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第42日 青森−象潟

1996年8月13日(月) 参加者:安藤・奥田

第42日行程  青森フェリーターミナルの到着を知らせる船内放送で目を覚ますと時刻は3時30分。周囲にいたはずのトラック運転手たちは既に姿を消している。早々に各自のトラックに戻ったのであろう。東日本フェリー2便「べすた」は、定刻の3時50分に青森フェリーターミナルに到着したが、先に車両の下船から始めるので、一般の乗船客はしばらく船内で待機させられる。それならばもう少しゆっくりと寝かせてもらいたいものだ。4時過ぎに一般乗船客の下船が開始する。既に船内では清掃が開始されており、慌ただしい気がしないでもないが、4時50分には再び函館を目指して出航しなければならないのだ。
 青森フェリーターミナルも青森駅と津軽線の油川駅の中間地点ぐらいに位置しており、少々不便さを感じるが、本来的にはカーフェリーで、自動車搬送を伴うのが通常であるから、青函連絡船代わりに利用する旅行者が文句を言う筋合いではない。
 まだ夜明け前の薄暗い街中を青森駅目指して歩く。青森フェリーターミナルの案内によれば、青森駅西口まで徒歩25分ということなので、それほど苦にはならないだろう。青森6時02分発の津軽線始発列車323Mに間に合えば支障はない。
 青森港沿いの大通りを黙々と歩いていると、やがて青森ベイブリッジに差し掛かる。青森港の渋滞緩和を目的に総工費約270億円をかけて建設し、1992年(平成4年)7月に供用開始された。PC斜張橋の4車線道路で、橋脚やケーブルなどいたる箇所に青森の頭文字である「A」の形が象られている。全長1,219.0メートルの長さも、1323.7メートルの八戸大橋に次いで青森県で2番目に長い橋だ。歩道も整備されているので、徒歩でも安心して渡ることができる。ところがこの青森ベイブリッジを途中まで渡って重大なミスに気が付いた。青森ベイブリッジは青森港と一緒に青森駅を完全に跨いで架けられているのである。眼下に青森駅の構内が広がったときには既に時遅し。一旦、青森ベイブリッジを渡り切ってから、再び青森駅を目指して引き返す羽目になった。おかげでフェリーターミナルから青森駅までは40分以上も掛かってしまう。
 青森駅の待合室には、ここで一夜を過ごしたのではないかと思われる旅行者もおり、早朝から既にベンチはほとんど占拠されている。仕方がないので構内をふらふらして時間を潰していると、嬉しいことに駅弁屋がもう店を開けている。5時18分に急行「はまなす」から5時27分発のL特急「はつかり2号」に乗り継ぐ乗客を見込んだ営業であろうか。せっかくなので朝から奮発して伯養軒の「帆立釜めし」(900円)を購入し、早めにホームに上がる。
 青森6時02分発の蟹田行き津軽線始発列車323Mは、時刻表を見るとグリーン車のマークが掲載されている。グリーン車を連結した普通列車など東京近郊でしか見掛けないが、津軽線のようなローカル列車にどうしてグリーン車が連結されているのか少々気になっていた。その答えはホームに上がった途端に氷解。国鉄色の485系特急車両が323Mとしてホームに入線していたのだ。L特急「はつかり」の間合い運用であろう。時刻表で確認すると、323Mの蟹田折り返し運用と思われる328Mにもグリーン車マークが掲載されているので、早朝の1往復だけ特急車両が津軽線の普通列車として務めを果たす。蟹田折り返しとなる328Mは蟹田を7時07分に発車し、青森には7時57分到着と時間帯が良いので、朝の通勤通学客の需要が高い列車であると推測される。通常の津軽線での車両編成では、乗客の積み残しが生じてしまうため、この列車に限り、L特急「はつかり」の編成を代用させているのであろう。それにしても、グリーン車を普通車として開放したり、完全に閉鎖するのではなく、グリーン券を販売して利用させるというのはJR東日本もなかなかしたたかだ。少なくとも323Mでグリーン車の利用は皆無であるが、もしかしたら混雑した車内を敬遠して優雅な通勤を好む需要があるのかもしれない。
