スポーツカーに夢をはせる

第50日 新潟−柏崎

1997年3月13日(木) 参加者:安藤・奥田

第50日行程  JR東日本が主催する「新潟デスティネーションキャンペーン」の一環として、新潟県内のJR線が3日間乗り放題の「え・ち・ごフリーきっぷ」(2,800円)が1996年(平成8年)11月1日から1997年(平成9年)3月29日まで発売されていたので、早朝の新潟駅で購入する。西は富山県に入った北陸本線の市振まで利用できるうえ、南は群馬県に入った上越線の土樽までがカバーされている。今回の外周旅行では市振までの予定だし、帰りは「ムーンライトえちご」を利用するため、0時を過ぎる長岡までカバーしている「え・ち・ごフリーきっぷ」を持っていれば、「青春18きっぷ」は翌日の1日分だけで済む。しかも、「午後の紅茶」が2本もらえるとあっては、利用しない手はない。
 今日の旅のスタートは新潟6時48分の越後線124M普通列車である。通勤ラッシュの時間帯にかかってくるが、新潟から発車する列車なので、それほど混雑しないと思ったのだが、部活の朝練に参加するための高校生の姿が多く騒がしくなる。信濃川を渡るとすぐに最初の停車駅である白山で、高校生の集団はわずか1駅で降りて行く。この辺りには新潟商業をはじめ、いくつかの高校が集まっているうえ、陸上競技場や体育館もあるので大会があるのかもしれない。しばらく信濃川沿いに走り、関谷分水路を渡ったところで信濃川は内陸部へと分かれていく。沿線は新潟のベッドタウンといった様子で住宅が多い。新潟近郊に限れば越後線沿線の方が上越線沿線よりも人口が多いのではなかろうか。越後線は地方交通線、上越線は幹線だが、上越線の場合は、東京−新潟間のアクセス線としての価値が高いからであろう。
 7時10分の内野で124Mから下車。越後線も内野からは内陸部へ入りこんでしまうので、バスに乗り換える。内野駅前の停留所には内野営業所行きの時刻しか記載されていないが、駅前通りを100メートルも歩けば内野四ツ角の停留所があり、赤塚行きのバスがある。次のバスまで20分以上時間があるので、バス代を節約するために赤塚方面に向かって歩く。安藤クンから不平が出るが、昨日はレンタカーで楽をしたのだから、体力はまだ十分に残っているはずだ。もっとも、1キロも歩くと歩道が途切れ、バスの時刻も迫ってきた。ちょうど内野中島停留所があったので、7時35分の新潟交通西貸切バスを捕まえる。西貸切といっても、本当の貸切バスではなく、新潟交通の地域子会社である。
 乗客は我々の他にルーズソックスを履いた女子中学生が数名。中学生のバス通学も珍しいが、女子高生の特権と思われたルーズソックスが中学生にまで広がっているのは驚いた。
「寒いから履いているんじゃないの?」
奥田クンがボソっと言う。なるほど。ルーズソックスの起源は登山用のブート・ソックスだし、ファッションだけではなく、実益を兼ねて着用している女子中高生も多いのかもしれない。
 我々と女子中学生を乗せたバスは日本海に面した四ツ郷屋の集落を経由して8時03分に終点の赤塚に到着。赤塚は住宅街に紛れたバスの回転場のようなところにあった。
「ここから先に乗り継ぐなら巻駅へ行くバスに接続しているから。少し待てば折り返しのバスが隣にやって来るから」
赤塚から先へ行くバスがないか運転手に相談すると、接続便を教えてくれた。赤塚は越後線の越後赤塚駅にも近いので、バスの接続がなければ越後線利用を覚悟していたけれど、巻駅まではバスでつなぐことができる。赤塚停留所の時刻表を確認すれば6分後に巻駅行きがあるようだ。ここでもバス代を節約するため、赤塚から上赤塚間の1区間を歩く。時間がないのに乗り遅れたらどうするのだと安藤クンからお叱りを受けるが、上赤塚停留所のバス停のポールが確認できたから1区間歩いたに過ぎない。
