和32年)に撤収したことにより終息し、試射場となった砂丘も開墾されて住宅街と化したのである。
 内灘駅からはとりあえず16時18分の兼六喫茶行きの北陸鉄道バスに乗り込む。5分遅れでやってきたバスは、粟崎の住宅街を一回りして、金沢駅に向い始めたので、金沢港に近い近岡北停留所で下車する。地図では近岡北から金石方面へのバス路線が記されていたので、乗り継ぐつもりであった。ところが、近岡北停留所のポールには、金沢駅方面の時刻表しか記されていない。やむを得ず金石方面に向かって歩き出す。
 周囲は住宅街から一転して殺風景な風景が広がり、背中には安藤クンの冷たい視線を感じる。黙々と30分も歩くと金沢港の中心にたどり着いたが、金石方面へのバス路線はなく、金石まではまだ3キロぐらいありそうだ。時刻はもうすぐ17時だ。
「金石へこのまま歩いて行ったら日が暮れてしまうよ。どうせ次回は金石へ来なければいけないのだし、このまま金沢駅に戻ろう」
安藤クンに促されて金沢方面に方向転換。地図上には金沢港にも金沢駅から乗り入れているバス路線が示されているのだが、停留所が見当たらず、結局だらだらと歩き続ける。結局、金沢港から30分以上も歩いたところで三浦住宅前停留所を発見。めでたく17時29分の東部車庫行き北陸鉄道バスを捉まえて金沢駅西口へ運ばれる。今回は金沢駅解散で、次回は金石へ仕切り直しということになりそうだ。北陸鉄道バスは金沢駅ではなく兼六園周辺を起点として路線があるようなので、兼六園観光も兼ねると良さそうだ。
 奥田クンは小木の「旅館一水」に電話確認をするものの結局財布は見付からず、平塚までの乗車券と上野までの急行券を買いなおす。学生割引証の予備を持ち合わせていたのが不幸中の幸いだ。藤原クンは彼女へのお土産を探すとここでも姿を消す。一体、彼女へいくつのお土産を買えば気が済むのだろうか。やがて持ち合わせがなくなり、借金を申し出てくるのだからいい度胸だ。
 帰りの急行「能登」は福井始発なので、福井まで「能登」を迎えに行って座席を確保するのが無難だ。ほとんど効用を発揮しなかった北陸ワイド周遊券を少しは活用せねばならない。奥田クンを金沢に残して金沢18時33分の「サンダーバード立山」で福井へ移動。私も藤原クンもそのまま「サンダーバード立山」に乗っていれば、自宅のある京都に帰れるのに福井で下車して反対方向の列車に乗るのは多少なりとも違和感がある。もっとも、今回は東京都区内発の北陸ワイド周遊券だし、信越本線の横川−軽井沢間の乗り収めという立派な名目がある。
駅近くの銭湯でさっぱりして、駅前の食堂で奥田クンに悪いなと思いながら打ち上げ。福井21時34分の急行「能登」に乗車すると自由席はガラガラで拍子抜けする。福井なら米原経由で東京に向かった方がはるかに東京に早く着くし、わざわざ8時間30分もかけて東京に向かう物好きはいないのであろう。もっとも、金沢からは大勢のお客が乗り込んできたので、金沢からの需要はありそうだ。奥田クンも無事に合流し、上野までの長い夜が始まった。

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