事業構想のヒント

第25日 本八戸−大畑

1995年3月14日(火) 参加者:安部・奥田・鈴木(竜)

第25日行程  上野22時23分の寝台特急「はくつる」が今回の旅のアプローチ。本来ならば定番の急行「八甲田」を利用するところであるが、「八甲田」は春休みの季節だというのに運行されない。数年前までは毎日運転の「八甲田」も近年は臨時に格下げされ、影がだんだんと薄れている。「はくつる」もまたしかり。往年は北海道連絡特急として脚光を浴びたが、青函トンネル開業を境に本数が間引き去れ、現在は1往復のみ。同じく上野−青森間の常磐線経由の「ゆうづる」は既に廃止されてしまった。寝台料金6,180円は散財であるが、「はくつる」にエールを送ることにする。
 「はくつる」に終結したメンバーは私を含めて4人。前回に引き続き参加の奥田クンと鈴木クンに加えて、4年前の夏以来、久しぶりの参加となる安部クンだ。安部クンは1年間の浪人の末、国立大学の法学部に進学を決めている。4年前はがらりと様子が変わり、スポーツ刈の頭が長髪になっている。半年も床屋に行っていないそうで、よくもこんな髪の毛で受験をしたものだ。深夜の車内なので安部クンとの久しぶりの会話もそこそこにベッドに入る。
 翌朝は5時30分に目が覚める。「はくつる」は盛岡に到着するところだ。八戸到着は7時ジャストなので、もうひと眠りするには中途半端な時間帯。少々眠いが起きることにして洗面を済ます。通路で車窓を眺めていると隣の区画の寝台客である中年男性から声が掛かる。偶然にも私がこの3月まで住んでいた群馬県の方で、渋川で農業研究をしていること。前回訪れた久慈で研究発表会があるそうだ。八戸到着まで延々と研究成果を説かれたのには参った。
 八戸では13分の待ち合わせで425Dに乗り継ぎ、2駅9分の本八戸へ。本八戸から今回の旅は始まる。前回の旅から1年ぶりの本八戸は、高架橋の立派な駅舎。八戸からの乗り越し運賃180円を支払い、改札口を出る。今日はひたすらバスに乗り継いで下北半島を北上するつもりで、しばらくは鉄道ともお別れだ。
 本八戸駅から15分ほど歩いた十一日町停留所から8時15分の三沢行き十和田観光電鉄急行バスに乗り込むと今回の旅がスタート。急行といっても特別料金は不要で、乗客も地元のお年寄りが主体の生活路線バスだ。しばらく八戸市街地を走った後、国道338号線を北上。一川目という停留所から海沿いの道路となり、外周路線らしくなる。二川目、三川目と律儀に通り、私たちは四川目で下車。ここからバスは三沢駅に向かって内陸へ折れる。八戸から1時間近くもバスに揺られていたことになる。
 四川目から国道338号線を北上するバスは9時38分の淋代海岸行き。しかし、地図で確認すると淋代はここから5キロ程の距離にある。淋代海岸よりさらに北進するバスは10時43分の追館行きで、1時間半以上も待ち合わせ時間がある。それならば、照準を追館行きに合わせ、バスに追いつかれるまで歩くことにする。バス代節約が目的であることは書くまでもない。
 まずは四川目停留所近くの海岸に、太平洋を一望する展望台があったので足を運ぶ。春先の海岸に人影はなく、太平洋も随分穏やかに見える。これから向かう尻屋崎方面に向かってなだらかな海岸線が延々と続き、前回まで旅した三陸海岸とは対照的である。しばらく憩いで展望台をあとにする。
 まばらに民家がある国道338号線を黙々と歩く。
「やっぱりあるこう会は健在やなぁ」
4年前に徒歩主体の旅に嫌気がさして、福島県平駅で集団離脱したメンバーのひとりである安部クンがニヤニヤしながら言うが、別に歩きが苦痛という様子でもない。1時間近くもバスに揺られた後だから、歩いた方が気分転換になるに決まっている。期待を裏切らずに五川目の停留所が現れたが、時刻はまだ10時15分。もう少し歩けば淋代で、郵便局もあるからもちろん先に進む。五川目から15分程で新築の淋代郵便局に着いた。淋代はその名にふさわしく静かな集落。 「これでも夏になれば海水浴客で賑わうのですよ」
郵便局員の言葉にも半信半疑だが、地図によると淋代海岸は名勝とされている。地元では有名な海岸なのかもしれない。
 淋代海岸10時51分の追館行きバスに先客はおらず、私たちの貸し切り状態。単調な道路をバスは淡々と走り、六川目を通過。天ヶ森で小川原湖と太平洋を結ぶ高瀬川放水路を渡り、郵便局の見えた平沼で下車。
「追館というのはこのすぐ先です。大川目行きのバスは六ヶ所村役場まで行きますよ」
