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第49日 両津−新潟

1997年3月12日(水) 参加者:安藤・奥田

第49日行程  「ときわ旅館」で目覚めると天気は快晴。今日は佐渡島をレンタカーで一周する予定だが、絶好のドライブ日和になりそうだ。佐渡島の面積は855.25平方キロメートルと淡路島(592.17平方キロメートル)の約1.4倍強を誇り、沖縄本島(1,207.66平方キロメートル)に次ぐ大きさを誇る。海岸線の延長は280.4キロあり、ほぼ海岸線沿いに道路が整備されているので、今日は300キロ近くをレンタカーで移動する計算になる。もっとも、日頃から運転が好きな安藤クンがいるので、ドライバーの心配はいらないであろう。
 旅館のすぐ近くにあったニッポンレンタカー佐渡営業所の開店を待って手続きを済ませる。レンタカー代は安藤クンが東大生協でクーポン券を発行してもらってきてくれたおかげでミラージュを12時間借りて7,725円。ガソリン代を加えても、1人あたり3,000円程度なので経済的だ。佐渡島にはやはり新潟交通の地域子会社である新潟交通佐渡がバス路線を持っているが、運転本数の少ない地域もあり、効率性を考えるとレンタカーに頼らざるを得ない。
 ニッポンレンタカー佐渡営業所を8時に出発。100メートル置きぐらいに信号が続き、佐渡島はどれだけ信号が多いのだろうかと思ったのも束の間、市街地を抜けるとパタリと信号は見掛けなくなった。左手には標高1172メートルの金北山を主峰とする大佐渡山脈、右手には両津湾が迫り、その間を縫うように県道45号線が通じている。この県道45号線は、別名佐渡一周線と呼ばれている。正確には、佐渡一周線は環状線になっているわけではなく、真野湾に面した佐和田町窪田から小木町沢崎までの約4分の3をカバーし、残りの4分の1は国道350号線で結ぶことになる。しかし、4分の3であっても、全長169.6キロに渡る県道45号線は、日本一長い主要地方道であるのだ。離島に日本一長い道路があるというのも意外な感じがするが、それだけ佐渡島が大きいという証であろう。我々は両津から起点の佐和田町窪田を目指し、一旦、国道350線を経由してから、再び終点の小木町沢崎から両津まで変則的に県道45号線をたどることになる。
 弾崎までの内海府海岸沿いの海岸線は比較的真っ直ぐな線形であるため、見通しも良く、レンタカーも快調に走る。両津湾を挟んだ姫崎が次第に後方へと移ってゆく。時折、小さな漁港を抱えた集落を通過する。この辺りは格好の漁場として知られており、冬には佐渡の代表的味覚である寒ブリが水揚げされるらしい。
 佐渡最北端の弾崎に到着したのは8時40分。路線バスなら両津から1時間を要するので、なかなか順調な滑り出しだ。弾崎一帯は「はじき野フィールドパーク」という公園になっており、200円の入園料を徴収される。園内はレストランやログハウス、オートキャンプ場などが備えられており、リゾート施設化されていた。
「こんなところにリゾート施設を造って需要があるのかなぁ」
奥田クンが嘆くのも頷ける。明らかに佐渡島には不似合いのリゾート施設は、春休みの期間であるにもかかわらず閑散としている。夏になればキャンプ場の利用者も増え、それなりの賑わいをみせるのかもしれないが、「総面積約6ヘクタール東京ドームの約1.3倍」と銘打った施設は、維持管理だけでも大変であろう。
