ひらめきで暮らしを支える

第43日 象潟−酒田

1996年8月14日(火) 参加者:安藤・奥田

第43日行程  能代駅前の「旅館好楽」を7時過ぎに発ち、能代駅前を7時24分の秋北バスでスタートする予定だったが、いくら待てどもバスはやって来ない。首を傾げているところへ安藤クンが紙切れをもってやって来る。
「こんな紙切れを拾ったよ。今日は7時24分のバスは運休だね」
安藤クンが拾ったという紙切れは、停留所の時刻表に貼り付けてあったと思われる案内で、8月13日と14日は休日ダイヤで運行されるとのこと。再度、時刻表を確認してみると、7時24分発のバスは平日のみの運行であったことがわかる。次のバスは8時29分なので、1時間のロスで済んだが、それでも昨日のうちからわかっていれば、もう1時間ゆっくり眠れたと思うと悔しい。
 仕方がないので能代駅前にある能代市公設市場をのぞいてみるが、こちらもお盆の時期のためであるのか、閉まっている店が多くて活気がない。朝食がとれるような店もなく、やむを得ず能代駅のキヨスクで菓子パンを買って、駅の待合室で食べることになる。昨日の駅弁のようなケースが稀で、外周旅行の定番はこのパターンが多い。
 能代駅前8時29分発のバスは時間どおり現れ、本日の旅の仕切り直しとなる。秋北バスはその名のとおり秋田県北部を営業地域とするバスであるが、法学部に所属する私にとっては「秋北バス事件」(最高裁昭和43年12月25日大法廷判決)を連想してしまう。就業規則変更によって、定年制度を改正して主任以上の職の者の定年を55歳に定めたため、定年制度の対象となった労働者が解雇された事件で、新たな就業規則の作成・変更によって、既得権利を奪い労働者に不利益な労働条件を一方的に課することは原則として許されないが、当該規則条項が合理的なものである限り、個々の労働者においてこれに同意しないことを理由としてその適用を拒否することは許されないと解すべきとし、不利益を受ける労働者に対しても、変更後の就業規則の適用を認めたという判例である。もう30年近く昔の判例であるが、労働法を学ぶと必ず引用される事件であり、妙なところで秋北バスの知名度が上がってしまったものだ。
 能代市街地を抜けたバスは浅内沼を右手にしばらく国道7号線を南下し、八竜町の大曲から国道101号線に入る。しばらく八郎潟調整池の西部承水路沿いに続く国道101号線を走り続けるが、平凡な住宅街でバスを停めた運転手が振り返り、「終点ですよ」と声が掛かる。能代駅から50分近く揺られて運賃は800円だった。
 五明光には秋北バスのバス停標識に加えて、秋田中央交通のバス停標識が並んでいる。秋田中央交通のバスに乗り継げば、男鹿方面へ出られることは確認できたが、次のバスは11時30分までなく、2時間以上待たなければならない。しかし、地図を確認すると、国道101号線をこのまま男鹿方面へ5キロ程歩けば、野石という大潟村の中心部へ通じる道路との交差点があり、大潟村から男鹿方面へ向かうバス路線があるかもしれない。北海道ではレンタカーで散々楽をした旅を続けてきたのだから少しぐらい歩いても問題あるまい。
 西部承水路の対岸に広がる大潟村の大干拓地を眺めながら、野石を目指して黙々と歩く。こんな日に限って快晴で容赦なく夏の日差しが照りつける。
「久々に歩いたから、きついな。いつものように毎日歩いていれば少しは楽だったかもしれない」
珍しく奥田クンが奇妙な理屈を付けて弱音を吐く。今回は網走から1週間以上も旅を続けているのだからやむを得ないか。
 野石の交差点にたどり着いたのは10時30分。1時間少々で5キロの行程を消化したが、やはりいつもと比べると歩くペースも落ちている。期待した別系統のバス路線も見当たらず、ますます意気消沈する。しかし、五明光から来るバスをここで待ったとしても、バスは男鹿半島の根元を横切って船越駅へ出てしまうだけなので、ここまで来たらタクシーを利用して一気に男鹿半島の北岸をたどった方が無難だ。
