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第54日 小木−輪島

1997年8月6日(月) 参加者:安藤・奥田・藤原

第54日行程  九十九湾に臨む「旅館一水」で事件が発生した。昨夜、奥田クンがロビーにある公衆電話で自宅に連絡を入れた後、財布を公衆電話の脇に置いてきたことに気付き、慌ててロビーに戻ったのだが既に財布が消えていたのだ。確実にロビーに忘れたのであれば、警察に被害届を出して宿泊客を調べてもらうことも可能だったのであろうが、本人の記憶も曖昧なので、旅館の女将さんに財布の落し物があったら連絡してもらうようにお願いしておいたのだ。しかし、今朝になっても財布の落し物はなく、盗難事件の可能性が高い。
「昨日、ロビーに居た柄の悪い連中が怪しいのだけどなぁ」
奥田クンが嘆く。私も確かに髪の毛を金髪に染めた不良っぽい若者がロビーに集まっているのを見たが、それだけで盗難の嫌疑をかけるわけにはいかない。財布には現金はもちろんのこと、今回の旅行でまだまだ活用する「北陸ワイド周遊券」も入れてあったというのだから深刻だ。念のため、皆で部屋中を捜索したがとうとう財布は見付からず、旅館の女将さんには「財布が見つかったら連絡して下さい」と言い残して宿を発つ。
 今日の予定は九十九湾を一周する遊覧船でスタートする。昨日の雨はすっかり上がり、快晴とはいかないまでも青い空が広がったが、盗難事件で気分は盛り上がらない。
「俺、遊覧船には乗らないでここで待っているよ。お金もないし…」
遊覧船桟橋の前まで来て奥田クンが悲壮な声を出す。私もかつて外周旅行の途上で財布を落とした経験があるので奥田クンの気持ちもよくわかるのだが、折角ここまで来たのに遊覧船に乗らないのはもったいない。
「気持ちはわかるけど、切符も無くなってしまったのなら帰れないだろう?このまま旅を続けていれば、もしかしたら途中で旅館から財布が見付かったと連絡があるかもしれない。今夜と明日は輪島に泊まる予定だし、財布が見付かったら離脱して小木に戻ってくればいいのだから…」
お金は私が1万円、手持ちに余裕のあった安藤クンが「利息は高いからな!」と2万円を貸す。それでも奥田クンはなかなか遊覧船に乗ろうとしなかったが、説得の甲斐あって8時30分の出航直前に意を決したように750円の乗船券を手にした。
 能登九十九湾遊覧船の九十九湾めぐりは、複雑に入り組んだリアス式海岸を約30分で一周りする。通常の遊覧船とは異なって、船の底には箱眼鏡が設置されており、海中をのぞけるような造りになっている。魚も棲息しやすいようで、箱眼鏡からは数多くの魚を確認することができるのだが、昨日の雨の影響か少々海中が濁っていて視界が悪い。箱眼鏡を諦めて周囲に視線をやれば、海岸線には赤松が生い茂り、海面にその姿を映し出している。内湾だから湖のように穏やかだ。九十九湾の中心には弁財天を祀る蓬莱島がぽっかり浮かび、湾口には日和山公園の展望台があり、高台から眺める風光明媚な九十九湾も格別であろうが、残念ながら日和山公園まで向かう交通手段がない。
 約30分で桟橋に戻り、九十九湾小木駅へ向かう。昨日は薄暗くて気付かなかったが、オレンジの屋根に白い壁とのと鉄道カラーでペンション風のおしゃれな駅舎だ。昨夜は無人だったが今日は事務室におばちゃんが待機していたのでスタンプラリーの台帳に1駅増殖。もちろんデザインは九十九湾のリアス式海岸と蓬莱島だ。列車の待ち合わせ時間に旅館に電話をしてみたものの、やはり財布は見付かっていないとのこと。せめて警察に届けだけでも出しておこうかと交番の所在をおばちゃんに尋ねる。