 園内の芝生広場を横切って、弾崎灯台を望む見晴らし台へ。この辺一帯は、海上からの月の出と日の入りが見られるスポットと紹介されている。周囲をコスモス畑で囲まれた見晴らし台には、弾崎灯台を背にした灯台守夫婦のブロンズ像があり、「喜びも悲しみも幾年月之像」と銘打っている。弾崎灯台も塩屋埼灯台長であった田中績の妻・きよの手記を映画化した「喜びも悲しみも幾年月」の舞台になったのだ。主人公の灯台守夫婦は、日本各地の灯台を転々とするため、外周旅行を続けていると度々映画に縁のある灯台にめぐりあう。その度に1度は映画を鑑賞してみようと思うのだが、機会に恵まれずに今日に至る。映画の制作も1957年(昭和32年)と40年も前であるため、テレビ放送されることもほとんどないのだ。ちなみに主演の佐田啓二は、俳優中井貴一の父である。
 弾崎は、外海府と内海府の境となっており、江戸時代から海上交通の要所であったとされるが、灯台の点灯日は1919年(大正8年)12月1日と遅い。地元では、小型漁船の海難事故が多発していたことから、早くから灯台建設運動が展開されていたが、当局に認められず、1915年(大正4年)に松島丸が弾崎東方の矢崎で座礁し、30余名が亡くなるという大惨事をきっかけに、ようやく初代の灯台が設置されたという。現在の灯台は平成2年に建てられた2代目とのこと。
 弾崎からは外海府海岸をたどることになる。地形からして、内海府海岸とは対照的に荒々しい装いの海岸だろうと察しがつく。弾崎からレンタカーで5分も走れば眼下に二ツ亀島が見える。手前の亀は頭を西に、沖の亀は頭を東に向けて接する二尾の大亀に見えることから二ツ亀島と名付けられた。今は茶色い岩肌が目立つが、夏になれば緑に覆われて亀らしくなるのであろう。道路から二ツ亀島までは階段を下って行く必要があり、路肩にレンタカーを駐車して、二ツ亀島を目指す。二ツ亀島は沖の島、磯の島とも呼ばれ、潮の満ち引きによって陸続きになったり、離れ小島になったりする陸繋砂州(トンボロ)で連結された陸繋島なのだ。幸いにも現在は陸続きになっているので、歩いて二ツ亀島へ渡る。そのまま二ツ亀島を散策してみたい気もするが、「潮が満ちてきたらどうするのさ」という安藤クンに促されてすぐにUターン。帰りの登り階段は日頃の運動不足が祟ってきつい。息を切らせてレンタカーに戻れば二ツ亀島への往復に30分近くを要しており、先を急がねばなるまい。
 二ツ亀島のすぐ先にあった大野亀はトビシマカンゾウの群生地で夏になると色鮮やかなヤマブキ色の花を咲かせるという。「トビシマ」の由来は、前回の外周旅行で訪問した山形県酒田沖の飛島で最初に発見されたことから名付けられたという。もっとも、冬の飛島だったので、本家でもトビシマカンゾウの花にはめぐりあっていない。大野亀の本体は大きな1枚岩で、頂上へ登れるようになっているが、時間もあるので見合わせる。それにしても、二ツ亀といい、大野亀といい、何でも亀に見立ててしまうのはあまり芸がないなと思ったら、「亀」はアイヌ語の「カムイ」(神格を有する高位の霊的存在)に通じるということで、神聖な島を意味しているとか。
 外海府海岸沿いの県道45号線は、内海府海岸沿いのなだらかな道から狭隘でカーブの多い道に変貌するが、運転手の安藤クンは腕の見せどころと気合いが入る。バスのダイヤから算出した標準的な所要時間よりも早いペースで先へ進む。これなら二ツ亀島でのロスタイムを十分に回復できそうだ。
 「観光ですか?神奈川県からですか。いいですね。遊ぶところもお店もたくさんあるし。学生時代は東京で過ごしたのだけど、Uターン就職で佐渡に戻って来たのだけど、自然以外には何もなくてね。今でもたまに東京へ遊びに行ったりもするのだけど…」
 相川町の高千郵便局で旅行貯金をすると、我々とそれほど年齢が変わらないと思われる若い局員から話し掛けられる。私は現在、京都に住んでいるが、住所は実家のある神奈川県のままだったし、安藤クンは実家住まいだったから、神奈川県からの一行と思ったようだ。都会を羨望するような言葉が漏れるが、神奈川県でもすべてが横浜のような都会であるわけではない。少なくとも私が住んでいた平塚市などは地方都市の部類だ。