 さて、青森から三厩までは、既に北海道へ渡る前に外周の旅としてはたどっているので、この区間はアプローチのようなもの。快適な車内「帆立釜めし」の豪華な朝食とする。釜めしといっても横川駅の「峠の釜めし」のように陶器製の容器に入っているわけではなく、こちらは赤茶色のプラスチック製容器。しかし、小粒ながらもむつ湾産の帆立が10個ぐらい入っており、味もしっかりしている。昨年の外周旅行の途上で購入した野辺地駅の「ほたて弁当」(550円)といい、青森県の駅弁なら帆立系が間違いない。
 不足気味の睡眠を補っているとあっという間に終点の蟹田到着で、ホームにはやはりスーツ姿のサラリーマンが目立つ。夏休みなので学生の姿は少ないが、普段はもっと多くの乗客がホームに待ち構えているのであろう。
 蟹田で325Dに乗り継ぎ、ようやくローカル線らしくなる。中小国で分岐する津軽海峡線を確認した後、再び睡眠を補い、終点の三厩には8時ちょうどに到着した。前回、三厩にやって来たのはまだ残雪の多い3月だったのでまったく印象が異なる。
 三厩駅前からは8時12分の竜飛行きの青森市営バスに乗り継ぐ。こんなところまで青森市営バスの管轄になっていることは驚きだが、バスの運行を周辺自治体が委託できる先が青森市営バスぐらいしか存在しないという事情もあるのだろう。
 三厩村の市街地を抜けるとバスは義経寺前に立ち寄る。源義経が津軽海峡から北海道へ逃れた伝説を伝える寺で、義経が祈りを捧げた観音像が安置されている。江差の鷗島で化石になってしまった馬もこの地で白髪の翁から授かったもので、義経寺の前にある厩石には3頭の龍馬が繋がれていたとのこと。三厩村の由来も三馬屋からとあっては、にわかに義経伝説を嘲笑ばかりしていられなくなる。下車してみたいポイントであるが、次のバスまで2時間30分近くも開いてしまうので断念する。
 バスは三厩湾に面した国道339号線をゆっくり北上する。昨年3月は猛スピードの乗用車に便乗したためか、バスのスピードがあまりにも遅いように錯覚してしまうが、終点の竜飛には定刻の8時50分に到着。昨年は竜飛崎の先端まで連れて行ってもらったが、バスは手前の集落までしか入らないので、歩いて再度竜飛岬を訪問。前回は吹雪の中で写真を撮った記憶しか残っていなかったが、改めて太宰治文学碑と帯島を眺めて満足する。
 9時を過ぎたので集落に戻り、竜飛岬郵便局で旅行貯金をするとおやっと思う。「本州最北端竜飛岬郵便局」というゴム印が押されたのだ。本州最北端の地は1995年(平成7年)3月15日に訪れた大間崎で、確か大間崎にも郵便局があったはずだ。帰宅して過去の通帳を確認してみると、やはり「本州最北端大間郵便局」のゴム印が押されている。地図を見れば明らかに大間崎のある下北半島の方が北にあるので、竜飛岬郵便局が最北端を名乗るのは正確ではないが、実害はないので細かいことは気にしない。ついでに不要になった北海道の地図や資料、洗濯物などを土産物と一緒に実家へ郵送する。ゆうパックはその場で段ボール箱も入手できるので重宝する。
階段国道  竜飛崎へ来たからには灯台にも挨拶しておきたい。局員に灯台への行き方を尋ねると、名高い階段国道を登って行くとたどり着けるらしい。国道339号線の指定区間の一部が全国で唯一階段になっており、階段国道と呼ばれている。「階段国道」の案内標識があり、竜飛集落内の路地を歩く。この区間も立派な国道で、国道にしている箇所は路面が赤くなっている。やがて階段国道の入口にたどり着く。段数は片道362段あり、急勾配で道幅も狭い。国道というよりは、遊歩道でも歩いているような気分になる。途中に休憩するためのベンチが設置されているので尚更だ。国道339号線の道路標識がなければ、誰も国道とは思うまい。
