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第37日 鷲泊−幌延

1996年8月8日(木) 参加者:奥田

第37日行程  快晴だった昨日に対して、どんよりとした天候の中、民宿「うめや」から鷲泊フェリーターミナルを目指す。利尻観光も昨日と同様に観光バス利用で、鷲泊フェリーターミナルを9時20分に出発する「利尻完全一周コース」(3,300円)を利用する予定だ。コースを確認すると利尻島を時計回りに5時間分かけて一周するので都合がいい。こちらも宗谷バスの運行であるが、礼文島と同様に事前予約は認められず、出発時刻の30分前から先着順に受け付けるとのこと。
 鷲泊フェリーターミナルにはきちんとした観光バス車両が待機していたが、「利尻完全一周コース」は天候不良のため、展望台や海底探勝船遊覧をカットした「利尻早回りコース」(2,500円)に置き換えられるという。観光ポイントが減ってしまうのは残念だが、いずれにしても利尻島を一周できることに変わりないので差し支えはない。時間も3時間10分に短縮されるので、予定していたフェリーよりも1便早いフェリーに間に合いそうだ。「利尻早回りコース」を申し込み、フェリーターミナルの待合室で今日の行程表を作り直す。
 今日も若くてかわいいバスガイドだったらいいなと淡い期待を持っていたが、残念ながら今日のバスガイドはお年を召している。しかし、昨日のバスガイドは稚内からの応援であったが、今度は正真正銘の利尻出身とのことなので、希少価値のある情報も聞き出せるかもしれない。
「任せてください。地元の人しか知らない情報も盛りだくさんです」
愛想もよければ威勢もいい肝っ玉母さんタイプのバスガイドである。
 観光バスは鷲泊の集落を抜けたかと思うとすぐに内陸部へ折れ、10分程で最初のポイントである姫沼に到着した。姫沼は原生林に囲まれた小さな湖で、湖周に自然遊歩道が整備されていたので一周してみる。天気が悪いため雰囲気が少々薄気味悪く、小さな女の子が「怖いよう」と泣いている。晴れた日には逆さ利尻富士が湖面に映る美しい湖であるとのことだが、今日は利尻富士こと利尻山の姿さえほとんど確認できない。本来であれば利尻島を一周する間に利尻山は16通りの姿を見せてくれるとのバスガイドの説明。旅先の印象は天候に大きく左右されるが、礼文と利尻の印象が対照的なものとなった。姫沼は利尻登山の入口でもあるが、この天候では登山を見合わせる人も多かろう。
 姫沼を後にしたバスは30分かけて一気に南下し、オタドマリ沼へ向かう。この移動時間を利用してバスガイドからエゾ松とトド松の見分け方のレクチャーを受ける。
「枝が下向きなのがエゾ松で、上向きなのがトド松なのですよ」
オタドマリ沼も逆さ利尻富士を売り物にしているのであるが、利尻富士は相変わらず姿をくらましている。ひっそりとした姫沼とは対照的に、オタドマリ沼は開けた雰囲気の湖であったが、相変わらずの天気で、散策路を歩いていたものの盛り上がりに欠ける。観光バスの乗客の興味もオタドマリ沼よりも売店へ移っていた。
 ウニ寿司はオダトマリ沼の名物のようで、パックに入った3個1,000円のウニ寿司が飛ぶように売れている。私はあまりウニの類を好まないので手を出さなかったが、奥田クンが1箱買い求め、パクリとやる。感想を求めてみるが「まあまあ」との返事。騒ぐほどの味でもないのだろうか。ウニ好きの安藤クンだったら別の反応があったかもしれないが、今年のウニは1キロあたり17,000円から18,000円程度。例年よりかなり高値だというから、あまり良いウニも採れず、質も悪いのかもしれない。
 利尻島の南端に位置する仙法志御崎公園に到着すると、観光バスで定番の記念撮影がある。仙法志は溶岩が海に流れ込んで形成された奇岩や怪石が続く景勝地であるが、天候が悪いので寒々しい雰囲気しかない。現像された写真も天候の影響でパッとしないので購入は見合わせる。せめて美人のバスガイドが一緒だったら購入を考えたかもしれないが。
