サラブレッド士業

第22日 陸中山田−津軽石

1994年3月28日(月) 参加者:奥田・鈴木(竜)

第22日行程  前回の旅から1年7ヶ月ぶりに外周の旅を再開する。この間に私を含めた外周旅行の常連者は大学受験を迎えたわけだが、受験戦争の風向きは予想以上に厳しく、次々と浪人が確定したとの報告が届いた。進路報告会を兼ねて計画した今回の旅であったが、雲行きが怪しくなってきた。このようなことを書いている私でさえ進路確定は3月20日とこの旅の1週間前に過ぎなかったのである。結局、今回の旅に浪人組は誰も参加せず、第一志望に合格した奥田クンとエスカレーター式に付属高校から早々に進路が決まっていた鈴木竜彦クンの両名が参加を表明した。
 1994年3月27日に急行「八甲田」で上野を発ち、未明の5時51分の盛岡で下車。盛岡6時23分の釜石行き1635Dに乗り継ぐ。1635Dは花巻まで「八甲田」で来た東北本線を折り返し、花巻からは釜石線に入る。今回の旅のスタートは陸中山田であるが、私たちは釜石まで行かずに8時06分の遠野で下車した。このまま1635Dに乗って釜石へ向かっても、釜石から先の山田線は11時00分の637Dまで列車はない。637Dに乗るためには1635Dの後続列車である急行「陸中1号」でも間に合うため、「陸中1号」の停車駅での途中下車が可能となった。そこで、今回の旅のプレツアーに約2時間の遠野観光を組み入れたのである。
 遠野といえば柳田国男の『遠野物語』が名高い。『遠野物語』で紹介された市内の「かっぱ渕」にちなみ、カッパがシンボルとなった遠野市は、まだ朝が早いこともあり静かな印象を受ける。駅前通り突き当たりの「遠野市立博物館」に足を運んでみたが、あいにく月曜日は休館日で見学不可。それならば街歩きに予定を変更し、鍋倉城跡のある鍋倉公園へ足を向ける。鍋倉公園は小高い丘になっており、遠野市内を見渡せる他、SLも保存されておりレールファンには嬉しい限り。運転席に陣取って奥田にパチリと写真に収めてもらう。
 遠野駅に戻って売店のパンで朝食とし、遠野10時05分の「陸中1号」に乗り込む。「盛岡・陸中海岸ミニ周遊券」を持っているので急行料金は不要である。釜石線の名所、陸中大橋のセミループ線を経て10時52分の定刻を5分遅れて釜石到着。あわただしく637Dに乗り継いで今回の外周のスタート地点、陸中山田には11時46分に到着した。前回は午後を龍泉洞観光に当て、今回は午前中が遠野観光と、実質の外周旅行日数は1日少ない計算になる。
 今日の目的は重茂半島にある本州最東端の魹ヶ崎である。日本の最東端は北海道の納沙布岬であることを知っている人でも、本州の最東端がどこにあるかなど考えてみたこともない人がほとんどではなかろうか。しかし、手許にある10万分の1東北ロードマップにも本州最東端と記されていることもあり、外周としては素通りするわけにはいかない。
 駅前の停留所でバスを確認すると12時30分に半島付け根の浜川目という集落までのバスがあるが、浜川目は陸中山田駅から4キロ程の距離。時間的にはバスの待ち時間中に歩けるのでバス代を節約することにする。駅近くのコンビニで昼食用のパンと飲料水を確保して出発。しばらく国道45号線を北上した後、袴田交差点で県道に入る。右手には前回遊覧船に乗った山田湾が広がっている。山田湾は内湾になっているので波もなく穏やかだ。鳥居のある熊ヶ崎で昼食を兼ねた休憩。近くに浜川目の回転場があり、12時30分に陸中山田を出てきたと思われるバスがやってきた。お客は皆無の模様。
熊ヶ崎  浜川目から先はバスの路線もなく陸の孤島となる。この先、津軽石方面からのバスが石浜まで来ているのは確認済みで、問題は石浜までの12キロ程である。天気は薄曇で歩きにはベストコンディションだが、魹ヶ崎へ行くためには遊歩道を歩かねばならず、体力は温存したい。そこで、宮古市との境である川内の集落までの5キロを歩き、残りはタクシー利用とすることに決定した。
 しばらく歩くと県道は細い峠道となり右へ左へとくねくねとする。バスが走らないのも道理で周囲には何もない。持参した携帯ラジオで選抜高校野球を聞きながら気を紛らわしながら黙々と歩く。鈴木クンが「まだか、まだか」と弱音を吐くが、周囲に何もなければ歩くしかない。途中、小休憩を挟みながらいくつかの小さな峠を越えると川代の集落が視界に入った。
