くるくるくるま

第17日 鮎川−大谷

1992年4月1日(水) 参加者:安藤・奥田

第17日行程  牡鹿町鮎川の「民宿タケダ」で目覚める。昨日の言い争いが脳裏を過ぎるが、今後、この件は口にしない約束なので、何事もなかったかのように奥田クンと接する。奥田クンもその点は心得ているようで、とりあえずは友好的に2日目の旅をスタートする。
 朝靄の中を湊川に沿って歩き、鮎川港に出る。さすがに港内は穏やかな様子であるが、天気はどんよりとした曇り空。牡鹿半島の突端から1キロの太平洋上に浮かぶ金華山へ渡る船が出航してくれるか気になったので、早めに鈴吉汽船が発着する鮎川ステーションに早めに赴いた。観光船は天候があやしくなると、予約の有無で欠航を早期に決定してしまうことが多いため、欠航が決定してしまう前に乗船客がいることをアピールすることが狙いだ。
   鮎川ステーションの乗船券売り場で、8時30分発の金華山行きの運航状況を確認すると、予定通り出航するとのことで安心する。往復乗船券の購入を勧められたが、我々は金華山から女川に出る予定なので880円の片道乗船券を購入。鮎川−金華山航路は、我々が乗船する鈴吉汽船の他に丸中汽船が定期船を運航している。乗船券は双方に共通で、鮎川金華山航路事業管理所が統括をしているようだ。
 出航まで1時間近くあるので、鮎川ステーションの売店でパンとコーヒーを購入し、朝食とする。何気なくパンの袋に印字されている賞味期限を確認したら3月31日となっている。賞味期限切れのパンを定価で売り付けるとはひどい売店だと腹が立ったが、事前に確認を怠った自分も悪い。地方の売店などこんなものだと割り切って、手にした揚げパンとクリームパンを平らげる。
 出航時刻が近くなると、次第に待合室に乗船客の姿が現れる。季節外れの金華山に渡るのは我々だけかと思っていたが、さすがは恐山、出羽三山と並ぶ奥州三霊場と呼ばれる信仰の地だけある。3年続けて金華山にある黄金山神社に参拝すれば、一生お金に困ることはないという言い伝えもあり、動機が不純な信仰者もいるのではなかろうか。
 8時30分に鮎川を出航する鈴吉汽船の「鈴華丸」に乗船したのは、我々を含めて30名程度。総トン数118トンの「鈴華丸」にとっては25パーセント程度の乗船率に過ぎないが、初詣の時期には、大勢の参拝客を乗せて金華山へのピストン輸送を行っているというのだからにわかに信じ難い。
 鮎川桟橋を定刻に出航した「鈴華丸」は、牡鹿半島の先端にある黒崎をぐるりと迂回する。デッキから陸前黒崎灯台を確認すると、にわかに小雨が降り出してきた。金華山に到着するまでに雨が上がることを願う。
 「鈴華丸」は鮎川から30分かけて金華山桟橋に接岸した。桟橋の前には土産物屋が構えており、店の主人が本日最初の観光客を出迎える。
「いらっしゃいませ!温かい甘酒がありますよ!ぜひ寄っていてください!」
我々と一緒に金華山へやって来た乗船客のうち、甘酒に誘われていくつかのグループは早々に土産物屋へ吸い込まれて行く。しかし、我々には金華山での滞在時間が45分しかないので、黙々と金山神社を目指す。
 金華山は、周囲は約24キロ、面積は10.28平方キロで島全域が山となっており、最高点は445メートル。平地はほとんどない。平坦な島であった田代島や網地島とは対照的だ。
 1979年(昭和54年)に南三陸金華山国定公園として指定がなされたため、多くの自然が手付かずの状態で残されている。遊歩道も整備されているようであるが、我々は時間の都合から金華山の中腹に鎮座する黄金山神社へ続く舗装道路をたどる。舗装道路と言っても恐ろしく急な斜面で、自動車が通らないことを幸いに道路幅を目一杯に使って、ジグザグにたどりながら高度を稼ぐ。
