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第45日 酒田−村上

1996年12月28日(土) 参加者:鈴木(康)・鈴木(竜)

第45日行程  今年の夏は異例の10日間にも及ぶ外周旅行を開催してしまったため、外周常連の安藤クンと奥田クンからは早い段階で不参加の表明があった。今年の冬はメンバーが集まらないので中止せざるを得ないかなと思っていたところ、鈴木(竜)クンから久しぶりに電話があった。
「今年の冬はいつから外周へ行くの?」
昨年の春以来、すっかり姿を現さなくなったので、愛想を尽かされたかと思っていたが、北海道へ渡り、旅費がかかり過ぎてしまうので、しばらく自重していたとのこと。1人でも参加希望者がいるのであればと、慌ただしく日程を調整。鈴木(竜)クンの都合で3日間、しかもそのうち2日間に土日が含まれてしまうのは、旅行貯金ができなくて残念だがやむを得ない。1996年(平成8年)12月28日(土)から3日間という日程が決定すれば、他にも参加希望者がいないかと声を掛けてみる。すると、意外なことに、昨年の夏に偶然北海道で知り合い、数日間の行動を共にした鈴木(康)クンからも参加表明があった。今回はダブル鈴木の3人旅となる。
 切符は帰省を兼ねて京都市内発の「秋田・男鹿ミニ周遊券」を用意した。今回の旅は酒田から庄内地域を南下していく行程なので、象潟から自由周遊区間が始まる「秋田・男鹿ミニ周遊券」は場違いなようにも思えるが、東京都区内経由の京都−酒田間は片道1019.5キロで12,290円。往復では2倍の24,580円だが、601キロ以上あるため往復割引(行き・帰りとも1割引)が適用されて22,120円。さらに学生割引(2割引)が適用されて17,680円。ところが割引率の高い「秋田・男鹿ミニ周遊券」は学割で15,860円。乗車券分だけで1,820円もお得なうえ、往復に急行列車の自由席も利用できるのだ。
 前日に京都を出発し、ミニ周遊券の急行乗車の特典を活用すべく、京都8時31分発の急行「たかやま」に乗車する。電化されている東海道本線を大阪から岐阜までキハ58系が走るという風変わりな列車で、かねてから試しに乗車してみようと企んでいたのだ。定刻にやってきた急行「たかやま」の車体は、白に薄いピンクを主体とした明るいカラーリングで、内装は新幹線から流用したリクライニングシートが採用されているので快適だ。石山では新快速と間違えて乗車した乗客がいて、草津で下車させられる。1日1往復の急行列車の存在など石山駅利用者のほとんどが知らないのであろう。いつもなら新快速から高架橋を渡って乗り換えを要した米原でも腰を落としていられるので気分がいい。岐阜までの1時間45分の旅はあっという間で、ようやく気動車の本領を発揮する高山本線へ入っていく急行「たかやま」を見送るのは複雑な心境だ。
 岐阜からは蒲郡、浜松、熱海と乗り継ぎ、一旦、実家のある平塚へ立ち寄る。当初は静岡から東京まで急行「東海」でつなぐことができれば良かったのだが、急行「東海」は今年3月16日のダイヤ改正で特急に格上げされてしまった。
 実家でしばらく休憩した後、平塚駅で鈴木(竜)クンと落ち合い上野へ。今回は年末年始に運転される臨時急行「うえつ」で酒田を目指す。年末の帰省時期の金曜日なので混雑するかもしれないと、20時過ぎには上野駅へ赴いたが、急行「うえつ」が発車する16番線ホームに並ぶ人は誰もいない。とりあえず自由席の乗車位置に荷物を置き、交替で荷物番をすることにした。
 飲み物を買いに上野駅構内を歩いていると、鈴木(康)クンとばったり会った。北海道で出会ったときの面影はそのままであったが、髪の毛を茶色に染めてヤンキーの雰囲気が出ている。
「もう一人の鈴木クンが荷物番をしているから、その茶髪を活かしてちょっとからかってくれば?」
鈴木(竜)クンと鈴木(康)クンはお互いに面識はないが、他に荷物番などしている人はいないのですぐにわかるだろう。軽い冗談のつもりだったが、鈴木(康)クンはいたずらを実行したようだ。しばらくして談笑している2人の鈴木クンの元に戻ると、鈴木(竜)クンが怖い顔をして言う。