平沼停留所でバスの時刻を調べると、行き先欄に追館と大川目の文字があったが、持参した地図にはいずれの文字の記載もなく、途方に暮れていたところ、郵便局で有益な情報を仕入れることができた。次の大川目行きは12時12分で40分程の時間を持て余すことになったので、先程のバスの終点になっている追館を目指して歩く。郵便局員の言葉通り、15分も歩けば平沼の集落の外れに追館停留所が現れた。バスの回転場があるだけの場所で周囲は閑散としている。昼食時だが食堂もないのでバスを待つしかない。
 追館12時15分のバスは予想に反して程よく地元の乗客で賑わっている。六ヶ所村の中心へ向かうバスだからであろうか。15分で六ヶ所村役場前まで運ばれた。
 六ヶ所村といえば原子燃料サイクル施設が全国的に有名。再処理工場、ウラン濃縮工場、低レベル放射性廃棄物埋設センターと、施設名を聞いただけでもぞっとする。しかし、村役場でもらったパンフレットによると、自然を全面的にPRしており、日本有数の野鳥の生息地との説明がある。そういえば、バスからいくつかの湖沼を眺めており、野鳥にとっては最適な環境なのかもしれない。原子力の危険を除けばのことではあるが。
 昼食時なので食堂を探すが、数少ない食堂はほとんど閉まっている。選択の余地なく役場近くの仕出屋兼業の食堂で「かつ丼」を食べる。私は大衆食堂に入ったときはほとんど「かつ丼」を注文する。ボリュームがあり、味も余程のことがない限り外れることがないからだ。ここのかつ丼も可もなく不可もなく。
 六ヶ所村役場前−泊間は十和田観光電鉄バスと下北交通が競合している区間であるため、本数に比較的余裕がある。13時27分の北滝の尻行き下北交通バスで25分、泊中央下車。この先、滝の尻まで行けば六ヶ所村のパンフレットに「清々しい流れに心洗われる」とうたわれている滝の尻大滝にお目にかかれるのだが、バスの乗り継ぎ関係上、寄り道をしている余裕はない。  泊中央14時07分のむつターミナル行きの下北交通バスは、近くの泊車庫始発だというのに10分の遅れ。先客は皆無で貸し切り状態だ。タタミ岩や白亜の灯台がある物見崎を横目にバスは六ヶ所村から東通村に入る。小田野沢の集落を通り抜け、小さな待合室を除けば何もない北小田野沢で下車。ここからバスは国道388号線と共に左にカーブを描いて内陸のむつ市へ向かう。
 私たちがバスから降りると、待合室の脇に停まっていた尻屋タクシーの運転手から声がかかる。この先バス路線が存在しないことは確認済みであったので、六ヶ所村役場前の公衆電話から鈴木がタクシーの手配をしていたのだ。タクシーは森に囲まれた県道を疾走。20キロ程の行程を20分足らずで走り、尻労郵便局の前で降ろしてもらった。
尻労  尻労郵便局で旅行貯金を済ませた後、尻労の海岸へ足を運ぶ。右手には下北砂丘が延々と広がっているにもかかわらず、これから私たちが目指す尻屋崎方面は険しい崖になっている。地図によると尻労と尻屋の集落はわずかに5キロ程しか離れていないが、道路は3倍の15キロも内陸部を迂回してしか通じていない。海岸線沿いに尻屋へ出るのは不可能であるが、尻労と尻屋の間にそびえる標高400メートルの桑畑山に遊歩道ぐらいあるかもしれない。
「ここに遊歩道らしきものがあるで」
安部クンが遊歩道らしき道を発見した。車の轍まであり、地元の人だけが知っている林道かもしれないなと思いながら歩く。ところが15分も歩くとブルドーザーが停まっている広場に出て行き止まり。工事関係車両の基地になっているだけのようだ。仕方なく今まで歩いてきた道を引き返す鈴木クンもうんざりとした顔で言う。
「素直に迂回して行った方がいいよ」
私自身も尻屋へ続く道を探すことに億劫になっていたので素直に鈴木クンに従うことにした。
 尻労へはむつ市からの下北交通バスが通じており、バスで迂回するのであれば、むつバスターミナル行きに乗って、途中の袰部口で乗り継ぐ必要があるが、次のむつバスターミナル行きは18時40分と2時間もの時間を持て余すことになる。さらにこのバスに乗ったとしても、袰部口で最終の尻屋行きバスに乗り継げない。バスの時刻表を見ながらどうしようかと思案していると先程のタクシー運転手がニヤニヤしながら近づいて来る。
「尻屋崎に行くの?バスは夕方までないでしょう。それに途中で乗り継がなければならないし。4人だったらバスよりも安く尻屋崎に行けますよ」
どうも私たちを尻労で降ろした時点で、またタクシーを利用するに違いないと確信していたようだ。私としても今日中に尻屋崎を攻略しておきたいと考えていたので、タクシー利用に異存はない。
尻屋崎  タクシーは小田野沢から来た道を4キロ程戻った後、袰部川沿いの道をたどる。まもなく目前に津軽海峡が広がり、北海道に近づいてきたことがわかる。日鉄鉱業尻屋営業所の専用軌道の踏切を横切ると右手には石灰石を掘る作業場が現れた。左手には大きな貨物船が停泊しており、掘った石灰石を積み込んでいるのであろう。
