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第41日 奥尻−青森

1996年8月12日(月) 参加者:安藤・奥田

第43日行程  「川尻旅館」で奥尻島での一夜を明かす。朝食は6時30分から8時30分までとの案内だったので、7時前に食堂へ赴く。今日は7時40分のフェリーで瀬棚へ戻らなければならない。実質的に奥尻島は半日の滞在しかできなかったが、のんびりしていれば外周旅行がいつまでも先に進めなくなるのでやむを得ない。
 「川尻旅館」は奥尻港フェリーターミナルのすぐ近くにあるので、出航直前まで宿でゆっくりできるのはありがたい。7時30分にフェリーターミナルへ赴くと、既に乗船が始まっていた。窓口で2等船室の乗船券を購入すると、乗船券は鉄道でもあまり見掛けなくなった硬券乗船券で、学生割引が適用されて1,240円になっているにもかかわらず、額面は1,540円のままだ。
 東日本海フェリー「第5ひやま」は定刻の7時40分に出航。船内は観光客よりも島民の方が多いようである。今日は月曜日でもあることだし、北海道本土への所用客が多いようだ。やはり奥尻港を出航すると船体が大きく揺れる。対馬海流の影響であろうか。瀬棚が近付くにつれて穏やかになり、瀬棚港には定刻の9時15分よりも5分早着した。
 瀬棚港フェリーターミナル駐車場で一晩を明かしたマツダレンタカーのフェスティバに対面。当て逃げされていないか心配だったが、車体を確認した限りキズは見当たらないので安心する。今日は一気に函館まで南下し、北海道最後の日となる予定だ。
 瀬棚港を9時25分に出発。ハンドルは引き続き安藤クンに委ねる。国道229号線を快調に走ったのも束の間、北檜山町の市街地の手前で海岸沿いの道道740号線に入る。この道道740号線が曲者で、手元にある地図では積丹半島と同様に鵜泊から太田までの区間が破線で記載されている。地図が発行された当時は整備中であることには間違いないが、既に供用開始されているのかどうかが気掛かりだ。
 途中、太櫓(ふとち)の集落に郵便局を見掛けたので立ち寄ると、新築の郵便局なのに人の気配がない。通り掛かりの人に尋ねれば、まだ移転前とのことで、近くにある太櫓郵便局の場所を教えてくれた。
「ずっと旅をしているのかい?」
旅行貯金のために通帳を差し出すと、太櫓郵便局の局員から声が掛かる。現在のページのトップは雄武郵便局で、主だった郵便局だけでも、日本最北端の大岬郵便局、礼文島の香深郵便局、利尻島の鷲泊郵便局、天売郵便局、焼尻郵便局と続いているので、ずっと旅を続けているという印象を持ったのであろう。
「ええ、5日に北海道へやって来まして、網走から海岸線に沿って旅を続けています」
「そうですか。いいですね。ここは北海道本土で最西端の郵便局なのですよ」
今まで北海道本土の最西端なんて概念を持ったことはなかったが、地図を見れば確かにこの辺りが離島を除けば北海道の最西端に近そうだ。北海道の最北端は宗谷岬、最東端は納沙布岬であることは容易に想像がつくが、最南端と最西端はどこだろうか。真っ先に襟裳岬が思い付いたが、これは誤りで、地図を確認すれば松前の白神岬が北海道最南端であることがわかる。そして、最西端はと言えば、地図上では道路が破線で記載されている尾花岬であった。今日はまとめて北海道最西端と最南端を訪れることになるが、尾花岬だけは行き着くことができるのか不安が残る。念のため局員に海岸線沿いの道路が大成町へ続いているか尋ねてみる。
「さあ、かなり前から工事をしていたけどね。普段は瀬棚方面にしか行かないからわからないな」
 とりあえず先に進んでみるしかなさそうだ。仮に行き止まりでも積丹半島と比べれば時間のロスは少ない。鵜泊集落を抜けて、水垂岬を通過する。道路は整備されており、このまま行けそうだと思った途端に、「発破作業中通行止」という物騒な看板に出くわす。車止めのようなものは設置されていないが、レンタカーごと爆破されたらたまったものではない。無駄な抵抗は止めて素直に北檜山へ引き返す。
 北檜山で国道229号線に入り、内陸部を迂回。途中で若松郵便局に立ち寄れたことが迂回による余得だ。大成町に入り、今度は南から尾花岬を目指して北上する。帆越岬を通過し、太田集落までやって来たが、やはり太田から先は通行止め。北海道最西端の尾花岬へは道路が通じておらず、太田から眺めるだけに終わる。
