ダブルの世界

第39日 留萌−寿都

1996年8月10日(土) 参加者:安藤・奥田

第39日行程  「秋田屋旅館」で沿岸バスの札幌行き特急「はぼろ」の乗車場所を確認する。道内時刻表には留萌とだけしか記載されていないので、バスが留萌のどこに発着しているのかさっぱりわからなかったからだ。
「札幌行きならすべて留萌十字街を通る。だけど、札幌に行くなら中央バスの方が早くて便利だよ。料金も同じ2,000円だから中央バスにしなさい」
旅館のおかみさんが言うことも最もだが、北海道中央バスは深川や滝川を経由して道央自動車道に入ってしまうので、外周ルートから大きく外れる。そのため、海岸線に沿って札幌を目指す沿岸バスの「はぼろ」に標準を合わせたのだ。正確に言えば、1日4往復の「はぼろ」も3往復は道央自動車道経由となるため、海岸線沿いをたどるのは1日1往復だけである。
 早めに旅館を出て、朝の留萠駅へ立ち寄る。次の列車は8時10分発の深川行き4924Dで、まだ40分以上も時間があるので、駅構内は閑散としている。ここから増毛までの16.7キロは留萠本線が海岸線沿いにレールを保っているので、鉄道利用も考えたのであるが、「はぼろ」に増毛から乗車するためには、留萠7時05分発の4921Dに乗らなければならない。しかも、この区間は留萌市街と増毛周辺を除いては、国道231号線の方が留萠本線よりも海岸沿いを通っているので、わざわざ早起きして鉄道を優先させる必要はないとの結論に至ったのだ。
 さて、鉄道に乗るわけでもないのに留萠駅へやって来たのは、入場券を購入するためである。最近は硬券入場券の販売を取り止める駅が多い中で、JR北海道の駅では多くの有人駅で観光入場券なるものを販売しているのだ。私はそれほど入場券の収集欲が強いわけではないが、留萠駅では髪の毛が増える縁起物として有名な増毛駅の入場券が販売されている。他の駅の入場券を販売するとは奇妙なことだが、増毛駅は既に無人化されてしまっているため、入場券の販売は留萠駅で行っているのだ。窓口で増毛駅の駅名表の写真が入った160円の入場券を購入すると、留萠駅の入場券を無視するのもどうかと思い、追加で購入。こちらは留萌港を中心に広がる市街地を一望することができる千望台の写真入りであった。
 昨日、バスを降りた留萌十字街に出ると、バス停の標識が2本並んでいる。1本はこれから乗る沿岸バスの標識で「留萌十字街」と表記されているが、隣に並んでいる北海道中央バスの標識には「本町十字街」とあった。同じ場所の停留所なのだから、停留所名を統一すればよさそうなものだが、互いに対抗意識があるのだろうか。
 札幌行き特急「はぼろ」は定刻の7時48分から4分遅れてやって来た。「はぼろ」は1日4往復中3往復が豊富始発であるが、海岸線を走る1往復だけが羽幌始発となっている。羽幌の発車時刻は6時50分であり、既に1時間も走り続けてきたことになる。バスが到着すると驚いたことにバスガイドがお出迎え。正確には女性車掌で、「特急はぼろ」は全席予約制なので、乗車の際に予約の確認を行う。1日1往復の貴重な便だったので、出発前に予約を済ませておいたが、先客は数えるほど。純粋に札幌へ向かうのであれば、わざわざこの便に乗る人は少ないのであろう。座席は好きなところに座って良いとのことなので、空いているのを幸い、奥田クンと別々に海側の座席に落ち着く。
 バスの車内にあった時刻表で確認すると、「はぼろ」は、留萌市内では小まめに停留所に立ち寄っており、留萠駅前からも乗車することができたようだ。バスは留萌市街を抜けると留萠本線のレールを跨いで海側に出た。やがて山側の線路を走る深川行き4924Dとすれ違う。羽幌線が残っていたらこんな感じだったのかなと思う。