 上赤塚8時10分の巻駅行きバスに乗り、再び運転手に相談。
「海沿いなら松山で降りて、浦浜行きに乗り継げばいいのだけど、本数が少ないからこの時間だと接続便があるかどうかわからないな。バスで弥彦へ行きたいなら、間手橋で降りて、乗り継ぐしかないな。このまま巻駅へ出るのが一番早いと思うけど」
巻駅まで連れて行かれるのは面白くないし、松山で降りて浦浜行きに乗り継ぎ、越後七浦をたどるのが外周旅行としては最もセオリーだ。しかし、バスの本数がないのはいささか気になる。あれこれ思案しているうちにバスは松山に着いてしまい、運転手が「どうするの」と言わんばかりの顔で振り返るので「間手橋まで行きます」と答えてしまう。バスは標高482メートルの角田山の麓を囲うように運行されており、浦浜行きに乗れば日本海に面した角田山の西山麓、このバスは内陸側の東山麓をたどることになる。
 全長53メートル、日本海側北限の前方後円墳として知られる菖蒲塚古墳がある竹野を経て8時29分に間手橋に到着。運賃は260円。我々を降ろしたバスは間手橋を渡ったところで左折し、巻駅へ向かって走り去っていく。
 間手橋にはJR時刻表にも記載されている巻駅から岩室温泉へ向かうバスが経由しているのではないかと期待したが、どうやら岩室駅を経由するルートをとっているらしく、間手橋停留所の時刻表には見当たらない。次のバスは2時間後に角田山の南山麓に通じた国道460号線をたどる浦浜行きのバスだ。もっとも、このバスで浦浜へ行っても、間瀬海岸へ出るには徒歩で原子力発電所の建設予定地を迂回するトンネルをたどらなければならない。それなら間手橋から岩室温泉まで歩いてしまうのが無難だ。岩室温泉−弥彦間には、JR時刻表にも記載されているバス路線が確実にある。
 安藤クンの冷たい視線を背に受けて、岩室温泉を目指して歩く。距離にして約5キロ。1時間少々の歩きとなるが、JR時刻表には岩室温泉10時35分発の新潟交通バスが記載されているので、ゆっくり歩いても十分に間に合う。行政区が巻町から岩室村に入ると間瀬へ通じる道路が分岐しており、外周旅行が間瀬海岸を無視するのはどうかと思い、やっぱり間瀬に行ってみようかとも思案する。
「ほらほら、もうすぐ岩室温泉でしょう。余計なところチョロチョロしなくていいから」
安藤クンに余計なことを考えるなと岩室温泉方面へ追いやられる。
 間手橋から1時間で岩室中心街に入る。セーブオンという普段はあまり見慣れないコンビニエンスストアがあり、バスの時刻まで時間があるので立ち寄る。まだ朝食を取っていなかったので、「グリルランチ」(450円)を購入し、店の前で箸を動かす。中学や高校時代の外周旅行の昼食はこのパターンが多く懐かしい。
 岩室温泉停留所にはJR時刻表に記載されているとおり10時35分のバスが記載されていたが、すぐ先に岩室郵便局があったので、温泉街を少し歩いて旅行貯金を済ませ、温泉病院前から10時39分発のバスを捕まえる。時刻表では新潟交通と記載されているが、やはりこのバスも新潟交通西貸切だった。バスは弥彦村に入ると杉並木の参道を通り抜けて、弥彦神社前に到着。所要時間は9分。
 弥彦村(やひこむら)にあるのだから一般的には「やひこじんじゃ」と呼ばれているが正式名は「いやひこじんじゃ」という。万葉集にも弥彦神社を詠んだものがあり、「伊夜比古おのれ神さび 青雲のたなびく日すら 小雨そぼ降る」、「伊夜比古 神の麓に今日らもか 鹿の伏すらむ皮衣きて 角つきながら」といずれも「伊夜比古(いやひこ)」と詠んでいる。祭神は天香山命(あめのかごやまのみこと)で、神武天皇の時代に越後へやって来て、住民に漁業、製塩、農耕、酒造などの技術を授けたと伝えられる。それゆえに越後の文化、産業の始祖神として仰がれているとのこと。