 公衆電話でタクシーを呼んで、国道101号線をたどり、入道崎行きのバスが走っている牧野まで出ることにする。10分も待てば船越から三十五タクシーがやって来た。電話番号の局番が35だから三十五番タクシーと命名したとのこと。なるべく海沿いの道を走るように注文を付けて走ってもらう。五里合付近から海岸が現れ、間口浜では完全なシーサイドラインとなった。
 牧野入口に到着したのは11時ちょうど。タクシーの運転手は3人でバスに乗るならタクシーで入道崎へ行くのも大して金額は変わらないからと、しきりに入道崎まで連れて行こうとするが、野石から牧野までの料金メーターは4,410円。牧野から入道崎までの距離も同じぐらいはありそうなので、少なく見積もっても3,000円オーバーは確実で、明らかにタクシーの方が割高だ。
 牧野入口からはうまい具合に11時04分の入道崎行き秋田中央交通バスを捕まえることができた。坂上田村麻呂が東征の折に発見したと伝わる湯本温泉や石山温泉を中心に江戸時代から湯治場として栄えた男鹿温泉郷を経て、入道崎へバスが到着したのは11時41分。運賃は570円で、3人合わせても1,710円に過ぎない。タクシー料金の半額以下だったと思われる。
入道崎  入道崎は男鹿半島の最北端に位置する。一帯には草原が広がっており、牧場にでもいるかのような雰囲気である。まずは入道崎のシンボルでもある入道埼灯台に挨拶。青い空と海、緑の大地に白黒の縞模様の入道埼灯台はよく映える。初点灯は1898年(明治31年)11月8日で、灯塔の高さは24.4メートル。無線方位信号所(レーマークビーコン)が併設されている。海辺に歩み寄れば、一帯は海岸段丘が発達しており、日本海の荒波によって浸食された落差30メートルの断崖が姿を現す。穏やかな草原とは対照的だ。
 入道崎はちょうど北緯40度線上にあることから、灯台の近くには安山岩によるモニュメントが配置されている。安山岩は寒風山に採石場があり、男鹿石(寒風石)と呼ばれる緻密で硬い良質の石が採れるらしい。
 入道崎は男鹿国定公園の中心地だけあって、沿道には土産物屋や食堂が並んでおり、お盆休みの時期であることもあって大盛況。奥田クンはなまはげのお面に興味を示す。なまはげは男鹿半島の伝統行事で、毎年大晦日に鬼の面、ケラミノ、ハバキを身に付け、大きな出刃包丁や鉈を持ったなまはげが家々を訪問し、「泣く子はいないか。親の言いつけを守らぬ子はいないか。怠け者はいないか」などとわめき散らしながら子供を震え上がらせる。そして、親はなまはげをなだめながら丁重にもてなすという。赤鬼や青鬼のお面が並ぶが、もっとも安いお面でも3,000円ぐらいはするようで、気軽に買える代物ではない。奥田クンは悩んだ挙句、購入を見送り、代わりに手頃な値段のなまはげ人形を買っていた。
 さて、入道崎から先は戸賀までバス路線が途切れている。一旦、男鹿温泉まで戻って乗り継ぐこともできるのだが、あまりにも非効率だ。歩くにしても6キロぐらいありそう。朝から5キロ以上も歩いており、安藤クンはもう歩けないという。時間の効率を考えると戸賀までタクシーを利用するのが賢明と判断し、客待ちをしていた戸賀観光タクシーに乗り込む。
「戸賀にある男鹿水族館行きのバスに乗れる最も近い停留所まで行ってください」
奇妙な行き先に運転手が怪訝な顔をする。
「男鹿水族館に行きたいのだけど、持ち合わせがあまりないので、バスの走っていない区間だけタクシーに乗ろうと思いまして」
「男鹿水族館までなら3,000円ぐらいで行けるから、バスにわざわざ乗り継ぐよりもこのまま男鹿水族館まで行った方がいいよ」
運転手の申し出にしばらく思案する。先程のタクシーの運転手は入道崎までバスよりも倍近い料金で連れて行こうとしたから警戒心が出てしまう。しかし、入道崎から男鹿水族館までなら10キロぐらいで、3,000円という料金も良心的に思えた。