 川内は意外にも小学校もある立派な集落。小学校の前には停留場のポールが目に入ったので駆け寄ると、石浜―川内間を岩手県北自動車バスが1日2往復している模様。しかし、本日の終バスは30分前の13時30分に出た後だった。仕方なく当初の予定通りタクシー利用とする。公衆電話を探すが見当たらず、停留所前の民家で電話を借りることにする。
「あれ、石浜方面かい?もう少し早ければバスがあったのにねえ。タクシーなら今呼んであげるから。電話代なんて要らないよ」
タクシーは陸中山田から呼び寄せるので30分ぐらいかかるとのことで、それまでは体力温存のため大人しくしておく。
 40分後に私たちが歩いてきた道をたどってきた陸中山田タクシーが到着。行き先を告げると運転手の顔が曇る。
「石浜ですか。それならメーターに1,000円程度上乗せしてもらわないと割に合わないな」
運転手は私たちが陸中山田に戻るものだと思い込んでいたらしい。ここから陸中山田の往復だけでも相当な距離だからやむを得ない。念のため料金を確認すると、石浜まで1,500円程度で、魹ヶ崎に通じる遊歩道入口の姉吉キャンプ場まで行っても3メーター程度しか変わらないという。それならば、メーターにかかわらず、2,500円で姉吉キャンプ場までということで交渉は成立した。
 タクシーはやはり今まで歩いて来たような峠道を走り、石浜の集落を通り抜ける。しかし、運転手が3メーター程度と言った姉吉キャンプ場までは意外に距離があり、メーターは2,160円を示していた。
「約束だから2,500円でいいよ。帰りは津軽石のタクシーを呼ぶといい。気を付けて」
苦笑いしながら運転手は2,500円だけを受け取って走り去った。
「あのタクシー赤字かもしれないな」
鈴木クンがつぶやくがこちらも学生の身分なのでチップを奮発することもできない。今度陸中山田タクシーに乗ったときに恩返しすることにしよう。岩手船越の観光協会で新婚旅行に来ると約束したことでもあるし。
 姉吉キャンプ場は季節外れのため閑散としていたが、夏になればたくさんの家族連れやグループがやってくるのか立派な施設だ。自動販売機があったのでジュースを2本確保しておく。これから魹ヶ崎まで遊歩道を1時間の歩きとなる。足が頼りの健脚コースだ。
魹ヶ崎  ところどころぬかるんでいる遊歩道を足下に注意しながら歩き、1時間15分程で白い灯台の待つ本州最東端の魹ヶ崎に到達。この魹ヶ崎灯台は映画『喜びも悲しみも幾年月』の舞台になった。「本州最東端碑」の立派な石碑もあり、ひとまず休憩の後、記念撮影を行う。灯台は見学可能であるが、見学時間帯が指定されており、最終は15時なので諦める。
 時刻は17時となり日没が近づいてきた。遊歩道に外灯などあるはずもなく、急がなければ遭難しかねない。魹ヶ崎からは姉吉キャンプ場に戻るコースの他に重茂の集落に通じる道もある。津軽石に出るのであれば、姉吉よりも重茂の方が便利である。距離にして6キロ程なので18時半にはバス路線のある県道に出ると判断した。
 重茂に向かう道は姉吉からの道以上に整備が行き届いていない悪路であった。1時間程歩いて小石のごろごろする種差海岸に出ると薄暗くなってきた。県道まではまだ半分程だ。このままでは本当に遭難してしまう。ところが、種差海岸からの道はさらに険しいものであった。ロープが垂れ下がっている2メートル程の崖によじ登るなど、遊歩道というよりはアスレチックの装いだ。非常にも太陽は西に沈み、私たちは夕闇の中に取り残された。
 不幸中の幸いは月明かりがあったことである。日没後は一転して足下を見ながらゆっくりと進む。足を踏み外して崖に落ちたら大変だ。奥田クンが大声で叫び倒れこむので何事かと思ったら両足がつったと言う。地図には県道よりも手前に与奈という集落があり、そこまで行けばタクシーを呼べばいいから「這ってでも付いてこい」と言っておく。非情だが緊急事態だ。奥田クンは自分で足をマッサージし、何とか自力で歩を進める。
