私の経験談をお話しましょう

第38日 幌延−留萌

1996年8月9日(金) 参加者:奥田

第38日行程  ガタンと言う音で目覚めると時刻は5時15分。稚内行きの急行「利尻」の幌延到着時刻が5時12分なので、「利尻」の下車客が駅の待合室を通り抜けたのだろう。北海道の朝は早く、既に外は明るくなっていた。もうひと眠りしたいところだが、急行「利尻」の発着にも気付かないほど熟睡していたので、二度寝をしてしまうと6時30分のバスに乗り遅れる可能性があるので駅前をぶらぶらして眠気を覚ます。
 6時15分になると駅前に沿岸バスがやってきた。幌延駅前を6時30分発の快速旭川駅前行きだ。幌延から羽幌、留萌経由で旭川を目指す長距離バスで、終点の旭川駅前には11時17分に到着する。高速バスを除けば、これほどの長距離を運行する路線バスも珍しかろう。この区間には更に長距離を走る豊富駅始発のバスもある。  早めにバスに乗り込んでおいた方が寝過ごす心配もなくなる。奥田クンを叩き起こしてバスの車内へ移動する。
「おはよう。早いね。昨日は幌延に泊まったの?」
昨日は購入できなかった回数券を車内で買い求めると、運転手から声が掛かる。
「はい。でも、昨日は幌延の旅館や民宿がどこも満室だったので駅で一夜を明かしました」
「幌延の旅館が満室だって?そんなはずはないけどな。駅前の旅館に泊まっていたけど、他にお客なんていなかったよ」
「駅前の旅館というのは光栄荘ですよね?電話したら満室だって断られましたよ」
「おかしいな。幌延は観光地でもないからいつも空いているはずだけどな」
昨夜は「ほろのべ名林公園まつり」があったので、観光客の宿泊需要があったのだろうと理解したが、運転手の話で察しがついた。どこの旅館も祭りに参加するために宿泊客を断ったのだ。運転手は個人客ではなく、バス会社が宿舎代わりに長期契約でもしたから受け入れてくれたのだろう。わざわざ遠方から宿泊してまで祭りを見物する観光客がいたとは思えない。運が悪かったと言えばそれまでだが、宿泊費を節約でしたし、結果的に良かったのかもしれない。
 幌延からは羽幌線の代替バスとしての性格を有する。羽幌線は幌延から日本海に沿って南下し、留萠で留萠本線に接続していた141.1キロのローカル線だ。羽幌炭鉱の石炭と日本海沿岸で水揚げされた鰊の運搬を目的に敷設された鉄道であったが、1970年(昭和45年)11月1日に羽幌炭鉱の閉山が決定すると、沿線人口も減少。貨物と旅客の双方の輸送量が減少したうえ、沿線に国道232号線が整備されていたこともあって、国鉄民営化を待たずに1987年(昭和62)年3月30日に廃止となった。今日は幌延線が廃止される原因となった国道232号線をバスでたどる。
 天塩大橋を渡り、国道232号線に入るが、この辺りもサロベツ原野の続きで景色は単調。寝不足も手伝って当然のようにウトウトする。まとまった集落がようやく現れたのは6時54分の天塩だった。天塩町の中心で羽幌線を走っていた急行「はぼろ」の停車駅でもある。羽幌線の痕跡でも残っていないかと周囲を見回してみたが何も見当たらない。
「どこまで行くの?」
妙なところでキョロキョロしたのでこの辺りで降りると思ったのか、運転手から声が掛かる。
「羽幌まで行って焼尻島(やぎしりとう)と天売島(てうりとう)に行ってみようと思います」
「焼尻・天売か。いいとこらしいよ。行ったことないけど」
「出身はこの辺りではないのですか?」
「いいや羽幌出身だよ。でも、羽幌にいるとわざわざ焼尻や天売に行こうとは思わないよね。行きたいと思えばいつでも行けるけど、船に乗らなくても新鮮な魚は食べられるし、自然は満喫できる」
乗客が他にいないのと眠気覚ましを兼ねているのか今日の運転手は多弁だ。この様子であれば無人のバスを運転する日も多いのではなかろうか。今は夏休み中だが、2学期が始まれば高校生で賑やかになるのかもしれない。
