身の回りのIT話

第51日 柏崎−市振

1997年3月14日(金) 参加者:安藤・奥田

第51日行程  柏崎駅前の「ビジネスホテル南」に宿泊したにもかかわらず、旅のスタートは鉄道ではなくバスだ。柏崎駅前から7時30分の越後交通バスに乗り込む。大型船舶の接岸も可能な国際貿易港の柏崎港を経て、7時42分の番神入口で下車。運賃は140円で、普段なら十分に歩ける距離であるが、昨日の強行軍があったので、今回は素直にバスを利用した。
 海岸沿いの道路に立つと、夏場は海水浴場になる小さな砂浜海岸の先に、朱塗りの鳥居が立ち並ぶ弁天岩が目に入る。日蓮宗(法華経)を開いた日蓮が漂流した弁天岩で、弁天様と龍神様が祀られている。日蓮は、1260年(文応元年)に鎌倉幕府の得宗北条時頼に献上した「立正安国論」において、災害の原因は、人々が法華経を信仰せずに、浄土宗などの邪法を信じているからであるとして、対立宗派を非難。このまま邪法を放置すれば内憂外患に脅かされ、法華経を重んじるようにすれば国家は安泰すると説いた。しかし、禅宗の信仰者であった北条時頼は、1261年(弘長元年)に日蓮を伊豆へ流罪とする。
 1263年(弘長3年)に赦免されたものの、1268年(文永5年)に蒙古から服属を求める内容の国書が鎌倉幕府に届くと「立正安国論」の予言が的中したと法華経の信仰を鎌倉幕府に進言。1271年(文永8年)に今度は佐渡へ流罪となる。1274年(文永11年)に再び赦免され、寺泊へ渡る途上で遭難し、この番神岬に漂着したという。弁天岩の東側の岩には日蓮上人着岸碑も建てられている。
 200段近い石段を登って番神堂へ。もともと真言宗妙行寺のお堂であったが、当時の住職であった慈福は日蓮に深く帰依し、日蓮宗に改宗したという。日蓮も無事に上陸できたことに感謝し、三十番神をこのお堂に勧請したといわれる。三十番神とは、神仏習合の信仰で、毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々のことである。柏崎の番神は、静岡の番神、島原の番神と共に日本三大番神といわれている。
 番神堂のお堂は1871年(明治4年)に焼失した後、当時の住職2代に渡って財源を工面し、7年の歳月をかけて再建されたものとのこと。お堂の三面の壁面には彫刻が施されており、それぞれ波と亀、鳳凰と桐、雲と竜が彫られている。これらの彫刻は脇野町の甚太郎、出雲崎の篤三郎、直江津の彫富の三彫師が腕を競って彫られたそうだ。最後に日蓮上人像を眺めて番神堂を後にする。
 海沿いの道を鯨波方面へ歩いていると、御野立公園(のだちこうえん)があったので立ち寄ってみる。明治天皇が北陸行幸の際に立ち寄り、野立てをしたことから命名されたとのこと。展望台が設置されていたので登ってみると、夏場は臨時列車が運行されるほどの海水浴客が集まる鯨波海岸を見渡すことができた。
 鯨波郵便局で旅行貯金を済ませ、最寄りの鯨波駅へ向かう。駅舎の壁面に大きなクジラに控え目なブルーの波が描かれていた。駅名をイラストだけで表現できる駅も珍しかろう。個人的にはもっと波を大胆に描けばインパクトがあっていいと思うのだが、地元では穏やかな海のイメージを保ちたいのだろうか。鯨波駅は少々変わった構造で、1階にはトイレと駅事務室があり、2階にホームと直結した待合室がある。通常、駅事務室がホームに近いところにあるものだが、駅舎の建設時から無人駅を想定し、夏場の多客時のときのみ駅員を配置できれば足りると考えたのだろうか。確かに待合室を1階に設けたら、列車に気付かないこともあるだろうし、お年寄りは乗り遅れてしまうかもしれない。
 2階の待合室に入ると地元のおばさんが2人で井戸端会議中。聞き耳を立てるまでもなく、話し声が聞こえてくるので、自然と会話の内容がわかる。
「まったく、都会には非常識な人間が多いわね。この辺りは無人駅ばかりだからって切符を買わずに列車に乗ったりして」
「ゴミだって平気でその辺りに捨てていくわよね。海岸をきれいにするためにボランティアに来たくせに、ゴミを散らかしていったら何にもならないわよね」