「この辺りには交番はないのよ。近くの駐在所でも2キロぐらい離れているから」
奥田クンも2キロ離れた駐在所まで出掛ける気力はないらしく、そのまま先へ進み、後で小木駐在所に電話をして落し物が届いていないか確認してみるという。
 9時39分の325Dで3駅進み、松波で下車する。松波は内浦町の中心であるためコンクリート平屋建ての立派な駅舎が構えている。もちろん駅員も配置されており、スタンプも用意されている。しかも、赤崎海岸をデザインした松波駅だけではなく、「のと恋路号」と恋路海岸をデザインした恋路駅のスタンプも備えてあり、宇出津に続いて1駅で2駅分のスタンプを押すことができた。縄文真脇同様に隣の恋路駅は無人駅なのだ。無人駅のスタンプをわざわざ用意したのに隣の有人駅で管理するのは奇妙だが、駅のスタンプを盗む不届き者が後を絶たないらしいのでやむを得ないか。松波駅ではネーミングの良さから恋路までの乗車券がよく売れる。通常の乗車券は発駅と金額しか記載されていないが、松波駅で発売している乗車券は「松波から恋路ゆき」と記され、「恋路」の2文字がやや大きめに強調されている。藤原クンは彼女にプレゼントすると記念切符を手にしている。「松波から恋路ゆき」の乗車券はかつて購入済みであったが、折角なので記念に2枚買い求め、さらに「羽根から恋路ゆき」の乗車券を大々的に宣伝していたので1枚買ってみる。羽根は宇出津の1つ九十九湾小木寄りの駅だ。「羽根」も響きのよいネーミングで、「羽根から恋路ゆき」の切符にあやかって、羽根を付けて恋路まで飛んでいきたいものである。羽根も無人駅ではないかと思うのだが、どうして松波駅で羽根駅の切符を売るのかもよくわからない。どうせならのと鉄道の主たる駅で販売すれば売り上げが増えるのではなかろうか。それとも松波までのと鉄道を利用して、切符を買いに来てもらうことを狙っているのか。もっとも、マイカーで訪れる人も多いようではあるが…。
 松波郵便局に立ち寄って旅行貯金を済ませた後、恋路海岸へ向かって歩く。海沿いの道路ではあるが、松波と恋路海岸の間には尾ノ崎があり、ちょっとした起伏がある。
「今回もまた同じところを歩くの?」
奥田クンが呆れた顔をして言う。実は私と奥田クンは、今から8年前の1989年(平成元年)3月28日に輪島から柳田村を経て宇出津に出て、開業1周年だったのと鉄道で松波へ。松波から恋路海岸へ歩き、恋路駅から「のと恋路号」で穴水へ戻るという旅をしていたのだ。のと鉄道の本数が少ないので、松波で降りて記念切符を手にしたうえ、恋路海岸に立とうとすれば、時間に余裕がない限りこのパターンにならざるを得ない。
 思ったよりも距離があった恋路海岸への道のりであったが、視界に真っ赤な鳥居が構える弁天島と白い砂浜海岸が見えてくると自然に足早となる。恋路海岸というロマンチックな知名に惹かれて訪れる人は多いが、その由来は意外にも悲恋の物語だ。かつて恋路海岸の周辺は多田の里と呼ばれており、鍋乃という美しい娘がいたそうだ。サザエの採取をしているときに足を滑らせ深みにはまった鍋乃を漁師の助三郎が助けたことをきっかけに2人は恋仲になる。そして、仕事を終えた2人は、毎晩出会った思い出の場所でもある足場の悪い磯伝いの道で語り会うようになった。鍋乃は岩場にかがり火を焚いて、助三郎がそれを目印にやって来るという日々が続く。ところが鍋乃に横恋慕した源次という男が、ある日、かがり火を焚いて助三郎を待つ鍋乃を縄で縛りつけ、かがり火の場所を危険な岩場の深みに移してしまう。