仙法志御崎公園  公園内には岩場を利用したアザラシのプールがあり、5月から10月まで稚内の水族館で飼育されているアザラシがここで過ごすという。しかし、アザラシの飼育環境はすこぶる悪い。曇り空のうえ、風が強くて台風の前兆のようだ。アザラシのプールは海辺にあるので、大きな波が来れば簡単に海にさらわれてしまうであろう。おまけに近所のとろろ昆布工場からが大きなボリュームで客引きのアナウンスをするので喧しい。この騒音でアザラシもかなりのストレスを感じているのではなかろうか。稚内の水族館もよくこんな環境の悪い場所へアザラシを貸し出すものだ。
 ひとまず御崎灯台に挨拶してから町立博物館に足を向ける。入館料200円は観光バスの料金に含まれていないために持ち出しとなる。観光客のほとんどは町立博物館に足を向けるのであるからセットにすれば良さそうなものであるが、近隣の土産物店との暗黙の協定であろうか。町立博物館が任意であれば、とろろ昆布工場に足を向ける観光客も何人かはいるのかもしれないが、あまりにも下品な呼び込みを展開するとろろ昆布工場の印象が災いして何も買う気にならない。
 町立博物館は、「利尻の海」、「めぐまれた自然」、「利尻町きのう今日あした」など6つのコーナーに分類して展示がなされていた。特に鰊番屋を復元したジオラマは音響効果にも趣向を凝らし、鰊漁の迫力が伝わって来る。鰊漁の道具などを陳列しているだけの施設と思っていたので、200円の価値は十分にある。
 鰊番屋の他にオホーツク文化の史料もなかなか興味深い。オホーツク文化とは、3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化のことで、オホーツク海の沿岸で多くの遺跡が発見されたことからオホーツク文化と名付けられたとのこと。ホッケ、鱈、鰊などの漁業やアザラシ、トド、オットセイなどの海獣狩猟に重点を置いて生活を営んでいたようだ。どうしても日本史は大和朝廷の立場から学ぶため、どうしても大和朝廷の征服の対象となった文化には無頓着になってしまう。偶然3日前に立ち寄った網走のモヨロ貝塚がオホーツク文化の代表的な遺跡であったらしいが、予備知識がなかったので、単なる貝塚としか認識していなかった。
 仙法志御崎公園から沓形岬へ移動すれば、もう利尻島の4分の3を周ったことになる。観光バスから降りるとここも物凄い強風だ。半袖だと肌寒く、木枯らしに吹かれているような気分にすらなる。
 沓形岬には昨日、礼文島からの「第十一宗谷丸」で降り立った沓形フェリーターミナルがあり、観光バスにもこれから礼文島へ向かう数名が離脱。ちょうど12時30分に礼文島の香深行き東日本海フェリー71便があるが、この天気では礼文島も昨日とはまったく違った装いであろう。利尻町出身の詩人である時雨音羽の「出船の港」詩碑・音楽碑を眺めてさっさと観光バスに戻る。
 昨日の路線バスと同じ道をたどって鷲泊へ向かう。昨日は気が付かなかったが、利尻島の街灯にもリシリヒナゲシやリシリリンドウを象ったものが見受けられる。花の島をPRする礼文島に相乗りして観光客誘致に努めているのかもしれない。
 鷲泊港のある利尻富士町に入ると、右手に利尻空港が見えた。現在、利尻空港では滑走路の拡張工事が進められているという。1999年(平成11年)には利尻島にも1,800メートルの滑走路が誕生し、千歳空港からジェット機を迎えることができるようになるとのこと。現在は稚内空港からのプロペラ機のみが運航されている。
 鷲泊フェリーターミナルには12時45分に到着。天候の影響で盛り上がりに欠けた利尻島観光で、利尻山もまったく全容を現さなかった。天気がよければ稚内からもはっきりと見えるのに運が悪い。もっとも、昨日の夕方にペシ岬で利尻山を眺めることができたのでよしとしよう。