「重油の回収よりもボランティアが帰った後のゴミ拾いの方が大変だったぐらい」
「だいたいボランティアとかテレビで放送されているけど、ほとんど遊びに来ているのとかわらない人達ばかりよ」
「ただで泊まれるし、ただでご飯が食べられるから来たって人も多いわよね」
 話題はもっぱら重油回収のボランティアにやって来た人達のことだった。今年1月2日未明に上海からペトロパブロフスクへ航行中のロシア船籍のタンカー「ナホトカ号」が島根県沖で大時化に遭遇し、船体が破断し、沈没する事故が発生。積載していたC重油約19,000キロリットルのうち6,240キロリットルが日本海に流出した。この影響で日本海沿岸の広範囲に渡って大量の重油が漂着。地元住民や全国各地から集まったボランティアが重油にまみれながら柄杓や竹ベラ等を使って手作業で重油を回収する模様は連日のようにテレビのニュースで報道されていた。ボランティアには、厳しい気候条件の中で重油回収に従事し、過労で亡くなった人もいたとか。それほど真摯にボランティアに取り組む人がいた一方で、地元住民の反感を買うような心ない人達もいたようだ。
「空のペットボトルをゴミ箱に捨てたら睨まれたよ。別に話を聞いたからゴミ箱に捨てたわけじゃないのだけどなぁ。あっ、券売機で切符買っていないから不正乗車と思われたかな」
ホームで苦笑いをしながら奥田クンが言う。我々は「え・ち・ごフリーきっぷ」を持っているから無札ではない。それに無人駅から乗車しても、下車駅で車掌が切符を回収しに来るだろうから、不正乗車などできないと思うのだが、ボランティアが集まっていたときは、乗客も増えて切符の回収が徹底していなかったのかもしれない。
 鯨波9時08分の1330M普通列車に乗り込む。やはり地方交通線の越後線とは異なり、特急列車も走る幹線は線路の状態も格段に違う。鯨波からは信越本線が正真正銘の外周路線。トンネル区間を除いては、絶えず日本海が車窓に広がる。次の青海川は鶴見線の海芝浦駅、仙石線の陸前大塚駅と共に「日本一海に近いところにある駅」と言われる。日本一が3つもあるのは不可解と思われるかもしれないが、いずれもホームが海に面していることが特徴だ。海芝浦へは1990年(平成2年)7月31日に外周旅行の途上で立ち寄ったが、こちらは海というよりも運河だ。陸前大塚も1991年(平成3年)12月27日に通過しているが、日本三景の松島湾を望めることができる。青海川は、ホームから日本海に夕日が沈む光景を眺めることができ、1993年(平成5年)にTBS系列で放送されたドラマ「高校教師」の最終回のロケ地になったことでも有名だ。放送直後は、多くの視聴者が青海川へやって来たに違いない。
 柿崎を過ぎると国道8号線に外周路線を譲るが、ほとんど並走しているのでそのまま1330Mに乗車。土底浜を過ぎると左手から立派な高架橋が近づいてくる。8日後の3月22日に開業を控えた北越急行のレールだ。北越急行は旧国鉄北越北線として1968年(昭和48年)8月に着工されたものの、1980年(昭和55年)10月の国鉄再建法の施行で工事が凍結。第3セクター方式によって設立された北越急行株式会社によって工事が引き継がれた。当初は非電化のローカル線として建設されていたが、1989年(平成元年)1月に上越新幹線に接続し、北陸本線方面へショートカットする路線として整備されることとなり、全線電化で開通するよう計画が変更された。開業後は長岡−金沢間の特急「かがやき」が越後湯沢−金沢間の特急「はくたか」に置き換えられ、北越急行線を経由する予定だ。北越急行線内では、分岐器やレールの形状などが新幹線と同等のものを使用しているため、高速運転が可能とのこと。首都圏と北陸を結ぶ主流ルートが、米原経由から越後湯沢経由に変わっていくかもしれない。犀潟−黒井間では、8日後の3月22日に開業を控えている北越急行の試運転列車とすれ違った。最高速度110キロ、優れた加速性能を持つ新鋭のHK100形車両だ。普通列車も高速運転が実現されるのであろうか。いずれにしても、開業後に再びこの地へやって来ることは間違いあるまい。