やがてかがり火を頼りにやってきた助三郎は岩場の深みに転落し、助三郎の悲鳴を聞いた鍋乃も夢中で縄から抜け出して助三郎の後を追う。手をつないだ状態で鍋乃と助三郎がこの海岸に打ち上げられたのは18日だったので、現在でも18日の前の晩には、海岸にがり火を焚き、観音堂からキリコを出して2人を偲んでいるという。そして、鍋乃と助三郎が出会い、恋の道を歩んだことから、この海岸を「恋の路」と呼ぶようになったそうだ。悲恋物語の主人公「鍋乃と助三郎」の銅像が恋路海岸のモニュメントとして飾られている。
 さて、恋路海岸は穏やかに湾曲した砂浜が続いており、2人が出会った思い出の場所とはいえ、わざわざ鍋乃と助三郎が危険な岩場で会っていたのか理解に苦しむが、誰にも邪魔されずに会えるのがそんな場所しかなかったのかもしれない。銅像の近くには恋人同士の幸せを運ぶというハート型のアーチが付いた「幸せの鐘」も設置されており、こちらは恋路のイメージに便乗した人工物でいささか安っぽく感じてしまう。
 恋路駅は高台にあるので、早めに恋路海岸から引き上げて駅に向かう。無人駅の1面ホームには小さな待合室があり、8年前と同様に旅のノートが設置されている。恋人同士ののろけ話が多いと思いきや、次回は彼氏や彼女と一緒に来るぞという決意表明染みた書き込みが多い。にやにやしながらノートを眺めていた藤原クンもやがてペンを取り何やら書き込んでいる。
 恋路10時58分発の快速1327Dは今年の3月まで急行「のと恋路号」だったスジを引き継ぐ列車だ。恋路から先はのと鉄道の初乗り区間となるため、海岸沿いの景色に目を凝らす。飯田湾に面したやさしい女性的な恋路浜が続き、ラブロードという別名があるそうだ。別名というよりも直訳しただけであるが…。
見附島  見附島が近い鵜飼で下車。歩いてみると意外に距離があり、15分近くかかってようやく見附島を望む見付海岸にたどり着いた。近くにはオートキャンプ場があり、テントが並んでいる。海水浴を楽しむ家族連れの姿もあり、ようやく奥能登に入って活気のある観光地に出会った。ここにも恋路海岸同様に「えんむすびーちの鐘」なるものが設置されており、恋人同士や家族連れが並んで鐘を鳴らしている。男4人の場違いなグループだが、奥田クンや藤原クンが威勢よく鐘を鳴らして周囲の注目を集める。いや、憐みの視線かもしれない。
 見附島には、形状が軍艦に似ていることから、軍艦島という愛称が付いている。その昔、弘法大師が佐渡から能登へ布教に訪れた際に見付けたことからこの名前がつけられたと伝えられているが、歴史上、弘法大師が能登へ布教に訪れた記録はなく、本当のところはわからない。引き潮の時間帯には歩いて見附島まで行けるとのことであるが、残念ながら現在は潮が満ちている。
 次の列車まで若干の時間があったので、コンビニエンスストアで食料を調達して、駅の待合室で食べようかということになったが、鵜飼駅に戻ると部活動帰りの高校生の姿が多く、とても昼食を摂るような環境ではないので見送り。少し時間は遅くなるが、能登半島の先端にある狼煙で時間を持て余すので、それまで昼食はお預けとなる。
 鵜飼12時26分の329Dで奥能登の中心都市である珠洲を経て終点の蛸島に運ばれると能登線の完乗達成。和倉温泉から89キロ、穴水からでも61キロの距離があり、能登半島の大きさを実感する。1面1線の片面ホームで、線路はホームの少し先でプツリと切れている。この先にある鉢ヶ崎海岸にリゾート施設を建設するにあたり、能登線の延長が検討されたこともあるのだが、予定ルートに道路と交差する箇所があり、そこを立体交差化しないと運輸省の認可が下りないことが判明。地元自治体がその費用を負担することができず、この計画は中止されたという。能登空港の建設費用を負担する余裕はあって、立体交差の費用が負担できないのは、石川県のバックアップの有無にかかわっているのだろう。
