趣味de息抜き

第55日 輪島−輪島

1997年8月7日(火) 参加者:安藤・奥田・藤原

第55日行程  「温泉民宿たなか」で朝風呂を楽しもうと浴場へ出向いたが、残念ながらぬるま湯だったので入浴を諦める。泉温29.2度では加熱が必要だからやむを得ないか。7時過ぎに民宿を出発し、まずは荷物を輪島駅のコインロッカーに収めて身軽になる。舳倉航路が出航する輪島桟橋までは2キロ近くあり、荷物を抱えながら歩くのは避けたかったのだ。輪島川に沿って河口に向かって歩き、いろは橋を渡ると輪島川の河口が視界に入って来る。
 輪島港の一角にある輪島桟橋では既に「ニューへぐら」の乗船が開始されていた。「ニューへぐら」は今年の5月にデビューしたばかりの新造船で、輪島沖の北方海上約50キロに位置する舳倉島まで1時間30分で結ぶ。往復乗船券を購入すると珍しいことに硬券で、額面は「¥3,040」が末梢されて、「運賃変更¥3,800」のゴム印が押されている。「ニューへぐら」の就航と引き換えに片道380円もの大幅な値上げを実施したようであるが、利用者からクレームはなかったのであろうか。もっとも、所要時間は旧船の「へぐら」では舳倉島までの所要時間は1時間50分と「ニューへぐら」よりも20分も余計にかかっていたので、時間的な恩恵も受けている。
船内は地元の乗船客でそれなりに賑わっていたが、旅客定員119名なので座席には余裕がある。幸いにも甲板に出られる構造なので、1時間30分を甲板で過ごすことにする。船内に閉じ込められるとすぐに船酔いするが、甲板で過ごしていると不思議に酔わない体質だ。
 「舳倉島にはもともと夏場にしか人が住んでいなかったし、現在でもほとんどの島民が冬になると輪島へ引き上げてくるらしい」
奥田クンが珍しく無名の離島について解説をしてくれる。奥田クンのお父さんが石川県の出身だったので、輪島沖にある舳倉島のことは以前から知っており、1度は行ってみようと思っていたとのこと。 もともとは、輪島の海士町の住民が6月初旬から10月中旬にかけて舳倉島に季節的に移り住んでいたのが、1957年(昭和32年)に離島対策実施地域の指定を受けると漁港の改修、発電施設、離島航路の開設など基礎的な定住環境が整備され、定住化するようになったそうである。
 「ニューへぐら」は、8時に輪島桟橋を出航。輪島から舳倉島のちょうど中間地点に差し掛かると、左手に小さな島影がいくつか見える。輪島市に属する竜島、狩又島、大島、赤島、荒三子島、御厨島、烏帽子島で、総称して七ツ島と呼ばれている。海面から岩場が盛り上がって、日本海のケラマという感じだ。無人島なので外周旅行とは無縁だが、ダイビングや釣り場として人気のスポットである。
 9時30分に「ニューへぐら」が舳倉島桟橋に接岸すると先頭を切って上陸する。舳倉島の形状は東西に伸びた長卵形で、周囲は約5キロ。1,000〜1,700年前の火山活動による火成岩で出来た島とのこと。世界各国から飛来する年間約300種類を超える渡り鳥の中継地でもあり、舳倉島でしか見ることの出来ない珍しい鳥も数多く観察することができるという。しかし、我々に与えられた滞在時間はわずかに1時間。少しでも効率よく島内を散策しなければならないし、流暢にバードウォッチングを楽しんでいる時間はない。
「1時間で舳倉島を一周することなんて無理だから、最初に主要な観光スポットを周って、時間が余ったらそれ以外のところに足を運べばいいよ」
時計の反対回りという外周旅行の原則に反して、真っ先に島の中心部に建つ灯台に向かう安藤クンと藤原クンを引き止めると、安藤クンが主張する。確かに1時間ですべてを欲張るのは難しい。一周することばかりに気を取られていたが、ここは安藤クンの意見に従うのが良さそうだ。
 まずは舳倉島の中心に構える舳倉島灯台へ。標高約13メートル位置にスラリとした白い灯台が建っている。灯台には海上保安庁のヘリポートもあり、緊急時にはヘリコプターが発着する体制が整っている。舳倉島灯台は、海だけではなく空の目印にもなっているようだ。残念ながら灯台内部は見学できないので、周囲を眺めてから先に進む。
 続いて訪問したのは島の東部に位置する伊勢神社へ。舳倉島全体のかつての総本社で、島民は「やしろ様」と呼んでいる。境内には大きなタブの木が生息しており、舳倉島で唯一の大木とのこと。火成岩でも植物は立派にすることに驚く。このタブの木も神の依代として昔から島民の尊崇を受けているそうだ。