 舗装道路の脇には野性の鹿が生息しており、我々を胡散臭そうに見つめている。道路にも鹿の糞がまき散らされており、道路も鹿の縄張りなのであろう。朝から縄張り荒らしがやって来たとでも思っているのであろうか。道路脇の看板には「野性の鹿に触れないでください」との注意書きがある。幸いにも出産期や発情期ではないので、今日の鹿は比較的大人しい。それでも角が生え出した鹿に出くわすと緊張する。
金華山  桟橋から20分近く掛かってようやく黄金山神社の境内にたどり着く。境内にも野性の鹿が我が物顔で徘徊しており、こちらが委縮しながら拝殿を目指して参拝。金銀財宝を司る金山毘古神(かなやまひこのかみ)と金山毘賣神(かなやまひめのかみ)を奉っていることから、古来より唯一の黄金の神、生産の神として信仰を集め、「開運の神・御金の神」と言われている。もちろん我々もお金に困らないように参拝。3年連続で参拝することは難しいが、せめて3分の1の御利益ぐらいあればいいのだが。
 黄金山神社は、749年(天平21年)に奈良東大寺の大仏鋳造のために金華山で産出した金を朝廷に献上したことに対して、「すめろぎの御代栄えのと東なるみちのくの山に黄金花咲く」(天皇の御代の栄えるしるしと東国の陸奥山に黄金の花が今しも咲き誇る)と大伴家持が黄金の言祝(ことほぎ)の反歌を詠んだことに由来する。しかし、実際に金が産出されたのは金華山ではなく、牡鹿郡の隣の遠田郡涌谷町であったという。
 黄金山神社からは金華山の頂上へ続く道もあるようであるが、我々はここでUターン。本日から今シーズンの運航を再開した女川行きの高速船「レスポワール」の出航時刻が迫っているのだ。
 帰りは下りだけあってスピードアップ。行きは20分を要した道のりを10分で桟橋まで戻る。丸中金華山汽船が運航する「レスポワール」は、9時40分に到着した便が折り返すダイヤになっているため、桟橋にはまだ姿を現していない。安藤クンと奥田クンは桟橋前の土産物屋に消えたが、私は南へ続く舗装道路を往復してみる。
 舗装道路の先には旅館が1軒あったが、宿泊客がいるような様子は伺えない。廃業しているような様子ではないので、季節営業をしているのかもしれない。舗装道路は旅館の先で途切れており、これで金華山の舗装道路はすべて踏破したことになる。
 桟橋に戻るとポーッという汽笛を鳴らしながら、高速船「レスポワール」が近付いてきた。「レスポワール」は、東北初の双胴型高速旅客船。金華山−女川間を従来の約半分となる30分で結ぶ。「レスポワール」は、金華山航路だけではなく、出島航路も引き受けており、金華山へやって来る前に既に女川−出島間を2往復している働きものだ。
 「レスポワール」からの下船客は10名程であったが、乗船したのは我々3名だけ。第1便の役目は金華山へ参拝客を運ぶことにあり、9時45分発の女川行きは事実上の回送便なのであろう。
 「レスポワール」の乗船券は女川まで1,600円とかなり高額だが、その代わりに牡鹿半島を一気に北上してくれる。金華山瀬戸を抜けてスピードを上げるのはいいのだが、恐ろしく揺れる。パンフレットには、「横揺れの少ない、安全性の高い最新鋭の双胴船」とうたっているのだが、上下左右に見事に揺れる。船室は座席しかないので、完全に横になることもできない。奥田クンが「もう駄目だぁ〜」と叫びながら船内トイレに駆け込む。景色を楽しむ余裕などなく、ただ、早く女川に到着することを祈り続ける。
 揺れが少し穏やかになってきたと感じたので顔を上げると、東北電力の女川原子力発電所が視界に入る。建設に際して、地元の漁師から反対運動があった原子力発電所だ。女川の漁師はホヤや帆立の養殖、ウニやアワビの収穫で年収1,000万円以上の漁師も少なくないという。そんな漁師からすれば、原子力発電所によって天然資源に恵まれた海が危険に曝されることは死活問題であり、反対運動も当然の成り行きであろう。