 天塩の集落を抜けると今度は単調な海岸線が続く。天気は日が差したり曇ったり微妙な様子だ。景色が単調なので、バスはとてつもなくゆっくり走っているような錯覚に陥るが、運転手の背後からこっそりスピードメーターを覗きこむと、しっかり60キロで走っている。やっぱり北海道は広い。
 やがてバスは初山別村の集落に入る。初山別村のみさき台公園には北緯44度34分08秒,東経141度47分08秒の日本最北の天文台として知られるしょさんべつ天文台がある。高校時代に物理部地学班に所属し、天文を専攻していた奥田クンは、しょさんべつ天文台に立ち寄りたくてうずうずしているが、残念ながら焼尻島と天売島へ渡るフェリーの時間の関係上、素通りせざるを得ない。しょさんべつ天文台では、1995年(平成7年)4月1日より星に好きな名前を付けることができる「マイスターズシステム」という制度を開始している。夜空に輝く星の多くは認識番号のみで、名前がついていないものがほとんどだという。そこで、名もない星を個人に所有してもらい、名前をつけてもらうというのが「マイスターズシステム」だ。星表に含まれる258,997個のうち5.5等より明るい星を除く約25万個が対象で、既に特定の名前がある星やバイエル符号のある星、フラムスチード番号のある星は対象外となる。もちろん公式に星の所有権が認められたり、学術的に名前が認められるわけではない。端的に言えば記念に過ぎないが、付けられた名前は初山別村がその星とともに登録し、永遠に保管するという。何かの機会に私も「マイスターズシステム」に登録してみようと思う。 天気は曇りで海上も霞んでいたが、バスが羽幌に近付くにつれて、日本海沖に焼尻島と天売島の島影が微かに確認できるようになってきた。ところどころで羽幌線の廃線跡も見受けられる。
 「船に乗るならここだよ」
運転手に促されて降り立ったのは本社ターミナル。羽幌にはバスターミナルが2つあり、従来からあったバスターミナルは、沿岸バスの本社施設を利用した本社ターミナルで、かつては羽幌ターミナルと呼ばれていたが、羽幌線が廃止になると、羽幌駅跡をバスターミナルとして活用。羽幌ターミナルの名を旧羽幌駅に譲り、本社施設を活用した羽幌ターミナルは本社ターミナルとなった。同じ町に2つのバスターミナルは不要と思われるが、市街地にある本社ターミナルの方が羽幌ターミナルよりも利便性が高いので、本社ターミナルを廃止できなかったのではないかと思われる。
 本社ターミナルから5分も歩くと、オロロン鳥の巨大な像が目印の羽幌港フェリーターミナルにたどり着いた。オロロン鳥はウミガラスと呼ばれる北太平洋や北大西洋の亜寒帯海域に広く分布する全長40センチあまりの海鳥で、日本では天売島だけで繁殖しているが、絶滅が危惧されている。「ウォルルン〜オロロロ〜」という鳴き声から、天売島ではオロロン鳥として親しまれている。もっとも、フェリーターミナルの巨大な像は、どう見てもペンギンである。胸には「WELCOMEサンセット王国はぼろ」とあった。
 羽幌港では、既に「フェリーおろろん」の積荷作業が始まっていた。焼尻島と天売島の島民にとって、定期航路は貴重な生活物資を運ぶ生命線だ。夏休み中のため、待合室には海水浴やキャンプに出掛ける観光客の姿も多い。天候が良ければもっと盛況だったであろう。乗船客名簿を記入し、天売島までの2等乗船券を購入すると7月と8月は通常運賃の180円増しで2,370円。観光客の多い時期に運賃を加算して、採算を合わせようとする苦肉の策が伺える。礼文島や利尻島と比較すると地味な存在なので、両島運輸の経営も苦しかろう。
 8時50分に総トン数450トン、定員420名の「フェリーおろろん」は羽幌港を出航。かつては羽幌の南に位置する苫前が焼尻島と天売島への玄関口であったが、1955年(昭和30年)に天売村、1959年(昭和34年)に焼尻村が羽幌町に合併されると、苫前に変わって羽幌が玄関口となった経緯がある。天売島までの所要時間は1時間30分もあるので、奥田クン共々船室で睡眠不足を補った。