「いきなり目の前にヤンキー座りして睨んでくる奴がいてどうしようかと思ったよ。悪い冗談はやめてくれ」
 22時を過ぎるとさすがにポツリポツリと急行「うえつ」の乗客の姿が現れたが、23時の入線時刻になっても数えるほどで、転換式リクライニングシートを向かい合わせにした1区画を1人で独占できる程度の乗車率だ。これなら並ぶ必要もなかったが結果論に過ぎない。
 秋田行きの臨時急行「うえつ」は、今年から登場した新鋭であるが、14系客車を利用しており、実態は1994年(平成6年)に廃止された臨時急行「天の川」と変わらない。利用者にとっても「天の川」の愛称の方が慣れ親しんでいると思うのだが、臨時急行としても廃止してしまったため、JR東日本も今さら臨時で復活させるなどとバツの悪いことができなかったのではなかろうか。
 急行「うえつ」はわずかなお客を乗せて定刻の23時13分に上野駅を発車。「天の川」の実質的な復活だというのにこれでは「うえつ」の廃止も時間の問題ではなかろうか。大宮を過ぎてから車内改札があり、やがて車内が減光される。2年前に1年間だけ過ごした高崎を出たところで眠りについた。
 窓を叩きつける雨音に眠りを破られたのは鶴岡到着前であった。今日は酒田沖に浮かぶ飛島を訪問する予定なので天候が気になる。冬の飛島航路は酒田港を9時30分に出航する1便のみなので、これが欠航になると飛島へ訪問することができなくなる。天気の回復を祈りながら7時05分の酒田で下車。
 酒田に降り立っても相変わらずの雨模様である。とりあえず飛島へ渡れるのかどうかで今日の行程が変わって来るので、運航状況を確認するために時刻表に記された酒田市定期航路事業所へ電話をしてみるが、まだ朝が早いので誰も出ない。2時間以上も待ちぼうけをするのは時間の無駄なので、折り畳み傘を差して酒田市内の散策に出掛ける。
 まずは薄暗い駅前通りを通り抜けて海向寺を目指す。海向寺には即身仏というミイラが安置されているという。ミイラと聞けば包帯でぐるぐる巻きになったエジプトのミイラしか思い付かないが、湿度の高い日本にもミイラがあると初めて知ったときは驚いた。
 地図を頼りに海向寺を探すが、「酒田名勝海向寺」の看板と駐車場を発見したものの、周囲に寺院らしきものは見当たらない。近くを通りかかったおばさんに尋ねれば坂道を登ったところに海向寺があるという。もちろん坂道の存在には気が付いていたが、坂道の前には「酒田市立光丘文庫」の看板が建っていたので、光丘文庫の入口だとしか思わなかったのだ。紛らわしいのでもう少し気を使って看板を設置してもらいたい。
 坂道を登って無事に海向寺にたどり着いたが、まだ朝が早いでの本堂や即身仏堂も閉まったままだ。まずは本堂の軒下で雨宿り。酒田駅から30分近くも歩いたので、シューズの中までびっしょり濡れている。裸足になってシューズの水を切るが、まだ旅が始まったばかりだというのに先が思いやられる。
 本堂の軒を見上げると、4本の蝦虹梁に屋根を支えるかのように力士像の彫刻が施されている。龍や獅子の彫刻はしばしば見掛けるが、寺院で力士像とは珍しい。そもそも相撲は日本固有の宗教である神道に基づいた神事であり、真言宗にとっても神道は敵ではなかったのか。もっとも、現在では全国各地で奉納相撲が行われており、既に相撲は宗教的な意義を失っているのかもしれない。海向寺の力士像も力士が四股を踏む姿が土地の霊を鎮めることに通じることから、地鎮の象徴とされているのではなかろうか。