「じゃあ、3,000円で男鹿水族館まで行ってもらえますか?」
「わかった。3,000円を超えたら3,000円でいい」
商談が無事に成立して、タクシーで男鹿水族館を目指す。しばらく海沿いを走っていたが、道路は次第に内陸部へ入って行く。男鹿温泉と戸賀を結ぶ県道59号線とは立体交差になっており、回り込むようにして県道59号線へ。戸賀湾に出ると一転して穏やかな海岸線が続く。やがて料金メーターが2,970円を差したところで運転手がメーターを停める。
「約束だから2,970円でいいよ。このまま男鹿水族館まで行くから」
男鹿水族館の手前は道路が少々混雑しており、料金メーターが動いたままだったら気になって仕方なかっただろうが、事前に交渉をして正解だった。
 男鹿水族館から門前までは、男鹿海上観光の遊覧船で移動することとし,男鹿水族館13時20分発の門前行きに乗ることにして、1,650円の乗船券を購入する。出航まで40分あるので、男鹿水族館を見学しようかと思ったら、安藤クンと奥田クンは、水族館よりも昼食と主張する。私も水族館に特別興味があるわけではないので、2人の意見を尊重する。花より団子だ。
男鹿水族館  男鹿水族館に併設された戸賀観光食堂で昼食とする。戸賀観光タクシーと同じ会社が経営しているのかと思ったが、割り箸の紙袋には「戸賀観光開発(株)」とあり別の会社のようだ。なまはげに敬意を表して「赤鬼ラーメン」(700円)を注文する。秋田みそと比内鶏ガラスープを利用した手打ちラーメンで、ご当地ラーメンにふさわしい。美味しいが分量的に少々物足りなさを感じる。
 門前行き13時20分発の遊覧船「第一おばこ」は想像していたよりもかなり小さい船で、我々の他には定期観光バスの乗客が数名いる。定期観光バスのコースに我々が便乗させてもらっているかのような感じだ。
 男鹿水族館から門前までの海岸線は戸賀湾とは対照的に再び奇岩が続く。船体が小さいので岩場に近付くことも容易で、孔雀の窟に入り込んだりする。単純に奇岩を眺めるだけよりも変化があって楽しい。もっとも、船はよく揺れるので、奥田クンは気分が悪いと早々にダウン。私も船には弱いが、外で風に当たっている限りは酔わない。
 所要時間50分で門前に到着。定期観光バスの乗客は、先回りしているバスに乗り込むが、我々は路線バスへの乗り継ぎとなる。マイカー利用者であれば、門前から男鹿水族館に戻らなければならないが、男鹿水族館−門前間は道路が通じているにもかかわらず、直通するバスは存在しないので不便なこと極まりない。それゆえに定期観光バスの乗客以外の乗船客が少ないのだ。もっとも、男鹿水族館へ戻る不定期周遊船もあるらしく、多客時にはそちらで乗船客を集めるのであろう。
 門前駐車場から14時32分の秋田中央交通バスに乗り継いで男鹿駅へ。男鹿15時14分発の1142Dに接続しているはずなのであるが、バスはのんびりと走っており、間に合うのかと気が気ではなくなる。いつもであれば、周遊券か「青春18きっぷ」を手にしており、切符を購入する手間はないが、今回は男鹿駅で羽越本線の上浜までの学割乗車券を購入しなければならないので時間に余裕がないのだ。乗車券を上浜までとしたのは100キロ以上で途中下車ができるうえ、今日は象潟辺りまで行程が進みそうだったので、途中下車して切符を手元に残そうと考えたからである。
 バスはのらりくらりといくつかの岬を経て15時04分に男鹿駅へ到着。540円の運賃を払って男鹿駅の窓口へ走る。先客がいて指定券の購入に手間取っていたが、駅員が機転をきかせて15時14分の1142Dに乗ることを確認すると、先に対応してくれたので、無事に上浜までの乗車券を入手することができた。普通乗車券だけなら車内でも買えるけど、学割乗車券は事前購入が原則だから、車内では売ってもらえないことが多い。