 再び国道229号線に戻って南下。すぐに道の駅「てっくいランド大成」があったので休憩とする。「てっくい」とはヒラメのことで、この地域の特産品のようだ。ヒラメをモチーフにしたキャラクターも存在する。すぐ目の前に海水浴場があるので、コインシャワーも併設されており、海水浴客の利用が多いようだ。
 ここから先は、海岸沿いにタヌキ岩、マンモス岩、親子熊岩などの奇岩が続く。硬い溶岩と脆い火山灰からなる火山岩が波や風雨で浸食され、変化に富んだ海岸線と不思議な形の岩塊が形成されたという。
 やがて熊石町の境界に近い長磯で渋滞に巻き込まれる。道路工事でもしているのかと思ったら、はっぴ姿の人達が行き交い、しばらくするとピッピッという笛の音がして、自動車に引かれた神輿とすれ違った。
「担ぎ手がいないから車で御神輿を引っ張っているのかな」
奥田クンがつぶやくが、擦れ違っただけなので、単に御神輿を祭りの会場に誘導しているだけかもしれない。
 熊石町から乙部町に入り、突符岬にある元和台海浜公園で休憩。高台にある展望台から海辺を見下ろすと、周囲を防波堤で囲み、海岸をカラーブロックで整備している。「海のプール」と名付けられており、外海が荒れていても子供が安心して海水浴が楽しめるというコンセプトらしい。完全に外海と遮断されているわけではないので、本当に安全なのかは疑わしいところだが、通常の海水浴場と比較すれば確かに波の影響は受けないであろう。夏休み期間中の週末には、ウニやホタテを放流し、子供達に掴み取りの体験学習をさせているとか。ここから「海のプール」へは、巨大なループ橋で結ばれている。
 「海のプール」以外に目を惹くのは、「オートピアわんぱく丸」という北海道と本州を結び交易に重要な役割を果たした北前船を模した遊戯施設だ。全長30メートルの船体を中心にすべり台や木製遊具が設置されている。夏休み期間中なので小学生の姿が多く、黄色い声が飛び交っている。周辺の子供達にとっては、貴重な遊び場なのであろう。
 13時をまわってようやく江差町の市街地に入った。町名の由来はアイヌ語の昆布の意味である「エサシ」から。人口はわずかに11,000人程度の小さな町であるが、檜山支庁所在地で、知名度は抜群に高い。江差追分の影響もあろうが、やはりJR江差線の存在も大きいと思われる。
 江差線は五稜郭−江差間79.9キロを結ぶローカル線で、1936年(昭和11年)11月10日に湯ノ岱−江差間の20.7キロが延伸開業して全通した。1968年(昭和43年)9月に国鉄諮問委員会が提出した「赤字83線」にも挙げられて廃止の危機にも直面したが、並行する道道5号線が未整備であったうえ、五稜郭−木古内間の37.8キロが本州と北海道を結ぶ津軽海峡線の一部に組み込まれたことから、今日まで存続するに至った。鉄道の路線が残れば、時刻表にもしっかりと江差の地名が記載される。
 奥尻島を結ぶ東日本海フェリーの江差港フェリーターミナルを右に見て、江差のシンボル的な存在である鷗島を目指す。鷗島は、島の形が翼を広げたカモメの姿に似ていることから明治時代になってから名付けられたという。
 どこかにレンタカーを停めようとするが、駐車場はほぼ満車状態で、なかなか空きスペースがない。運良く軽トラックが駐車場から出ていったので、すっと安藤クンがレンタカーを滑らせる。この辺りの腕前は感心する。
 鷗島周辺も子供の姿が多い。夏休みなので函館辺りから日帰りでドライブや海水浴に来ているのであろう。人口の割には賑やかな場所だと感じるが、過疎地ばかりを旅して来たので印象が大きく左右されているのかもしれない。
 陸続きになっている鷗島に渡ると、右手に「かもめの散歩道」なる板張りの回廊が続いている。ところどころ海上に回廊が渡されているので、まるで海を歩いているかのような気分だ。沖合には高さ10メートル程の瓶子岩が出迎えてくれる。今から約500年前、江差が不漁で飢餓に苦しんでいたところ、折居婆(おりんばば)という老婆が鷗島で白髪の老翁からもらった神水を海に注いだところ、たちまち鰊が群来するようになったという伝説が残る。瓶子岩は、その神水が入っていった瓶子が岩になったものであるとか。毎年7月上旬に開催される「かもめ島まつり」では、町内の若者が瓶子岩に海上安全や大漁を祈願して真新しいしめ縄を掛け替える儀式がある。