 目の前にある鉄筋コンクリート造りの即身仏堂には、1755年(宝暦5年)に入定した忠海上人と1822年(文政5年)に入定した円明上人のミイラが安置されているはずだ。ミイラは即身仏と呼ばれており、信仰の対象となっている。湿度が高い日本では、死体が腐敗してしまうので、死体をミイラ化させるためには、あらかじめ体内の水分を少なくしておかなければならない。それゆえ、ミイラ化している僧侶は、腐敗の原因となる脂肪や筋肉を落とすために、穀物を絶ち、木の皮や木の実だけを食べて命をつなぎ、漆の茶を飲んで嘔吐し、体内の水分を減らしたという。その間も読経や瞑想は続けられ、それこそ最後は骨と皮だけの状態になって絶命したという。これは仏教の修行の中でも最も過酷な修行であり、即身仏は過酷な修行を最後まで務めた証なのだ。もちろん現在では自殺にあたるとしてこのような修行は認められていないが、当時は永遠の生命を獲得するという考えがあったようだ。
 雨が弱まって来たので境内を一周りしてみると、やはり即身仏となった鉄門海上人が粟島から持ち帰った光る石を安置したという粟嶋観音堂があった。光る石にまつわる伝説は多々あるようだが、「粟嶋さん」と地元では親しまれる粟嶋水崎観音は、縁結びや子宝の御利益があるとして女性の信仰を集めているらしい。
「子宝の御利益があるだけあって、怪しいものがあるよ」
ニヤニヤしながら鈴木(康)クンが観音堂の脇にある男石を指さす。確かに男性の性器を連想させるような形の石だ。鉄門海上人は、鶴岡の注蓮寺に即身仏として安置されているが、その即身仏には男性器がないという。これは修行中に馴染みの女郎が言い寄って来た際に、世俗と離れたことを証明するために自ら性器を切り落として、その女郎に手渡したという。それを持ち帰った女郎は商売が繁盛して莫大な財産を築き、鉄門海上人の性器は商売繁盛の御守として重宝され、現在は鶴岡の南岳寺に秘宝として奉られているそうだ。男石もそんな鉄門海上人の性器にあやかっているのではなかろうか。
 小雨になったのを幸い、近くの日和山公園にも足を延ばす。酒田港を見渡せる高台にある日和山公園は、酒田のシンボル的な存在であり、園内には文化遺産が点在しているという。小雨模様の園内に人影はないが、3.8ヘクタールの敷地は晴れていれば手頃な朝の散歩コースにもなりそうだ。小雨の降る中を園内の遊歩道に沿って一周する。
 1672年(寛文12年)、江戸幕府の命を受けた河村瑞賢は、手代の雲津六郎兵衛を酒田に派遣し、日和山の14,542平方メートルの土地に御城米置場を完成させ、庄内米を日和山に集め、江戸に供給していたという。日和山公園の西端には米の形をかたどった記念碑があり、日本海沿岸をかたどった修景池には、実物の2分の1に縮尺されているとはいえ、復刻された千石船が浮かんでいる。日和山は酒田反映の礎となった北前船の縁の地なのだ。
 他にも北前船に関連する文化遺産は多く、北前船の船頭が日和や風の方向を確かめるときに使用したという方角石は、設置時期こそ不明ではあるが、1794年(寛政6年)の文献で紹介されており、現存する方角石としては日本最古とも言われている。少々くたびれた御影石の表面には、十二支と東西南北の文字が刻まれており、年代を感じさせる。酒田に寄港する北前船の航海安全を祈願して1813年(文化10年)建てられた常夜灯もまた然り。木造六角の灯台も設置されており、北前船の時代から灯台もあったのかと一瞬驚いたが、こちらは1895年(明治28年)に宮ノ浦に建てられた西洋式木造六角灯台で、1958年(昭和33年)に現役を引退して保存のために日和山公園へ移されたとのこと。日本最初の洋式灯台は、1989年(平成元年)12月25日に2日目の外周旅行で訪問した神奈川県の観音崎灯台であったはずだが、あちらは1869年(明治2年)に点灯しているものの、煉瓦造りであったうえ、1922年(大正11)年4月26日の地震で倒壊してしまっている。
 日和山公園の散策を終えると時刻は8時30分をまわっている。試しに公衆電話でもう1度酒田市定期航路事業所へ電話をしてみたが応答はない。酒田港はすぐ近くだし、直接出向いて確認した方が手っ取り早そうだ。最上川の河口に近い飛島航路の乗り場へ向かうと、小さな待合室があり、先客は誰もいないが鍵は開いている。もしかしたら出航するかもしれないという期待を抱いてしばらく待っていると、地元の乗船客らしき人も2、3名やって来た。しかし、出航15分前になってようやく姿を現した職員は「今日は欠航だよ」と言いながら、「本日欠航」の看板を掲げる。ぎりぎりまで様子を見たためなのか、欠航の判断がいささか遅い気もするが、出ないものは出ないのだから仕方がない。待合室で出航を待っていた地元の人もよくあることなのかそそくさと引き上げていったので、我々も飛島は後回しにして先へ進む。