 19時前になって眼下に民家の灯りが見えた。与奈の集落に違いない。皆を励ましながら灯りを頼りに歩くと民家は1軒だけ。それでも人が住んでいるのだから、川内と同じ要領でタクシーを呼ぼうと扉をたたく。
「すみません。タクシーを呼びたいので電話を貸していただけませんか?」
「電話は自由に使ってもらってもいいのだけれど、ここにタクシーは呼べないよ」
これには驚いた。民家があるのに車が通れないとは。この家の人たちは普段は船を利用して重茂に出ているので道路など無用だという。どうやって車道に出ればよいのか尋ねると家の裏手の山を越えるとのこと。
「山といっても30分も歩けば越えられる。半年程前に通った以来だから道は残っていないかもしれないけれど、あんたら若いから道がなくても歩けるだろう」
 泣き言をいっても始まらない。山を越えるしか方法はないのだ。急な斜面を木につかまりながらよじ登っていく。木に足を掛けて登らなければずるずると下に滑り落ちていく。もはや獣道以下である。やっとの思いで山の頂上にたどりつくと、木々の隙間から外灯が目に入る。今度は間違いなく車道に出る。下りは遊歩道になっており、スムーズに下山。最近整備されたばかりと思われる新しい漁港に出たが民家はない。
「ここからどうするの?民家が1軒もないよ。野宿するの?」
鈴木クンが心配するがどうしようもない。外灯は漁港の周辺だけであって、漁港から県道に通じると思われる道は闇の中だ。今度は舗装道路だが、あの闇の中を歩くのはぞっとする。幸い物置小屋がいくつかあるのでいざとなればここで野宿するしかない。
 「あれは公衆電話じゃないかな」と鈴木クンが指差す方向をみると、小さな箱に入った赤い公衆電話があるではないか。
「これで野宿は避けられるぞ」
意外な公衆電話の存在に歓喜の声が出る。公衆電話は今日では見掛けなくなった赤い10円玉専用のもの。3人の小銭をあわせてみると10円玉は7枚。これを慎重に使わなければならないが、公衆電話に備え付けの電話帳はところどころ破けており、タクシー会社の電話番号が判明しない。そこで、住所が重茂となっている適当なところに電話して、タクシー会社の電話番号を教えてもらうことにする。鈴木クンがまずは1軒目の酒屋に電話する。対応したのはお婆さんで、電話番号を調べてくれるとのことであったが、やたらと時間がかかる。3枚目の10円玉がガチャリと落ちたところでタイムアップ。これ以上10円玉を浪費するわけにはいかない。お婆さんには謝って別のところへダイヤルする。今度は中年女性が対応。「うちはタクシー会社ではない」と電話を切られそうになるが、経緯を簡潔に説明してタクシー会社の電話番号の入手に成功。重茂にはタクシーはなく、教えてもらったのは津軽石のタクシーであった。
 タクシー会社には私が電話をかける。津軽石からここまで迎えに来るのは大変だが、今度は津軽石に出るのであるから問題はなかろう。ところが、どこへ送迎に行けばよいのかと尋ねられてはさらなる問題が発生した。私たちはこの漁港を知らない。「与奈から山を越えて出てきた比較的新しい漁港で、周囲に民家は何もなく・・・」と可能な限りの情報を伝えると先方は了解したらしく、20分で迎えに来るとのことだった。
 20時過ぎに暗闇の中から車のヘッドライトが見え一安心。先程電話した津軽石タクシーだ。荷物をトランクに預け、タクシーに乗り込む。運転手に確認すると私たちの居たところは里漁港というらしい。
「大変だったね。ところで今夜泊まるところはあるの?」
今まで宿のことなど考える余裕はなかった。これから探すと伝えると、運転手が知り合いの安い宿を紹介してくれるというので、好意を受けることにする。
 タクシーで運ばれたのは津軽石駅から徒歩7分程度のところにある朝日屋旅館。無線で連絡しておいてくれたため、女将さんが出迎えてくれた。宿泊料を確認すると素泊まりで3,500円とのこと。外周予算に見合った宿だ。女将さんは素泊まり客の私たちに対しておにぎりを作ってくれたので有難くいただく。波乱万丈の1日が無事に終了。
「魹ヶ崎にはもう一度行くかもしれないな」
奥田クンが意外な感想をもらしたが、それほど魹ヶ崎は魅力のあるところであった。

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