「でもね。電車に乗ればすぐに横浜や東京に出られるわけでしょう?ここからは、両津に行くまでが大変だし、そこからフェリーで2時間以上かかってようやく新潟だからね。やっぱり神奈川は羨ましい…」
この局員、数年後には再び東京へ出て行ってしまうのではなかろうか。
 地図に波蝕甌穴群(はしょくおうけつぐん)と記されている平根崎で小休憩。波蝕甌穴群とは、岩盤に波の浸蝕作用でできた大小多数の穴のことをいう。平根崎波蝕甌穴群は、穴の数の多さでは世界第2位であり、国の天然記念物にも指定されているというので立ち寄ってみたのだ。海辺の棚上の岩を覗きこめば、直径10センチから4メートルぐらいのものまで大小多数の穴が開いている。もっとも、でこぼこの岩を見ても何の感慨もなく、かえって気分が悪くなるので早々に退散。
 佐渡を代表する海岸景勝地である尖閣湾に到着したのは11時前。ノルウェーのハルダンゲルフィヨルドにも勝るとも劣らぬ景色が広がることから、文部省天然記念物調査委員の脇水鉄五郎理学博士が尖閣湾と名付けたとのこと。どうしてハルダンゲルが尖閣になるのかさっぱりわからない。尖閣と聞けばむしろ領土問題に揺れる尖閣諸島を連想してしまうのは私だけだろうか。
 ここでも弾崎と同様に一帯が尖閣湾揚島遊園の敷地になっており、400円の入園料を徴収される。どうも佐渡島は景色を見せるのにお金を徴収する傾向にあり、これが佐渡の商法なのであろうか。海岸法第37条の4に規定する一般公共海岸の占用許可を受けているとか、入園料は施設の維持管理費に充当しているとの説明があり、事実なのだろうが却って言い訳がましく聞こえてしまう。
 まずは園内を通り抜けて揚島へ向かう。揚島へは全長54メートルの長い橋で陸続きになっていた。正式には遊仙橋というらしいが、NHK連続テレビ小説「君の名は」のロケ地になったことから、主人公の名前にちなんで「まちこ橋」とも呼ばれているらしい。橋脚が揚島の岩場に食い込むように設置されており、環境破壊も甚だしいと思うのだが、よく占用許可が下りたものだ。
 揚島は展望所になっており、尖閣湾を一望することができる。尖閣湾には5つの峡湾があり、尖閣湾揚島遊園は揚島峡湾に位置するが、比較的沖合に突き出た揚島からは、他の峡湾もよく見える。春から秋にかけては遊覧船で尖閣湾をめぐることもできるらしいが、就航は4月からとのことで半月ばかり早過ぎた。
 園内には水族館もあったので立ち寄ってみる。尖閣湾の近海の魚を集めたとのことであるが、その辺りに泳いでいた魚を水槽に放り込んだだけのような気がしないでもない。ただ、イカの遊泳はなかなかおもしろかった。
 水族館の2階は郷土資料館になっており、佐渡島の生活用品などが展示されているほか、「君の名は」のロケ風景や出演者のパネルなどが展示されている。「君の名は」が放送されたのは1991年(平成3年)であるから、もう6年前のことであるが、この地では永遠の語り草になる出来事であったのだろう。園内には主人公の春樹と真知子の記念撮影用のパネルがあったので、安藤クンと一緒に記念撮影。どちらが春樹でどちらが真知子に扮したかは御想像にお任せする。佐渡島の名物であるたらい舟もあったので、こちらでも記念撮影。小木へ行けば本物のたらい舟に乗れるはずである。
佐渡金山  相川からは少し内陸部へ浮気し、佐渡金山へ立ち寄る。せっかく佐渡島まで来たのに、佐渡金山に立ち寄らないわけにはいかない。佐渡金山は、1601年(慶長6年)に佐和田町にあった鶴子銀山の山師によって発見され、以後、盛衰を繰り返しながら1989年(平成元年)3月31日まで388年間も採掘が続けられていたというのだから驚きだ。この間に採掘された鉱石は1,500万トン、金は78トン、銀は2,300トンで、もちろん日本最大の金山だ。
「数年前まで採掘を続けていたぐらいだから、今でも金のかけらぐらい残っているかもしれないな」