 乗船場から少し歩き、庄内川に架かる出羽大橋に近い山居停留所で運良く9時26分の湯野浜温泉行き庄内交通バスを捕まえる。比較的海沿いを走っている羽越本線も庄内平野を避けるかのようにこの辺りは内陸部へ迂回してしまっているので、バスが外周ルートとなる。
 出羽大橋を渡ったバスは、庄内空港に立ち寄り、数名の乗客を拾った。庄内空港は酒田市や鶴岡市が中心となって地元の請願により1991年(平成3年)10月に供用が開始された地方空港だ。酒田、鶴岡と山形県を代表する都市へのアクセス機能を果たしているとはいえ、空港の需要があるのかいささか疑問であったが、全日空が毎日羽田へ2往復、伊丹へ1往復している。バスに乗って来たのは、時間的に羽田からの897便の搭乗客のようで、かつては陸の孤島と呼ばれていた地域だけに空港利用者は意外に多いのかもしれない。
 終点の湯野浜温泉に到着したのは10時27分。概ね1時間乗り続けたバスの運賃は830円。早朝から歩き続けたためか、2人の鈴木クンはバスが終点に着いても眠ったままだった。
 せっかく温泉地に来たからにはやはりひと浴びしていきたい。バスの運転手に近所で安く温泉に入れるところはないかと尋ねると「すぐそこ」との答え。停留所のすぐ前が湯野浜温泉下区公衆浴場となっていた。7時から10時までは清掃時間だったようで、営業再開をしたばかりだ。150円の入浴料を支払って、無色透明の温泉に浸かる。あまり温泉らしくないのは残念だが、泉質はナトリウム・塩化物泉という正真正銘の温泉で、冷え切った手足の先まで温まり生き返る。湯野浜温泉は上ノ山温泉、東山温泉と並び、奥州三楽郷のひとつとして古くから栄えていたが、もともとは亀の湯と称される温泉だった。これは1053年から1058年までの天喜年間に、地元の漁師が海辺で傷を負った亀が海辺のお湯で傷を癒しているのを見て温泉を発見したという言い伝えによる。温泉の発見された経緯というのは、動物に教えられるケースが多いような気がする。
 鶴岡駅行きのバスまで若干の時間があったので周辺を散策すると、公衆浴場の裏手からサイクリングロードが続いている。1929年(昭和4年)12月8日から1975年(昭和50年)4月1日まで鶴岡−湯野浜温泉間の12.2キロを結んでいた庄内交通湯野浜線の廃線跡だ。路線の大半は田んぼの中を走っていたため、圃場整備事業によって鶴岡から善宝寺までの廃線跡はほとんど見られなくなってしまったが、かろうじて善宝寺−湯野浜温泉間の廃線跡がサイクリングロードとして残った。善宝寺駅は善宝寺鉄道記念館として生まれ変わり、旧ホームには湯野浜線で活躍したモハ3形の保存展示も行われているが、残念ながら今回は立ち寄っている時間はない。
 湯野浜温泉11時27分の鶴岡駅行き庄内交通バスに乗り込む。かつての湯野浜線は善宝寺経由であったが、バスは加茂経由となっているので、同じ鶴岡を目指すにしても、鉄道とは正反対の方向へ走り出す。
 国道112号線をたどったバスは、10分程で加茂の集落に入り、内陸部へ入り込む手前の加茂石野屋で下車。山形県内唯一の水族館である加茂水族館に足を記す。冬休み期間中であるにもかかわらず閑散とした加茂水族館は冬季割引で本来800円の入館料が700円となった。
 館内には庄内浜近海に生息する海水魚や最上川に生息する淡水魚が展示されている。庄内浜には暖流(対馬海流)の影響を受けて様々な魚が姿を見せるとの解説に反して、展示されている魚類はやはり南国の水族館と比較すると地味な色のものが多い。そのためか館内にも余計に寒々とした雰囲気が漂ってしまう。その中で加茂水族館の目玉らしき展示がウーパールーパーことアホロートル。TBS系列の「わくわく動物ランド」や焼きそば「UFO」のテレビコマーシャルに採用され、ブームを巻き起こしたのは10年近く前であったか。最近ではすっかり見聞きしなくなったウーパールーパーの存在が、うらぶれた水族館と重なり合いわびしさが増す。