 「レスポワール」は女川湾内をゆっくりと徐行して10時15分に女川桟橋に接岸。桟橋に降り立つが、地に足がついたというのに船に揺られている感覚が治まらない。当初の予定では、このまま10時25分に出航する「レスポワール」で出島に向かう予定であったが、このまま「レスポワール」に乗り続けることは体調的に不可能と判断。出島航路を放棄して、ふらふらしながら女川駅に向かう。
 女川桟橋から10分も歩かないうちに女川駅にたどり着く。石巻線の終着駅である女川駅は、1面2線の頭端式ホームになっており、風情があるのだが、駅の様子を観察する気力もなく、3人とも駅の待合室でダウン。私は船酔いで吐き気がするだけではなく、腹痛に襲われてトイレへ何度も往復する羽目になる。
「鮎川ステーションの売店で買った揚げパンやクリームパンが原因じゃないかな。やっぱり油物の古い食べ物は良くないよ」
同じくお腹の具合が良くないという安藤クンが嘆くが後の祭り。旅先では食べ物の賞味期限には注意しなければならない。持参した正露丸のお世話になる。奥田クンもベンチに倒れ込んだまま動かない。こちらは純粋な船酔いの症状だけのようだ。
 駅員が配置されているが、折り返し列車が1時間に1本の割合で発着する時間帯を除いては閑散としている。11時09分に小牛田からやって来た1631Dが到着し、部活動に向かう高校生や地元の買い物客が行き交い、少々賑やかになったものの、わずかに6分間の滞在で1634Dとして再び小牛田へ向かって列車が発車してしまうと、窓口はカーテンが閉められ、改札口も閉鎖。駅の待合室は静かになる。
 12時前になって、ようやく船酔いと腹痛が治まって来た。改めて駅の様子を伺うと、改札口とホームの間には10段ぐらいの階段があり、青いラインで1960年(昭和35年)5月24日のチリ地震の影響による津波が到来したときの浸水した位置が示されている。いよいよ外周旅行の舞台も三陸海岸に差し掛かったと認識する。
 体調が回復して来ると、急にお腹が減って来た。幸いにも駅前に「ほっかほっか亭女川店」があったので、経済的な「のり弁当」(280円)を購入する。作り置きではなく、できたての弁当なのでお腹を壊すこともないだろう。女川駅の待合室に持ち帰り、箸を動かす。安藤クンや奥田クンも弁当を買いに行ったので、2人とも回復傾向にあるのだろう。
 さて、牡鹿諸島には、昨日訪問した田代島、網地島、本日訪問した金華山の他に、出島(いずしま)と江島(えのしま)という有人島がある。出島への渡航は先に断念したところであるが、江島も放棄してしまうのかは迷うところ。しかし、安藤クンと奥田クンは異口同音に「もう船はこりごり」と言う。これから先もすべての離島に足を記すことは不可能に近いので、時刻表にも無視された離島は思い切って割愛してもいいような気がしたので、2人に同調し、陸路を先へ進むことにする。どうしても気になれば改めて落ち穂拾いに来れば良いのだ。
 女川駅前停留所でバスの時刻を調べると、女川港の東端にある日本水産前行きのバスは頻繁に走っているものの、その先へ行く便は極端に少なくなる。バスがなければ、やはり江島か出島を往復しようと考えていたのだが、運良く12時36分に雄勝行きがあった。
 赤いボディーの宮城交通バスは思ったよりも乗客が多く、座ることができなかったが、ほとんどが女川市街地の利用者に限られており、日本水産の女川工場近くの日本水産前までの間に下車してしまう。日本水産前までのバスの本数が多いのも頷ける。
 宮城交通バスは、「リアスブルーライン」との愛称が付けられた国道398号線を走る。女川市街地を抜けると道路が蛇行し始め、早くもリアス式海岸の複雑な地形の洗礼を受ける。やがて右手に渡航を断念した出島が見えた。
 出島は女川の北東に浮かぶ島で、面積は2.68平方キロ、周囲は14キロ。歌手で俳優の中村雅俊の出身地であるという。本州とは最も近い場所で300メートルぐらいしか離れておらず、地元では架橋の計画も出ていると聞く。現在は江島汽船が20分で女川−出島間を結んでいるが、橋が完成すれば航路は廃止され、この宮城交通バスが路線を伸ばすことになるのであろう。そうなれば外周旅行の落ち穂拾いも楽になる。