 船内がにわかに騒々しくなり目を覚ますと、焼尻フェリーターミナルに到着するところであった。焼尻フェリーターミナルが終点だったかと錯覚するほど、ほとんどの乗船客は焼尻島で下船してしまう。北海道本土に近い焼尻島の方が滞在時間も長くなるので観光客にとっても都合がいいのであろう。
 「フェリーおろろん」は焼尻島の北岸を迂回し、武蔵水道という東京のような名前の海峡を横切る。武蔵水道の名前は、1925年(昭和元年)に日本海軍の測量船「武蔵」によって測量が実施されたことに由来する。焼尻島での下船客が多かったためか、定刻よりも10分遅れで天売フェリーターミナルに到着。ここでも羽幌フェリーターミナルと同様にオロロン鳥の巨大な像が出迎えてくれた。
天売島  天売島は、周囲12キロ、面積は5.46平方キロで、断崖の続く北西部の海岸では、オロロン鳥をはじめとする海鳥の繁殖が確認されている。それゆえ、1938年(昭和13年)8月8日には国指定天然記念物の「天売島海鳥繁殖地」に、1982年(昭和57年)3月31日には国指定天売島鳥獣保護区(集団繁殖地)に指定されている。さらに、1990年(平成2年)8月1日には、天売焼尻道立自然公園と暑寒別道立自然公園が統合されて、暑寒別天売焼尻国立公園に格上げされた。
 天売島は集落のある東海岸が低地なのに対して、西海岸は標高184.5メートルの断崖絶壁が連なっており、起伏が激しいと聞いていたので、レンタバイクを利用しようと考えていた。ところが、フェリーターミナルの裏手にある「おろろんレンタル」を尋ねるとレンタカーとレンタサイクルの貸出しかしていないとのこと。
「以前はレンタバイクもやっていたけど、事故が多いので今はやっていません」
天売島は一周しても12キロ程度なので、歩いても3時間。13時40分の高速船で焼尻島へ渡る予定だからちょうど3時間ある。起伏が激しいといっても当然に下り坂もあるわけだし、自転車でも十分に天売島を一周できそうだ。2時間700円でレンタサイクルを利用することにする。
 フェリーターミナルへ下って来る坂道を見て、最初から急な坂道に挑むのはいささか抵抗があったので、時計回りに一周することに決定。天売島の集落に向かって平坦な道をレンタサイクルで進む。太郎兵絵崎で直角に曲がると天売島の集落で、羽幌町立北海道天売高校の学舎がある。平屋建ての小学校のような雰囲気だが、人口500人にも満たない島に高校が存在するとは驚いた。焼尻島には存在しないのは、羽幌町に合併される以前の天売村が存立高校として1954年(昭和29年)10月1日に開校した経緯があり、天売村の向学心の高さには感心する。本土に近い焼尻よりも高校進学が困難だっただけに、島に高校を設置しようという熱意が強かったのではなかろうか。
 天売郵便局で離島での貴重な旅行貯金を済ませ、天売島を南下。集落を抜けて、黒崎海岸までやって来ると「まむし注意」の看板がやたらと目立つのでドキリとする。この辺りは釣りや海水浴、キャンプに来る観光客が多いので、過度に注意喚起をしているのだろうが、これでは却ってここに来るなと言っているようなものだ。島民にとってもマムシの存在は、観光の妨げにもなり、頭の痛い問題なのではなかろうか。
 黒崎海岸辺りから次第に上り坂になって来る。勾配のきつい箇所は自転車から降りて素直に歩く。フェリーターミナルから50分近く掛かって、天売島の最南端にある赤岩展望台にたどり着いた。
 赤岩は、海中から突き上げる鋭い矢尻の形をした、海抜48メートルの垂直岩で、オロロン鳥と並んで天売島のシンボルになっているが、展望台からは見下ろすような位置になるので迫力に欠ける。この辺りの斜面はウトウやウミネコ等の海鳥の繁殖地で、5月から7月にかけては子育てが見られるとのこと。既に8月に入っているので、雛たちも立派に巣立っていったのであろう。周囲を見回しても、雛がいる気配はない。しばらく赤岩を眺めて汗がひくのを待つ。