奥田クンが冗談とも本気ともとれるように言う。閉山したのが平成の時代であるだけに、なんだか本当に金が残っているのではないかと思えてくる。
 600円の入館券を購入すると「通行手形」と記されており、佐渡金山奉行の発行となっている。資料館の運営は、佐渡金山の採掘を行っていた三菱マテリアルの子会社で、その名も株式会社ゴールデン佐渡。間の抜けたネーミングで思わず吹き出してしまうが、1962年(昭和37年)から観光業を手掛けていた意外に歴史のある会社であった。おそらく当時はハイカラな社名であったに違いない。
 佐渡金山の鉱脈は、東西に約3,000メートル、南北に約600メートル、深さ約800メートルという広範囲に渡っており、坑道の総延長は約400キロと佐渡から東京までの距離に等しいという。佐渡金山展示資料館は、その長大な坑道のうち、江戸時代の富鉱のひとつであった青盤脈を掘った宗太夫坑を見学するようになっていた。坑道内には実物大の人形を用いて、江戸時代の金山の様子を再現してある。金山といっても決して金塊が埋もれているわけではなく、白い石英の鉱脈を掘りとっていき、石英を砕いて金銀を取り分けるという気の遠くなる作業が延々と行われていたという。これでは金のかけらなどあるはずもない。もともと存在しないのだから。
 階段を登ったり降りたりしながら、約280メートルの宗太夫坑を見学した後は金山資料館の見学となる。資料館は第一展示室と第二展示室に分かれており、第一展示室でも江戸時代の佐渡金山の仕事の様子を人形や模型で説明している。もっともこちらは実物大ではなく、縮尺10分の1となっている。採掘から精錬まで、佐渡小判ができるまでの工程を知ることができた。第二展示室に入ると、ガラスケースに入った金塊が目に付く。ガラスケースの側面には小さな窓穴が開いており、窓穴から手を入れて金塊に触れることができる。金塊はうまくやれば窓穴から取り出すこともできるそうで、実際に取り出せると記念品がもらえるらしい。3人で目の色を変えてチャレンジするが、普通に金塊を掴んでしまうと手首が邪魔になって絶対に金塊を取り出せない。金塊を取り出すためには金塊の端っこを摘まんでそっと抜き出さなければならないが、12.5キロの金塊を指先で摘まんで引き抜くのは至難の業で結局3人とも断念する。
 売店では、復元された純金製の佐渡小判が売られていたが、手が出るようなものではないのでショーケース越しに眺めるだけ。18金の耳かきなども売っていたが、佐渡金山の記念にと買っていく観光客もいるのだろうか。我々は小判の代わりに「佐渡やきまんじゅう」(200円)を購入して佐渡金山を後にする。
 相川から七浦海岸の長手岬、真野湾の西側に突き出た台ヶ鼻をたどり、真野湾に面した佐和田町の市街地に入る。窪田交差点が県道45号線の起点で、ここからは国道350号線に入る。国道350号線も変わった国道で、起点は新潟市で終点は上越市となっている。それがどうして佐渡島に通じているかと言えば、新潟から両津までが海上国道で、昨日乗船した佐渡フェリーの航路が国道を兼ねる。そして両津から佐和田を経て小木までが佐渡島内の道路で、小木から再び海上国道となり直江津へ。この区間にも佐渡汽船の航路がある。そして直江津から上越に至る。陸上区間50.1キロ中46.6キロが佐渡島にあり、海上区間は両航路併せて145キロにも及ぶ。
 佐和田の市街地を抜けたところにあった「ドライブイン鉄砲鼻」で遅めの昼食。「ラーメン」(600円)を注文し、少し白く霞んだ真野湾を眺める。ここは夕日の眺めが美しいとのことであるが、時刻は14時前でまだ日は高い。すぐ近くに西三川郵便局があったので、もちろん立ち寄っておく。
 途中で国道350号線から離脱し、海岸線沿いの地方道に入る。素浜沿いの道路は直線で快調であったが、その先が複雑に入り組んだ細い道路になり、佐渡島南西端の沢崎鼻にたどり着いたのは14時40分。今日は18時40分のフェリーで両津から新潟に戻るので時間に気を付けなければならない。