 鷗島の北側には、かつて弁天様と呼ばれていた厳島神社がある。「江差の五月は江戸にもない」とまで言われるほど、鰊漁の好景気によって繁栄していた江差には、鰊漁の期間になると本州からもたくさんの出稼ぎ人がやって来た。鰊漁で蓄えた財産をすべて故郷へ持ち帰るのではなく、少しでも江差で使って欲しいと考えた町人の思いは、出稼ぎ人が鰊漁で蓄えた財産を使い果たしてから故郷に帰らないと祟りがあるという噂となり、弁天様はその象徴である「やらずの明神」として祀り上げられてしまったのだ。集客のための策略に利用された弁天様もさぞかし迷惑なことであっただろう。
 鷗島の中腹にある鷗島灯台は、1889年(明治22年)9月1日に初点灯。高さ11.78メートルの白い灯台は、縞模様の灯台と比較するとすっきりした感じがする。灯台内部には入れないものの、外側の階段で途中まで登ることができる。眼下には波の浸食によって形成された千畳敷が広がり、ここにもまた源義経伝説が残る。そのひとつが馬岩で、源義経が津軽の三厩でもらった白馬を船に乗せることができなかったので、やむを得ず鷗島に置いていくことになった。忠実な白馬は、雨の日も風の日も義経を待ち続け、やがて化石となってしまった。それが馬岩だというのである。また、馬岩の後ろにある洞窟は、弁慶が義経から預かった六韜三略の巻物を隠した場所であるとか。
 鷗島を後にすると、奥田クンが江差港マリーナの近くに停泊している江戸幕府の軍艦「開陽丸」に目を輝かせる。「開陽丸」は、幕末にオランダで建造された幕府軍艦で、戊辰戦争では榎本武揚らを乗せ活躍したが、暴風のために1868年(明治元年)に江差沖で座礁、沈没したはずである。どうして沈没した「開陽丸」が現存しているのかと訝しげに近寄ってみれば、やはり復元船であった。オランダに残っていた設計原図を参考にしたとのこと。200円の入館料を払って内部に入れば、海底に沈んでいた「開陽丸」から引き揚げられた遺物の約3,000点が展示されていた。
 江差に1時間近く滞在して出発。市街地の外れに江差駅の案内標識を確認したが、1キロ以上も離れており、これでは江差線を利用する乗客が少ないのも頷ける。江差は既に市街地が形成されてしまって、中心部に鉄道を乗り入れる余地がなかったのかもしれない。JR北海道は、江差線の木古内−江差間を廃止する意向を持っているとのことで、江差線の末端部の廃止はもはや時間の問題かもしれない。やがて江差線が左手から寄り添いしばらく並走したものの、国道228号線は上ノ国の駅前で右折し、江差線に背を向けてしまう。
 江差から松前までは国道228号線が忠実に海岸線沿いに通じているので快調に進む。途中、国道から外れた集落に入り、旅行貯金を済ませながら松前を目指す。
 「大島と小島は行かないの?」
松前町の赤松付近に差し掛かると奥田クンが沖合にある渡島大島(おしまおおしま)と渡島小島(おしまこじま)を指差して言う。両島とも定期航路のない無人島で定期航路もないので外周旅行の対象外だ。特に渡島大島は、火山活動と自然保護の関係から事前に文化庁の許可を得なければ上陸は許されないらしい。
 江差から1時間30分で松前に到着。松前福山城跡を整備した松前公園を散策する。松前公園は桜の名所として知られており、約1万本250品種の桜が植えられており、早咲きから遅咲きまで品種が多種多様であるため毎年4月下旬から5月下旬までの1ヵ月間も桜を楽しめるという。残念ながら季節外れであるが、春先には一面がピンクに染まるのであろう。
 松前福山城は、戊辰戦争で明治政府軍が蝦夷ヶ島(北海道)の独立を目指す元新選組の土方歳三が率いる旧幕府軍と攻防を繰り広げた場所でもある。北方警備のために幕府の命を受けて1606年(慶長11年)に柿崎慶広の陣屋として築かれた福山館を改築。1854年(安政元年)に松前藩第17代藩主の松前崇広が築城した松前福山城であったが、旧幕府軍に攻略されてしまったのは皮肉である。
 北海道で唯一の日本式の城郭としても知られるが、1949年(昭和24年)6月5日未明に松前町役場から出火した飛び火により焼失。現存する天守閣は1961年(昭和36年)に再建されたもので、現在は「松前城資料館」となっている。
 「あっ松前線の廃線跡だ」