 蛸島駅前からは西日本JRバスの利用となる。13時10分のJRバスは能登飯田が始発で、飯田−蛸島間もバスの方が外周ルートとなるのであるが、「スタンプラリーフリーきっぷ」を有効活用するためと、のと鉄道に魂を売った。
 時代が時代であれば、線路が通じていたであろう鉢ヶ崎海岸を経て、能登半島北東端の禄剛崎が待つ狼煙へ。夏休み期間中であるにもかかわらず、利用者は地元のお年寄りが数名で、終点の狼煙まで乗り通したのは我々4人だけ。蛸島からの運賃は610円で能登飯田から乗車するよりも130円の節約となった。
 狼煙は古くから日本海航路の要所であったため、辺鄙な場所であるにもかかわらず、比較的大きな集落が発展している。この辺りでは、多発する海難事故を防止するため、1756年(宝暦6年)に焚き火による常夜灯設備の要望がなされ、背後の山伏山の一角に灯明台を築き、火を灯して航路を照らしていたという。いわゆる烽火である。のと鉄道で通り過ぎた珠洲という地名も「烽」(すすみ)にちなむと伝えられている。狼煙の烽火は、1883年(明治16年)7月10日にイギリス人技師リチャード・ヘンリー・ブライトン氏の設計に基づく禄剛埼灯台が建設されるまで現役で活躍していたそうだ。まずは、禄剛埼灯台を目指して歩く。灯台は高台に位置しているので、結構な運動になりそうだ。
禄剛埼灯台  禄剛埼灯台は、ちょうど内海と外海の境目に位置しており、周辺は広場として整備されている。一般的に灯台はスマートな形のものが多いが、禄剛埼灯台はずんぐりむっくりとして、どっしりとした構えだ。フランス製不動レンズを使用したドーム型灯台とのこと。明暗光を電気の点滅によらず、遮蔽板回転で行う方式は全国唯一のものであり、灯台の正面の記念額には菊の御紋章が彫られている。灯台の点灯式に皇族が出席したからだそうで、それだけ禄剛埼灯台が重要視されていたことが伺える。
 灯台に満足したので今度は禄剛崎周辺を散策。禄剛崎一帯には海岸段丘が発達、沿岸には千畳敷と呼ばれる海食台地が卓越しており、景観に優れる。灯台下の崖下を覗き込むと千畳敷といわれている平らな海食棚が広がる。干潮になると姿を現し、満潮になると海中に没するそうだ。また、この地は能登半島の外浦と内浦の双方にまたがるため、朝日と夕日が同じ場所で見られることでも知られる。このまま日没をゆっくりと眺めたい気持ちもあるが、それでは輪島にたどり着くことができなくなってしまうので諦めざるを得ない。「能登半島最北端」と記された記念碑の前で写真を撮って引き返す。
 土産物屋を冷やかした後、バス停留所の近くに「民芸茶屋」があったので遅めの昼食。狼煙、珠洲、能登ゆかりの作家たちの絵画、沈金、蒔絵や書、貝細工など20点に及ぶ作品が店内を飾り、ギャラリー喫茶を兼ねている。お薦めの「ワカメラーメン」(735円)を賞味して、バスの時刻までしばらく店内でゆっくりする。藤原クンはお婆さんの露店で買った小さなわらじのキーホルダーを手にしてニコニコしている。これも彼女へのお土産らしい。
