毎日を綴る

第40日 寿都−奥尻

1996年8月11日(日) 参加者:安藤・奥田

第40日行程  「喜多郷旅館」を朝7時に出発。もう少しゆっくりすることもできたのだが、今日は瀬棚から10時20分のフェリーで奥尻島へ渡る予定なので時間に余裕を持たせることにしたのだ。
 まずは弁慶岬に立ち寄る。弁慶岬に建てられた武蔵坊弁慶の銅像を見るまでもなく、源義経伝説の地であることは容易に想像がつく。源義経一行は蝦夷地に渡り、この地に滞在していた。そんな折、弁慶の舎弟ともいうべき常陸坊海尊が義経再挙の兵を募って蝦夷へ向かったという情報を得た弁慶は、毎日、この岬の先端に立って海尊の到着を待っていたという。そんな弁慶の姿を見ていたアイヌ人たちは、この岬のことを、弁慶が同志を待ちわびていた岬ということから、いつしか弁慶岬と呼ぶようになったそうだ。しかし、弁慶岬の由来には別の説もある。この岬の先端が裂けたようになっていて、この岩と岬の間をアイヌ人が裂けたところを意味する「ベルケイ」と呼んだことから、これが転じて「ベンケイ(=弁慶)」になったという。源義経伝説に疑問を感じる私としては、「ベルケイ」説の方に信憑性があると思う。
 「あっ奥尻島が見える」
奥田クンが声をあげる。弁慶像ばかりに気を取られていたが、目の前には奥尻島の島影がはっきりと確認できる。いよいよ奥尻島だ。北海道の離島シリーズも北方領土を除けば残るは奥尻島だけである。
 島牧村に入ると道の駅島牧があったので立ち寄ってみる。最近完成したばかりなのか、真新しい建物であるが、朝が早いのでまだ店は開いていない。仕方がないので自動販売機でコーヒーを購入して、海辺でモーニングコーヒーを味わう。この辺りの海も澄み切っており、テントを張ってキャンプをしている人の姿もある。今日のようなすがすがしい日ならキャンプをしても気持ち良かろう。
「朝早くからこんなところでウロウロしているから我々もキャンプをしている人達からきっと同志と思われているよ」
安藤クンが言う。昨夜、レンタカーで寝泊まりしていれば同志に近いものがあったかもしれない。
 再びレンタカーで国道229号線を南下。国道沿いにモッタ海岸温泉を発見したので 茂津多岬灯台立ち寄ってみたが、残念ながら入浴時間は9時からとのこと。宿泊施設もあるようなので、朝は宿泊客を優先しているのかもしれない。正式な温泉名は茂津田温泉で、モッタとはアイヌ語の砂浜を意味するモ・オタに由来する。断崖続きの日本海沿岸であるが、この辺りに小さな砂浜海岸があったのであろう。北海道でもっともラジウム含有量が多いと言われる貴重な天然ラジウム温泉だけに入浴できなかったのは残念。
 海抜290メートルと日本一標高の高い所に灯篭が位置するという茂津多岬灯台がある茂津多岬を境に瀬棚町へ入る。瀬棚もかつて国鉄瀬棚線が通じていた町である。函館本線の国縫から渡島半島を横断して瀬棚へ至る48.4キロのローカル線であった。やはり1980年の国鉄再建法により第2次特定地方交通線に指定され、1987年(昭和62年)3月15日限りで廃止された。既に瀬棚駅は跡形もなくなっているが、昨年、函館本線をたどっている最中に、国縫から瀬棚線の路盤跡が現在でもはっきりと確認できたことを思い出す。
 9時に奥尻港フェリーターミナルに到着。奥尻島で1泊するので、レンタカーを駐車できる場所があるか懸念していたが、案ずることはなく、フェリーターミナルには広い町営駐車場が整備されていた。駐車料金は2日間で800円。北海道の物価からして高いのか安いのかは判断の分かれるところだが、きちんとしたところに預けておいた方が安心できる。