 朱塗りの鳥居をくぐり、表参道を進むが突き当たりに現れたのは宝物殿。本殿と拝殿は表参道を左折して、東参道を進まなければならない。奇妙な配置になっているのは、元々現在の宝物殿の向かいに本殿があったからだ。1912年(明治45年)に門前町の火災が延焼して弥彦神社の本殿を焼いてしまったことから、現在の地に本殿を再建したのだ。それゆえに本殿が表参道を無視した位置に建っている。現在の本殿は弥彦神社を背後に仰ぎ見る位置にあり、かえって風格が出ている。
 樹令500年以上の老杉欅に囲まれた参道を通り抜けて石段を登る。この石段は1956年(昭和31年)1月1日に発生した彌彦神社事件の現場である。大晦日から元旦にかけて行われる二年参りの餅撒きに殺到した参拝客の重みに耐えられなくなった玉垣が崩れ、参拝客は2メートルの高さの石垣から落下。その場へ折り重なるように参拝客が倒れこみ、死者124人、重軽傷者77人の大惨事になったのだ。今日の静かな境内からは想像もつかない事故であるが、それだけ弥彦神社の信仰者が多いということであろう。
弥彦山  拝殿で参拝を済ませ、拝殿の左脇から杉木立の中に続く坂道に入る。この坂道の周辺には、「万葉集」に歌われている植物のうち、弥彦山に自生しているもの60余種が集められており、万葉の道と呼ばれている。約13ヘクタールの広さを誇る弥彦神社の社叢は、1986年(昭和61年)4月に「森林浴の森」日本100選に選ばれている。 万葉の道を10分も登ればログハウスのような弥彦観光索道の山麓駅が現れる。山頂までの往復乗車券(1,100円)を購入し、11時10分のロープウェイで山頂に運ばれる。山頂までの約1,000メートルを5分で結ぶゴンドラからは越後平野が一望でき、見事な眺めだ。外周旅行では海の景色ばかり眺めているが、陸の景色も捨てたものではない。
 標高638メートルの山頂に立てば、目の前には青い日本海が広がり、眼下には間瀬海岸が広がっている。佐渡島も見えるはずだが、海上は少々霞んでおり、微かに島影が確認できる程度なのは残念だ。
「ようやく観光地らしいところへ来たな。こういうところをもっと訪ねるような旅にはならないの?」
奥田クンから外周旅行に対して注文が出るが、旅の性格が観光地めぐりではなく、日本の海岸線をたどることだから、その途上に観光地があれば立ち寄るまでである。もっとも、昨日の佐渡金山のように、少々脱線して観光要素は取り入れているし、奥田クンの希望をまったく無視しているわけではなかろう。
 山頂には高さ100メートル、展望室が360度回転するパノラマタワーもあり、せっかくなので登ってみようと思ったが、パノラマタワーの入口は弥彦山スカイラインの駐車場の脇にある。山頂から駐車場まではクライミングカーという傾斜式観光エレベーターが設置されており、クライミングカーの乗車券が往復で300円。パノラマタワーの入場券が600円で、併せて900円の投資が必要になる。佐渡島もはっきり見えないうえ、景色も弥彦山頂公園からと大して変わるはずもなく、安藤クンと奥田クンは反対する。私もどうしても登ってみようとまでは思わなかったので、パノラマタワーは見合わせる。
 山頂駅を11時50分に発車するロープウェイで山麓駅に戻り、弥彦神社の境内を抜けて弥彦駅に足を延ばす。私と奥田クンが弥彦駅へやって来たのは今回が2度目である。最初は今から8年前の1989年(平成元年)3月30日で、春休みを利用して富山に住む奥田クンのおばあさんの家に遊びに行った帰りに、弥彦線の初乗りを兼ねて立ち寄った。当時はJR全線踏破を競う「いい旅チャレンジ20,000キロ」のキャンペーンに参加していたため、目的は弥彦線に乗ること。弥彦神社をモデルにした弥彦駅の駅舎を眺めただけで、折り返し列車でとんぼ返りとなってしまった。改めて弥彦駅の駅舎を眺めると、なかなか凝った造りだ。建築は1917年(大正6年)とのことだから歴史もある。新潟県の近代化遺産にもなっているそうだ。