 階段国道を登り切ったところで立派な車道が現れ、旅館やホテルまで建っている。目指す竜飛崎灯台もすぐ近くだ。白亜の竜飛崎灯台は、津軽海峡の西側の玄関口に位置し、初点灯は1932年(昭和7年)7月1日のこと。高さ14メートルで、霧信号所の他、宿舎も併設されている。ここは数少なくなった有人灯台で、現在でも海上保安庁の職員が交代制で勤務しているのだ。
 近くには石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の歌碑が建っている。「津軽海峡冬景色」と言えば「上野発の夜行列車降りたときから」のフレーズが有名であるが、竜飛岬も「ご覧あれが竜飛岬北の外れと見知らぬ人が指をさす」と歌われている。
 高台から津軽海峡を望むと微かに確認できる対岸は、北海道の白神岬であろうか。風が強くて夏場だというのに肌寒い。竜飛崎へ来るときはウィンドブレーカーが必要だ。
 さて、福島町の「青函トンネル記念館」は振られたが、三厩村の「青函トンネル記念館」は開館しており安心する。こちらは朝早くから駐車場にもマイカーが並び盛況だ。窓口で入館料350円と体験坑道乗車券750円を購入する。体験坑道は青函トンネル竜飛斜坑線と呼ばれる全長800メートルの日本一短いケーブルカーで、立派な私鉄の仲間である。三厩村の「青函トンネル記念館」が盛況な理由は、やはりこの体験坑道に魅力があるからであろう。坑道乗車券は記念館駅10時13分発の7便が指定された。
 体験坑道まで時間があるので館内を見学。写真や映像、模型を使って、青函トンネルの構想から完成までの歴史、本坑の他に先進導坑と作業坑の3つのトンネルが掘られた青函トンネルの複雑な構造の解説がある。体験坑道に向かう前に、展示を見学しておくとイメージが持ちやすい。
 指定された時刻に近付いたので、ケーブルカーの乗車口に移動する。オレンジのボディのケーブルカーで1両編成。定員は40名とのことで、見掛けよりも乗車定員は多い。ケーブルカーはゆっくりと海面下140メートル地点へ下って行く。竜飛海底駅に近い体験坑道駅までの所要時間は9分。青函トンネル内で緊急事態が生じたときは、竜飛海底駅からこのケーブルカーを使って乗客を避難させることになる。
 体験坑道は、青函トンネルの工事の作業坑の一角を利用して造られていた。実際に掘削に利用した機械や器具が展示され、工事現場の雰囲気を醸し出している。トンネルの掘り方や完成までの工程に関するパネルも展示されている。体験坑道から竜飛海底駅の見学までをセットにしたコースもあるのだが、我々が体験坑道のみのコースであったため、竜飛海底駅へ通じる通路の手前でUターン。約30分間の体験坑道の見学コースを終え、地上に戻る。帰りの所要時間は7分で、若干スピードアップしている。
 奥田クンが公衆電話で小泊までのタクシーを手配すると、三厩営業所から迎えに行くので少々時間がかかるとのこと。それならば少々早いがここで昼食にした方が良さそうだ。11時30分に記念館まで迎えに来てもらうように頼んでおく。
 記念館に併設されている海峡味処「紫陽花」で早めの昼食。早朝に「帆立釜めし」を食べただけなので、小腹も空いていたのでちょうどいい。刺身や帆立のメニューもあるが、朝から駅弁を購入してしまったこともあり、控え目に「海鮮五目ラーメン」(750円)を注文。シーフードと炒め野菜が入っており、まずまずの味だ。