 御前湾をぐるりと迂回するとバスは雄勝町に入る。やがて雄勝湾を挟んで対岸に雄勝半島が姿を見せる。やがて雄勝町の市街地に入ると、沿道には「雄勝硯」の看板が目に付くようになる。粒子が均質で光沢がある黒色硬質粘板岩という硯の原石として最も優れた特徴を持っている石が産出されることから、硯工人の技術が発達し、硯の町として知られるようになったのだ。1985年(昭和60年)5月には、雄勝硯が伝統工芸品としての指定も受けている。
 我々は雄勝半島の付けに当たる上雄勝でバスを下車する。時刻は13時20分で、女川から45分ほどバスに乗り続けていたことになる。この先、バスは2キロほど雄勝半島沿いの県道238号線をたどり、雄勝の中心部を抜けた明神まで通じているのであるが、地図を見る限り、明神は雄勝の集落の延長に過ぎないようだ。明神でバスを乗り継げば、その先の大須浜まで行くことができるようであるが、県道238号線は大須浜の先にある船越までしか通じていない。明神でうまくバスに乗り継いで大須浜まで行けたとしても、その先へ進むためにはこの上雄勝まで引き返して来ざるを得ない。これから向かう三陸海岸には大小多くの岬があるが、そのすべてに足を記すことは難しい。今回も思い切って雄勝半島は割愛し、先を急ぐことにする。
 上雄勝から徒歩で引き続き国道398号線をたどって、雄勝半島の根元に当たる釜谷峠越えを試みる。標高372メートルの小渕山の西側を迂回するように国道398号線は通じており、次第に上り坂になっている。沿道には集落もなく、完全な峠越えの道路だ。もちろん、このような区間を歩く物好きは我々だけで、通行車両も皆無に等しい。天候が怪しくなり、雨が降らないうちに峠を越えてしまうと自然に早足となる。
 やがて釜谷峠を越えるために1986年(昭和61年)3月に開通した釜谷トンネルが現れる。延長995メートルの長いトンネルであるが、このトンネルを歩いて通り抜ける物好きがいるのか、それともトンネルを保守する作業員の通路を確保するためか、車道の両脇にかろうじて歩道が設けられている。歩道を歩いていれば、通行車両に引っ掛けられる心配もないであろう。
 無事に釜谷トンネルを抜けると、国道398号線は下り道になる。やがて北上川が視界に入って来る。左手に入釜谷の集落が見え、とりあえず人の住んでいるところまでは出て来たと安心する。
 北上川の最も河口寄りに架かる新北上大橋の袂まで来ると時刻は14時40分を回っている。女川駅で宮城交通に電話をして、あらかじめ確認した情報によると、この新北上川大橋の袂に新北上大橋停留所があり、白浜で乗り継げば志津川へ出られると教えてもらった。しかし、志津川への乗り継ぎには新北上大橋を14時56分に通過するバスが最終とのことで、時間があまりない。新北上大橋の手前にバス停留所があったものの、停留所名は「釜谷口」となっており、白浜の文字も見当たらない。時間も迫って来たので、近くにあったJA河北の大川給油所で公衆電話を借りてタクシーを呼ぶことにする。ここからタクシーに乗って、白浜行きのバスを捕まえようという算段だ。タクシーなら新北上大橋で間に合わなくても、適当な停留所へ先回りすることができるであろう。
新北上大橋  安藤クンが電話帳で調べた河北交通に電話をして、タクシーの配車を手配するが、怪訝な顔をしてこちらを見る。
「北上までは100キロ以上もあるとか言ってるよ!」
「100キロ?岩手県の北上市と勘違いしているんじゃないの?北上市じゃなくて、北上川に架かる新北上大橋だよ!」
時間がないので声を荒げてしまうが、やり取りを聞いていたガソリンスタンドの店員から声が掛かる。
「新北上大橋なら目の前の橋ですよ!」