 残念ながら弥彦線は内陸部へ線路を延ばしているので利用できない。新潟県信用組合の前にあった県信前停留所から寺泊方面へ行くバスを捕まえようとしたが、停留所の時刻表に記載されているのは分水町の石湊行きとその手前の麓行きのみ。次の石湊行きは3時間後までなく、ちょうど12時15分の麓行き新潟交通西貸切バスがやって来たのでとりあえず乗ってみる。
 県信前からわずかに8分で終点の麓に到着。運賃は190円。終点らしからぬ道路脇の停留所にバスが停まったので、「終点ですよ」と運転手に言われるまで気が付かなかった。麓は分水町との境界にある弥彦村の集落で、その名の通り雨乞山や国上山の麓に小さな集落が密集している。
 麓まで行けば分水町からのバスが乗り入れているのではないかと期待したが、やはり分水町へ乗り入れるバスは3時間後までない。地図を見れば石湊まで5キロぐらいだし、3時間待つよりはもちろん歩きを選択。石湊まで行けば、寺泊へ向かう別路線のバスがありそうな気がした。安藤クンの不満はいつものことなので聞き流す。
 石湊までの道のりは右手に山、左手に田んぼと単調であるため、延々と道が続くようで士気が下がる。「石湊まであと4キロ」という具合に声を掛けながら安藤クンと奥田クンを励ましながら歩く。日差しを遮るようなものはなく、夏場の旅でなかったのが幸いする。
 信濃川から分かれる大河津分水路に面した石湊にたどり着いたのは13時30分を過ぎたところ。分水路に架かる渡部橋の袂に石湊停留所があり、予想通り寺泊へ向かう越後交通のバスがあったのだが、次のバスは16時過ぎまでない。おそらく弥彦からのバスに接続するダイヤになっているのであろう。せっかく、石湊まで歩いてきたのに次のバスを待っていてはここまでの努力が無駄になる。「シーサイドライン寺泊」と記された道路標識を眺めていると、このまま石湊で待ちぼうけをするのが我慢できなくなり、このまま寺泊を目指そうと決意する。石湊公園で小休憩をして、寺泊を目指して歩く。  大河津分水路沿いの直線道路を日本海目指して延々と歩く。周囲には何もなく、車もほとんど通らない。河口まで行けばシーサイドラインこと県道402号線が通じており、寺泊の集落があるはずだ。
「寺泊に着いたらきちんとした食堂に入ってゆっくりしよう。寺泊からは必ずバスに乗るから」
黙り込む2人に声を掛けるが反応はない。すでに諦めの境地なのであろう。私もさすがに疲労感がある。今日は既に10キロ以上歩く強行軍になっている。
 石湊から30分も歩くと大河津分水路の河口に架かる野積橋が視界に入って来る。ようやく日本海に出た。野積橋を渡れば寺泊の街並みが現れてホッとする。14時40分頃に寺泊港に到着した。佐渡汽船のフェリーが発着する港で、赤泊までの距離は46キロと本州と佐渡島の最短航路である。
 寺泊港の周辺は「魚の市場通り」と名付けられており、寺泊港で水揚げされた新鮮な魚介類を販売しているお店が軒を連ねている。マイカーでやって来る買い物客の姿もあり、なかなか盛況だ。どこかに新鮮な魚を食べさせてくれる食堂はないかと探していると、佐渡汽船のフェリーターミナルの近くに「日本海の幸あじ蔵」を発見。中途半端な時間だけに営業しているのか気掛かりだったが、お伺いを立てると「2階の座敷へどうぞ」とのこと。メニューを見るとなかなか値が張り、昼食にしては豪勢かなと思ったけれど、たまにはいいだろう。「焼魚定食」(1,339円)を注文すると、大きなカレイが出てきた。これで安藤クンも少しは機嫌を直してくれるだろう。