 稚内行きの東日本海フェリー16便は14時の出航なので1時間少々の時間がある。せっかくなので最後に利尻島でも何か土地のものを食べようとフェリーターミナル2階にあった「食堂丸善」に入る。フェリー乗船者以外の利用者もいるようで、13時前でもかなりの込み具合だ。大衆食堂のような雰囲気であるにもかかわらず、メニューを見ると「利尻生うに丼」(3,500円)、「ムラサキウニ丼」(2,800円)と値段は高め。もう少し安いものはないかと探して目に付いたのは「塩ラーメン」(600円)だ。不思議なことに「食堂丸善」のラーメンは塩のみで醤油と味噌はない。きっと利尻昆布を使った出汁にこだわりのあるラーメンに違いないと「塩ラーメン」を注文する。運ばれてきた「塩ラーメン」は見た目はあっさりしているが、スープを口にするとかなり塩辛い。まるで海水でスープを作ったのではないかと思えるような辛さだ。トッピングされている昆布も辛かったので、昆布出汁がきいているのかもしれない。
 稚内行きの東日本海フェリー16便も稚内から香深まで乗船した「クィーン宗谷」で、今度は学割が適用され、本来の2等船室料金1,850円が1,440円になった。視界が悪く、鷲泊港を出港して30分もたたないうちに利尻島は忽然と姿を消した。幽霊島にでもいたのではないかという気がしてくる。濃霧で視界はかなり悪い。フェリーが欠航しなかったのは幸いだが、ここは日本最北の地。間違えてサハリンに漂着したら、日本に戻れなくなるぞと馬鹿なことを考えながら船内に戻り、桟敷席で横になる。昨日は夜遅くまでテレビを見ていたのでさすがに眠くなった。稚内到着まで昼寝をして過ごす。
 「クィーン宗谷」は濃霧の影響を受けることもなく定刻の15時40分に稚内港に着岸。無事に北海道本土へ戻って来ることができたが、今度は列車の時刻が気になり、急ぎ足で稚内駅へ向かう。次の列車は16時06分発の急行「礼文」であるが、これを逃すと16時51分発の4334Dになってしまう。本数の少ない宗谷本線で45分の待ち時間であれば大したことはないように思えるが、急行列車と普通列車の差は大きく、「礼文」に間に合えば今日中にサロベツ原野にある原生花園に足を記すことができるが、4334Dでは原生花園に行く前に日が暮れてしまう。
 稚内駅に駆け込むが、発車まで10分以上余裕があり、案ずることはなかった。北緯45度24分44秒、東経141度39分00秒に位置する稚内駅は言うまでもなく日本最北端の駅である。初代の稚内駅は1922年(大正11年)11月1日に開業した現在の南稚内駅であったが、南樺太の大泊に連絡する稚泊航路との接続を図るために1928年(昭和3年)12月26日に現在の稚内駅まで宗谷本線が伸延し、稚内港駅として開業した。1939年(昭和14年)になると旧稚内駅から稚内駅の呼称を譲り受け、旧稚内駅は南稚内駅となる。1940年(昭和15年)には、稚泊航路利用者の便宜を図るために、稚内駅構内の仮乗降場として稚内桟橋駅を開設したが、太平洋戦争により稚泊航路の運航が休止されると、稚内桟橋駅も消滅した。稚内駅構内の線路の車止めの先には、「最北端の線路」という標識が立っている。今から約5年前の1991年(平成3年)3月29日に初めて稚内駅へやって来たときは、駅舎の入口脇にある「日本最北端稚内驛」とある標識ぐらいしかなかったようにも思えるが、いつの間にか新しい標識もできたようだ。
 みどりの窓口で原生花園の最寄り駅である豊富までの乗車券(890円)と急行券(520円)を購入する。普段は周遊券などを利用しているので、北海道で切符を買う経験があまりないが、随分と高くつくなと思ったが、奇しくも1996年(平成8年)1月10日からJR北海道、JR四国、JR九州の3社が一斉値上げをした直後であったことに気付く。稚内−豊富間は43.5キロなので、本州3社であれば41〜45キロ区間の740円で済むはずであったが、約2割増しの運賃となっている。
 受け取った切符を見れば、日付が8並びになっていて縁起が良い。今日は平成8年8月8日であったことに気付き、日本最北端の駅に到達したことの証明書付き入場券を購入する。証明書には宗谷岬のモニュメントを図案化した稚内駅のスタンプと裏には間宮林蔵カラフト島図が印刷されていた。