安藤クンが声を上げる。松前市街地を抜けると国道228号線に並走するように小高い築堤が残されており、時折、朽ち果てた橋梁も姿を現す。松前線は、江差線の木古内から分岐し、松前に至る50.8キロのローカル線で、1953年(昭和28年)11月8日に全線開業。当初の計画ではマンガン鉱採掘のために大島地区までさらに24.0キロが延長される予定であったが、1988年(昭和63年)1月31日限りで廃止された。木古内−江差間と木古内−松前間を比較すると、現存する江差線よりも松前線の方が輸送量が多かったが、木古内−五稜郭間が江差線に戸籍があったため、松前線が廃止されるという皮肉な結果を招いた路線だ。「平均乗車距離が30キロメートルを超え、かつ、輸送密度が1,000人以上」という廃止除外の条件に対して、松前線は平均乗車距離が29キロ代という理由で廃止されたのだから地元住民も複雑な思いであっただろう。
白神岬  松前公園から10分少々で北緯41度24分、東経140度12分に位置する北海道最南端の白神岬へ到着。小さな駐車スペースと「北海道最南端」の石碑があるだけで、北海道最北端でもある宗谷岬と比較すると極めて地味な存在だ。松前方面を望めば丘の上に紅白の白神岬灯台が建っている。竜飛岬までの距離は19.2キロ。残念ながら海上は霞んで本州の姿は確認できないが、目の前はもう津軽海峡である。
 青函トンネル内の吉岡海底駅で一躍有名となった吉岡を経て、福島町にある青函トンネル記念館へ。青函トンネル記念館は竜飛岬にある本州側の施設が有名であるが、北海道側にも同様の施設がある。ところが、駐車場はガラガラで、まったく人の気配はない。入口に近付いてみると月曜日は休館となっていた。夏休みぐらいは開館してもよさそうなものだが、立地条件が悪いので観光客も少ないのであろう。福島町の青函トンネル記念館は、青函トンネル建設の工事記録や土木技術が収められた建設技術集積施設であり、ケーブルカーを備えた竜飛岬の施設と比較すると面白みにも欠けるようだ。安藤クンがせっかくだからと円筒を2つ並べた外観で、トンネルをモチーフにした建物の前で記念撮影をする。
 一旦、福島町の中心部まで引き返し、国道228号線から外れて岩部という集落を目指す。福島−知内間は国道228号線が大きく内陸部へ迂回しており、海岸沿いの道路は福島から岩部まで続いている。レンタカーならでは立ち寄れる場所だ。福島から10分少々で小さな海水浴場がある岩部に到着したが、天気もあまりよくないので海水浴客は誰もいない。岩部から先は岩部海岸が続いているものの、道路はなく、矢越岬の反対側には知内町の小石谷集落があるはずだ。小石谷へは知内から道路が続いている。
 国道228号線に戻り、内陸部を大きく迂回していると土砂降りとなった。周囲は霧に覆われて視界も悪くなる。
「夏場は水温と気温の差が大きいので霧が発生しやすいんだ」
奥田クンが解説をしてくれる。
 知内町に入ると「おかえりなさいサブちゃん芸道35周年」という看板が目に入り、北島三郎の出身地が知内町であることを知る。「函館の女」ですっかり函館のイメージが定着していた北島三郎であるが、正確には知内町の出身だったのである。
 海峡線の立派な高架の下をくぐりぬけると霧の中に知内駅を確認する。松前線廃止の代償として設置された駅であるが、市街地にあった松前線の渡島知内に対して、海峡線の知内は市街地から7キロ近くも離れている。停車する列車も少なく、どれだけの利用者がいるのか定かではない。
 知内町の市街地から再び国道228号線から外れ、矢越岬に近い小石谷へ。こちらも断崖にへばりつくように小さな漁港と集落が形成されている。海岸は荒波によって鋭さを増した巨岩が続く。
 集落の一角に「復興記念碑」なるものが目に入る。1973年(昭和48年)9月23日に大雨による土石流が発生。小石谷は壊滅状態となり、約22億円の損害が発生したとか。この小さな集落と22億円という損害額を結びつけることは難しいが、物理的な損害だけではなく、漁業お経済的な損失を含めた損害額なのかもしれない。
 木古内で江差線との再開を果たすと時刻はもう17時30分。天候の影響もあるが、周囲は少々薄暗くなってくる。右手には函館市街地と函館山が視界に入ってきた。まもなく北海道一周が完結すると思った途端、函館郊外の上磯で渋滞に巻き込まれる。上磯から函館市街地に入るまで30分を要してしまう。