「はい。でも、我々が行きたいのは宮城交通の新北上大橋停留所なのです。すぐそこの停留所は釜谷口でしたから」
「新北上大橋停留所なら橋を渡ったところだよ!」
言われてみれば対岸も新北上大橋の袂である。電話を早々に切り上げて、新北上大橋を走って渡る。全長556メートルもある橋なので、結構な距離だ。汗だくになって橋を渡り終えるともう時刻は14時50分を回っている。周囲に停留所のポールは見当たらない。北上川の堤防のような国道398号線でうろうろとしているとバスの時刻になってしまった。地図からバスが国道398号線を走るのは間違いないだろうし、いざとなったら停留所がなくてもバスを停めればいい。とりあえず北上川に沿って白浜方面に走る。やがて釜谷崎停留所のポールが現れ、時刻表を除き込むと白浜行きが14時57分にある。新北上大橋停留所よりもひとつ白浜寄りの停留所だが、バスには間に合った模様。やがて5分ほど遅れて赤い車両が現れた。
 バスはしばらく北上川に沿って走る。北上川という名を聞くと、河北交通の担当者ではないが、岩手県をイメージしてしまうが、盛岡、花巻、北上、一ノ関を通って、東北最大の延長249キロの河川はこの地で太平洋に面した追波湾に注ぐ。終点の白浜はその追波湾に面した白浜海岸の一角にあった。周囲にはキャンプ場なども整備されている。
 「志津川へ行くなら前のバスに乗り換えて!」
運転手に促されて前方に停車していたバスに乗り換える。接続便ですぐに発車するかと思われたバスは、我々が乗り換えてもさっぱり動く気配がない。やがて、数人の地元のお婆さんたちがやって来てバスに乗り込むと、待っていましたとばかりにバスは発車した。お婆さんたちは常連客なのであろう。
 白浜から乗り換えたバスも宮城交通バスである。再び国道398号線をたどる旅が始まるが、天気はとうとう崩れ出し、大粒の雨がフロントガラスを打ち付ける。やがてバスは河北町と志津川町の境界に位置する神割崎入口を通過する。
 志津川湾の南端に位置する神割崎は、海に突き出た大岩が海蝕によって2つに割れ、その間に太平洋の荒波が流れ込む圧巻な姿を望むことができる南三陸金華山国定公園の絶景スポットだ。
 2つに割れた大岩が志津川町と北上町の境界となっているが、この境界には伝説が残されている。もともと、神割崎は、長清水村(現在の志津川町)と十三浜村(現在の北上町)との間で境界争いの絶えない場所であった。そんな折、神割崎の海岸に鯨が打ち上げられたところ、鯨の所有権をめぐって長清水村と十三浜村で争いが始まる。お互いに譲らず、一戦を交えなければならない状況に達した時に、突然、雷のような大音響とともに神割崎の大岩が裂け、鯨もろとも真っ二つになったというのだ。お互いの村民は、神のお告げであると考え、割れた岩を境界とし、以後、境界争いをしなくなったという。
 神割崎には、1951年(昭和26年)2月10日に初点灯した白灯形の寺浜灯台もあるので、外周旅行のポイントとして訪問したいと思っていたのだが、天候が悪化したこともあり、安藤クンも奥田クンも消極的。昨日のこともあり、この場は譲って先へ進む。
 「旅行かい?今日はどこに泊まるんだ?」
運転席の後ろに陣取っていた私に運転手が話し掛ける。
「まだ決めていないのですが、気仙沼辺りを考えています」
「気仙沼?気仙沼はこの辺では都会だから宿も高いし、泊まるところじゃないよ。気仙沼まで行くなら大谷に泊まるといい。民宿はたくさんあるし、何よりも気仙沼よりも安い」
地元のバスの運転手がそこまで勧めるのであれば、大谷の民宿に泊まってみよう。大谷であれば、JR気仙沼線の沿線であるため、明日の行程にも支障はない。
 バスは志津川行きであったが、途中の折立が気仙沼線の陸前戸倉駅に近いので降車。白浜からの乗り継ぎであることを申し出ると、540円の運賃が60円割引になる。乗り継ぎ券のようなものはなく、完全な信用申告制であった。