 男鹿駅周辺を観察する時間もなく、バタバタと1142Dに乗り込んだが、発車時刻になっても動き出す気配がない。奥羽本線のダイヤが乱れているとかで、発車が少し遅れるという。かなり待たされるならバスの車内から見掛けた男鹿郵便局へ立ち寄りたいと思ったが、1142Dは3分遅れで発車した。
 1142Dは3両編成であるが、先頭車両だけが冷房車両となっているので、乗客はほとんど先頭車両に集まり混雑する。その他の2両はガラガラなので、我々は2両目に移動して窓を全開にする。
「この列車、全部ロングシートだよ。けしからんね」
安藤クンが憤慨する。今回の旅に合流するにあたって、丸1日かけて東北本線を普通列車で青森まで乗り継いできた安藤クンであったが、東北本線のほとんどがロングシート車両に置き換わっており、旅の風情も何もなかったという。何よりもボックス席のように車窓を眺めながらの旅ができないので、苦痛で仕方なかったとか。通勤通学ラッシュ時には、ロングシートの方が有難いのだろうけど、時間帯によって座席タイプが切り替わる車両でも開発してもらえれば有難いなと思う。
 男鹿線は羽越本線の追分から分岐し、男鹿半島の船川になる男鹿までを結ぶ全長26.6キロのローカル線。1916年(大正5年)12月16日に全線開業したが、当時は現在の男鹿駅が船川駅を名乗っており、路線名も船川線であった。1968年(昭和43年)4月1日から観光振興を目的に船川駅を男鹿駅に改称、路線名も男鹿線を名乗るようになって現在に至る。2年前の1994年(平成6年)7月19日までは、DD51形ディーゼルカーが客車列車を牽引しており、風情があったのだが昔話になってしまった。
 1142Dは男鹿駅を発車すると、船川港との別れを惜しむように車窓から日本海が消える。代わりに前方に寒風山が迫ってきて、周辺には水田が広がる。まるでどこかの山間を走っているかのような錯覚さえしてしまう。
 船越を出ると1142Dはまもなく船越水道を渡る。船越水道は、八郎潟調整池と日本海を繋ぐ水路である。もともと八郎潟は約220平方キロと琵琶湖に次ぐ日本第二位の面積を誇る湖であったが、戦後の食糧増産を目的として1957年(昭和32年)から20年の歳月と約852億円の費用を投じて17,000ヘクタールの干拓地を造成したことで知られる。八郎潟の干拓にあたっては、八郎潟に流れ込む川の水を日本海へ逃がしてやる必要があったため、船越水道を整備したのだ。かつては、船舶が往来できるように男鹿線の橋梁も可動橋が使われていたが、1977年(昭和52)に干拓事業が終了すると同時に役割を終えた。
 追分の手前で奥羽本線と合流すると、男鹿半島の旅も終了。想像していたよりも男鹿半島が大きな半島であったことが実感できたが、タクシー利用とはいえ、効率よく旅ができたので満足する。
 秋田港に近い土崎を経て、終点の秋田には定刻の16時11分に到着した。3分の遅れはしっかり取り戻したようである。秋田駅には来年3月に開業予定である秋田新幹線「こまち」をPRする横断幕が掲げられ、早くも開業ムードが漂っている。今年3月30日から秋田新幹線建設工事のため、田沢湖線が全線一時運休となっており、盛岡−秋田間に運転されていたL特急「たざわ」が廃止されてしまったので、不便を強いられている秋田の人達にとっては、1日でも早く秋田新幹線を開業してもらいたいという思いが強いのであろう。
 次の羽越本線は17時04分の酒田行き556Mである。1時間近い待ち時間があるので、駅近くの千秋公園に足を運んでみる。千秋公園は、初代秋田藩主佐竹義宣が自然の台地を利用して1603年(慶長8年)に築城した久保田城の城跡である。肝心の久保田城は1880年(明治13年)の大火で焼失してしまったとのこと。名称は秋田市出身の漢学者狩野良知による命名で、秋田の「秋」に長久の意の「千」を冠し、長い繁栄を祈ったものと伝えられる。