立待岬  函館山は昨年、北海道入りしたときに立ち寄ったので、締めくくりとして選んだのは立待岬。函館山の南端に突き出た岬で、津軽海峡をはさんで下北半島や津軽半島を望むビューポイントであるが、今日の天候では景色を期待できそうもない。ところが狭い取り付け道路を進んで展望台に出ると、予想もしていなかった光景にめぐり逢う。沖合にイカ釣り漁船に漁火が灯され、幻想的な光景を演出していたのだ。
「函館山の夜景よりも立待岬の眺めの方がずっといいね」
安藤クンもご満悦だ。北海道の旅のフィナーレを飾るのにふさわしい場所であった。
 マツダレンタカー函館駅前営業所でレンタカーを返却。札幌からの走行距離は427キロであった。途中、奥尻島へ渡ったりしていたので、思ったよりも走行距離は少ない。本来であれば、北海道のレンタカー代は走行距離加算があるのだが、大学生協で手配をすると走行距離無制限の特典が適用されるので、料金は変わらない。
 既にほとんど店仕舞している函館朝市に繰り出し、まだ店を開けていた「茶夢」に立ち寄る。昨年、北海道入りしたときにも立ち寄った店で、安藤クンにとっては「イカソーメン」の仕切り直しである。ところが、今回も「イカソーメン」は品切れ。
「イカソーメンは朝に来ないと駄目だな」
店の主人は昨年と同じようなことを言う。しかし、我々は今夜のフェリーで函館を離れるので明日の再訪は叶わない。昨年は残っていたイカで「イカソーメン」を食べさせてくれたが、今回はイカの在庫もないらしい。代わりに付き出しの「イカのゴロ煮」を多めにサービスしてくれた。ゲソをイカの腸で和えたものであるが、ご飯がすすむ絶品。なぜか刺身でもウニでもなく私と同じ「焼魚定食」(900円)を注文した安藤クンは、ご飯をお代わりしていた。奥田クンが「大漁丼」(2,200円)に手を出したのは意外だった。
 今宵は函館フェリーターミナルを0時10分に出航する東日本フェリーに乗船する予定であるため、まだ時間に余裕がある。最後に北海道で汗を流そうと、安藤クンの案内で函館市電に乗って湯の川温泉へ。感覚的に市街地の温泉なのですぐに行けるだろうと錯覚してしまったが、函館駅前20時11分の市電が終点の湯の川温泉に到着したのは20時43分。函館市電の終電は早く、最終が湯の川温泉21時23分なので、時間は40分しかない。目指す大盛湯は湯の川温泉から徒歩2、3分の場所にあったが、住宅街に紛れた銭湯のような存在だったので、少々たどり着くまでに時間をロスしてしまう。340円の入浴料を支払って、無色透明の湯に浸かる。銭湯のようであるが、泉室はナトリウム・塩化物泉で、源泉掛け流し。ろ過循環も加水も加温もしていない正真正銘の温泉だ。
 21時23分の最終電車で函館駅前に戻るとさすがに出掛けるのが億劫になり、函館駅の待合室で江差線の最終列車となる木古内行き142Dを待つ。142Dで函館フェリーターミナルに近い七重浜まで移動するのだ。
 函館23時06分発の142Dは意外に乗客が多く、かろうじて席を確保する。乗客は近距離利用者が多いようで、次の五稜郭でかなりの乗客が下車し、七重浜でも我々と一緒にまとまった数の乗客が腰を上げた。
 駅前通りを歩くと数時間前にレンタカーで通った国道228号線に出たが、フェリーターミナルらしき建物は見当たらない。しばらくやんでいた雨も降り出し、頼りになるのはかつて東日本フェリーを利用したことがあるという安藤クンだけだが、安藤クンも記憶が曖昧で自信がなさそうな様子。それでも、七重浜から国道228号線を函館方面に戻ったという安藤クンの記憶を信じて歩くと、函館フェリーターミナルの案内標識が現れた。
 慌ただしく乗船名簿を記入し、あらかじめ用意しておいたクーポン券を乗船券に引き換える。東日本フェリーも学生割引が適用されて、2等1,400円の乗船料が1,120円で済む。
 函館フェリーターミナルを0時10分に出航する東日本フェリー2便は、定員500名、総トン数3,664トンの「べすた」で就航される。2等船室といえども桟敷席には枕とタオルケットが用意されており、快適な一夜が保障されそうだ。周囲の乗船客は学生風の旅行者とトラック運転手らしき人が多い。船内には食堂や売店、シャワー浴室などの設備もあるようだが、船内を散策する気力もない。当初の予定では甲板から北海道に別れを告げるつもりであったが、天気が災いして早々に就寝した。

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