 気を取り直して赤岩展望台を出発。ここから断崖絶壁の続く天売島の西海岸をたどる。もっとも、道路は海岸よりもかなり内陸に通じているので、視界から海が消えることもしばしば。10分少々で天売島の最標高地点に近い海鳥観察舎にたどり着く。日本海の強風と荒波による荒々しい地形が姿を現すが、断崖の岩棚は海鳥にとって外敵から身を守る自然の要塞となっているようだ。
 坂道も苦にせずどんどん進む奥田クンに後れを取りながら観音崎展望台へ。奥田クンは私が展望台にたどり着くと入れ替わりに先へ行ってしまうので性質が悪い。西海岸の険しい地形も観音崎までで、ここから天売島の最北端であるゴメ岬までは比較的穏やかな地形になっている。観音崎周辺もウミネコの大繁殖地で、夕暮れになるとウミネコが群れをなしてそれぞれの巣に戻って来るらしい。
 眼下に天売港を望む愛鳥展望台にたどり着くと、もう天売島をほぼ一周したことになる。出発してから1時間30分でまずまずのペースだ。芝生や花壇のある公園になっており、正面には焼尻島を望む。さすがにここでは先に行っても仕方ないと思ったのか、奥田クンもおとなしく留まるので記念撮影をパチリ。
 出発時に敬遠した坂道を一気に自転車で下り、天売港の一部分であるかのようなゴメ岬に足を記して天売島散策はおしまい。ちょうどお昼時だったので、フェリーターミナルの近くにあった「おろろん食堂」に入り、「海鮮ラーメン」(大盛850円)を注文する。なかなかいい値段のラーメンであるが、タコ、イカ、ホタテ、ワカメといった海の幸が盛りだくさんのラーメンだったので満足する。ラーメンを食べていると雨が降り出し、天売島を散策中に雨に見舞われずに運が良かった。もっとも、これから焼尻島へ渡り、やはりレンタサイクルで島内を一周するつもりだから、このまま雨が降り続いても具合が悪い。
 雨が止むことを祈りながら天売島を13時40分に出航する高速船「さんらいな」に乗り込む。天売・焼尻航路には、羽幌から乗船した「フェリーおろろん」の他に高速船の「さんらいな」も就航している。天売島−焼尻島間の高速船の運賃は1,320円で、フェリーなら1等でも1,240円、2等なら750円なのでかなり割高だ。所要時間は高速船が25分、フェリーが35分と10分しか変わらない。もちろん好んで高速船に乗るわけではなく、ダイヤの都合によりやむを得ず利用したに過ぎない。
 焼尻島に降り立つと雨足はさらに強くなっている。レンタサイクルで焼尻島を一周するつもりであったが、しばらく様子を見て雨が上がるのを待つしかない。雨が止まなければレンタカーかタクシーに頼らざるを得ないであろう。帰りのフェリーの時間は15時40分なので、タイムリミットを考えておかなければならない。フェリー乗り場の近くにあった「レンタサイクル梅原」で、店のおばちゃんに自転車で焼尻島を一周したらどれくらいかかりそうか確認する。
「この天気で自転車なんて無理だよ。島を観光したいなら観光ワゴンに乗りな」
レンタサイクルの商売をしているのに随分と商売気のないことだが、善意の忠告であろう。それに観光ワゴンなるものがあるのならタクシーやレンタカーよりも安上がりだろう。
「観光ワゴンなんてあるのですか?どこに行けば乗れるのですか?」
するとおばちゃんはフェリーターミナルの前で呼び込みをしていた恰幅のいいおっちゃんに「お客さんだよ!」と声を掛ける。
 おっちゃんの説明によれば島内観光は約1時間で900円とのこと。白タクまがいのようで、多少なりとも怪しい雰囲気があったので、奥田クンとしばらく顔を見合わせる。しかし、おっちゃんの店である「おんこの宿」には、「レンタカー・ハイヤー取次店」という看板も掲げてあり、ハイヤーを利用したツアーなのかもしれない。雨に濡れながら自転車で焼尻島を一周するよりも無難そうなので思い切って島内観光に申し込む。
「じゃあ、このワゴンの中でちょっと待ってて」
そう言い残すとおっちゃんは再びフェリーターミナルへ呼び込みに出て行く。老朽化した緑のワゴンの車内で奥田クンと2人でしばらく待っていると、おっちゃんはお客を3人引き連れて戻ってきた。