 「はぼろ」は8時過ぎに暑寒別川の河口に近い沿岸バスの増毛ターミナルに到着。ここで10分間のトイレ休憩となったので、合間を利用して増毛駅をのぞいてみようと試みる。増毛駅は、1921年(大正10年)に開通した留萠本線の終着駅で、駅舎とその周辺は、1981年に公開された高倉健主演の映画「駅STATION」の舞台になったことで有名だ。駅前には映画で刑事が張り込みに使ったホテルや食堂などの建物が残っている。ところが、増毛ターミナルから増毛駅までは思ったよりも距離がありそうだったので、途中で断念してUターン。増毛駅には留萠本線に初乗りした1991年(平成3年)3月25日に訪問済みなので諦めも早い。
 トイレ休憩を終えて「はぼろ」は増毛ターミナルを8時18分に出発。ここから先の増毛町−浜益村間の雄冬岬付近は、増毛国道と呼ばれる国道231号線が最後に開通した区間である。それまで雄冬へ向かう交通手段は、1日1往復の増毛からの雄冬海運の定期航路を利用するしかなかったことから、長年に渡って雄冬は陸の孤島と呼ばれ、北海道を代表する秘境として有名であった。しかし、1981年(昭和56年)11月10日に国道231号線の札幌−留萌間が全通したのも束の間、約1ヶ月後の12月19日には雄冬岬のトンネル崩落により通行止めとなり、雄冬は再び陸の孤島に逆戻りする。復旧したのは2年5ヶ月後の1984年(昭和59年)5月19日であったが、冬季は増毛−雄冬間が通行止めになるため、その後も定期航路は存続。1992年(平成4年)10月22日に大別苅トンネルを含む新ルートの開通により、ようやく国道231号線は通年供用が可能となった経緯がある。定期航路も1992年(平成4年)4月30日を最後に廃止となったが、平成の時代までそのような陸の孤島が存在したことに驚いた。
 別苅の集落を抜けると大別苅川に沿って左手にそれる旧道を見て、大別苅トンネルに入る。トンネルに入ってしまうと景色が見えなくなって面白味に欠けるが、このトンネルこそが雄冬の住民を秘境から解放した貴重なトンネルだ。その後もペリカトンネル、マッカ岬トンネルと続き、小さな橋をいくつか渡る。旧道が合流したのも束の間、今度は日方泊トンネルに入る。こちらもかなり長いトンネルだ。これだけトンネルが続くのは、この地域一帯に厳しい断崖絶壁が続いているからに他ならない。海岸沿いに道路を掘削する余裕すらないからこそ、長大なトンネルを掘らざるを得ないのだ。
 「はぼろ」は増毛から20分少々で雄冬に到着。雄冬の由来は、アイヌ語の「焼けたところ」を意味する「ウフイ・プ」から転じたという。この付近に落雷があり、山火事が発生したことから名付けられたらしい。かつては増毛への定期航路が発着していたと思われる雄冬港は意外に立派で、乗用車もしばしば行き来している。これまで外周の旅で立ち寄った集落と比較してもそれほど閉鎖的なイメージはない。雄冬が平成の時代まで陸の孤島になっていたのは冬場だけであるし、何よりも雄冬が秘境から解放されて既に5年の月日を経ているのだから無理もない。
 室蘭の地球岬、根室の落石岬と並んでかつては北海道三大秘岬と呼ばれていた雄冬岬を大小のトンネルで通過すると、幻の国道とされていた難所はおしまい。浜益村に入ると古くから開通していた道路らしく、やたらと内陸部へ迂回する箇所が多くなる。雄冬岬ほどではないにしても、この辺りも険しい地形なのであろう。
 途中の厚田で乗降があった他は、特に乗客の入れ替わりもなく、バスは石狩川を渡る。ここまで来るともう札幌郊外で車の交通量も多い。多少の渋滞に巻き込まれたものの、ダイヤに余裕を持たせているためか、「はぼろ」は、定刻の10時35分よりも3分遅れただけで札幌駅前ターミナルに到着した。
 札幌駅から徒歩5分ほどのマツダレンタカー札幌駅北口店で今朝の快速「ミッドナイト」で札幌入りした安藤クンと合流する。昨日、自宅の最寄り駅である東海道本線の大磯を出発。東北本線の各駅停車を乗り継いで函館まで行き、快速「ミッドナイト」に乗り継いだのだから恐れ入る。今朝は、デパートで土産物をまとめ買いし、既に宅配便で配送してきたとのことだ。
 レンタカーの借り受け手続きを済ませて、マツダレンタカー札幌駅北口店を11時に出発する。割り当てられた車は網走と同様にフェスティバだ。とりあえず、強行軍の安藤クンにいきなりハンドルを預けるのは気が引けたので、最初は私が運転席に座る。