 寺泊港から海岸線をたどるバスはなく、さすがに歩き続ける気力はないので、寺泊駅へ出て、越後線に乗り継ぐことにする。佐渡汽船口を15時21分に出るバスがあったので、バスの時刻に合わせて腰を上げ、長岡駅行き越後交通バスに乗り込む。寺泊港−長岡駅を結ぶバスは、1時間に2本程度と意外に頻繁に走っており、単なる佐渡汽船との連絡バスというものではなく、生活路線として定着している模様だ。1973年(昭和48年)4月16日までは、大河津(現在のJR越後線寺泊)−寺泊(寺泊港)間には越後交通長岡線という鉄道があったので、代替バスとしての性格が現在でも受け継がれているのかもしれない。
 バスは日本海に背を向けて、5キロも内陸にある寺泊駅へ向かう。苦労して日本海へ出たのにいとも簡単に内陸部へ連れ戻されてしまっておもしろくない。越後線がもっと海岸沿いを走っていてくれていたらなとも思ってしまう。15時35分に到着した寺泊駅は、活気のあった寺泊港周辺と比べるとかなり寂しい。そもそも寺泊の中心は寺泊港に近く、JR越後線の駅も今でこそ寺泊を名乗っているが、越後交通長岡線が顕在だった時代は大河津を名乗っていたのだから当然か。幸いにも接続よく15時41分の柏崎行き154Mに乗り継ぐことができた。
 本日2度目の越後線であるが、朝に乗った列車と同じ路線とは思えないほどローカル色が濃くなる。スピードが遅いのはやむを得ないとしても、脱線するのではないかと思うぐらいよく揺れる。
「うわぁ〜こんな列車に乗っていたら酔ってしまう」
奥田クンが嘆くのだから相当なものだ。路盤の整備があまり良くないのであろう。架線もかつての国鉄が慢性的な赤字からコストダウンを図るため、吉田−柏崎間の一部の区間に路面電車で使われるような直接吊架式の架線を採用したらしい。それゆえに当該区間では最高速度も85キロに抑えられているという。
 154Mは15時59分に出雲崎に到着。奥田クンはわずか20分足らずの越後線乗車で酔ったらしく、「気持ち悪い」と待合室のベンチにへたり込んでしまう。今日はよく歩いたし、まだ日は高いけど出雲崎に泊まってもいいかなと思い、安藤クンに宿の手配を頼む。
「ダメだね。出雲崎の民宿は相場が高いね。安くても1泊2食付きで8,000円からだし、今から夕食の準備は無理というところもあるよ」
早々に宿に入るなら、通算50日目の夜でもあるし、久しぶりに食事付きにしようと思ったが、安藤クンからの報告は芳しくない。それなら柏崎まで出てしまった方が無難だ。出雲崎からは柏崎まで海岸線沿いを走るバスがあることを確認している。
 出雲崎で泊まらないのであれば、良寛堂ぐらいは足をしるして置かなければなるまい。出雲崎は良寛の出身地として知られる。良寛は曹洞宗の僧侶であったが、江戸時代の歌人としても名を残している。良寛堂までは出雲崎駅から4キロ近くあり、良寛堂へ向かう次のバスは1時間後となる。17時を過ぎたら良寛記念館が閉まってしまうだろうから、歩こうと提案したが却下される。これ以上無理強いをすれば空中分解しそうな雰囲気なので自重し、1時間後のバスを待つことにする。
 時間を持て余したので、出雲崎駅のみどりの窓口をのぞいてみると、やはり「新潟デスティネーションキャンペーン」の一環として磐越西線で運転された「SLえちご阿賀野号」運転記念オレンジカードが販売されていた。3種類の図柄があり、記念に1,000円券を1枚購入しようとすると、3枚セットで購入すれば記念台紙が付くという。オレンジカードなら消耗品だし、3,000円分は確実に使うから3枚セットで購入する。
「ありがとうございます。貴重なオレンジカードですから使わない方がいいですよ」