 伊勢神社から進むと、島の北東部にある恵比須神社に行き着いた。安山岩の1枚岩が折り重なる綺麗な板状節理の頂上に神社が建っている。恵比寿神社と言えば商売繁盛であるが、舳倉島の商売と言えば漁業。恵比寿神社には漁業繁栄の神が祀られていた。
舳倉島  今度は灯台の裏手にあたる観音堂を目指す。海沿いの岩場に続く小道を歩いていると、石積みが目につく。
「なんだか賽の河原によく似ているね。奥尻島の賽の河原もこんな風に石積みがあったよね。きっと、ここもそういう場所なんだよ」
安藤クンが指摘する。舳倉島には70ほどの石積みがあるが、これらは主として竜神様の供養として石を積んだもののようだ。また、江戸時代に起きた海難事故の後、低い島を少しでも高く見せて海上からの標識になるよう積み上げたとも言われている。必ずしも慰霊という意味合いではないらしいが、こんな言い伝えもある。江戸時代末期に一旭上人(いっきじょうにん)という僧が毎晩この観音堂に島民を集めて説教をしていたと伝えられる。毎晩、熱心に一旭上人の説教に耳を傾ける若い女性が居たので、ある晩、一旭上人がその女性にどこから来たのか尋ねると、「私は、この池に棲む竜なのです。難波船の錨の毒に当たって死んだのですが、未だに成仏できずにいます。どうか助けてください。」とその女性は涙を流して頼んだという逸話が残されている。島民が翌朝になって池の水をくみ上げたところ、池底から大小二体の骨が見付かったとか。観音堂のすぐ近くには小さな島では珍しい周囲180メートルの龍神池があった。
 舳倉島の北西部には、弥生時代から奈良時代のものと推測される土師器片、須恵器片や食糧となった魚介類、アシカの骨が出土した深湾洞遺跡やシラスナ遺跡がある。対馬海流に直面している舳倉島は、絶好の漁場として古くから人々の生活があったようだ。  最後は島の西端にある奥津比v神社へ。舳倉島の総本社だけあって、豪壮な鳥居を構えている。とりあえず、これで舳倉島の主要ポイントをすべて踏破したことになり、満足して桟橋に戻る。
 舳倉島を10時30分に出航する「ニューへぐら」で輪島に戻る。夏季は1日2往復のへぐら航路であるため、午前中で舳倉島を攻略することができたが、通常は1日1往復のときは帰りの便が14時30分出航であるため、丸1日を費やす必要に迫られるところであった。
 輪島桟橋からは再び輪島駅まで戻る。途中の輪島郵便局に立ち寄ると、うるし版画で作った記念絵葉書を売っていたので購入する。通常の官製はがきの裏にうるしを使った版画で手刷りしたもので、デザインは輪島朝市と輪島塗であった。表紙には「JAPAN TENT‘88」とあり、1988年(昭和63年)7月に開催された「夢半島のと JAPAN TENT−国際留学生交流全国大会・いしかわの集い−」に合わせて作られたものであることが判明する。
 輪島駅からは再び北陸鉄道バスのお世話になる。輪島駅前13時25分の上山行きは、しばらく輪島市街地を走った後、輪島市西部の海岸線沿いの道路に出る。地図上では県道38号線と記されているが、急カーブや急勾配が続く狭隘な道路で、荒々しい岩礁を洗う日本海を臨んで走っていたかと思えば、急に狭い山道に入り込んだりと安藤クン好みの悪路だ。ワンマン化されたのは1985年(昭和60年)になってからとのことで、北陸鉄道バスでは最後まで車掌の乗務が行われていた路線だったというのも納得できる。
 「荒磯遊歩道の入口はあの辺りだから」
運転手に遊歩道の場所を確認して上大沢で下車。「かめぞ」が正しい発音のようだが、「かみおおさわ」という読みでも運転手には通じる。特に渋滞があったわけでもないが、定刻の14時04分より7分遅れの到着で、北陸鉄道は道路事情を考慮したダイヤに見直す必要があるりそうだ。バスはこの先、上山を目指して男女滝川に沿って内陸部へ入ってしまう。
 上大沢停留所に降り立つと、周囲には日本海から吹き付ける強い季節風を防ぐための間垣が張りめぐらされている民家が目立つ。防風林はしばしば見掛けるが、間垣を見るのは初めてである。この辺りは間垣の里と呼ばれ、奥能登の風物詩となっているようだ。皆月や猿山岬近辺でも間垣を建てた民家があるが、上大沢の間垣は竹の先端の細い部分も使っている点で異なるとのこと。