 出航まで時間があるので、まずは奥尻島での宿泊場所と観光手段の手配をする。まずは宿泊場所で、電話帳を頼りに何軒かの旅館や民宿に電話をすると、フェリーターミナルから5キロほど離れた宮津地区では1泊2食付き5,500円という破格の民宿もあったのだが、翌朝は7時40分のフェリーで瀬棚へ戻らなければならないので、できる限りフェリーターミナル近くが好ましい。フェリーターミナルのある奥尻地区で探してみると「川尻旅館」が1泊2食付き6,000円で受け入れてくれた。奥尻島に限って2食付きにしたのは、離島なので外食産業が乏しいのではないかという懸念と海の幸を楽しみにしている安藤クンへの配慮だ。
 次に観光手段の手配。たまたま隣の公衆電話でレンタカーの予約を試みていた観光客がおり、今日は15時以降しか空いてないという情報を漏れ聞いた。隣の観光客は奥尻島到着後、すぐにレンタカーを利用できないのであれば役に立たないらしく、借り受けを諦めたようなので、すかさず奥尻観光レンタカーに電話。
「今日は15時以降しか空いていませんよ」
思惑通りの返事だったので、すかさず15時から営業終了時刻の18時までの3時間を予約した。夏の18時であればまだ明るいし、利尻島を観光バスで一周しても3時間少々なのだから、3時間もあれば奥尻島を一周することなんてたやすいものだ。レンタカー代は3時間で7,100円と随分割高だが、離島のローカルなレンタカーだからやむを得ない。
 瀬棚−奥尻島間の2等船室の乗船券を購入すると、本来は1,540円であったが、学生割引が適用されて1,240円になる。出航まで時間があったので、フェリーターミナル近くのコンビニエンスストア「フレッシュサクセス」で飲み物やお菓子を買い込んでおく。離島の物価は総じて高いうえ、店仕舞いも早いだろうから、今のうちに買い物を済ませておくのが賢明だ。
 東日本海フェリーの「第五ひやま」は瀬棚港フェリーターミナルを10時20分に出航。総トン数1,599トンで、白い船体に赤とオレンジのラインが入り、中央にはカモメのキャラクターが描かれている。南国を思わせるような明るいデザインのフェリーが北海道のいることを忘れさせる。東日本海フェリーは、利尻・礼文航路を運行している会社と同一で、1972年(昭和47年)2月に奥尻航路を運航していた道南海運株式会社から事業譲渡を受けると、従来の稚内利礼運輸株式会社から現在の東日本海フェリー株式会社に社名を改めた。
 奥尻島までの航海は穏やかで、極めて順調のように思われたが、奥尻島が近付くにつれて次第に揺れが大きくなる。酔いそうになったので、甲板に脱出して持ちこたえる。不思議なことに船内にいるとすぐに酔うのだが、甲板で過ごす限り今まで船に酔ったことはない。
 奥尻港には定刻の12時よりも5分早着。奥尻島へ入港の際の揺れは計算されていたのであろうか。比較的ダイヤにも余裕を持たせているようでもある。奥尻港でまず目に入ったのは「歓迎ようこそ佐藤投手のふる里へ」という横断幕。オリックス・ブルーウェーブの投手で、1996年(平成8年)8月26日の近鉄バッファローズ戦で、40歳11ヵ月でのノーヒットノーランを達成。これはプロ野球のノーヒットノーランでは最年長記録であり、偉大な佐藤投手の出身が奥尻島であったことにも驚いたが、地元が何よりも佐藤投手を大々的に宣伝していることにも驚いた。まさに佐藤投手は奥尻島での英雄だ。
 レンタカーの借り受け時間までの3時間を持て余すことになるので、まずはフェリーターミナルに近い食事処「おかやん」で昼食にする。奥尻の家庭の料理を味わえる店ということで、安藤クンは「うに丼」(2,100円)を奢ったが、私と奥田クンは「野菜ラーメン」(700円)で手軽に済ませる。今日は夕食付きなので、黙っていても海の幸が並べられるであろう。
