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第48日 中条−両津

1997年3月11日(火) 参加者:安藤・奥田

第48日行程  今回の旅のアプローチは北の玄関である上野駅ではなく、東京副都心の新宿駅となる。外周旅行も東北の旅が終わり、信越へと舞台が移り変わる。今回の旅のメンバーは、前回の旅をパスした安藤クンと奥田クンで、この2人が欠けると外周旅行が成り立たないことは前回の旅で痛感した。
 新宿発の「ムーンライトえちご」は、ホワイトをベースにした車体にグレー、グリーン、イエローのラインが入った斬新なデザインの165系車両。国鉄が急行用車両として開発したものであるが、座席はグリーン車並みに置き換えられたうえ、快速列車なので「青春18きっぷ」が利用できるのが嬉しい。
 シートの座り心地を試しながら発車を待つが、定刻の23時09分になっても一向に発車する様子がなく、車内放送では「信号待ちです。信号が変わり次第発車致しますので、車内でお待ちください」と繰り返している。「ムーンライトえちご」がラッシュの落ち着いた新宿駅のホームを発車したのは、定刻の10分後であった。
 池袋、大宮と停車した後、深夜の高崎駅での停車時間を切り詰めて遅れを取り戻す。高崎からは長岡までノンストップとなり、車内も落ち着いてくるので就寝。目が覚めたのは進行方向が変わった新潟を発車した後で、満席だったはずの車内は閑散としている。ほとんどの乗客は新潟までに下車してしまったようだ。
 「ムーンライトえちご」は終点の村上に定刻の6時12分に到着。「ムーンライトえちご」の折り返し車両運用となる6時26分発の新潟行快速3922Mで中条まで引き返す。「ムーンライトえちご」も中条に停車するので、最初から中条で下車してもよかったのだが、「ムーンライトえちご」の中条到着時刻は5時54分。中条から乗り継ぐバスの時刻は前回の旅で確認しており、始発は7時20分だったので、1時間30分も時間を持て余す。まだまだ寒い3月半ばの早朝に駅でバスを待つぐらいなら、暖房の効いた車内で暖をとるのが利口だ。
 中条からは新潟交通北貸切という奇妙な社名のバスに乗り込む。新潟交通北貸切は、村上市に本社を置く新潟交通の地域子会社で、新潟県北部の路線バスと貸し切りバスを運行する。社名に「貸切」を名乗るぐらいだから、主力事業は路線バスよりも貸し切りバスなのかもしれない。
 地元客を数名乗せて中条駅を7時20分に発車したバスは、羽越本線のレールを跨いで中条町の市街地を抜ける。落堀川が行政区域の境界で、紫雲寺町に入る。この辺り一帯が紫雲寺という寺院によって支配されていたのだろうか。1734年(享保19年)に完成した紫雲寺潟の干拓によって開発された地域で、新潟や新発田向けの園芸農業が盛んだ。我々は紫雲寺町の中心と思しき稲荷岡で下車した。ここからバスは新発田へ向かって内陸部に入り込んでしまう。
 雪解けの足場の悪い道路を早朝から歩く。道路に赤い粉末が撒かれているのでいるので何事かと思ったら、除雪剤だと安藤クンが教えてくれる。紫雲寺町から新潟方面へのバス路線はなさそうだが、隣の聖籠町へ入れば、新潟へ向かうバス路線がありそうだ。紫雲寺潟の由来になったと思しき紫雲寺を見て、1時間程歩いて加治川に対面。聖籠町の市街地にたどり着くまではさらに1時間かかった。安藤クンも奥田クンも黙ったままで早くも重苦しい雰囲気が漂う。幸いにも聖籠郵便局があったので、旅行貯金をして、新潟行きのバスがないか尋ねてみる。
「バスは新発田行きだけです。新潟なら佐々木から電車に乗るしかないね」
 ここまで歩いて新発田に戻るのは癪なので、20分少々歩いて白新線の佐々木駅へ向かう。佐々木駅の所在地は新発田市上中沢であるが、聖籠町とのほぼ境界に位置する。事実上は聖籠町の玄関駅として機能している。佐々木駅にたどり着くと、9時52分の新潟駅行きの新潟交通バスもあったのだが、10時14分まで待てば新潟行き932Mがある。JRなら「青春18きっぷ」も利用できるし、駅前にある佐々木郵便局にも立ち寄れる。当然のようにバスを見送り、佐々木郵便局で旅行貯金を済ませた。