 さて、ここからは本格的な歩きとなる。目指すは輪島市上大沢町から門前町皆月まで、5.5キロに渡って続く荒磯自然遊歩道だ。輪島駅で入手した観光パンフレットには「上大沢から皆月までの秘境をめぐる約6kmの遊歩道」と紹介されている。曽々木海岸もバスで素通りしてしまったので、能登半島の外浦を体感するために荒磯自然遊歩道を歩いてみることにしたのである。5.5キロなら2時間もあれば十分で、距離としても手頃だ。運転手に教えてもらった神大沢集落の外れにある荒磯自然遊歩道の入口から威勢よく歩き始める。
 ところが10分も歩かないうちに「通行止」の看板に出くわす。どうして遊歩道の入口に掲げないで中途半端な場所に設置しているのだろうか。すぐにUターンしたところですぐにバスが来るわけでもなく、上大沢に戻っても時間を持て余すだけなので行けるところまで行って引き返そうということになる。
 藤原クンが先頭を切って進み、その後を懸命に追って行く。いつもなら私が先頭を切っていたので完全に藤原クンにお株を奪われた。後ろには奥田クン、安藤クンと続く。上大沢から30分程歩いたところで小さな崖崩れがあり、遊歩道に土砂がかぶっている。
「この程度の崖崩れなら大したことないよ」
そう言い残すと藤原クンはどんどん土砂を乗り越えて先に進んでしまうので慌てて後を追う。最初は確かにちょっとした崖崩れだったのだが、次第に崩れ度合が激しくなり、やがて道なき道を行くような状態になってしまった。引き返そうにも藤原クンははるか先に行ってしまったし、引き返すのも至難の業だ。やむなく前進を続けるとやがて立ち止まっている藤原クンの姿がある。完全な行き止まりかなと思ったら、遊歩道が二手に分かれている。持参した地図では荒磯遊歩道は一本道となっており、どうしたらよいか思案する。
「工事関係者の車両が出入りする車道があるかもしれないし、これ以上海岸沿いの遊歩道を進むのは危険だよ!」
安藤クンの主張を採用し、山手に登る道を選択した、こちらも10分も歩くと道が草むらにかき消されている。やれやれ岩手県の重茂半島に続いて外周史上2度目の遭難か。やむを得ず分岐路まで戻って海岸沿いの遊歩道を進む。その先は崖崩れこそなかったが、ところどころ波で遊歩道が崩されたような箇所があり、場合によっては岩場を這って先に進む。岩場に架かった橋やトンネルが無事だったのが不幸中の幸い。前方にキャンプ場が目に入り、皆月青少年旅行村であることを確認。どうやら無事に皆月へ到達したようだ。キャンプ場の水道を拝借して、頭から水をかぶり、水道水をガブ飲みする。
荒磯遊歩道  皆月のバス停留所に到着したのは17時半で、予定より1時間オーバーの約3時間で荒磯自然遊歩道を踏破したことになる。さすがに4人ともぐったりして停留所のポールのまわりに座り込んでしまう。
「これでも重茂半島と比べたらマシだよ。俺なんか重茂半島のときは足が攣った状態で闇の遊歩道を歩いたのだから…」
過去の遭難未遂を経験した奥田クンが口を開くが、安藤クンはとんでもないという顔をしてつぶやく。
「もう、このまま歩き続けるよりも思い切って海に飛び込んだ方がよっぽど楽だと思ったよ」
 皆月から18時03分の門前行き能登中央バスを捉まえる。車内には北陸鉄道バス回数券が使用できる旨の貼り紙があり、金種券の組み合わせを誤って支払ったため、北陸鉄道バスの回数券を余らせていた藤原クンを喜ばせる。能登中央バスも北陸鉄道グループの経営であった。
運転手から「キャンプ場に来ていたの?」と声が掛かる。「いえいえ、上大沢から荒磯自然遊歩道を歩いて来ました」と説明すると驚いた様子。
「荒磯自然遊歩道はもう2、3年ぐらい前からずっと通行止めだよ。遊歩道も崩れてしまっていると聞いたけどな」
石川県も一度は遊歩道を整備したものの、現状を復旧させるつもりはないらしい。荒磯自然遊歩道がかつての姿に風化されるのも時間の問題ではないだろうか。
 しばらく門前方面に向かってバスを走らせた運転手であったが、突然バスを停車させる。
「悪いけど忘れ物があるので取りに行ってもいいかな?」
一瞬キョトンとしてしまう。運転手の忘れ物とは一体何なのだろうか。
「輪島駅行きに乗り継ぎたいので、間に合うのであればいいですよ」
「わかった。輪島駅行きには十分間に合う」