 時刻は16時を少し過ぎていたが、停留所の近くにあった戸倉郵便局に掛け込む。郵便局が込んでいれば、順番待ちで16時を過ぎても受け付けてもらうことができるからだ。しかし、既に貯金窓口はカーテンが閉められている。
「貯金なら現金自動預け払い機が利用できますよ」
通帳を手にしていたので、親切な局員が声を掛けてくれるが、目的は旅行貯金なので、現金自動預け払い機では役に立たない。無理を承知で丁重に旅行貯金をお願いしてみる。
「そうですか。わざわざ走って来られたようですから・・・」
そう言うと局員は、一旦閉めた窓口のカーテンを開けて、旅行貯金に応じてくれた。親切な局員に感謝する。
 次の気仙沼線の下り列車は、16時28分の気仙沼行き2945Dと接続が良い。この前の列車は14時35分なので、2時間ぶりの列車だ。列車の待ち時間を利用して、駅前の「ヤマザキショップ」で飲み物を購入する。
「ヤマザキの製品は100円だけど、その他の製品は110円ね」
私と安藤クンは、偶然に山崎製パンのコーヒーを手にしており100円で済んだが、アクエリアスを手にした奥田クンは110円を請求された。1989年(平成元年)4月1日から消費税法が施行され、自動販売機のジュースはしばらく100円を維持していたものの、やがて110円と便乗値上げをするようになった。本来なら3パーセントの消費税なので103円で済むところだが、自動販売機が1円硬貨を利用できないことを理由として事実上7円の値上げである。最初は抵抗もあったが、やがて110円が当たり前という風潮になったのだから慣れは怖い。それを100円で済むと言われたのだから得した気分になってしまう。一方の奥田クンは憮然とした表情。
「お店で買っているのだから103円でいいじゃないか!」
奥田クンの意見はもっともだ。そもそも、自動販売機のジュースは、当初、分量を3円分減らして100円を維持するという報道があったように記憶するが、減量による調整の議論はどうなってしまったのだろうか。
 無人駅であった陸前戸倉から乗った2945Dは久しぶりの鉄道。しばしばトンネルで視界を遮られるのは残念だが、右手には志津川湾が広がり、見晴らしが良い。しかし、景色を楽しめるのも次の志津川まで。志津川から先はトンネルが続く。
 気仙沼線は、1977年(昭和52年)12月11日に柳津−本吉間の34.0キロが開業し、全線が開通した。その直後の1980年(昭和55年)12月27日に日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(いわゆる国鉄再建法)が制定され、ローカル線の新線建設が中止されたので、結果的に、気仙沼線は国鉄時代に開業した最後の地方交通線となった。我々が乗車しているこの区間は、正に最後に開業した区間である。ただし、開業が新しい区間ほど、工法が進歩しているのでトンネルが多く、車窓は楽しめなくなる傾向にある。
 我々は16時48分の歌津で下車。快速「南三陸」の停車駅である歌津も無人駅とは寂しい。小さな駅舎に窓口はあるので、もしかしたら時間帯によっては駅員が配置されているのかもしれない。
 神割崎は素通りしてしまったが、せめて志津川湾の北端に位置する歌津崎には立ち寄っておきたい。途中までは宮城交通のバスが走っているが、中途半端なのでバス利用は見合わせて、歩いて歌津崎を目指す。3月の東北は日没が早く、周囲は既に薄暗くなりかけているので、自然と急ぎ足になる。天候は相変わらずの雨模様だが、小雨になっているのが救いだ。折り畳み傘を差しながら、伊里前湾沿いの県道225号線をたどる。
 歌津駅から15分も歩いたところで、後方から宮城交通のバスが我々を追い越して行く。
「途中までもバスに乗った方がよかったんじゃない?」