 沢崎からは再び県道45号線に入る。時間に余裕がなくなるからと先を急ぐが県道に入っても道路事情が飛躍的に良くなるわけでもなく、宿根木集落のカーブから突然対向車が現れてヒヤリとする。地元のおばさんが運転する車であったが、狭い道路の真ん中を堂々と走ってくる。カーブで減速していたのが幸いし、衝突直前で車は停車したが、おばさんは対向車など来るはずがないと言わんばかりの運転だ。
「危ないなぁ。さすがに今のは完全に衝突したと思ったけど」
運転していた安藤クンが漏らしたぐらいだから、相当危険な状態だったのであろう。時間は気になるが事故にあったらすべてが終わりだ。
たらい舟  小木港にあるたらい舟乗り場に着いたのは15時過ぎ。観光シーズンではないためか、観光客の姿はなくひっそりとしている。尖閣湾と同様に4月までは休業状態なのかもしれないと半ば諦めながら「たらい舟」の看板が掲げてある力屋観光汽船の待合所をのぞくとおばさんが出てきた。
「すいません。たらい舟に乗りたいのですが、やってますか?」
「はい。乗れますよ。何人ですか?すぐに準備するからちょっと待っててね」
1人450円の乗船券を購入し、待合所の土産物売り場を冷やかしていると、やがて先程のおばさんが編傘をかぶり、絣の衣装の女船頭を引き連れて出てきた。佐渡のたらい舟のイメージ通りの衣装だ。一緒にたらい舟乗り場である桟橋へ行くと、想像以上に大きなたらい舟が係留されている。観光用のたらい舟は安全のために通常のたらい舟よりも一回り大きく造られているそうだ。定員は船頭を含めて4人とのことなので、ちょうど1艘のたらい舟で事足りる。
「カメラがあったら預かります。たらい舟に乗っているところの写真を撮ってあげましょう」
持参のカメラを預けてたらい舟に乗り込み、桟橋を離れたところで記念撮影。2、3枚写真を撮ると、おばさんは待合所へ戻っていく。カメラは預かっているので帰りに声を掛けてくださいとのこと。
 女船頭がギコギコと舵をとりながらたらい舟は小木湾内を一回りする。ボートと同じようなものかと思ったが、なかなかコツがいるらしく、初めてたらい舟を漕いだ人は大抵前へ進まずにその場でぐるぐる回り続けるらしい。たらい舟が考案されたのは明治初期の頃であり、最初は洗濯桶を舟の代わりに使っていたとか。見え隠れする岩礁の多い小木海岸では、たらい舟の方が小船より安定感があり、小回りも利いて便利だという。現在でも小木では磯ねぎ漁と呼ばれるサザエやアワビなどを獲るのにたらい舟が使われるそうだ。
 たらい舟は小木湾内を10分程遊覧して桟橋に戻る。遊覧船と異なり、たらい舟に乗ることが目的なのでこの程度のもので充分だ。たらい舟は波の影響を受けない小木湾内を遊覧するだけなので、雨でも営業しているし、冬場でも欠航になることは稀であるという。帰りに待合所でカメラを受け取ってレンタカーに戻る。
 小木からは海岸線もなだらかになり、道路の幅員も広くなった。見通しも良いので、正面衝突の心配はなかろう。寺泊へのフェリーが就航する赤泊村に入ると時刻は16時30分。当初は帰りの航路を赤泊からのフェリーにしようかとも考えたが、両津−赤泊間、新潟−寺泊間の往復を余儀なくされるので見合わせた。
 17時過ぎに両津湾を望む姫崎に到着。車は灯台のある先端まで乗り入れることはできず、遊歩道を早足で往復する。灯台続く遊歩道の途中に竜王神社という小さな神社があり、姫崎の沖合にある竜王岩の伝説を記した解説板がある。父である後鳥羽上皇と共に戦った承久の乱に敗れて1221年(承久3年)に佐渡島へ流された順徳上皇は、地元の老人に頼んで小舟を出してもらい、竜王岩へ連れて行ってもらったが、小舟から降りて竜王岩に上がろうとしたときに刀を海に落としてしまったという。順徳上皇は大変悲しんで詩歌を詠む。