 16時09分の西日本JRバスで荒波が作り出す海岸だ。JRバスの終点は木ノ浦は、集落からも少し離れた何もない回転場だった。西日本JRバスと北陸鉄道バスの停留所のポールが寂しく並んでいる。この辺りは石川県に木浦海中公園として指定されている景勝地であるはずだが、海辺までは少々歩かなければならない。ここで乗り継ぐ北陸鉄道バスの時刻まで10分しかないので、おとなしく何もない停留所で待機する。発車直前に姿を現した北陸鉄道バスは我々を乗せるとすぐに発車。曽々木口からの折り返し運行で、乗り継ぎ客がいないことを確認した西日本JRバスの再び狼煙方面に向かって走り去って行った。
 北陸鉄道バスも延々と外浦の海岸沿いを走る。さすがに車窓にも飽きが来た頃、バスは能登の親不知と呼ばれる曽々木海岸に入り、国道249号線沿いにはホテルなども目立つようになる。やがて曽々木のシンボルでもある窓岩を確認することができた。窓岩は穴が空いた大岩で、曽々木海岸には様々な奇岩や大岩が重畳しており、野性味溢れる景観を生み出している。冬になれば波の花と呼ばれる白い波頭が風に舞う様子が見られるそうだ。
 宇出津方面へ続く県道6号線とのジャンクションである曽々木口には17時13分に到着。ここでは8分の待ち合わせで輪島駅行きの北陸鉄道バスに接続している。木ノ浦といい、バスの接続は芸術的なダイヤであるが、ポイントで観光をしようと思うと不便だ。曽々木口でもせめて接続時間が30分くらいあれば窓岩をゆっくり眺める時間があるのになと思ってしまう。
 輪島市内に入ると次第に沿道に民家が増えだし、17時58分に輪島駅前に到着。狼煙から2度の乗り継ぎがあったとはいえ、2時間近くバスに乗り続けてきたのでさすがにちょっと疲れた。まずは朝市と御陣乗太鼓がデザインした輪島駅のスタンプを押す。これでちょうど7駅分のスタンプが揃ったことになり、台帳を駅員に提示して抽選券を渡す。後日、自宅に「のとじま水族館」の入場券が景品として届いたが、恩恵を受けるために能登島と再訪するのは難しそうだ。藤原クンにはのと鉄道のテレホンカードが届いたそうで羨ましい。
 藤原クンに駅の近くの宿をリクエストすると、徒歩5分の「温泉民宿たなか」を素泊まり4,000円で予約してきた。輪島市街地に温泉があるとは知らなかったが、もともと能登半島には泉脈が豊富にあるそうで、輪島でも最近になって温泉の整備に注力し始めたようだ。
 「温泉民宿たなか」に到着すると、浴場は一般的な家庭風呂であったが、脱衣場に温泉の効能が記載されており、泉質はナトリウム塩化物泉、泉温は29.2度。神経痛、筋肉痛、関節痛、切り傷、冷え性、打ち身、くじき、火傷、皮膚病、リウマチ、婦人病などに効くという。どうやら温泉であることには間違いないらしい。
 さて、部屋に荷物を置いた後、夕食の調達に出掛ける3人と別れて輪島駅へ。日本の鉄道全線完乗を目指す身としては、JR七尾線から転換されたのと鉄道路線のうち、穴水−輪島間が未乗車だったので気掛かりになっていた。輪島19時35分の急行「能登路6号」に乗れば穴水到着は20時05分。約30分の待ち合わせで穴水20時36分の153Dに乗れば、輪島に21時09分に戻って来ることができる。今回のメンバー全員が輪島−穴水間を踏破すればのと鉄道完乗のタイトルを得ることができるのだし、安藤クンくらいは付き合うかと思ったのだが、温泉でのんびりしていたいとのこと。景色は楽しめないが、JR時代に乗車済みの区間だし、形式的に乗り潰すだけで満足することにしよう。輪島駅のホームに立つと、終着駅のはずなのに駅名標の日本海方向は空欄ではなく、「シベリア」の文字が記載されていた。

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