 急行「礼文」は既に稚内駅のホームに入線していたが、北海道のローカル線の普通列車でよく見掛けるキハ54系ステンレスカーの2両編成だ。誇らしげに「礼文」のヘッドマークを付けているが、ローカル線と同じ車両を共用しているとは思わなかった。国鉄時代ならいざ知らず、急行料金を徴収してローカル線の車両に乗せられるとは思わなかったと不満気に乗り込めば、車内は転換クロスシートだ。キハ54系を急行使用に改良した車両で、廃車になった0系新幹線の転換クロスシートを装備している。よく車体を見れば、窓下の赤いラインの他に屋根の近くにも細い赤いラインが入っている。普通列車仕様のキハ54系には屋根近くのラインはない。
「なかなかいい座り心地だ」
奥田クンは改良キハ54系にご満悦だ。もともと新幹線に使われていた座席だけにクッションもよい。しかし、改良車両であるがゆえの欠点もあり、窓の位置とシートの位置が簿妙にずれている。我々はもちろん窓がしっかりとある位置に落ち着く。
 敬礼した駅員に見送られて急行「礼文」は稚内を静かに発車する。稚内市街地をゆっくりと走ってすぐに次の南稚内に停車。かつての稚内駅で、1989年(平成元年)4月30日までは、天北線がここから分岐しており、浜頓別を経由して音威子府で再び宗谷本線と合流していた。正確には天北線が先に稚内へ通じており、宗谷本線として1922年(大正11年)11月1日に開業。その後、1926年(大正15年)9月25日に幌延経由の天塩線が開通した。1930年(昭和5年)4月1日に天塩線が宗谷本線に編入され、浜頓別経由の全長148.9キロは、天北線の前身である北見線となった。もし、この時点で天北線が宗谷本線を名乗ったままであれば、現在も天北線は存続していたかもしれない。
 南稚内を発車し、稚内市街地を抜けると進行方向右手に日本海が見える。以前、札幌からの夜行急行「利尻」で稚内へやって来たときは、利尻水道を挟んで美しい利尻山が見え、減速サービスまであったのだが、今日は島影すら見えない。急行「礼文」も当然のようにスピードを上げて抜海を通過した。
 16時46分の豊富で急行「礼文」を見送り、駅前に泊まっていた稚咲内第2(わかさかないだいに)行きの沿岸バスに乗り込む。サロベツ原生花園に向かう路線なので、観光客の姿があっても良さそうだが、我々以外は地元のお年寄りが数名乗っているだけだ。
 原生花園までの運賃は片道400円であることは時刻表の記載から判明していたので、1,000円分の回数券を購入して100円の節約を試みようとしたが、「回数券はない」と運転手は首を振る。
 バスは16時55分に豊富駅前を発車すると上サロベツ原野に続く一本道を延々と走り出す。サロベツの名はアイヌ語の葭原にある川という意味のサル・オ・ペッに由来する。1974年(昭和49年)9月20日に利尻礼文サロベツ国立公園に指定されており、「利尻」、「礼文」と共に「サロベツ」も宗谷本線を走る急行列車の愛称に採用されている。
 やがてサロベツ原野の真ん中にポツリとログハウス調の建物が2棟見え、その建物の正面が原生花園の停留所であった。建物の正体はビジターセンターと「レストハウスサロベツ」であった。
 ビジターセンターには、サロベツ湿原形成の歴史や自然などがパネルやビデオで紹介されているものの、今回はそれらをゆっくり眺めている時間はない。先程の沿岸バスが20分後に終点の稚咲内第2で折り返しが今日の最終便であるため、それに乗って豊富駅へ戻らなければならないからだ。ビジターセンターの2階からは湿原が一望してから、いそいそと原生花園に繰り出す。
サロベツ原生花園  サロベツ原野は東西約5〜8キロ、南北約27キロにも及ぶ日本海沿いに広がった低地における広大な泥炭地。模式的な泥炭の分布が観察できるという。原生花園はその泥炭地に1.1キロの板敷の遊歩道が整備されており、遊歩道を一周するとちょうど20分程度になるようだ。湿原は動植物の保護区域なので、植物を採取することはもちろん、遊歩道以外の部分を歩くことすら禁止されている。原生花園といっても、6月下旬にピークを迎えるエゾカンゾウの季節が終わってしまったので、広大な緑の草原のようになっている。そのためかこの時期にわざわざ原生花園を訪れる観光客も少ないようだ。キタキツネや野ウサギなどの姿も見られるらしいのだが、今日はさっぱり動物には巡り合わない。限られた時間だからやむを得ない。バスに乗り遅れると大変なことになるので、少し早めに原生花園を引き上げてバス停に戻る。
