世間で起きている事チェック

第21日 岩手船越−陸中山田

1992年8月26日(水) 参加者:安藤・鈴木(竜)・柳田

第22日行程  民宿「満潮」の近くにある酒屋を兼ねたコンビニエンスストアが早朝から開いていたので、パンとコーヒーを確保し、民宿に戻って朝食にする。朝食はしばしば抜きになることも多いのであるが、今日はしっかりと食べることができた。
 朝食を済ませて民宿を出発。岩手船越駅前からは7時22分の岩手県北自動車バスで船越半島方面へ10分の田の浜へ運ばれる。目的は田の浜から出航している遊覧船だ。遊覧船の出航時刻は8時45分なので、次のバスでも充分に間に合いそうではあったが、田の浜停留所から遊覧船の桟橋までは少々離れているので、時間に少し余裕を持たせた。
 田の浜−陸中山田間には、船越半島めぐりの遊覧船が冬場を除いて毎日2往復している。最近はマイカー利用者が多いため、遊覧船も循環コースが主流になり、片道コースの遊覧船は少なくなりつつある。それだけに船越半島めぐりの遊覧船は外周の旅にも適した貴重な存在だ。
 田の浜停留所近くの観光案内所で1,600円の乗船券を購入。乗船券の半券には遊覧船で観光客がウミネコに餌付けをしている写真が載っている。
「今日はウミネコいるかな」
安藤クンが乗船券を眺めながらつぶやく。まだ出航までに時間があるため、他に乗船客の姿はなく、桟橋に遊覧船が停泊しているだけだ。その遊覧船には「清掃中」の札が掛けられており、まだ乗船することはできない。遊覧船の前で写真を撮ったりしながら時間を持て余していると、家族連れと老夫婦が現れ、今日の乗船客は私たちを含めて総勢9名の模様。お盆を過ぎたとはいえ、夏休みにこの人数では寂しい。船越半島めぐりの遊覧船もいつまで存続するか心配になる。
 「清掃中」の札が外されて乗船が許可されたのは出航15分前。私たちは荷物を船室に置いて、さっそくウミネコの餌となる「ウミネコパン」(100円)を船員から購入する。「ウミネコパン」はパンの中に海藻やイカの粉末が入っているのことで、シーフードパンとでもいうべき逸品。興味半分で口にしてみたが、奈良公園の鹿せんべいよりは人間の食べ物に近い。「ウミネコパン」の匂いを嗅ぎつけたのか、早くもミャーミャーと鳴きながらウミネコが集まってきたので、出航を待たずに餌付けをする。餌付けの方法もパンをちぎって投げるのではなく、パンを丸ごと1個手に持って空にかざすと、ウミネコがパンを食いちぎりにやって来る。最初はおっかなびっくりであったが、ウミネコは慣れたもので、上手にパンだけを食いちぎっていく。さすがにパンが小さくなると、手を食いちぎられてはかなわないので、パンを海に放り投げた。するとパンが海面に落ちる前に1羽のウミネコがスーッとパンを拾い上げ、見事なものと感心する。鈴木クンや柳田クンは面白がって、さらに「ウミネコパン」を調達に行った。
船越半島めぐり  定刻通りに遊覧船は8時45分の定刻に出航。私はウミネコと戯れるのを終わりにして、船越半島の景観を楽しむことにする。ただし、今日はあいにく霧がかかっており、視界はあまりよろしくない。それでも弁天島、タブの大島と手許の地図と照合しながら景色を確認していく。船越湾に浮かぶタブの大島は周囲2キロ程度の島で正式には船越大島という。タブの木の自生北限地であり、岩手県の天然記念物にも指定されている。そういえば、船越半島には「タブの木荘」という国民宿舎もあった。
 直立150メートルの大絶壁をなし、1枚岩となって垂直に海に落ち込んでいる大釜崎を経て、遊覧船は船越湾から太平洋に出る。船室に戻るといささかお年を召したセーラー服姿のガイド嬢がいるのであるが、総勢9名の乗客ではあまりやる気はなさそう。ほとんど船員と世間話をしており、仕事はお留守のようである。