 しかし、そんな加茂水族館にも目を疑うような展示物があった。民間伝承上の謎の生物と呼ばれているケサランパサランだ。庄内地方では元禄年間(1688年〜1707年)から白粉を食べる正体不明の物体を天から降って来た宝物として大切にしてきたという。正体不明の物体こそケサランパサランで、天から降って来るという意味のテンサラバサラから転じてケサランパサランと呼ばれるようになったという。ケサランパサランを持っていると、「衣類が豊富になる」、「病気にならない」、「金持ちになる」といった良いことがあり、他人にケサランパサランを見せてしまうと効果がなくなってしまうという。すなわち、加茂水族館で展示されているケサランパサランを持ち出しても御利益はないということらしい。庄内地方では38個が確認され、どの家庭でも内外不出として化粧用の白粉と一緒に桐の箱に入れ、神棚に上げて大切に保管しているという。
「なんだか耳かきみたいだな」
鈴木(竜)クンが元も子もないようなことを言うが、正体不明の生物を展示している水族館なんて全国を探しても加茂水族館だけではないだろうか。しかも、庄内地方で確認された38個のケサランパサランのうち、3個がここに展示されている。最初は物足りなさを感じた加茂水族館であったが、珍しいものを見て、満ち足りた気分になった。
 既に昼食時を過ぎていたので加茂水族館のレストランで昼食にしても良かったのだが、加茂水族館前停留所を13時04分に出る油戸行きの庄内交通バスがあったので、昼食よりもバスを優先する。油戸は2キロほど離れた隣の集落なので、歩けない距離でもないのであるが、油戸から先の由良までがバスの空白地帯となっている。油戸から由良までは5キロ近くは歩かざるを得ないため、体力を温存するために油戸まではバスを利用する。
 5分遅れでやってきたバスの運転手は「油戸行きだけど」と怪訝な顔をする。普通の旅行者なら鶴岡駅へ出るのだから当たり前だ。「油戸へ行きたいので間違っていません」と断ってバスに乗る。油戸まではわずか4分の乗車で200円。念のため運転手に確認をしてみたが、やはり油戸から先へ行くバスはなく、由良まで行けばあつみ温泉へ向かう路線があるという。
 荒々しい冬の日本海を右手に由良を目指して歩く。油戸の集落を出ると県道50号線はにわかに道幅が狭くなり、民家も一切なくなった。幸いにも雨はやんでいるので濡れなくては済みそうだ。もっとも、空模様は依然として怪しいので、由良に着くまで天気が持ちこたえるように祈りながら先を急ぐ。30分も歩けば東北の江ノ島と呼ばれる白山島(おしま)が視界に入り、にわかに元気が出てくる。
 油戸から1時間少々で由良の集落に入る。温泉旅館や民宿が数件あり、庶民的な温泉街だ。白山島へは由良海岸から赤い欄干の170メートルに及ぶ長い橋が架かっている。外周旅行としては無視できないポイントであり、白山島往復を試みるが鈴木(竜)クンが脱落し、由良海岸で待っているという。「すぐに戻ってくるから」と荷物番を頼み、鈴木(康)クンと一緒に白山島へ渡る。由良海岸のシンボルでもある白山島は約2000万年前に火山性の噴火によって形成された島で、高さ70メートルの島の頂上には白山神社がある。島を一周する約600メートルの散策路もあるのだが、雨も気になるので自重した方が良さそうだ。白山島に足を記したことで満足して引き返そうとすると鈴木(康)クンが白山神社へ続く階段を登り始める。
「ここまで来て引き返すの?神社はすぐそこなんだから」
鈴木(康)クンのたくましさに奮起し、後に続いて白山神社を目指す。息を切らせながら本殿にたどり着くとひと仕事終えた気分だ。
「神社なのに南無妙法蓮華経とは奇妙だね」
鈴木(康)クンが境内にあった南無妙法蓮華経と刻まれた石碑を見付けて言う。法華経の信者が後からやって来て白山神社の境内に置いたのであろうか。それとも何かを供養するために法華経を拝借したのだろうか。謎を解決してくれるものは見当たらない。