「ツカのまも、身をはなさじと思いしに、波の底にも、サヤ思うらん」(束の間も身から離すまいと思っていた刀を海に落としてしまった。波の底に沈んだ刀もこの鞘に戻りたいと思っていることだろう。)
すると刀を口に咥えた竜王が現れ、刀を拾い上げてくれたという。順徳上皇は佐渡島で僧侶として21年間を過ごした後、自ら命を絶ったと伝えられている。佐渡島へ渡ったときのお伴はわずかに5名で、当時の島民は全く順徳上皇の身分を知らなかったという。後鳥羽上皇の専制的な暴政や無謀な討幕計画に対しては、側近以外の貴族達は冷ややかな対応に終始したと言われるから、後鳥羽上皇に積極的に協力した順徳上皇も同じような対応を受けたに違いない。21年間の佐渡島の余生はどのような気持ちで過ごしていたのだろうか。
 ガソリンスタンドに立ち寄り、ニッポンレンタカー佐渡営業所に戻ったのは18時過ぎ。本日の走行距離は252キロでよく走った。これで佐渡島観光は締めくくりとなるが、欲を言えば新穂村にある佐渡トキ保護センターにも立ち寄って、唯一の国産トキ「キン」を見てみたかった。次回、佐渡島へ来ることがあれば、必ずトキを見たいものだ。
 18時40分の佐渡汽船も昨日と同じ「こさど丸」。既に日は暮れて薄暗くなっているので、景色を楽しめるわけでもなく、船酔いを恐れて早々に横になる。2時間20分の船旅で船酔いに見舞われたら逃げ出すところもなくて大変だ。今日のドライバーを務めた安藤クンもさすがに疲れた様子だった。
 新潟港への入港案内で目覚めると既に「こさど丸」は信濃川の河口に差し掛かるところだった。新潟港の到着予定時刻は21時であるが、15分近く早着する模様である。フェリーターミナル前に停車していた新潟交通バスに乗り込むと、まだ20時50分だというのにバスはすぐに発車。フェリーの到着時刻に合わせて便宜的に運行している臨時便のようだ。昨日は延々と歩いた道のりを逆走し、10分で新潟駅に運ばれる。
 さて、これから今日の宿を手配しなければならない。新潟なら泊まりはぐれることはないだろうけど、宿を探すのが億劫になって、「観光案内」との看板を掲げた駅前の交番でどこか安く泊まれるところはないかと尋ねてみる。
「う〜ん、その辺りのビジネスホテルぐらいかな」
あまり有益な情報を仕入れることはできそうもなく、やはり自分達で探すほかないようだ。公衆電話のタウンページに小さな広告を掲載していた「旅荘佳子都」(りょそうかねと)に電話をするとお婆さんが出て1泊素泊まり3,500円ですんなり予約が取れた。新潟駅から徒歩10分という立地条件も御の字だ。
 途中のセブンイレブンで夕食を購入し、「旅荘佳子都」を探し当てる。
「洋室が1室、和室が2室ですが、いいですかね」
3人1部屋だと思っていたので意外な申し出だ。出迎えてくれたお婆さんに部屋を見せてもらえば、和室は3畳程度の部屋に布団が敷いてあり、和式のトイレも付いている。洋室は畳と布団がベッドに置き換わったようなもの。少々あやしい雰囲気で、個室になっているのは、ひと時代昔の連れ込み宿だったからではないかと疑ってしまう。花園という町名もその手の由来なのではと推測するが、寝るだけなので構わない。私と安藤クンが和室、奥田クンが洋室に落ち着き、ひとまず安藤クンの部屋で夕食。セブンイレブンで購入した「広島風お好み焼」(360円)は、お好み焼きの生地に焼きそばが挟まれているだけで、広島のお好み焼きとは程遠い代物。コンビニのお好み焼なんて食べるものではないなと痛感する。運転から解放された安藤クンと奥田クンは缶ビールに手を出していたが、明日の朝も早いので早々に切り上げて寝床に着いた。もちろん隣に女性はいない。

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