 奥尻島は周囲約84キロ、総面積は142.97平方キロで、北海道内離島では利尻島に次ぐ2番目に大きな島である。一島一町制を維持しており、奥尻町の人口は約4,000人。しかし、この島を襲った悲劇はまだ記憶に新しい。1993年(平成5年)7月12日22時17分、マグニチュード7.8の直下型大地震が発生。死者202名、行方不明者29名、負傷者323名の大惨事となった北海道南西沖地震だ。震災から3年が経過し、現在は復興の兆しが見え始めている。奥尻港周辺にも新築の建物が多く見受けられる。時間があるので先に今宵の宿となる「川尻旅館」にも立ち寄ってみたが、真新しい建物であった。
 15時よりも少し早めに奥尻観光レンタカーの営業所に出向くと、駐車場には1300CCのトヨタカローラが待機していた。かなりくたびれた車両で、マニュアル車だったのは驚く。久しくマニュアル車を運転したことがなかったので、運転はここでも安藤クンに任せておく。
 外周旅行の原則に従えば時計と反対周りに島を一周するのであるが、今回は時計回りに一周する。奥尻島の道路はまだ完全に復旧されたわけではなく、北海道南西沖地震の被害が大きい青苗地区では工事のために16時以降は通行規制があると奥尻観光レンタカーのオヤジに教えてもらったからだ。
なべつる岩  まずはレンタカーを南へ5分ほど走らせて、最初のポイントであるなべつる岩へ。ガイドブックや観光案内パンフレットでは必ず紹介されている奥尻観光のシンボル的存在だ。展望台を整備中のなべつる岩は、その名の通り鍋の弦を連想させるアーチ状の奇岩である。波によって岩が少しずつ崩れて、最後はアーチ状になったらしい。高さは19.5メートルとのこと。岩の上にはアクセントのように松が生えている。
「なべつる岩も地震で崩れたみたいだな」
奥田クンがパンフレットの写真と見比べながらつぶやく。確かに沖合側のアーチの一部が欠けている。なべつる岩も展望台の整備と併せて補修工事が行われるようであるが、自然の奇岩に人工的な補修をしてしまったら、価値がなくなってしまうような気もするが、島民にとってはシンボルを失うことの方が大きな問題なのかもしれない。
 なべつる岩を出発するといよいよ青苗地区に入る。北海道南西沖地震で死者107名、行方不明者20名、全・半壊戸数は342戸と最も被害の大きかった地区だ。地震と津波による痛手を受けた集落に火災が発生し、火の海と化した地獄絵は当時何度もテレビで放映された。かなりの緊張感をもって青苗地区に入ったが、そこでの光景は被災の爪痕を残すというよりも、まるで新興住宅地のような光景であった。真新しい道路に新築の住宅が整然として軒を並べているのである。奥尻島の最南端に位置する青苗岬も多目的広場やステージ、緑地、駐車場などを備えた公園として整備中で、1999年(平成11年)の完成を目指しているという。
 1974年(昭和49年)9月9日に開港し、エアー北海道が函館と1日3往復している奥尻空港を経て、西海岸を北上。千畳浜辺りからが通行規制の区間のようで、道路にゲートが設置されている。時刻は15時30分で、なんとか通行止めになる16時までに規制区間を通過できそうだ。
 ここから先は道路幅が急激に狭くなり、安藤クンも少々弱気の発言が出る。
「対向車が来たら厄介だな。すれ違いする場所もほとんどないぞ」
しかし、奥尻島の東海岸にはほとんど集落は存在しないので、安藤クンの心配を他所に対向車はまったく現れない。むしろ、そんなところだから、道路の整備も後回しにされているのであろう。