八乙女像  由良海岸に戻ると八乙女像が目に入る。592年(崇峻天皇5年)12月12日に崇峻天皇が臣下の蘇我馬子に暗殺されると、崇峻天皇の子供であった蜂子皇子は難を逃れるために京都の由良から舟に乗り北へ向かった。その途上、八乙女浦にある舞台岩で8人の乙女が笛の音に合わせて舞を披露しているのを見て、蜂子皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸した。現在の八乙女浦である。八乙女浦に上陸した蜂子皇子は三本足の烏に導かれて羽黒山へたどり着き、やがて出羽三山と呼ばれる羽黒山、月山、湯殿山を開山したと伝えられる。しかし、八乙女像は2人だけだ。由来の解説によれば、8人の乙女の中で最も美しく仲の良い姉妹であった美鳳姫(みおうひめ)と恵姫(えひめ)が選ばれたというが、せっかく八乙女の記念像を造るなら、どうして8人全員を像にしなかったのか理解に苦しむ。他の6人があまり美しくなかったのか、それとも予算の関係か。
 湯野浜温泉に続き、由良温泉でも入浴を試みようと思ったが、まもなく温海営業所行きのバスがやって来る。これを逃すと次のバスは4時間後だ。2人とも由良で4時間も過ごすのは気乗りがしないというので、先へ進むことに決定。由良中央口から5分遅れでやって来た14時48分の温海営業所行き庄内交通バスに乗る。
 バスに乗ると再び雨が降り出して来た。歩いているうちに振られなかったのは運が良かった。三瀬の集落に入るとやがて左手から羽越本線が寄り添ってくるが、羽越本線はすぐにトンネルに隠れてしまいなかなか姿を現さない。それに引き換え、国道7号線は忠実に海岸線に沿っているので、外周旅行にふさわしい。バスはあつみ温泉駅からは温海川沿いに内陸部へ入り込むというので、15時13分のあつみ温泉駅で下車。運賃は690円で今日は庄内交通の売り上げによく貢献している。
 現在では平仮名表記が多くなったが、漢字表記の温海温泉には興味をそそられる。温海川の川底から湧出した温泉が河口に流れ、日本海を温めたことが温泉名の由来となっているが、海を温める温泉とはどのような温泉なのだろうか。温海温泉と島根県の温泉津温泉は地名に「温」が付くこともあり、如何にも温泉の湧く地という印象が強く、かねてから入浴を果たしたいと思っていた温泉だ。
 あつみ温泉駅で列車の時刻を確認し、温泉でひと浴びと考えていたのだが、次の列車は15時45分と中途半端な待ち時間だ。しかも、温海温泉の温泉街はあつみ温泉駅から4キロ近くも離れており、駅の周辺にも入浴施設はないという。そもそもあつみ温泉駅は1977年(昭和52年)まで温海を名乗っており、温泉とは無縁の駅名であったが、温海が難読であったことと、観光客誘致を兼ねてあつみ温泉と改称したため、すぐ近くに温泉があると錯覚してしまった。正確にはあつみ温泉口を名乗るべきであろう。なんとしてでも温泉に入りたいと思い、2人に温海温泉入浴を提案するが、あまり前向きになれない様子。
「温海温泉ってどこにあるの?ずっと内陸だよね。外周じゃないよ」
鈴木(竜)クンが口を開く。確かに内陸部への寄り道であるが、今までだって必ずしも忠実に外周をたどっているわけではないので、多少の寄り道は許されても良さそうだ。しかし、鈴木(康)クンも「温泉だけが目的ではなぁ」と浮かない様子。何としても入浴してやると2人を駅に残し、ムキになって温海川沿いの県道44号線を歩いてみるが、30分で4キロ先の温泉で入浴し、戻って来ることなどできるはずもなく、すぐに諦めて駅に引き返す。温海温泉の入浴は別の機会に譲るしかあるまい。
 あつみ温泉を15時45分に発車する828Dは6分遅れで到着。羽越本線のダイヤは若干乱れているようだ。単線区間が多いため、少しでもダイヤが乱れるといろいろなところにしわ寄せが来る。あつみ温泉からわずか2駅の鼠ヶ関で下車した。
 駅前の通りをまっすぐに進むとすぐに鼠ヶ関マリーナに行き着く。1992年(平成4年)に開催された「べにばな国体」のヨット会場となった場所だが、天候がすぐれない冬の日本海にはヨットの姿はない。