はまなすの丘公園  「はぼろ」でたどった国道231号線を引き返し、石狩川河口にあるはまなすの丘公園を目指す。車線を間違えて石狩河口橋で石狩川を一旦渡ってしまうなどのトラブルに見舞われたが、札幌駅から約40分ではまなすの丘公園に到着した。
 はまなすの丘公園は、石狩川の河口に形成された約1,500メートルに及ぶ砂嘴に広がる約46ヘクタールの公園で、ハマナスの他、ハマボウフウやイハマエンドウ、ハマヒルガオなど150種以上の海浜植物が自生している。ハマナスの季節は6月下旬から7月上旬であるため、花の季節には1ヶ月程遅かったが、観光バスが何台も並んで大勢の観光客で賑わっている。正直なところ、はまなすの丘公園の存在は、外周旅行のプランニングの段階で初めて知ったぐらいだったので、これほどの観光スポットだとは思わなかった。
「あれっ?あの2人は利尻島の観光バスに乗っていた2人だよ」
奥田クンが指差す方向を見れば確かに見覚えのあるカップルがいる。別に観光バスで話をしたわけでもないので挨拶もしないが、北海道を旅していると意外なところで旅行者同士が再開をすることがある。昨年の鈴木(康)クンが典型的な例だ。それにしても、利尻島で出会った2人に札幌郊外の石狩で出会うとは思わなかった。この間、カップルがどのような行程とたどって来たのかは多少気になるところ。
 板張りの遊歩道を散策しながら石狩川の河口に立った後、はまなすの丘公園の入口近くにある紅白の縞模様という派手な石狩灯台に立ち寄る。石狩灯台は、1892年(明治25年)1月1日に初点灯の歴史ある灯台で、当初は木造六角形黒白だったが、1908年(明治41年)に鉄製円柱となった。現在の灯台ももともとは白黒の縞模様であったが、1957年(昭和32年)に松竹映画「喜びも悲しみも幾年月」の撮影の舞台になると、カラー映画作品のはしりだったこともあり、色彩効果を出すためにわざわざ紅白の縞模様に塗り替えたという。
 それにしても、灯台が随分と河口から離れたところに建てられたものだ。高さは13.5メートルと低く、これで灯台の役割を果たせるのであろうかと疑問に感じていたが、石狩灯台の建設当初は灯台の現在地が河口であったとのこと。石狩川の運ぶ土砂と日本海の波によって、100年の間に砂嘴が徐々に成長していったようだ。
 売店で「焼鳥弁当」(550円)が販売されていたので、昼食として購入。安藤クンにハンドルを預けて、助手席で弁当を開く。焼鳥が4串にたくわんを添えたおにぎりが2個というシンプルな弁当だ。公園を散策して、浜辺で広げる弁当としては手頃であろう。
 石狩湾新港の埠頭で途切れる迷路のような道路に惑わされながら国道337号線に入り、銭函へ。銭函からは国道5号線に合流する。国道5号線の外側を函館本線のレールが通じているので、できればこの区間だけ鉄道を利用したいのだが、レンタカーを借りてしまうと融通が利かなくなる。
 国道5号線はさすがに北海道の主要幹線道路だけあって交通量が多く渋滞。小樽港へ物資を運ぶためか大型トラックがやたらと多い。やがて工事の関係で2車線が1車線に制限されている箇所に出くわし、車線変更を余議なくされる。大型トラックの前に安藤クンがすっと入り込んだのだが、すぐに後ろの大型トラックがクラクションを鳴らしながら蛇行をし始めた。どうやら前に入られたことが気に入らないらしい。しばらく無視をしていたが、あまりにもしつこいので、朝里付近で路地に逃げ込み、頭のおかしい運転手の大型トラックから逃れる。
「まったくふざけた運転手だな。工事で車線が急に制限されたのだから仕方ないだろ」 安藤クンの怒りもごもっともだが、すぐに頭に血がのぼる短気な運転手の巻き添えで命を落とすのはごめんだ。
「ああいう馬鹿な輩はいつか大事故を引き起こすよ」
善良な市民が巻き添えにならないことだけを願う。