 直江津には9時44分に到着。直江津から先は北陸本線に入るが、しばらくトンネルが続いてしまうので、しばらくバスの世話になるのが良さそうだ。直江津駅前のバスターミナルでバスの時刻表を調べるが、名立方面へ向かうバスは見当たらない。
「ここから名立方面へ行くバスはありませんか?」
バスターミナルに案内所があったので尋ねてみる。
「名立方面へのバスはここから5分ぐらい西へ歩いたところにあるイトーヨーカドーの前から出ています」
駅前に立派なバスターミナルがあるのに不親切なバスである。北陸本線に並走するバスなので、直江津駅に立ち寄る需要がないのかもしれない。
 イトーヨーカドーの屋上看板を目指して直江津駅から歩く。直江津は北陸本線と信越本線のジャンクションとなる交通の要所なので、街の中心地と錯覚していたが、地図を見れば上越市の中心は信越本線で1駅隣の春日山である。バスが直江津駅を中心に運行されていないのも当然なのかもしれない。
 イトーヨーカドー前にも立派な直江津バスセンターがあり、規模は直江津駅前よりも大きい。名立方面へ行く次のバスは11時42分の能生案内所行きだったので時間を持て余す。せっかくイトーヨーカドーがあるので店内に入ってみると、ホワイトデーの特設会場が設けられており、今日は3月14日だったかと気が付く。バレンタインデーに縁がないのでホワイトデーもまったく無縁だ。安藤クンと奥田クンはホワイトデーを旅先で過ごしてもよかったのだろうか。少し早いが店内にあった「ファミリール」で昼食。「ハンバーグ定食」(958円)を注文し、久しぶりに豪勢な昼食となる。
 直江津バスセンターからは頸城自動車バスのエリアとなる。直江津の市街地を抜けて国道8号線に入ると右手に日本海が広がった。トンネルを抜けてショートカットしてしまう北陸本線に対して、国道8号線は海岸線を忠実にたどっている。名立駅に近い鳥ヶ首岬が外周旅行のポイントとして適当かなと思い、下車の候補地としたが、道路の中間地点のような風情のない場所だったので乗り過ごす。結局、終点に近い能生浜まで40分もバスに乗り通してしまった。運賃も850円と北陸本線の直江津−能生間の480円よりも倍近い。
能生浜  能生浜へ立ち寄ると、海辺にはところどころに黒ずんだ重油がこびり付いている。能生浜にも「ナホトカ号」事故の爪痕が残っているのだ。
「大学の友人から重油を採取してきて欲しいと頼まれてね」
安藤クンは空になったペットボトルに重油を採取し始める。安藤クンの大学の友人が重油をどうするのかは知らないが、協力して重油の溜まっている箇所を探す。テレビの報道では海岸一帯が重油で真っ黒だったが、回収作業が功を奏したようだ。残った重油はいずれ自然分解して本来の姿に戻るのであろうか。安藤クンの目的の重油もそれなりに採取できたようなので先へ進む。
 能生からも糸魚川方面へ向かうバス路線があるのだが、次のバスは15時22分までない。直江津でもバスの待ち時間が長かったこともあり、JRを利用した方が良さそうだ。能生から次の浦本までは、木浦トンネルと浦本トンネルが続き、車窓を楽しめることはできないが、浦本から先は北陸本線も海岸沿いを通っている。
 能生駅へたどり着くとホームの駅名表示にブルーのラインが入り、直江津からJR西日本エリアに入ったことに気が付く。外周旅行もいよいよ東日本から西日本の旅に移り変わろうとしている。13時30分の554M普通列車になんとか間に合う。「え・ち・ごフリーきっぷ」はJR西日本エリアの市振まで有効だから有難い。JR東日本の純粋な企画商品であれば直江津までしか乗れなかったはずであるが、今回は新潟県がコンセプトだったため、新潟県全域をカバーするに至ったのであろう。