 932Mは新潟近郊路線だけあって平日の昼間でもまずまずの乗車率。次の黒山からは新潟東港へ続く貨物専用の新潟臨海鉄道が分岐しており、単線のレールが北へ延びている。新潟鐵工所が鉄道車両等の製造プラントを東港工場に移転してからは、新造の電車・ディーゼルカーを工場からトラック輸送した後、新潟臨海鉄道の藤寄駅北側で線路への積み替える作業を行っており、旅客列車も走る風変りな貨物線だ。
 早通で特急待ち合わせのため5分停車した後、四大公害病の一つである新潟水俣病で有名になってしまった阿賀野川を渡ると新潟の市街地で、10時49分に新潟に到着。コインロッカーに荷物を預け、万代口の駅前バスターミナルから11時07分の浜浦町先回り西循環の新潟交通バスに乗り継ぐ。次なる目標は日本海タワーだ。日本海タワーは、新潟市水道局の南山配水場の屋上に設置されている風変りな展望台である。新潟市の水道創設60周年を記念して1970年(昭和45年)8月に完成している。
日本海タワー  新潟駅から10分少々の日本海タワー前で下車。300円の入館料を支払い、エレベーターで展望台に上がれば、全面ガラス張りの回転式展望台となっていた。約20分で1周するとのことで、喫茶コーナーがあったので、「クリームソーダ」(400円)を注文してしばらく休憩。展望台からは日本海や市内はもちろん、天気が良ければ佐渡島や弥彦山を確認できるとのことであるが、今日は霞んでしまっている。開館時間は9時から17時(12月〜2月は16時)までとなっているが、日本海に沈む夕日は素晴らしいだろうし、開館時間を延長して、夕日や夜景を見せれば格好のデートスポットにもなりそうだ。
 日本海タワーを後にし、今度は信濃川河口に面した旧新潟税関庁舎を利用した新潟市郷土資料館へ足を運ぶ。新潟と言えば、1856年(安政5年)6月に日米修好通商条約が締結され、下田、箱館(函館)、長崎、神戸と並んで開港することになった歴史ある港である。実際に新潟港が開港されたのは、1868年(明治元年)11月19日のことで、幕末の政変の影響を受けて遅れたようだ。その後、関税業務のための庁舎を新築することになり、現在地である信濃川河口の左岸を埋め立て、1869年(明治2年)10月に竣工した。信濃川からの昇降に石段を設け、これに相対して庁舎をおき、石倉、土蔵、荷揚場を併設している。当初は運上所と称されていたが、1973年(明治6年)に全国的に名称が統一され、新潟税関と改められた。税関庁舎に隣接する石倉や堀は後に復元されたものであったが、郷土資料館として活用されている旧新潟税関庁舎は、日米修好通商条約で開港された5港の税関庁舎のうち唯一現存するものとのことだ。少々手狭で開架されている資料に限りはあるものの、当時の状況を偲ぶことができる。1969年(昭和44年)6月20日には国の重要文化財に指定され、建築物としても貴重な遺構である。
新潟市郷土資料館  新潟市郷土資料館近くの「食事処ふじ」で遅めの昼食。既に昼食時を過ぎていたので、店内は閑散としていたが、声を掛けると応じてくれた。朝からのたっぷり10キロ以上は歩いており、さすがに疲れた。座敷で足を投げ出し、「カツ丼」(550円)でスタミナをつける。安藤クンと奥田クンは「タンメン」(450円)を注文していた。
 この後の行程は15時20分の佐渡汽船で佐渡島へ渡るだけである。佐渡汽船の万代島旅客ターミナルは、信濃川を挟んで新潟市郷土資料館の向かいにあるのだが、信濃川を渡るためには郷土資料館から600メートル近く上流にある柳都大橋まで迂回しなければならない。歩いて行くには億劫であるし、我々は荷物を新潟駅のコインロッカーに預けてしまっているので、いずれにしても新潟駅へ戻らなければならない。郷土資料館前から14時03分の新潟交通バスを捕まえて、一旦、新潟駅まで戻る。新潟駅まで戻れば万代島旅客ターミナルへ向かうバスもあるだろう。
 新潟交通バスは14時29分に新潟駅前バスターミナルに到着。万代島旅客ターミナル行きのバス乗り場がわからずに右往左往して、ようやく「佐渡汽船」の文字を発見するものの、ちょうど14時25分のバスが発車した直後であった。次のバスは15時10分であるが、両津港行きの佐渡汽船の出航時刻は15時20分。次のバスでは乗り遅れる可能性がある。歩けるところまで歩いてタクシーを利用した方が無難だ。
 タクシーを利用するならバタバタすることはなかろう。安藤クンと奥田クンは、昼食の「タンメン」が物足りなかったとみえ、新潟駅構内でクレープをかじっている。
「このクレープおいしいよ」
「こんなにうまいクレープは初めて食べた」