 再び国道5号線に戻り、東小樽からマリーナ沿いの道に入るとようやく函館本線を跨いでこちらが外周ルートになった。石原裕次郎記念館のある小樽マリーナを経て、小樽運河沿いの道を進む。本来であれば小樽で散策すべきポイントであるが、小樽はこれから何度も訪れる機会がありそうなので、レンタカーの利点を活かして小樽郊外にある高島岬の日和山灯台と鰊御殿を目指す。
 旧手宮鉄道の施設が残る小樽市総合博物館の脇を抜けて道道454号線に入る。新高島トンネルを抜けて終点まで行くと突き当たりに駐車場があり、係員が旗を大きく振りながら誘導する。そんなところで車を止めたらダメだ。早く駐車場に入りなさいとでも言わんばかりの様子。鰊御殿に行くためにはここにレンタカーを駐車させないとダメなのかなと思い、一旦、駐車場へ入りかけたが、左手にはまだ細い坂道が続いている。
「ここから先に行けるんじゃないの?」
安藤クンがハンドルを切り返して左手の坂道を進むと、すぐに市営の無料駐車場があった。道道454号線のちょうど終点に駐車場を構えていることをいいことに、係員に有料駐車場に誘導されてしまった車も多いのではなかろうか。ここでの誘導はいささか詐欺まがいで注意が必要だ。
 鰊御殿とは、北海道の日本海側に建てられた網元の番屋で、明治時代から大正時代にかけて、鰊漁で財産を築いた網元が競って豪華な番屋を建築した。小樽の鰊御殿は、鰊大尽と呼ばれた積丹半島の網元であった田中福松が1891年(明治24年)から約7年の歳月をかけて泊村に建築した鰊御殿を1958年(昭和33年)に現在の場所へ移築したもので、現存する鰊御殿の中では総面積611.9平方メートルと最大規模を誇る。1960年(昭和35年)には、「にしん漁場建築」として北海道の民家で初めて指定有形文化財に認定された。
 300円の入館料を支払って内部に入ると、漁場用具や生活用品、当時の写真など鰊漁最盛時を偲ばせる展示が陳列されている。明治後期の積丹半島は、鰊漁の最盛期であり、この鰊御殿にも100人以上のヤン衆と呼ばれる働き手と網元の家族が生活していたそうだ。鰊御殿のある高台からは石狩湾と雄冬岬が眼下に広がり、当時はこの一帯でも鰊を満載した船が出入りしていたのであろう。
 鰊御殿の裏手にある日和山灯台にも足を伸ばす。こちらも石狩灯台と同様に紅白の縞模様になっており、まさかと思ったが、やはりこの灯台でも映画「喜びも悲しみも幾年月」のロケが行われており、ラストシーンで登場している。しかし、紅白の縞模様が施されたのは1968年(昭和43年)10月からとのことで、「喜びも悲しみも幾年月」のために塗り替えられたわけではなかった。灯台の隣には霧信号所(ダイヤフラムホーン)が併設されているが、霧信号所も紅白の縞模様になっている。
 日和山灯台の歴史は古く、北海道では納沙布岬灯台に続いて2番目となる1883年(明治16年)10月15日に初点灯された。初代の灯台は白色の木造六角形で、現在のコンクリート造の灯台は1953年(昭和28年)2月に改築されたものとのこと。灯台の高さは石狩灯台よりも低く10.2メートルしかないが、こちらは高台にあるので標高は49.8メートルもある。鰊漁の千石船もこの灯台が頼もしかったに違いない。
 高島岬より先は赤岩山が行く手を遮り、道路も遮断されているので、一旦、国道5号線に戻ってオタモイ海岸を目指す。オモタイ団地の迷路のような道路で迷いながらもオモタイ海岸へ続く道路を探し当て、蛇行する細い道路を進むと駐車場があった。
 オタモイとはアイヌ語で砂の入江を意味する。オタモイ海岸は、小樽市の北西部にあり、高島岬から塩谷湾までの約10キロに及ぶ海岸線の一部で、付近には標高371メートル赤岩山をはじめ、標高200メートル前後の急峻な崖と奇岩が連なっている。高島岬まで続く小樽海岸自然探勝路の入口には朱塗りの唐門が構えていた。景勝地には似合わない構築物であるが、この唐門がかつてこの地に北日本随一のリゾート施設と言われた「夢の里オタモイ遊園地」が存在したことを物語っている。昭和初期、隆盛を誇った小樽の割烹「蛇の目」の店主である加藤秋太郎は、1936年(昭和11年)に白蛇の谷と呼ばれたこの地に「夢の里オタモイ遊園地」を完成させた。