 大糸線が分岐する糸魚川を通り過ぎると、なだらかな海岸線から次第に険しい装いに変わってくる。青海を出るといよいよ天下の難所と知られた親不知(おやしらず)・子不知(こしらず)だ。北アルプス連峰の東端にあたる飛騨山脈が日本海に突き刺さるようにして落ち込むところが親不知・子不知で、断崖絶壁の海岸にまつわる伝説や悲話が語り継がれている。もっとも、北陸本線はこの区間もトンネルで突き抜けてしまうので、このまま554Mに乗り続けていれば、天下の難所を知らずに通過してしまう。外周旅行では無視できないポイントなので13時56分の親不知で下車した。観光案内板が設けてあり、親不知・子不知のイラストマップと由来が記載されている。
「市振まで徒歩2時間だって。まさか歩くわけじゃないよね」
安藤クンが怪訝そうな顔をする。北陸本線でも親不知−市振間は8.6キロあるので、確かに歩けば2時間はかかるであろう。まだ14時だし、2時間ぐらい歩いても構わないと思っていたのだが、昨日は散々歩いたし、天険付近に旧道を利用した遊歩道が整備されており、遊歩道を歩けば親不知の様子を伺い知ることができるであろう。天険は親不知と市振の中間辺りにあるため、遊歩道の入口までタクシーを利用し、そこから市振までは歩くと言うことで決着した。駅前にはタクシーが待機しているはずもなく、公衆電話で奥田クンがタクシーを手配する。営業所が青海にあるらしく、到着までしばらく時間がかかるということなので、親不知駅近くの歌集落にある親不知郵便局で旅行貯金を済ませる。
 15分程待ってやってきた糸魚川タクシーに乗り込み、「天険の遊歩道への入口まで」と頼むと運転手は露骨に嫌な顔をして感じがよろしくない。青海の営業所と反対方向になるので、回送区間が長くなるのが気に入らないようだ。地方へ行くとしばしば遭遇するケースである。都市部であればタクシー会社間の競合が激しいので運転手の対応もスマートになりつつあるが、過疎地では寡占状態になるのでどうしても嫌なら乗るな的な態度になる。怒りを抑えて丁重にお願いをする。運転手はしぶしぶアクセルを踏み込んだ。
 無言の重苦しい車内の雰囲気を和らげるために世間話でもと「ナホトカ号」の重油流出事故について訊いてみる。
「連日、テレビで重油まみれの海岸が放送されていましたが、随分ときれいになりましたね。この辺りにもボランティアの方が大勢来られたのですか?」
「ああ来たよ。ボランティアなんて地元の作業の足を引っ張るだけでな。地元としては重油の回収だけでも大変なのに、ボランティアの相手までさせられていい迷惑だよ。だいたいマスコミがボランティアを煽るような報道をするからいかんのだ」
ここでも重油回収のボランティアの評判は悪い。確かに個人が思いつきでやって来ても、地元に受け入れ機関がなければ烏合の衆になるだけだろうし、特に緊急事態に対処するためのボランティアの在り方は考え直されるべきであろう。
 タクシーは天険トンネルの手前で右に折れ、親不知観光ホテルの近くにある遊歩道の入口で我々を降ろすと、「帰りは待っていなくていいんだな。次は富山のタクシーを呼んでくれ」と言い残して走り去っていった。
親不知  1973年(昭和48年)に天険トンネルが開通するまでは国道8号線として機能していた遊歩道は、車止めが設けられ、現在では車の進入ができないようになっている。海抜約88メートルの断崖を開削して拓いた約900メートルの道路であるが、北陸道最大の難所と呼ばれたのはこの道ではなく、波打ち際の道である。波打ち際の道を通るためには、波が引くのを待って、次の波が押し寄せてくるまでに安全な場所へ移動しなければならない。そのために親は子を、子は親を顧みる暇もないことから親不知・子不知と名付けられたとか。もっとも、親不知の由来は他にも諸説あるようで、壇ノ浦の戦いで敗れた平頼盛の夫人が2歳の愛児と一緒に夫の所領である越後国の蒲原郡五百刈村へ向かう途中、この地で愛児を波にさらわれ、悲しみのあまりに「親不知 子はこの浦の波枕 越路の磯の あわと消え行く」と詠んだことに由来するとも言い伝えられている。
 幸いにも海岸へ降りる小道があったので、北陸道最大の難所を体感してみようと立ち寄ってみる。丸い石がごろごろした親不知海岸は、左右に断崖が張り出しており視界がきかない。かつてはこのような海岸が市振から続いていたのであろうが、現在では浸食が進み、北陸道最大の難所も完全に波にさらわれてしまったようである。