 小根ヶ崎をまわるともう山田湾で、白い笠ヶ鼻灯台の建つ明神崎の先端には、赤い鳥居が見る。遊覧船はエンジンの回転数を下げ、徐行しながら養殖場の中を進む。山田湾は海の十和田湖とも呼ばれ、古くから波静かで海苔、牡蠣、ホタテ、ホヤなどの養殖が盛んな場所だ。遊覧船が徐行するのも養殖に影響を与えないようにするためであろうか。夏場は海水浴場になるオランダ島、小島を中心にたくさんの養殖筏が浮いている。
 オランダ島も正式名称は大島と呼ぶそうで、1643年にオランダ船ブレスケンス号が山田湾に入港した際、大島に水を求めて上陸したことが由来とのこと。通常ならこれをきっかけにオランダとの交流が始まるのであろうが、当時の南部藩はスハーフ船長ら10名を捕らえて江戸送りにしてしまったとのこと。船長らはやがて釈放されるのであるが、オランダ人はあまりよい印象は持っていまい。海水欲シーズンには山田港からオランダ島への航路もあるそうだが、今年はすでにシーズンが終った模様だ。
 遊覧船は定刻の10時00分よりも若干早めに山田港に入港。桟橋近くに山田郵便局を発見したので旅行貯金をする。山田郵便局では、次回訪れるであろう三陸海岸の北山崎をデザインした記念切手も販売していたので何枚か買い求めると、記念切手に風景印を押した記念カードも勧められたのでついつい買ってしまう。商売上手な郵便局員であった。
 山田町は鈴木善光元首相の出身地でもあり、鈴木首相が誕生したときに「ぜんこうまんじゅう」なるものを販売し始めたと聞いたことがあったが、さすがにもうそのような代物は今日では販売されていない模様。「ぜんこうまんじゅう」はどこにも見掛けなかった。
陸中山田駅  さて、時刻はまだ11時前で本来なら夕方までフル活動して旅を締めくくるのであるが、これから私たちを待ち構えるのは交通機関の乏しい重茂半島。重茂半島へは途中の浜川目という集落までバスはあるものの、その先の十数キロが交通機関の空白地帯だ。重茂半島の根元にはJR山田線が走っており、思い切って重茂半島をカットして先に進むこともできるのであるが、重茂半島には知る人ぞ知る本州最東端の魹ヶ崎があるので無視するわけにはいかない。ただ、今から重茂半島に入ってしまうと、今日中に盛岡まで出ることができなくなる可能性がある。今日は盛岡から急行「八甲田」で帰路につくことになっている。個人的には日程をもう1日延長してもいいのだが、各自の都合もあるので簡単ではない。
「止めておこう。ここで打ち切る方がいいよ」
柳田クンがしばらく思案して言う。安藤クンや鈴木クンはこれから十数キロも歩くなんてとんでもないと顔に出ているので意見を聞くまでもない。行動派の柳田クンが打ち切りの意向を示したこともあり、外周旅行始まって以来の午前中解散とする。
 迷いながら陸中山田駅まで出て解散の記念撮影をパチリ。急行「八甲田」の時刻までに盛岡へ出るとなると、急に時間に余裕ができたので、時刻表を駆使して、盛岡までのオプションツアーを組み立てる。近くの観光ポイントである龍泉洞に立ち寄り、1日3往復しか運転されない岩泉線を利用して盛岡に出るというプランができあがった。このオプションツアーは予想以上に盛り上がり、結果的には陸中山田解散は正解だった。
 来年は、高校3年生。大学受験の準備のために、今回をもって外周旅行はしばらく休止することする。次回は高校を卒業した再来年の春に陸中山田から再開することになった。

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