その規模は当代一を誇り、ブランコ、すべり台、相撲場等の遊園施設のほか、竜宮閣や辨天食堂といった宴会場や食堂を設けた。特に京都の清水寺を凌ぐといわれた竜宮閣は、3階建ての木造建築物が切り立った岩と紺壁の海に囲まれ、まるで竜宮城のようだったという。最盛期には1日で数千人の人々で賑わった「夢の里オモタイ遊園地」も太平洋戦争が始まると営業休止に追い込まれる。戦後になって営業再開を試みたものの、1952年(昭和27年)5月10日に失火で竜宮閣は焼失。その後、再開が果たされないまま、朽ち果てた辨天食堂は1977年(昭和52年)9月22日に撤去され、現在では唐門の他、断崖の上に竜宮閣の礎石と遊歩道のトンネルを残すだけである。
 せっかくなのでオモタイ海岸に下りてみようとしたが、海岸へ行くには駐車場整備料700円を徴収されるというので見合わせ。代わりにオモタイ地蔵への遊歩道をたどる。古くからこの地は子授け地蔵尊の伝説があり、オタモイ延命地蔵尊が奉られる信仰の地でもある。オタモイ地蔵は、別名子宝地蔵、乳授け地蔵と呼ばれ、結婚して子供の恵まれない人々の信仰を集めている。私はまだ独身であるが、オタモイ延命地蔵尊を蔑ろにして祟られても困るので、赤い屋根の地蔵堂に奉られるオタモイ延命地蔵尊を参拝。「夢の里オタモイ遊園地」として栄えた時代から信仰をかねて大変な賑わいであったようだ。
「地蔵尊せんべいはどこで売っているのだろう」
奥田クンが「地蔵尊の参拝記念に!オモタイ名物地蔵せんべい」という看板を見付けてニヤニヤする。売店跡らしき木造建物も残っているので、往時の賑わいを伝える遺物のひとつであろう。
 オモタイ海岸を後にするともう15時近くになっている。我々の行く手には積丹半島が待ち構えているが、これがなかなかの厄介ものだ。積丹半島の海岸沿いには、国道229号線が整備されているが、手元にある地図では、積丹半島の北西部にある積丹町沼前−神恵内村川白間の8.1キロが点線で記載されているのだ。未舗装道路でもレンタカーで走れれば問題はないが、道路の供用が開始されていなければ迂回を余儀なくされ、時間のロスは大きくなる。
 案じていても仕方がないので、迂回を覚悟で積丹半島に挑む。国道5号線を走ってニッカウヰスキーで有名な余市に出て、積丹半島へ入る。余市の市街地を通り抜け、快調に走りだしたと思ったのも束の間、渋滞に巻き込まれる。原因は豊浜トンネルだ。まだ記憶に新しい1996年(平成8年)2月10日午前8時10分頃、豊浜トンネルの古平町側の坑口付近において、巨大な岩盤が崩落。豊浜トンネルを走行中だった北海道中央バスの余別発小樽駅前行き路線バスと後続の乗用車の2台が直撃され、バスの運転手と乗客19名、乗車の運転手1名の合計20名全員が即死した。この事故により豊浜トンネルは通行止めとなり、既に廃道として閉鎖されていた海側の旧豊浜トンネルを活用する形で仮復旧していたが、旧豊浜トンネルでは大型車のすれ違いができないため、片側交互通行に規制されていたのだ。しかも、今日は奇しくも事故からちょうど半年。現地では慰霊祭が行われており、普段よりも通行する車両が多いのではなかろうか。運転手の安藤クンに頼まれて通行止めになっている豊浜トンネルの坑口を何枚か写真に収める。なんだか積丹半島が急に恐ろしくなり、早く通り抜けたい気分になってきた。
 豊浜トンネルを通過すると交通渋滞も解消される。古平町、積丹町の市街地を抜けて、積丹半島で最初の目的地である積丹岬に到着したのは15時50分だった。積丹岬にちょっと挨拶して先へ進むつもりであったが、積丹岬一帯は遊歩道で散策するようになっており、車を乗り入れることはできない。積丹岬は積丹半島の最北端に位置するので無視するわけにもいかず、駐車場にレンタカーを駐車して遊歩道を進む。