 ホヤ石岬という数少ない東海岸の名所に立ち寄ってみたが、岬を名乗る割には少し大きく岩場が迫り出したような場所で、近くのホヤ石滝もまったく水が流れていない。あまり風情も感じられないので先へ急ぐ。
 しばらく海岸沿いの難所を走り、清次郎歌岬の根元を貫く鴨石トンネルを通過する。変わった名の岬だったので、奥尻出身の演歌歌手にでもちなんだ命名かと思ったが、清次郎とは、能登からやってきた青年の名であるとのこと。神威脇に住む歌子という女性と恋仲になったが、清次郎は歌子を裏切る。歌子は清次郎の子を身ごもったまま神威沼に身を沈めた。その後、奥尻島へやって来た僧侶は、歌子のため弔いを捧げ、室津島へ渡って断食坐禅を組んだという。数日後、荒波にさらわれた僧侶は、数珠を握りしめたままの姿で、ホヤ石岬沖の無縁島に流れ着いたが、その僧侶の正体こそが清次郎であったとか。
 神威脇温泉までやって来ると、神威脇温泉保養所が目に入る。神威脇温泉は、奥尻島唯一の温泉で、かつては船でしか訪れることのできなかった離島の秘湯と呼ばれた。できることなら入浴を果たしたかったが、レンタカーの返却時間の関係上、断念せざるを得ない。
 神威脇温泉から3キロも北へ向かうと幌内海岸。以前はこの幌内海岸でも温泉が湧いていて宿泊施設もあったが、北海道南西沖地震による津波の被害に遭い、再建されることもなく廃業してしまったとか。温泉だけで観光客を呼び寄せることは難しいのであろう。
 幌内海岸から先は険しい海岸の地形となるため、道路は山の中へと入っていく。途中で舗装道路から砂利道になった。レンタカーがガタガタ揺れ、安藤クンといえどもスピードを落として運転せざるを得ない。八十八曲峠という奥尻島で最も道路事情の悪い地域で、工事中の箇所も多い。いずれ新しい道路が整備されるのであろう。
 ブナ林に覆われた砂利道を抜けると、周囲は一変して丘陵地帯となる。周辺一帯は牧場になっているようで牛が放牧されている。奥尻島の牛はよく見掛ける白と黒の斑模様の牛ではなく褐色の牛だ。
 奥尻島の北半分を見渡すことができる標高369メートルの球島山を経て再び海栗前(のなまえ)集落で海辺に出る。海栗前までは奥尻島の東海岸経由で町営バスが走っているので、ここから先の道路事情は心配する必要はないだろう。
 稲穂岬へ到着したのは16時30分。難所はすべてクリアしたので、充分に余裕をもってレンタカーを返却できそうだ。稲穂岬は奥尻島の最北端に位置する。稲穂という名前を聞いた限りでは田園でもあるのかと思ったが、由来はアイヌ語で木幣が多くあるところを意味する「イナウ・ウシ」で、稲穂は後から付けた当て字に過ぎない。稲穂岬の周辺は海難事故が多く、木幣を奉納して平穏無事を祈ったらしい。沖合には暗礁が多く、標識らしきものも見受けられる。標識の正体は照射灯で、稲穂岬の根元の高台に建てられた稲穂岬灯台から投光器で照射し,暗礁の位置を知らせるとのこと。通常、灯台は岬の先端に設置されるものだが、わざわざ内陸部に設置されている理由が判明する。稲穂岬灯台は白と黒の縞模様で、無線方位信号所(レーマークビーコン)が併設されている。初点灯は1891年(明治24年)12月1日と歴史は古く、灯台の高さは17メートルだ。
賽の河原  稲穂岬には道南5大霊場のひとつである賽の河原もあり、海岸には無数の石が積み上げられており、独特の雰囲気がある。安藤クンと奥田クンが石を積み始める。そもそも、賽の河原は親に先だって死んだ子供が親不幸の報いを受ける場所として知られる。子供が親の供養塔を積み石で作ろうとするが、完成する前に鬼がやって来て積み石を崩し、何度積み上げても同じことの繰り返し。正しく報われない努力だ。
「完成させないと祟りがあるよ」