 尻屋崎口停留所からタクシーは灯台へと続く小道に入る。ところがすぐに木製の遮断機が進路を防ぎ、車両通行止めかと思えば、運転手は車を降りて遮断機を開ける。
「この遮断機は夏場に牛を放すときに牛が逃げないように設けられているんだ。この時期はまだ牛はいないから問題はない」
さらに進むと今度は車止めが現れ、さすがにこれ以上先には進めない。車止めのところでタクシーを返して夕暮れ時の尻屋崎灯台を目指す。夏場は牛を放牧するということだけあって、周囲の雰囲気は牧場のようだ。
 白亜の灯台と「本州最涯地尻屋崎」の石碑が待つ尻屋崎に到達したのは17時30分。夏場であればまだまだ明るい時間帯であるが、春先なので暗闇が迫っている。周囲に外灯などあるはずもなく、1年前の魹ヶ崎での教訓もあるので、早々と停留所へ移動することにする。今度は芝生の丘といったところで、視界をさえぎるようなものはないので遭難することはあるまいが。
 尻屋崎灯台から30分かけて尻屋崎口停留所に出ると完全に日が暮れた。次のバスは18時28分の最終むつバスターミナル行き。この路線はJR時刻表にも掲載されている路線であるので、時刻の確認もあらかじめできていた。しかしながら、暗闇の中を運転手が私たちに気が付かずに通過されては大変なので、時刻の3分程前から大袈裟な合図をできるように身構える。先客が3名いたバスは無事に停車した。
 下北半島の交通網は中心都市であるむつ市を起点としているので、私たちも一度むつバスターミナルまで行くことにする。バスは下北交通大畑線田名部駅にもよったが、終点に敬意を表して19時17分のむつバスターミナルで下車、徒歩5分の田名部駅に戻る。
 むつは恐山観光の玄関口であるため、観光色の強い都市。今日はむつ泊まりとしてもいいのだけれど、何軒か問い合わせたむつ市内の宿泊料金はどこも高め。結局、下北交通大畑線の終点である大畑駅近くの民宿「松ノ木」を素泊まり3,500円で予約した。
 大畑駅に向かうことになると、次の列車は20時37分の終列車19Dで1時間近くの待ち合わせ。先に夕食にしようと駅近くの食堂を探すが、早々に店じまいしているところも多く、結局、駅の売店でパンとコーヒーを買い、駅の待合室で食べることになる。
 時刻表で確認すると20時19分に下北行き18D列車があり、これが下北で折り返して19Dになる模様。私は下北交通が初乗りとなるので、待ち合わせ時間中に田名部−下北間を往復しておけば下北交通全線踏破となる。乗りつぶしに興味のない他のメンバーは田名部に残ることになり、1人で下北行き18Dに乗車。珍しいことに下北行きの乗車券は硬券切符であった。
大畑駅  下北交通大畑線は、1939年(昭和14年)12月6日に国鉄大畑線として下北−大畑間の18.0キロが開業。当初は大間までの路線として建設されていたが、太平洋戦争における戦局が悪化したことによって、1943年(昭和18年)12月に工事は中止されてしまった。また、国鉄大畑線も1980年(昭和55年)に国鉄再建法が成立すると第1次特定地方交通線に指定され、当初は南部縦貫鉄道が大湊線とセットで引き受けを表明していたが、経営地盤の防衛という観点から下北バスが下北交通と社名を変更し、1985年(昭和60年)7月1日から経営を引き継いでいる。
 北海道で活躍していたと思われる二重窓の気動車で下北まで往復し、田名部で3人と無事に合流。下北駅ではJRの乗車券しか発売していなかったため、私は味気のない車内整理券しか持っていないが、3人は硬券切符を手にしていることだろう。何気なく「切符を見せて」というと3人とも持っていないという。改札口をどうやって通ったのか確認すると、「青森・十和田ミニ周遊券」でフリーパスであったとのこと。ミニ周遊券で下北交通に乗車できるはずがなく、大畑駅でミニ周遊券を提示したら、下北からの運賃を請求される可能性がある。すぐに車内整理券をとってくるように3人に言う。3人をフリーパスさせた田名部駅の改札係員にも困ったものである。  列車は闇を走るので車窓はほとんど楽しめないが、目を凝らすとところどころに積雪が確認できる。終点の大畑には21時ジャストの到着。私は整理券と400円の運賃を改札口で支払う。他の3人は350円。
 駅から徒歩7分の場所にあった民宿「松ノ木」は、老夫婦が経営する民宿で、荷物を部屋に置く。 「コーヒーを入れたから食堂においでだって」 宿帳を記入していた安倍クンから声が掛かる。ウェルカムコーヒーとはありがたいと食堂に行ってみれば、民宿のじいさまの戦争話や川崎の赤線区域での武勇伝が延々と2時間も続いたのである。

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