商売上手な駅員だ。オレンジカードが使用されなければ、JR東日本の利益になるし、販売額に加えて利息分が利益になる。しかし、残念ながら私はオレンジカードの希少性には無頓着なので、オレンジカードを使ってしまうのも時間の問題だ。
 出雲崎駅前を17時07分に発車する越後交通バスで国道352号線をたどる。出雲崎町役場は出雲崎駅の近くにあり、こちらは寺泊と異なり駅周辺が中心街のようだ。10分も揺られると日本海が広がり、良寛堂前で下車。運賃は170円。
良寛堂  案の定、良寛記念館は閉まっていたが、11月から3月までの開館時間は8時30分から16時までだったので悔しさも紛れる。良寛の生家である橘屋の屋敷跡に建てられた良寛堂へ足を運ぶと、こちらもお堂の扉が閉じられている。堂内には、良寛が常に持ち歩いたという石地蔵をはめ込んだ多宝塔に「いにしへにかはらぬものはありそみとむかひにみゆるさどのしまなり」という良寛自筆の歌が刻まれているらしい。良寛は、歌人としてだけではなく、僧侶としても民衆に慕われていたようでもある。僧侶は、民衆に説法をすることが一般的であるが、良寛は自らの質素な生活を民衆に示し、わかりやすい言葉で仏法を説いたという。生涯寺を持たずに、自らの行動を通じた教えは、多くの人々の共感や信頼を得たという。現代の政治家にも見習ってもらいたいところだ。
 良寛堂の裏手にまわると良寛像があった。お堂に背を向けて設置されており、奇妙な気もするが、良寛の母の出身地である佐渡を望んでいるとか。今でこそ佐渡島へ渡る航路は設定されていないが、江戸時代の出雲崎は佐渡金山の荷揚げをするための重要な港町であり、幕府直轄の天領地であったのだ。
 現在は小さな漁港に過ぎない夕暮れの出雲崎港を眺め、石油公園入口から17時30分の柏崎駅前行きの越後交通バスに乗る。出雲崎が始発のはずであるがバスは3分遅れでやって来たが、その後は国道352号線を快調に南下していく。さすがに疲れが出てきてウトウトとする。気が付けば周囲は真っ暗で、すっかり日が暮れていた。バスはちょうど柏崎・刈羽原子力発電所を避けるように内陸部へ迂回するところ。巻町の原子力発電所は東北電力が建設を予定しているが、こちらは東京電力の施設だ。新潟県は東北電力の管轄のはずであるが、他社の管轄地域に別の電力会社が原子力発電所を建設してしまうのだから奇妙なものだ。もっとも、東京電力と東北電力は相互に電力を融通し合うなど、密接な関係にあるらしい。
 越後交通バスは18時31分に柏崎駅前に到着。1時間乗って500円の運賃は安いのか高いのかわからない。JR越後線なら地方交通線の割増運賃が適用されて480円だ。
 日中は過疎地域を歩きまわったため、柏崎が大都会のように錯覚してしまう。奥田クンが柏崎駅近くの「ビジネスホテル南」を1泊素泊まり4,500円で予約した。外周旅行の宿泊施設としては若干高いが、共同サウナに加えて各部屋にバス・トイレが付いているとのことだからやむを得ない。「ビジネスホテル南」は、柏崎駅の裏側に位置していたが、駅のすぐ脇に地下道があったので事なきを得る。昨日に引き続き和室と洋室の組み合わせで、今回は和室が1室と洋室が2室。私が和室、安藤クンと奥田クンが洋室に落ち着く。
 外周旅行通算50日目の夜だからと夕食は「居酒屋安兵衛」へ。新潟県内でチェーン展開をしている居酒屋なので、郷土の味を楽しめるだろう。生ビールで乾杯し、串焼き盛り合わせやイカゲソなどを摘まみにこれまでの外周旅行を振り返る。お酒が入って気分をよくした安藤クンはそのままパチンコ屋へ消えたが、さすがに今回は撃沈したらしい。

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