 親不知海岸の近くには煉瓦造りのトンネルがあり、旧北陸本線の親不知トンネルのようだ。北陸本線も1965年(昭和40年)9月までは日本海沿いの難所を走っていたのである。トンネルは自由に通行できるようになっていたので通り抜けをしてみたかったが、中は真っ暗なうえ、懐中電灯でも持参しなければ歩けそうにない。足元も水溜りも多いので、途中で断念して引き返す。
 天険遊歩道は舗装されているので歩きやすい。親不知海岸を眺めながら歩いているとすぐに終点。天険トンネルの出口で国道8号線と合流する。ところが、ここから先が厄介だった。国道8号線には歩道がないうえ、幹線道路のため大型トラックが頻繁に行き来するのだ。崖沿いの路側帯を歩くが背後からやって来る大型トラックがクラクションを鳴らしながら頻繁に追い抜いていく。しかも、崖沿いの道路はカーブや洞門が多く、わずかな路側帯に入り込んでくるトラックもあって危なっかしい。偶然にも旧北陸本線の廃線跡を埋め立てて造られたと思われる展望所兼駐車スペースがり、電話ボックスまであったのでこれ幸いとタクシーを呼ぶことにする。
 先程の糸魚川タクシーの運転手に富山のタクシーを呼べと言われたので、越中宮崎辺りのタクシー会社を探そうとしたが、ここは新潟県。備え付けの電話帳は新潟県版で富山県のタクシー会社など掲載されていない。ここは青海町なのだから、青海町に営業所のあるタクシーを呼ぶしかないが、電話帳に記載されている青海町のタクシーはあの糸魚川タクシーだけだ。糸魚川タクシーにもう一度乗るのは癪だが、緊急事態だからやむを得ない。先程の運転手の言葉など素知らぬふりをして電話をするがすぐにバレた。
「さっきのお客さんだね。うちでは配車できません」
「それなら越中宮崎のタクシーを呼びますから電話番号を教えてもらえませんか?」
「うちは電話番号案内じゃないから」
そう吐き捨てると一方的に電話を切られてしまった。つくづく不親切なタクシー会社だ。今後、糸魚川に用事があっても絶対に糸魚川タクシーには乗るまいと誓う。
 どうしようかなと思案していると、1台の乗用車がやってきた。30歳前後と思われる兄さん1人だけで、展望所に立つと双眼鏡で日本海沖を眺めている。なんだか怪しいなと感じながらも、背に腹は代えられない。やがて車に戻ってきたので、便乗を願い出る。
「すみません。大変厚かましいお願いで恐縮ですが、最寄り駅の市振か親不知まで乗せてもらえないでしょうか?歩いていくつもりだったのですが、国道に歩道がなくて危なっかしくて…」
「いいですよ。どちらへ行きたいの?」
「これから向かわれる方向で構いませんので…」
「市振でもいいの?」
「はい。むしろ市振の方が有難いです」
快く便乗を認めてくれた兄さんに感謝し、車に乗り込む。せっかくなので何をしていたのか尋ねてみる。
「日本海を双眼鏡で眺めておられましたが、何をしていたのですか?」
「ああ、ちょっと仕事の関係でね…」
あまり深入りして欲しくなさそうだったのでこの話題には触れないことにする。車は10分も走ると市振の集落に入り、無造作に車が停車する。
「そこが市振駅ですよ」
民家と間違うような木造平屋建ての駅舎だったので、にわかに駅だとは気が付かなかった。兄さんは何度も固辞したが、お礼を述べてガソリン代と称して1,000円を渡しておく。
「あの人は密入国の監視をしていたんだよ。不審船でも現れたとかの情報でもあったに違いない」
奥田クンが断じるが言われてみればそんな気がしないでもない。日本海沿岸には時折、朝鮮半島からの船がやって来るとの話も聞く。
 時刻は16時前であったが、ここから先へ向かうと今夜の「ムーンライトえちご」に間に合わなくなる可能性がある。どうせ次回も糸魚川から北陸本線をたどって来ることになるので、市振で解散とした方がよさそうだ。手持ちの「え・ち・ごフリーきっぷ」も市振までがフリー区間なので持ち出しがなくて済む。うまい具合に16時11分に直江津行き543Mがあり、7日間に渡る新潟県の旅を打ち切った。次回からはいよいよ富山県へ突入である。

第50日目<< 第51日目 >>第52日目