 11時30分の5分程前に記念館の玄関前に出てみると、タクシー1台が停まっていたので運転手に声を掛けると奥田クンが手配した上磯合同タクシーであった。荷物をトランクに積んでさっそく小泊を目指す。上磯合同タクシーは今別と三厩に営業所を持つタクシー会社で、社名の由来は北海道の函館郊外にある上磯からとのこと。本社が上磯にあるわけでもなく、社長が上磯出身なのであろうか。
 記念館からはしばらく尾根伝いに通じる国道339号線を走る。前方に巨大なプロペラ郡が現れ、竜飛ウィンドパークであると運転手が教えてくれる。1992年(平成4年)3月に、東北電力がNEDO(新エネルギー産業技術総合開発機構)と共同で設置した風力発電実証研究設備だ。竜飛崎の風の強さを考えれば、風力発電に活かしたいと考えるのは当然であろう。
 やがて青函トンネルの工事資材を運ぶために建設された立派な県道が左手に分かれると、幅員が狭くなり、地方道のような装いになる。ここから先の区間は毎年11月中旬から4月下旬までの冬期間は閉鎖されてしまう。JR海峡線はちょうどこの道路の下に通じているはずだ。
 記念館から10分も走ると、タクシーの運転手は眺瞰台(ちょうかんだい)という展望スポットで便宜停車してくれる。ここは竜飛崎を望む展望所として、人気のドライブスポットらしい。大型車と小型車に区分した立派な駐車場も整備されており、観光バスがやって来ることもあるのだろうか。ゆっくりしているとタクシー代が加算するので、写真撮影をしてそそくさと車内に戻る。
 眺瞰台からは尾根を左手に外れて下り始める。急カーブも続き、運転も慎重になる。対向車が来れば難儀しそうだが、その心配はほとんどない。尾根を下り切ったところが坂本台園地で、緑の山の稜線と青い海岸線が続く。
 坂本台からは日本海に面した海岸沿いの道路が続き、山岳からの清流が七段の断崖に落下する七つ滝を経て、小泊の集落を目前にしたところで国道339号線は標高186メートルの三角山に行く手を阻まれて迂回。小泊村の「小説『津軽』の像記念館」前に到着したのは12時10分。記念館からは40分を要し、料金メーターは5,300円となっていた。個人で支払うタクシー代としては最高記録だが、3人いるので1人あたりの負担は1,800円弱である。
小説『津軽』の像記念館  太宰治と言えば、金木町の斜陽館が有名であるが、小泊村は、太宰治が2歳から6歳になるまでの間、子守役を務めた越野タケ縁の地である。太宰治の「津軽」には、1944年(昭和19年)5月に越野タケとの小泊村での30年ぶりの再会の場面が書かれていることから、1996年(平成8年)4月26日に「小説『津軽』の像記念館」をオープンした。まだ、開館から4ヵ月にも満たないが、お盆の季節に誰も先客がいないのは寂しい。受付の女の子も手持ち無沙汰にしている。300円の入館料を支払って見学すると、太宰治が「津軽」でたどった足跡や越野タケとのエピソードなどを中心に展示がされている。しかし、「津軽」と越野タケの話題だけの展示では少々物足りなさを感じ、斜陽館とのタイアップなど、太宰治のファンを惹きつけるべく、しかるべき措置を講じなければ、観光客の集客は難しいのではなかろうか。
 「小説『津軽』の像記念館」の向かいには、小泊小学校があり、ここの運動場で太宰治と越野タケは再開を果たしたそうである。その小学校前停留所から12時50分発の十三湖経由の五所川原営業所行きの弘南バスを捕まえた。小泊から五所川原へ向かうバスは、海岸沿いの十三湖経由の路線と内陸の中里経由の路線があるのだ。
 小泊岬に見送られながら、国道339号線を南下。内陸に入る国道339号線から県道12号線に入り、十三湖に面した中の島公園入口で下車する。小泊から30分を要し、運賃は760円。弘南バスにはしばらくお世話になるので、回数券を購入して節約に努める。