安藤クンと奥田クンが絶賛するが、「カツ丼」がお腹に残っているので我慢する。
 万代橋まで戻り、信濃川沿いに北上する。柳都大橋をくぐると前方に広大な空き地が広がり、その先に万代島旅客ターミナルの建物が見える。我々をタクシーが何台か追い抜いて行くが、そのタクシーも乗客を乗せており、空車がやって来る気配はない。15時20分の便に乗船する乗客を運んでいるのだから当たり前だが、乗客を運び終えたタクシーが再び戻って来るだろうから、それを捕まえればいいだろう。ところが、乗客を運んだタクシーは一向に戻って来ない。旅客ターミナルでそのまま客待ちをしているのだろうか。次第に出航時間も迫ってきて、こちらも焦って来る。最後は3人で旅客ターミナル目指して駆けだした。
 息を切らせて旅客フェリーターミナルに到着し、2,030円の2等乗船券を購入し、乗船手続きを済ませる。我々が佐渡汽船の「こさど丸」の2等船室に倒れ込むと同時出航。初めての佐渡へ渡る感慨よりも、間に合ってよかったという安堵感と疲労感でいっぱいだ。船内にはスナックやゲームコーナーもあるが、両津港までの2時間20分の航海はひたすら眠り続ける。
 下船案内の船内放送で目覚め、船室の窓から外を眺めると周囲は薄暗くなっており、佐渡島の灯火が見える。周囲262.7キロ、854.88キロ平方メートルの面積は、北方領土を除くと沖縄島に次いで2番目に大きな島である。佐渡金山や天然記念物のときで有名であるが、いよいよ佐渡島の地を踏むことになると思うとわくわくしてきた。もっとも、佐渡島の本格的な散策は明日である。
 まずは今宵の宿を確保しなければならない。フェリーに乗船する前に宿を確保するつもりであったが、駆け込み乗船となったので、両津港に到着してから宿を探す羽目になった。幸いにもフェリーターミナルで「素泊まりでも良ければ」と徒歩5分の「ときわ旅館」を1泊4,000円で紹介してもらえた。
 「ときわ旅館」にたどり着くと、おばあさんが出迎えて、2階の部屋へ案内してくれた。
「主人が生きていたときは食事付きで引き受けていたのだけど、今は素泊まりだけで申し訳ないね。近くに味菜というレストランがあって、釜めしが美味しいのでよかったら行ってみて」
食事付きで宿泊客を引き受けていたとしても、当日の18時前の予約では対応できるはずもないのだが、おばあさんがあまりにも申し訳なさそうに言うのでこちらも恐縮してしまう。せっかくの佐渡島で菓子パンの夕食は寂しいので、おばあさんの勧める「味菜」で夕食を摂ることにして宿を出る。
 両津港の背後に広がる加茂湖のほとりに目的の「味彩」は位置していた。メニューを見る限りでは和食主体のお店であるが、店内にはジャズが流れている。窓際の座敷に陣取ると、日が暮れて薄暗い加茂湖の向こうに佐渡最高峰の金北山の影が見える。昼間の眺望はさぞかし見事であろう。「ときわ旅館」のおばあさんが勧める釜めしは、「牡蠣釜めし」、「帆立釜めし」、「鳥釜めし」の3種類があり、私は「帆立釜めし」(880円)、安藤クンは「牡蠣釜めし」(880円)を注文した。奥田クンはなぜか釜めしを敬遠し、「うな重(上)」を注文する。佐渡島といえども新潟県だけあって、お米は自家製コシヒカリ。釜めしも注文を受けてから炊くので出来たてを賞味できる。ボリューム的には少々物足りなさを感じたが、コシヒカリにも具の旨味がしみ込んでいて美味しかった。
 夕食後は安藤クンに誘われるまま「ときわ旅館」向いのパチンコ屋へ入る。最近、安藤クンはパチンコに熱中しているとのこと。私自身はパチンコの経験がなかったので、安藤クンに基本的なやり方を教えてもらって1,000円分だけチャレンジしてみる。回転数が多い台を見付けて挑戦するが、奥田クンと共に敢え無く撃沈。一方の安藤クンは、閉店までフィーバーが続き、結局、出玉を一箱分保証してもらって打ち止めとなる。トータルで15,000円の儲け。旅館に戻れば、安藤クンから消えてなくなった1,000円をキャッシュバックしてもらえたほか、さらに利益の分配と称してお小遣いを頂戴してしまった。なかなかの太っ腹である。
「へぇ〜向いのパチンコ屋はあまり出ないことで有名だけどねぇ」
翌朝、おばあさんに安藤クンの武勇伝を伝えたら、目を丸くして驚いていた。

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