島武意海岸  鰊漁が盛んだった頃に鰊を運ぶために掘られたという島武意海岸トンネルを抜けて、島武意海岸を望む展望台に出ると、コバルトブルーの日本海が目に飛び込んでくる。ここは、「日本の渚百選」にも選ばれた海岸で、透明度も高く、海中の岩盤も見通すことができる。展望台から海岸へ降りる階段もあるが、時間がないので見合わせ。
 島武意海岸からは積丹岬方面へ向かう道と出岬方面へ向かう道が分かれていたので、まずは積丹出岬灯台がある出岬方面に足を向ける。灯台まで300メートルという案内板があったにもかかわらず、灯台にたどり着くまで10分近くかかる。積丹出岬灯台も紅白の縞模様でこの辺りの灯台の流行か。塔形コンクリート造で、灯台の高さは13.26メートルだが、ここも高台にあるので標高は140.66メートルになる。初点灯は1965年(昭和40年)12月22日と比較的新しいが、現在でも危険な箇所が多く、道路の改修工事が続く積丹半島であるから、この地に灯台を建設すること自体が相当の難儀だったに違いない。
 出岬から先へ30分も歩けば、源義経とアイヌ人の娘であるシララの悲恋伝説が伝えられる女郎子岩があるが、さすがにそこまで足を伸ばす余裕はない。源義経がアイヌ人と恋仲になったというストーリーには興味があるものの、北海道に伝わる源義経伝説はすべて作り話だ。水面から立ち上がる女郎子岩も源義経がこの地を去るときに泣きながら見送ったシララの化身と伝えられている。
 島武意海岸の近くまで戻り、今度は積丹岬方面へ向かう。ところが延々と歩いてたどり着いたのは、電波を利用して位置を知らせる無線方位信号所がある小さな広場で、その先へ続く道は見当たらない。積丹岬は未開の場所であるようなので、諦めて駐車場へ引き返すことにした。
 積丹岬で1時間近くを過ごし、予定外にのんびりとしてしまった。国道229号線に戻り、神威岬へ移動する。地図で見れば積丹岬から目と鼻の先のような位置だが、実際には10キロ以上も離れている。安藤クンの見事な運転によって15分少々で神威岬へ到着。
神威岬  カムイとはアイヌ語で神を意味する。古くは御冠岬(オカムイ岬)とも呼ばれた。神威岬も付け根にある駐車場から岬の先端部まで尾根沿いに整備された遊歩道を20分近く歩かなければならない。夜間や強風時にはこの遊歩道も立ち入り禁止になるようだ。 しばらく遊歩道を歩いて行くと、女人禁制の門がある。この地は、茂津多岬と雄冬岬と並び江戸時代の蝦夷三大険岬の一つで、日本海有数の海の難所であり、しばしば神威岬沖を通過する船が転覆した。その原因が源義経を慕ってこの地で身を投げた日高の首長の娘であるチャレンカの怨念であるとされ、1856年(安政3年)までこの岬一帯は女人禁制となっていた。積丹岬の女郎子岩といい、源義経には女性がらみの伝説が多いものだ。先端部は岩山がそのまま海へ落ち込んでいくような状態になっており、沖には岬の延長ともいうべき神威岩がある。神威岩もチャレンカの化身らしい。
 日露戦争中はロシア艦隊の来寇に備えて監視所が設けられていた神威岬であるが、現在は1888年(明治21年)8月25日に初点灯の神威岬灯台が残っているのみ。灯台の隣の空き地はかつての灯台守家族の住居跡らしい。高さ11.8メートルの神威岬灯台は、紅白ではなく白黒の塗装であった。丸みを帯びた水平線に陽が傾く様子を眺めて駐車場に戻る。
 さて、いよいよ問題の沼前−川白区間だ。海岸線を忠実に沿うような国道229号線を走るが周囲に人気はなく、対向車もまったく姿を見せない。このまま川白へ抜けられるのではないかという期待をもったが、やがて沼前岬付近で通行止めになっていた。ここから先は整備工事中であり、川白までの8.1キロは今年11月から供用開始されるとのこと。わずか3ヵ月ばかり早過ぎたせいで迂回を強いられることになる。
 さあ危惧していたことが発生した。わずか8.1キロの迂回は、余別岳や積丹岳の山麓をほぼ1周しなければならないため、60キロ以上に及ぶ。国道229号線を古平まで引き返し、積丹半島西側の神恵内へ抜ける山岳道路を抜けなければならない。安藤クンの運転をしても古平まで40分、古平から神恵内に抜けるまで30分かかる。時刻は19時を過ぎて、夏とはいえ周囲は薄暗くなってきた。国道229号線を北上して、川白集落を抜け、窓岩が浮かぶ行き止まり地点にたどり着いたのは19時10分過ぎだった。