 十三湖は岩木川の河口にある周囲30キロ、水深は最大1.5メートルの湖だ。日本海にも直接面しており、海水と淡水が混合した汽水湖である。島根県の宍道湖、青森県の小川原湖と並ぶ日本有数のしじみの産地だ。資源保護のために1日の漁獲制限や禁漁区禁漁期間を決めるなどして大和シジミの資源維持に努めているとのこと。
 中島遊歩道橋という全長250メートルのヒバの橋を渡って十三湖浮かぶ中ノ島へ。中ノ島には「十三湖中の島ブリッジパーク」というキャンプ場やログハウス風のケビンハウスがあり、子供達の声が賑やかだ。幻の鳥といわれるオオセッカや天然記念物の大鷲などの姿が観察できるほか、スズキ、チヌ等の好釣場でもあるので、キャンプには最適な場所である。
 十三湖と日本海を結ぶ河口に架かる十三湖大橋を渡り、十三郵便局で旅行貯金。郵便局の前にある十三局前から定刻の14時43分よりも7分遅れでやって来た五所川原営業所行きの弘南バスで、木造を目指す。バスはしばらく十三湖の湖岸道路を走るので、荒涼とした十三湖の様子も車窓から確認することができる。
 縄文時代のシンボル的な遮光式土器がはっけんされた亀ヶ岡石器時代遺跡のある亀ヶ岡を経て、木造町の中心部に入るが、困ったことにこの弘南バスでは一切車内アナウンスがない。車窓と地図を見比べながら、JR五能線の木造駅に近い木造警察署前で降りる。十三局前からの運賃は1,300円と結構な金額だが、間際に降車ボタンを押したので、運転手は無愛想。地元の人しか利用しないからアナウンスなど必要ないのかもしれないが、運転手の怠慢である可能性の方が高く、こういったことの積み重ねが事故の原因になることを弘南バスには肝に銘じてもらいたい。
 木造警察署から木造駅までは徒歩で10分少々の距離。木造駅にも遮光式土器のレリーフが掲げられている。木造からはJR五能線の看板列車である快速「ノスタルジックビュートレイン2号」に乗車する予定であるが、発車時刻の16時25分まで時間がある。時刻表を見れば、木造16時02分の弘前行き831Dがあり、五所川原到着は16時09分。一方、「ノスタルジックビュートレイン2号」の五所川原発車時刻は16時17分なので、余裕をもって「ノスタルジックビュートレイン2号」を迎えに行くことができる。五能線は初めて乗る路線だし、津軽鉄道が分岐している五所川原へは出掛ける機会にも恵まれそうだが、後になって木造−五所川原間が虫食いのように未乗区間として残りそうな気がして、外周旅行からは脱線するけど、この機会に木造−五所川原間を往復しておくことにする。乗車券は青春18きっぷ利用なので問題ないし、「ノスタルジックビュートレイン2号」の指定券も弘南バスで五所川原へ出る可能性もあったので、五所川原−東能代間で用意していた。
 831Dに乗り込み、五所川原まで1駅移動。安藤クンが「木村タクシー」の看板を見付けて「キムタクだ!キムタクだ!」と騒いでいる。ジャニーズの人気ユニットSMAPの木村拓哉の略称であるが、確かに木村タクシーも「キムタク」には違いない。  831Dは五所川原で10分停車し、「ノスタルジックビュートレイン2号」と行き違うダイヤになっている。しばらく831Dの車内で「ノスタルジックビュートレイン2号」の到着を待っていたが、発車時刻になっても「ノスタルジックビュートレイン2号」は姿を現さない。ホームに出て見れば5分遅れで運行しているとのこと。
 黄色と黒色のツートンカラーに白色のラインが入った「ノスタルジックビュートレイン2号」は16時20分頃に姿を現した。ディーゼル機関車DE10に牽引されて改良50系客車を連ね、最後尾は展望仕様になっている。まずは指定された座席に落ち着くと、向かい合わせのボックス席で大きな木製のテーブルが設置されている。831Dは非冷房車両であったが、こちらは冷房が効いており生き返るようだ。遅れているのですぐに発車すると思われた「ノスタルジックビュートレイン2号」は、3分近く五所川原に停車して、16時23分に発車。定刻よりも6分遅れとなる。