 原生花園を16時30分発の最終バスの乗客は皆無。豊富駅から稚咲内地区への乗客を運んだ後の回送便に等しいようだ。サロベツ原野に続く道を引き返し、10分程で豊富駅に戻ると、既にホームには音威子府行き4334Dが停車していた。  4334Dもキハ54系だが、こちらは普通列車仕様のワンマンカーだ。思ったよも乗客は多く、夏休み期間なので制服姿ではないが、高校生らしき若者も多い。座席に座ることができなかったので、運転手の真後ろに陣取って北海道の車窓を堪能することにしよう。稚内行きの対向列車である4335Dを待って17時48分に発車する。
 4334Dも延々とサロベツ原野を走るような単調な風景が続き、睡魔が襲ってくるが、貴重な列車に乗車したのでしっかり目を開けていなければならない。何が貴重なのかと言うと、この列車は南下沼駅に停車するのだ。南下沼駅は下沼−幌延間にある無人駅で、この駅に停車する列車は上下線とも朝夕1本ずつのみなのだ。もともとは国鉄の仮乗降場として設置されたが、国鉄が民営化されるにあたって駅に昇格した。普段は特急や急行で通り過ぎてしまうことが多いので、普通列車でこのような駅にめぐり合う機会は貴重だ。
 下沼を出るとしばらく国道40号線が並走していたが、やがて意を決したかのように線路を跨ぐ。南下沼駅はその国道40号線の高架下を潜り抜けたところにあった。駅舎などはなく、トタン屋根の待合室らしきものがある他は雑木林と雑草地ぐらいで民家などは見当たらない。駅のホームもコンクリート製ではなく、板を張り付けたような簡素なものであった。当然のように乗降客は皆無。しかし、国道40号線は南下沼付近から幌延の中心地を避けるように南へ通じており、日本海に面した音類集落からの道路も南下沼付近に通じているので、車から列車に乗り換えるためのポイントとしては、南下沼が適当な場所になるのであろう。もっとも、車で送ってもらえるなら幌延や下沼でも大きな違いはなく、結局は利用者がほとんどいないという結果になってしまう。南下沼駅もいずれなくなってしまうのではなかろうか。
 18時04分に幌延到着。1両のワンマンカーに乗っていたかなりの乗客がここで下車する。幌延はみどりの窓口もある急行停車駅であるが、運転士が車内精算を求める。この時間は既に駅員は引き揚げて無人になっているとのこと。まだ18時過ぎであるが、地方の駅は営業時間が極めて短い。豊富からの運賃は340円。豊富−幌延間は16.5キロなので本州なら310円のところ30円割高になった。
 かつては幌延からも羽幌方面に向かって羽幌線が分岐していたが、国鉄の民営化直前となる1987年(昭和62年)3月30日限りで廃止されている。奇しくも国鉄最後の廃止路線となった。幌延駅のホームは相対式で2面2線となっているが、もともとは駅舎と反対側のホームに羽幌線が発着していた2面3線の島式・単式の複合ホームであった。構内にはターンテーブルや車庫もあり、国鉄職員の官舎が線路沿いに軒を連ねていたというが、現在は荒れた敷地が残っているだけである。
 奥田クンが駅前の公衆電話で数少ない幌延駅近くの民宿や旅館に電話をするが、軒並み満室との返事。有名観光地でもないのににわかに信じられないが、電話帳に掲載されていた幌延町内の民宿や旅館は全滅した。明日は羽幌から天売島と焼尻島へ渡る予定なので、幌延から羽幌の間で泊まれれば理想であるが、幌延から羽幌方面に向かう沿岸バスの最終便は羽幌駅前を17時38分に出てしまっている。隣の天塩町にも民宿が何軒かあるが、幌延駅から20キロ近く離れており、わざわざ素泊まり客を迎えに来てくれるとは思えないし、タクシー利用なんてことになったら宿泊料金よりも高くつきそうだ。豊富に戻ることも考えたが、なんと次の列車は21時23分の急行「サロベツ」まで見事に列車はない。豊富に戻ってしまうと幌延駅前を6時30分に出る沿岸バスの始発にも乗れなくなってしまうし、結論はひとつ。幌延駅で夜を明かすしか選択肢はなさそうだ。幸いにも幌延駅の待合室には通常のベンチの他に、畳の座敷が設置されている。広さは2畳分あるので、奥田クンと2人でも1畳ずつ使えそうだ。既に駅員が引き上げているということは、施錠されることもなかろう。幌延には深夜の23時23分に札幌行きの急行「利尻」、早朝の5時13分に稚内行きの急行「利尻」が発着する。