 右手には源義経が上陸したと伝えられる弁天島があったので足を伸ばしてみる。源義経は、源頼朝に追われて平泉の藤原秀衡を頼って奥州へ逃れる際、越後の馬下(村上)まで馬でやって来たが、馬下からは船で海路をたどり、鼠ヶ関の弁天島に上陸したという。「義経記」では、歌舞伎の「勧進帳」で知られる関所通過の場面を安宅関ではなく、鼠ヶ関として描いているが、地元の言い伝えでは、義経は鼠ヶ関を難なく通過したうえ、関所の役人の世話をする五十嵐治兵衛に宿を求め、ここで長旅の疲れを癒したことになっている。「義経記」そのものも室町時代中期以降に執筆されたものであるとされているし、作者の創作が多分に含まれており、何が史実なのかは定かではない。現在の弁天島は地続きになっており、岬のような地形を形成している。岬の先端には1925年(大正14年)4月1日に点灯した白亜の鼠ヶ関灯台が立ち、その手前には赤い鳥居が建ち、厳島神社が祀られていた。
念珠関所址  弁天島を後にし、鼠ヶ関海水浴場に沿った道をたどると、念珠関所址にたどり着く。鼠ヶ関ではなく、念珠関という表記が正しいのかと思いきや、ここには関所が2箇所にあったことが解説板で判明する。念珠関は、慶長年間(1596年〜1614年)から1872年(明治5年)まで「鼠ヶ関御番所」と呼ばれていた近世の関所址であり、1924年(大正13年)に内務省より「史跡念珠関址」として指定を受けたとのこと。一方、勿来関、白河関とともに奥州三関のひとつであった鼠ヶ関は、ここから南へ1キロほど離れた山形県と新潟県の県境辺りにあったらしい。1968年(昭和43年)10月の発掘調査で古代の関所址も確認されており、関所の軍事施設と高度の生産施設をもつ村の形態を備えていたそうだ。平安時代中期から鎌倉時代初期の遺跡と推定され、「古代鼠ヶ関址および同関所生産遺跡」と名付けられている。
 鼠ヶ関17時21分の830Dは4分遅れとの案内であったが、実際にやって来たのは9分遅れの17時30分。遅れを戻そうとする気配をまったく感じさせない830Dがゆっくりと鼠ヶ関を発車すると東北地方の旅の締めくくり。鼠ヶ関は市街地に県境がある珍しい町で、鼠ヶ関発車後間も無く県境を越えたはずだ。1991年(平成3年)8月8日に福島県入りして以来、5年5ヵ月で北海道と東北を一周したことになる。 既に日は暮れ、周囲は闇に包まれているが、右手の車窓には冬の日本海が広がっているはずだ。越後寒川を出てすぐの狐崎から鳥越山まで続く約11キロの海岸が名勝天然記念物の指定区域になっている笹川流れである。せっかくの景勝地を夜間に通過するのは忍びないが、昼間に何度か通過しているので目をつむる。笹川流れは澄み切った碧い海と白砂のコントラストが美しく、日本海の荒波の浸食によりできた数々の岩礁や洞窟と変化に富んだ景色が楽しめる。天気が良ければ明日訪問する予定の粟島もよく見えるはずだ。
 830Dは定刻の18時13分を4分遅れて村上に到着。さすがにくたびれたので、今日は村上で泊まることにしよう。鈴木(康)クンが駅近くの公衆電話で宿の手配をする。
「4,500円のビジネスホテルがあるよ」
「素泊まりでしょう?ちょっと高いな。せめて4,000円ぐらいで収まらない?」
再び鈴木(康)クンが公衆電話と格闘するが、成果はない模様。だんだん億劫になって、最初に鈴木(康)クンが見付けた4,500円の「トラベルINN」で妥協する。村上駅のすぐ目の前という立地条件だからやむを得ない。さっそくチェックインを済ませて身軽になり、やはり駅前にあった「福来軒」で夕食。今日は朝も昼もろくなものを食べていない。1日ぶりの食事となる「カツ丼」(650円)がすこぶる美味い。
「いやぁなかなかハードな1日でしたなぁ」
鈴木(康)クンはまだまだ元気そうだが、鈴木(竜)クンは終始無言。相当疲れているようで、今日は早寝をして明日に備えることにしよう。

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