 「ノスタルジックビュートレイン」は、1988年(昭和63年)4月21日より、車窓のすばらしい五能線を活性化するため、秋田・東能代−弘前間の観光列車としてJR東日本が運転を開始したのが始まりである。結果的にこの企画は成功し、五能線は旅行会社のツアーにもわざわざ組み込まれるほどの観光路線に成長したのだ。定期列車のダイヤを利用しての運行であるため、自由席普通車も連結しているが、指定席に限り特別仕様の眺望車両となっている。
 しばらくは津軽平野を走る。左手には津軽富士と呼ばれる岩木山がそびえ、麓にはりんごの果樹園が広がる。この辺りは日本最大のりんごの栽培地なのだ。反対側車窓には、沼や池も点在しており、水田が広がる。こちらは津軽米の栽培か。
 やがて車掌がオレンジカードの販売にやって来る。せっかくなので雪が冠する岩木山を背景に津軽平野を走る「ノスタルジックビュートレイン」のオレンジカード1,000円券を安藤クン共々1枚ずつ購入する。
「今日はどちらで御泊りですか?」
世間話をしてくる車掌も珍しい。観光列車だからであろうか。
「まだ決めていません。本当は艫作の不老不死温泉に泊まりたかったのですが、お盆の時期なので満室と断られてしまって。とりあえず東能代まで行ってみるつもりですが、他にどこかいいところがあれば教えてください」
できれば今日の宿泊は多少奮発してでも、日本海に面した露天風呂がある艫作の不老不死温泉に泊まりたいと考えていた。外周予算を大幅に上回るので、事前に安藤クンと奥田クンの了解を得て、十三湖でバスを待っている間に「不老ふ死温泉」の予約を試みたが、あえなく満室と断られてしまったのだ。
「そうですね。地元にいるとなかなか思い付かないなぁ。でも、東能代には何もないですよ。東能代だったら能代で降りた方がいいです」
散々頭を悩ませた車掌であるが、結局、五能線沿線のお勧め宿泊地を授けてもらうことはできなかった。もちろん、沿線についてまったく無知だったわけではなく、列車の運転本数の少ない五能線で一軒宿などを案内して、満室だったりしたら、我々が路頭に迷うことになるので明言を躊躇したのであろう。質問した本人だって、能代までに飛び込みで宿を探せそうなのは深浦ぐらいしかなさそうだと思っていた。
 鰺ヶ沢到着が近付くと、突如右手に日本海が広がる。ここから先が五能線のビューポイントの始まりだ。鰺ヶ沢を出たところで、最後尾の展望室へ移動する。展望室は現在では珍しい吹きっさらしの状態で、目の前を線路が流れていく光景は壮観。傾きかけた太陽の光が海面で反射してきらきら輝いている。発車の合図をするためのものであろうか。なぜか展望室に鐘が設置されていたので、順番を待って鳴らしてみる。ほとんど列車の音でかき消されてしまってあまり音は響かない。
 座席に戻り、再び車窓に注目すると、国道101号線を挟んだ海岸に平らな岩肌が近付いてくる。列車はやがて駅舎のない1面1線の単式ホームに停車。千畳敷駅である。千畳敷は、大戸瀬崎に広がる岩畳で、海岸美の続く深浦でも有数の景勝地だ。1792年(寛政4年)の大地震で地盤が隆起し、日本海の荒波に浸食された海底が姿を現したという。江戸時代に領内の巡検を兼ねた藩主がこの千畳敷に畳千畳を敷き、200間の幕を張って宴を催したことからその名が付いたそうだ。この辺りには奇岩も多く、形が西洋の兜に似ていることから名付けられたカブト岩、潮吹き岩、ライオン岩などがあるらしい。
ノスタルジックビュートレイン  「ノスタルジックビュートレイン2号」は、定刻の17時36分よりも10分近く遅れて深浦に到着。深浦の発車時刻は18時08分で、正常ダイヤであれば34分も停車することになっていた。今日も列車が遅れているとはいえ、20分以上も停車することになるので駅前を散策してみる。