運転手はバスをUターンさせて、物凄いスピードで今まで来た道を引き返す。我々が乗車した皆月も通り過ぎ、次の七浦農協前の辺りでバスを停車させて近くの民家に消える。2、3分待たされると運転手小さなカバンを抱えて戻ってきた。乗客の忘れ物であろうか。再びバスは本来のルートに復帰した。
「輪島駅へ行くなら門前まで行かなくてもここで乗り換えればいい。輪島駅行きにも十分間に合うから」
降ろされたのは国道249号線とのジャンクションに近い浦上停留所。バス停の時刻表を確認すると、定刻が18時24分だったので、約5分の遅れである。しかし、輪島駅行きは18時48分なので、運転手の言う通り十分に間に合った。
 浦上から乗った輪島駅行きも能登中央バス。既に周囲は薄暗くなり、景色も楽しむこともできないが、外周ルートではないし、明日も改めて通ることになるので気にしない。19時15分に輪島駅に戻り、コインロッカーで荷物を回収する。
「あれっ?俺の荷物がないよ!」
藤原クンが大きな声を上げる。奥田クンに続いて2度目の盗難事件か。ところが程無く藤原クンが開けた隣のロッカーに荷物が残されている。どうやら荷物を入れた隣のコインロッカーに鍵を掛けてしまったらしい。鍵を掛けずにコインロッカーに預けていた荷物が無事だったので事無きを得たがそそっかしい。
 今日は午前中に輪島駅から徒歩2分の「民宿白波」を1泊2食付き6,825円で予約してあったので、そのまま民宿へ直行。実は昨夜の宿探しの時点で「民宿白波」も候補に上がっていたのであるが、「民宿たなか」は温泉付きであったが、今夜の「民宿白波」には温泉がないことが判明。温泉がなければ料理でお客を呼び込むのではないかという目論見から、素泊まりの昨夜は「民宿たなか」、2食付きの今夜は「民宿白波」に落ち着いた。
 到着時刻が遅くなったのですぐに夕食。料理は期待したほど豪勢ではなかったが、しっかりとサザエやアワビ、方言でハチメと呼ばれるメバルなどの海の幸が並ぶ。飲まなければやっていられないと珍しくビールまでオーダーした。
 「近所の文化会館で8時半から御陣乗太鼓の実演があるのだけど行ってみない?」
ビールを運んできた民宿の女将さんがチケットを手にして勧めに来る。無料ならまだしも、チケット代が300円必要だし、今日は散々歩き回ったので、当然パスだろうなと思うと意外な反応。
「300円ぐらいなら折角だし行ってみようよ」
安藤クンから意外な反応に加え、奥田クンまでが殊勝な意見を言う。
「俺は列車やバスに乗り継ぐだけよりも、地域の伝統文化とかにもっと触れる旅をするべきだよ」
そこまで言うのであれば行ってみようかと女将さんからチケットを4枚購入する。
「ありがとう。実はそれぞれに割り当てがあってね。お礼にビールの消費税はおまけしておくから」
夕食後に輪島駅の裏手にある輪島市文化会館へ足を運ぶ。体育館のようなホールに茣蓙が敷かれている会場には、浴衣姿の観光客がかなり集まっている。近隣の宿泊施設でも御陣乗太鼓の講演チケットがばら撒かれていることは間違いなく、20時30分という開演時間も夕食を済ませて一息付いた時間帯を設定したのであろう。
 御陣乗太鼓は、輪島市名舟町に古くから伝わる太鼓で、輪島市の伝統芸能・県無形文化財に指定されている。1576年(天正4年)に七尾城を攻略した越後の上杉謙信は、現在の珠洲市三崎町に上陸し、奥能登の制圧に取り掛かる。翌年に名舟村へ押し寄せて来た上杉軍に対して、武器を持たない村人達は、長老の指図に従い、樹の皮をもって仮面を作り、海藻を頭髪とし、太鼓を打ち鳴らしつつ、上杉軍に奇襲をかけて勝利したという。これが御陣乗太鼓の始まりで、奥津姫神社の大祭(毎年7月31日夜から8月1日)では、仮面を被り、太鼓を打ち鳴らしながら、神輿渡御の先駆をつとめ、氏神への感謝を捧げる習わしとなって現在に至っている。
 開演時刻になると、鬼の面や海草などを顔に付けた打ち手が登場。上杉軍を追い払ったと言われる太鼓だけあって、物凄い迫力で太鼓の音が荒々しいエネルギーとなって体に響いてくる。打ち手からは妖気が漂っているようでもあり、上杉軍が恐れをなしたというのも頷ける。太鼓の実演そのものは20分ぐらいで終わってしまったのは残念であるが、チケット代の価値はある演技だったので満足する。宿までの帰り道に、鬼が出ないか心配だった。

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