安藤クンがせっせと積み石をしながら言うが、奥田クンがここぞとばかりに安藤クンの積み石を蹴り崩す。
「ああっなんてことをするんだ」
「賽の河原では鬼が積み石を崩すのが相場じゃないか」
今度は仕返しに安藤クンが奥田クンの積み石を蹴り崩す。しばらく、安藤クンと奥田クンが互いに競って積み石を行い、隙あれば相手の積み石を蹴り崩すというということが繰り返される。最初から積み石をしなければ祟られることもないので、私は何もしないで終始2人の争いを見届ける。
 2人が積み石に飽きたところで賽の河原を出発。東海岸は道路事情が良いのでスムーズだ。途中に海上に突き出した丘の上に赤い屋根の社殿を発見したので、レンタカーを停めて立ち寄ってみる。赤い屋根の正体は宮津弁天宮で、かつて北海道本土との連絡拠点として番所が設置されていた場所だ。奥尻島へ流罪となった罪人の逃亡を監視する場所でもあったという。弁天様が奉られたのは1831年(天保2年)で、島民が大漁祈願のために岩山に弁天様を奉納したとのこと。せっかくなので弁天宮まで足を伸ばすと、海上に突き出ているので視界が良く、絶好の展望スポットだ。
 奥尻港へ戻って来たのは17時30分前。レンタカーの返却時間まで30分少々の余裕があるので、近場であれば足を伸ばせそうだ。奥田クンの希望で、うにまる公園へ行ってみることにする。
 奥尻港から再び南下。なべつる岩を見て、赤石岬に近い台地に整備されたうにまる公園に到着。運動公園のような設備であるが、奥尻島特産のキタムラサキウニをモチーフにしたモニュメント「うにまる」が特徴で、120本ものトゲが夜間になるとライトアップされるらしい。また、「うにまる」のキャラクターが描かれたタイムカプセル保管収納庫もあった。「平成元年タイムカプセルうにまる事業」として、1989年(平成元年)6月から1990年(平成2年)3月にかけて「愛はおくしり島でめぐりあう」のキャッチフレーズで全国から21世紀へのメッセージを預かり、2001年(平成13年)と2009年(平成21年)に指定された相手へメッセージを届けるとのこと。タイムカプセルが北海道南西沖地震の被害に遭わなかったのは不幸中の幸いだ。きっとメッセージを受け取った相手も驚くことであろう。
 奥尻港へ戻るが、レンタカーの借り受け時に指定されたガソリンスタンドへ立ち寄ると既に閉店している。代わりのガソリンスタンドもありそうになく、そのままで奥尻観光レンタカーの営業所へ戻る。事情を説明するとの奥尻観光レンタカーのオヤジは、奥からポリタンクを運んで来て、ガソリンを給油し、ガソリン代として640円を請求した。走行距離は76キロ。どれだけのガソリンを給油したのかさっぱりわからないが、大した金額ではないので言われるままに支払う。それにしても、ガソリンを無造作にポリタンクに保管して、問題はないのかといささか気掛かりではある。
 22時前に到着した昨日とは対照的に今日はまだ明るいうちから「川尻旅館」に落ち着く。夕食の準備をしておくので、先に風呂に入るように勧められ、浴場へ足を向ければ、真新しい浴場は清潔なうえ、檜の匂いが漂っていて気持ちがいい。今日はゆっくりと汗を流す。
 夕食もあわび、いか刺し、酢だこなど、奥尻産の新鮮な魚介類が並び、安藤クンの大好きな奥尻産のうにを使ったうに鍋も登場した。うには7月と8月の季節限定とのことなので、いい時期に奥尻島を訪れたことになる。料理も施設も素晴らしいので、本当に1泊2食付き6,000円で間違いがないのか心配になったほどだ。大満足で奥尻島の一夜を過ごした。

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