 川白でUターンして、積丹半島を南下する。さすがにそろそろ今宵の宿を確保しなければならない。いざとなればレンタカーで一夜を明かしてもいいかなと思うが、安藤クンは猛反対。幌延駅で一晩明かしたことを告げると呆れたような眼差しを向けられる。  積丹半島を無事に踏破して岩内に到着したのは20時過ぎ。灯火が多いので大きな街のように感じるが人口は2万人弱に過ぎない。今宵は岩内泊まりが妥当と考え、道の駅いわないに立ち寄ると旧国鉄岩内線の岩内駅跡地であった。
 岩内線は、岩内と函館本線を接続する目的で、1912年(大正元年)11月1日に小沢−岩内間14.9キロが開業した。岩内は鰊漁で栄えた港を抱え、岩内線沿線にも銅を産出する鉱山があったことから、海産物や鉱石の輸送で活況を呈していた。1972年(昭和47年)12月24日には、函館本線の急勾配を緩和するバイパスルートとして、岩内から寿都を経由して黒松内に至る岩内線伸延の着工認可も下りたが、1980年(昭和55年)に国鉄再建法が成立すると第1次特定地方交通線に指定され、1985年(昭和60年)6月30日限りで廃止されてしまった。
 岩内線を偲びながら公衆電話で宿を探す。せっかくなので雷電温泉泊まりを考えたが、雷電温泉の宿泊施設は「ホテル雷電」や「ホテル観光かとう」と料金が高めの観光ホテルのほかは宿泊施設がほとんどなく、岩内町内の旅館や民宿も安いところは満室で、高いところしか空いていない状態。やむなく寿都の喜多郷旅館を素泊まり3,500円で押さえる。
 宿が決まれば後は夕食。道の駅いわないは営業時間が19時までで、飲食店や土産物屋はすべて閉まっている。岩内町の中心地なので、どこか適当な食堂がないか周囲を見回したが、店を開けているのは居酒屋ぐらいだったので、セブンイレブン岩内万代店で「ビックリチキンカツ弁当」(494円)を購入した。
 岩内の市街地を抜けて15分も走ると国道229号線沿いに雷電温泉の灯火が見える。雷電温泉にも源義経伝説が残り、やはり源の義経がアイヌ人の首長チパの娘であるメヌカと分かれる際に「来年戻る」と言い残したとされ、来年が訛って雷電となったという。一体、源義経は北海道でいくつのロマンスを残しているのだろうか。すべて集約して物語にすれば、「源氏物語」を超える恋愛小説が書けそうだ。
 寿都湾を挟んだ対岸に寿都の中心街の灯火が見えだしたのは21時前。外周旅行としては異例の時間帯になってしまった。寿都町もかつては鰊漁で賑わった町であり、函館の実業家が鰊や鉱産物の輸送を目的として寿都鉄道を設立し、1920年(大正9年)10月24日に黒松内−寿都間16.5キロを開業した。しかし、鉱山の閉山、鰊漁の衰退、道路整備によるトラック輸送の増加、バス運行による鉄道利用客の減少により経営は悪化。河川増水で路盤が流出し、1968年(昭和43年)8月14日に運行休止に追い込まれ、1972年(昭和47年)5月1日付で廃止。その後も岩内線の伸延による国鉄買収を期待したが、岩内線の廃止を受けて、寿都鉄道も解散した。ところが、寿都鉄道は現時点で清算結了の登記が完了していないため、法律的にはまだ会社が継続される余地は残っている。
 寿都町市街の交差点を右折し、寿都港に向かって100メートルも進めば、今宵の宿となる「喜多郷旅館」であった。旅館の前にレンタカーを駐車していると女将さんが出迎えてくれる。
「あら、早かったですね。岩内からだと聞いたので、10時は過ぎると思ってたのに」
 「喜多郷旅館」は温泉旅館ではなかったが、浴室に行けば「薬用ミネラル温泉」の表示がある。天然温泉ではないが、温泉成分が含まれているので、雷電温泉の代用になろう。長距離ドライブの疲れを癒すのに役立った。

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