 深浦は江戸時代中期から明治時代にかけて、神方と蝦夷地を結ぶ北前船の風待ち湊として栄え、大阪や京都などからの文化導入の表玄関として発展したという。また、太宰治は1944年(昭和19年)5月に深浦を訪問し、「秋田屋旅館」に滞在していた様子を「津軽」執筆しており、小泊村と同様に太宰治縁の地である。しかしながら、これらに関する名所はわずか20分程度の停車時間に足を運べるような場所にはなく、駅前の観光案内を眺めるだけで車内に戻る。どうせなら千畳敷で長時間停車をしてくれた方が観光客も喜ぶと思うのだが、鰺ヶ沢行き529Dと深浦ですれ違う必要がある以上、やむを得ないダイヤなのであろう。
 再び奇岩や怪石が連なる海岸線が現れ、不老死温泉のある黄金崎を眺める。不老不死温泉は、日本海が目の前に広がる海岸と一体化した絶景の露天風呂で、しばしばメディアでも紹介される人気のスポットだ。泉質は、含鉄ナトリウム・マグネシウム塩化物強塩泉で、褐色の湯が特徴である。波の高いときは温泉が波でさらわれてしまうので、入浴できないらしい。五能線再訪時には必ず入浴を果たしたい。
 車窓から眺める海岸線は、次第に穏やかな表情になっていくが、太陽はますます傾き、見事な夕焼けが広がった。不老不死温泉から眺める夕陽を想像していたが、五能線から眺める夕陽もまた格別である。不老不死温泉に泊まることはできなかったが、その引き換えに車窓からの夕陽を眺めることができたのだからよしとしよう。
 「ノスタルジックビュートレイン2号」は、大間越−岩舘間で県境を通過し、外周の旅も青森県から秋田県に舞台が移る。今日、青森入りしたばかりなので、呆気なく青森県の旅が終わってしまったような気がするが、北海道入りする前にも青森県を旅しているので、青森県の旅行期間は通算で7日間となった。
 東能代には定刻の19時37分に到着。「ノスタルジックビュートレイン2号」はこの後、奥羽本線に入って秋田を目指すが我々はここで列車を見送る。車掌には能代下車を勧められたが、五能線の能代−東能代間を乗り残すのが嫌だったので東能代まで乗り通した。東能代−能代間には区間列車も多いので心配は不要だ。次の五能線は、東能代19時53分の岩舘行き225D。列車の待ち時間を利用して能代駅近くの宿を手配する。運良く能代駅から徒歩5分の「旅館幸楽」を素泊まり3,500円で予約できた。  東能代19時49分発の「ノスタルジックビュートレイン2号」を見送って、225Dに乗り込む。225Dは能代より先へ行く五能線の最終列車だというのだから驚く。米代川に沿って1駅、能代に運ばれると駅前は殺風景な東能代よりも賑やかだが、ほとんどの店はシャッターを下ろしてしまっているので寂しく感じる。かろうじて暖簾を出していた駅前の「かねだ食堂」に入り、「かつ丼」(600円)の夕食となる。地元の人でかなり賑わっており、なかなか人気のあるお店の様子。
「おおっどこから来た?能代はここ以外のお店、どこも開いてねえから仕方なくここに来ているんだ」
常連客らしき人が悪態をつき、女将さんが戒める。
「だったら帰ってもらって結構。ごめんね。変な酔っぱらいがいて」
少しばかり能代の様子を垣間見たようで楽しい。
 「旅館好楽」もビジネスマンを対象としているためか先客はなく、我々の貸し切り状態。出迎えてくれた女将さんは「暑かったでしょう」と冷えた麦茶とメロンでもてなしてくれた。能代の隣にある八竜町ではメロンが特産品とのこと。昨夜はフェリーでの仮眠しかできなかったので、今日はぐっすり眠れそうだ。

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