「じゃあ1人900円ね」
そう言うと集金袋をぶら下げながら各人からお金を集める。チケットはなく、ますます怪しい。民宿の経営の傍らで小遣い稼ぎをしているのだろうか。いよいよ出発かと思えば、お金を集めたおっちゃんは、またフェリーターミナルへ向かう。天売島からの高速船から降りたお客はほとんど散ってしまったし、これ以上お客が集まるわけがないだろうと思ったら、やがて羽幌からのフェリーが姿を現した。焼尻島14時30分発の天売島行きで、このフェリーの折り返し便で我々は羽幌へ戻る予定だ。
 おっちゃんの努力の甲斐なくフェリーの下船客で島内観光の参加者はなく、当初の5名で出発する。参加者は我々の他は、札幌からやって来たOL2人と福島からやってきたという学生1人だ。OL組はこのまま焼尻島に泊まるとのことだが、我々と学生は15時40分のフェリーで羽幌へ戻るので、それまでにフェリーターミナルへ戻ることを確認しておく。
 焼尻島はアイヌ語のヤンゲ・シリ(陸に近い方の島)を語源とし、南北2キロ、東西4キロ、面積5.34平方キロの島である。島全体が河岸段丘で中央部の最高点は97メートルという平坦な島だ。天売島と比較してもレンタサイクルで観光しやすい島であることがわかる。
 ワゴンは焼尻港から北上し、北側の海岸沿いを走る。雨は多少なりとも弱まったようだが、ワイパーを動かしていないと視界が遮られる。最初に案内されたのは焼尻島の中央部に広がるめん羊牧場の牧草地。めん羊牧場は町営の牧場で、サイトフォーク種の羊が飼育されている。ここから見渡す北海道の海岸線や天売島の景色が素晴らしいとのことであるが、今日は4キロほどしか離れていない天売島の島影さえ確認できないので、周辺を見回してすぐにワゴンに戻る。
 次に案内されたのは焼尻島の西部にある鷹の巣園地。ここも焼尻島のビューポイントで、目の前に天売島、東に手塩山系の山々、南に暑寒別岳と雄冬岬の海岸線、北には利尻島まで望む雄大なパノラマが広がっているらしいのだが、視界はさっぱりである。
 既に焼尻島を半周したことになるが、視界の悪いビューポイントを立て続けに案内されたので、盛り上がりに欠ける。ワゴンは南側の海岸沿いの道路を西に向かい、2本のトーテムポールが立ち並ぶところで停車した。英語教師第1号として日本史にも登場するラナルド・マクドナルドが上陸した地であるとのこと。1848年(嘉永元年)に米国捕鯨船の船員であったラナルド・マグドナルドは焼尻島に漂着。その後、単独で利尻島に渡ったラナルド・マグドナルドは、松前藩に捕らえられ、長崎で密入国者として監獄生活を送る。その際に獄中で役人に英語を教えたことが、英語教師第1号としての名を残すことになったのだ。このときに英語を習った役人は、黒船来航の際に通訳として活躍したという。焼尻島で英語を教えたわけではないので、わざわざラナルド・マグドナルドの功績をここで称える必要もないのだが、少しでも観光資源を増やしたいという意向なのであろう。
「英語教師も必要だろうけど、やっぱり島には医者が必要でね。医者が来てくれるなら大きな一軒家を無償で提供してもらえるぞ。知り合いに医者はいないか?」
おっちゃんがトーテムポールを眺めながら島の実情を口にする。
「残念ですね。歯医者の卵ならここにいるのですけど」
私が奥田クンの正体を明かす。
「おおっ兄ちゃんは歯医者か?歯医者も島には必要だ。家も付けるし、何なら嫁も付けるから歯医者になったらここに来ないか?」
おっちゃんは冗談ながらも奥田クンのスカウトを始める。
「島には年寄りが多いから歯医者も必要だ。歯医者へ行くにもわざわざ羽幌まで通っている。島に歯医者が開業すれば島民総出で大歓迎だ」