 幌延はアイヌ語の大きい平原を意味するポロ・ヌプに由来する。北半球の中間にあたる北緯45度線上の町としてPRしており、道道106号線沿いにはNの字を象った北緯45度モニュメントがあるらしい。せっかくなので見ておきたいと思ったが、幌延駅からは20キロ以上も離れているので断念せざるを得ない。
 幌延駅前の広場では、何やら催しの準備がなされている。座敷からガラスドア越しに観察していると浴衣姿の人も見受けられ、折り畳み式椅子も並べられている。盆踊り大会でもあるのだろうか。19時を過ぎるとスピーカー越しに音楽が流れ、地元の人達が集まってワイワイと騒ぎ始める。やがて紙コップにビールを入れたおじさんが我々のところにもやって来てお裾分けに預かる。
「今日は幌延の夏祭りでね。メイン会場はすぐ近くの名林公園にあるから行ってみるといい」
 今日は「ほろのべ名林公園まつり」が開催されているようで、民宿や旅館が満室なのもまつりが影響しているのかもしれない。駅前の様子からはそれほど大きな祭りとも思えないのだが、人口の少ない幌延町では一大イベントなのであろう。4334Dが混雑していたのも、「ほろのべ名林公園まつり」に出掛ける人が多かったのかもしれない。せっかくなので出掛けて行きたい気もするが、座敷を離れると他の誰かに場所をとられてしまうので見合わせる。
「ここは夜中も開いているから夏場は駅で泊まる人が多いね。2週間ぐらい前だったかな。東京の女子大生が2人でここに泊まると言ってね。さすがに物騒だからうちに泊めてあげたのだけど、その後、まったくの音沙汰なしでね。うちのかみさんなんて、礼状のひとつもよこさないなんてなんて非常識な人達なのってカンカンだよ」
昨年の外周旅行で、羅臼の民宿「野むら」で出会った旭川在住の佐藤さん夫婦にお世話になったことを思い出す。羅臼から宇登呂まで車に便乗させてもらっただけでなく、知床五湖にも連れて行ってもらった。あのときは上野に着いたその足で菓子折りを買い、礼状を添えて佐藤さんへ送付したものだ。おじさんの言う女子大生のように常識知らずの人が増えるのは、旅行者に対する偏見も助長するので困ったものだ。おじさんは我々も家に来ないかと誘ってくれたが、丁重にお断りする。お祭りの最中に突然見ず知らずの人が押し掛ければ、おじさんの奥さんはいい顔をしないだろうし、何よりも奥田クンはこの手の好意を苦手としている。
 駅前の会場も22時を過ぎた頃から撤収が始まり、地元の人達も次第に減っていく。23時を過ぎた頃には完全に静まり返る。23時23分の札幌行き急行「利尻」が本日の最終列車で、「利尻」が発車して駅の待合室に残ったのは我々の他、一人旅の若者だけだ。一晩を共にするので、挨拶をしておこうと声を掛けると創価大学の学生で、夏休みを利用して「青春18きっぷ」で旅をしているとのこと。稚内から幌延20時20分着の4336Dでやってきて、明日の6時25分発の始発列車4324Dで名寄へ向かうらしい。このまま普通列車だけを乗り継いでひたすら東京を目指すという。北海道を「青春18きっぷ」を利用して旅行をするのはなかなか大変そうだが、特に宿泊場所を決めることもなく、列車がなくなればその駅で始発列車を待って旅を続けているという。私が京都からやって来た旨を伝えると、やはり「青春18きっぷ」を利用して京都を旅したことがあるという。
「京都からの帰りに飯田線を経由してみようと、15時頃に豊橋から飯田線に乗ったのです。ところが辰野へ着く前に終電がなくなってしまって参ったよ」
時刻表は持参しているが、事前にプランニングなどは一切せず、取りあえず乗ってしまえという私とは対照的なタイプの旅行者だ。駅前の灯火も消えたので我々も眠りに着いた。

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