 二の丸広場を散策してみると緑が多く、秋田市民の憩いの場にもなっている。本丸北側の高台には、久保田城の見張り場と武器庫の役割を担っていた久保田城御隅櫓が復元されており、久保田城の面影を伝えるようでもある。
 秋田駅に戻って556Mに乗り込む。秋田市街を走り抜け、雄物川を渡ると再び日本海が現れた。しばらくは羽越本線が外周ルートをたどってくれるので有難い。羽後本荘で少々内陸に入ってしまうが、バスに乗り換えたところで同じことだろうから気にしない。既に太陽も傾いており、列車を1本落とせば、次は1時間後で、周囲も真っ暗になってしまう。このまま芭蕉縁の地である象潟を目指すことにする。
 途中、ダイヤが乱れたものの象潟には定刻の18時28分に到着。まずは宿の手配である。象潟駅前の公衆電話で電話帳をめくっていると、奥田クンが駅近くに「ビジネスホテル森一」を発見したとのこと。
「電話で予約しなくても直接交渉してもいいんじゃない。外観からしてそんなに高いとは思えないけどな」
奥田クンが先頭を切って「ビジネスホテル森一」へ入っていくので後を追う。
「ここは4,500円だけど、少し古いけど別館で良ければ3,500円でいいよ」
対応してくれたフロントのおばさんから有難い申し出を受けたので、別館で即決する。さすがに長期間の旅を続けているので懐も寂しい。
 もう夕暮れだけど、芭蕉の縁の地へ来たので、蚶満寺には挨拶をしておきたい。「別館には後で案内するから、先に食事にでも行って来れば」とフロントのおばさんから申し出があったのを幸い、荷物をフロントに預けて蚶満寺を目指す。
 蚶満寺は、853年(仁寿3年)に比叡山延暦寺の天台座主円仁(慈覚大師)が開山したと伝えられているが、歴史的な背景よりも松尾芭蕉の「奥の細道」北限の地として名高い。「奥の細道」は、松尾芭蕉が西行法師や能因法師の詠った地を訪れるのが目的であったが、「此の寺の方丈に座して簾を巻けば風景一眼の中に尽きて…」と書かれているように、かつて蚶満寺は、八十八潟九十九島の景色の要にあったという。しかし、1804年(文化元年)に大地震が発生し、一帯が干拓地に変貌してしまったとのことで、現在の蚶満寺は海から離れたところに位置する。
 JR羽越本線の踏切を渡って、夕暮れの水田を歩き、蚶満寺を目指すが駅からは意外に遠いうえ、はっきりとした案内標識も見当たらない。住宅街をさまよったりしながら30分近くかかって、ようやく寺院らしきところにたどり着いたときには真っ暗。その寺院が蚶満寺であるかも確認できないが、地図でも他に寺院は見当たらないので蚶満寺に間違いないだろう。当然のことながら人の気配もなく、地蔵がずらりと並んでいたりして少々薄気味悪い。そもそも蚶満寺の境内には、蚶満寺七不思議と称される伝説が残る。寺に異変があると「夜泣きの椿」が悲しい声で泣き出し、地面に安置させても翌朝にはモチの木の股に座ってしまうという「木のぼり地蔵」など、尋常ならない場所なのである。
「こういうところで写真を撮ると、現像してもらえないことがあるんだよね。変なものが写ったりしちゃうからね」
安藤クンがさらに薄気味悪い笑みを浮かべる。「夜泣きの椿」が泣き出す前に退散した方が賢明そうだ。
 帰りは元々波打ち際にあったと思われる松並木の参道を抜けてJR羽越本線の踏切を渡り、国道7号線に出る。国道7号線沿いにやって来れば迷わずに蚶満寺へたどり着けたのであろう。
 安藤クンも奥田クンも、夕食を食べに行くような元気もなくなっているようだったので、そのまま「ビジネスホテル森一」に戻る。案内されたのはすぐ近くの「シティーパレス」という私が学生時代に下宿していたアパート名と同じ名のビジネスホテルで、別館というよりも同じ系列の別のビジネスホテルだ。確かに建物は古いが安宿には泊まりなれているのでそれほど気にはならない。領収書には双方のホテル名が併記されていた。

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