 最後に案内されたのは、焼尻島の中央部に位置するオンコの荘。オンコとはイチイの木のことで、島の中央部に群生地がある。焼尻島では、秋から冬にかけて大陸から吹き込む強い風の影響をまともに受けるため、幹がまっすぐ伸びることができず、枝を左右に広げた特殊な育ち方をする。オンコの荘には、樹高が2メートルもないのに直径10メートル以上にも枝が広がっているオンコもある。このイチイの群生地は、ミズナラやイタヤカエデ、ハンノキなどの広葉樹、それにアカエゾマツなどの針葉樹が混成した周囲の自然林とともに国の天然記念物に指定されている。
 フェリーターミナルに戻ればもう羽幌行きのフェリーは入港しており、慌ただしくワゴンから降りてフェリーに駆け込む。
「お〜い!歯医者の兄ちゃん!焼尻に戻って来いよ!」
すっかり気に入られた奥田クンに対して、背後からおっちゃんの叫び声が聞こえた。
焼尻島  定刻よりも5分遅れの15時45分に「フェリーおろろん」は焼尻島を出航する。天気は悪いがフェリーが欠航しなかったことは不幸中の幸いである。視界が悪いためか「フェリーおろろん」は遅れをさらに数分拡大して羽幌港に入港した。
 再び本社バスターミナルから17時12分発の沿岸バスに乗り込む。次の停留所が旧羽幌駅跡地を利用した羽幌ターミナルなので、羽幌線の面影が残っていないだろうかと周囲を見渡す。バスは羽幌町の中心から少々内陸に入り、なぜかもう列車の走ることのない踏切跡で一旦停止をしてから羽幌バスターミナルへ入る。
 羽幌バスターミナルは広場のようになっており、羽幌線の面影はほとんど感じられない。羽幌線の記念碑がかつてここに駅があり、列車が走っていたことを伝えているに過ぎない。羽幌線が廃止されてもう10年以上が経過しているのだからやむを得ない。既に羽幌線は歴史化しているのだ。
 沿岸バスは海岸線を忠実にたどる国道232号線を南下していく。羽幌線が廃止されたのは残念であるが、外周旅行という観点からは国道232号線をたどる沿岸バスの方が旧羽幌線よりもふさわしい。
 バスは留萌市内に入るとしばらく留萌川に沿って内陸部へ大きく迂回してから留萠本線を跨ぎ、東側から市街地へ入って行く。地名は「留萌」であるが、駅名は「留萠」と表記する留萠駅前を経由したので腰を浮かせ掛けたが、京都は留萌泊まりの予定なので、中心地の方が何かと都合が良かろうと終点の留萌十字街までバスを乗り通す。留萌十字街には18時44分に到着。
 留萌十字街は長距離バスの終点になっているものの、市街地の道路脇に標識が立っているだけの停留所。今宵の宿を探そうとするが、周囲には公衆電話すら見当たらない。やっぱり留萠駅前で降りた方が良かったかなとも思うが後の祭りだ。とりあえず、日が暮れてしまう前に黄金岬に足を記しておこうと足を速める。
 かつて鰊の見張り台でもあった黄金岬は、柱を積重ねたような荒々しい奇岩が幾つも並ぶ独特な景観を持つ海岸で、現在は黄金岬海浜公園として、キャンプ場や海水浴場などが整備されている。黄金岬という名は、夕陽に映し出された鰊の群れが、きらきらと黄金色に輝きながら岸をめがけて押し寄せたことに由来する。周囲は既に薄暗くなり、夕陽の時間帯にしては遅くなってしまったが、今日の天候では早くに着いても夕陽を拝むことはできなかったであろう。
 黄金岬から留萠駅前に向かって歩く途中で見付けた公衆電話で本日の宿の手配。昨日は幌延駅での駅寝だったので、今日はきちんとしたところに泊まりたい。何軒かの旅館や民宿に電話をして、留萠駅に近い秋田屋旅館に落ち着く。素泊まりで1人3,800円也。
 旅館に荷物を置いて、留萠駅前の「ときよし食堂」で夕食。「トンカツ定食」(680円)にせっかく北海道へ来たのだからと単品で「ジンギスカン」(390円)を注文。奥田クンにもジンギスカンを勧めたが、独特の臭みを敬遠し、ほとんど箸を付けなかったので、一人で平らげる。
 旅館への帰りがけに久しぶりに見た「セブンイレブン」で、カメラの電池や歯磨き粉などを購入する。旅館の風呂でさっぱりして、冷房の効いた部屋の布団に入れば、この上なく贅沢な気分になった。今日はぐっすり眠れそうだ。

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