奥田クンから指摘をされる。歌津崎までは、4キロぐらいあり、雨の中を更に1時間も歩き続けるのはさすがに無理がある。
「この先に歌津魚竜化石というのがあるらしいので、そこまで行ってタクシーを利用しよう。バスに乗っても歌津崎まで行かないので、そのままタクシーで陸前港駅へ出ればいい。バスに乗っても帰りは歩かなければ行けないから」
我ながら言い訳がましい説明で奥田クンを納得させる。
 歌津岬から少しだけ突き出た舘崎は、1970年(昭和45年)9月に日本地質学会の研究グループが地質調査を行ったときに、魚竜化石を発見したことで知られる。魚竜は、爬虫類の一種で、現在のイルカに近い生態を持つ生物だったと考えられている。舘崎で発見された魚竜化石は、現在から約2億4,200万年前の三畳紀の海に生息していたものと推定され、世界最古の魚竜化石に当たるらしい。1975年(昭和50年)8月には、「歌津魚竜」として国の天然記念物にも指定されている。
 しかし、舘崎の付け根にあたる舘浜まで来ると、歌津魚竜化石の産地へは、海岸沿いの遊歩道を歩いて行かなければならないことが判明する。薄暗いうえに雨で足場の悪い遊歩道を進む気はせず、結局、ここが舘崎と納得して、近くの公衆電話からタクシーを呼んでしまう。
 宮城交通バスの舘浜停留所で待つこと10分。公衆電話で手配した歌津タクシーが我々の前に停まった。私が助手席、安藤クンと奥田クンが後部座席に乗り込み、まずは用件を伝える。
「歌津崎まで行った後、陸前港駅までお願いします。18時22分の列車に乗りたいのですが、今からでも間に合いますかね?」 タクシーの待ち時間を利用して、気仙沼線のダイヤを確認すると、次の列車は陸前港を18時22分に発車する気仙沼行き2947D。これを逃すと、次は1時間36分後の19時58分発の949Dまで列車はない。時刻は17時45分を回っており、残り時間は30分ぐらいしかない。
「歌津崎は灯台と小さな神社があるだけだから、見学にも時間はかからないだろう。18時22分なら間に合うよ」
運転手の太鼓判をもらって安心する。
 タクシーはしばらく白砂青松の海岸沿いを走る。約2キロに及ぶ長須賀海水浴場で、夏場は海水浴客で賑わうという。歌津の地名の由来は、田束山から卯辰(うたつ)の方角(東〜東南東)にあるからとする説が有力だが、アイヌ語で砂浜を意味する「オタ(ウタ)」に船着き場を意味する「津」を組み合わせたとする説もあり、長須賀海水浴場を眺めていると、アイヌ語を由来とする説も信憑性がありそうだ。
 県道225号線を外れて細い道路を進む。車1台が通る分には問題ないのだが、対向車が来たら難儀しそうだ。もっとも、日の暮れた雨の歌津崎を訪問する物好きが他にいるとは思えない。
 まずは、歌津崎の先端にある泊浜尾崎神社へ。老松に覆われた参道を進むと、岸壁にひっそりと佇む朱色の社殿が現れた。周囲は波の音と雨の音しかしない。
 泊浜尾崎神社は、奥州に落ち延びた源義経が神仏の来臨を請うために建てられたと伝えられている。源義経ほどの武道に優れた人物であっても、最後は神頼みしかなかったのであろう。
 急いでタクシーに引き返すと、数百メートル走らせたところで再び停止。
「この先が灯台だから」
運転手が言い終わらないうちに車内から飛び出し、白い泊浜灯台を確認する。この地には、正保年間(1644年〜1648年)に沿岸防備のための唐船番所が置かれたとのこと。当時は、外国船が来航した際には武力で打ち払うこととされていたのだ。
 足早ながらも歌津崎に足を記すことができたので満足する。陸前港駅に出て、2947Dに乗れば本日の行程も無事に終了という段取りであるが、車内の時計は18時10分を示している。
「列車の時刻まで10分少々しかないけど大丈夫ですか?」
タクシーは随分とのんびり走っているので、気掛かりになって運転手に確認する。
「18時22分だろう?大丈夫だよ」
そうは言うものの時計の表示は刻々と進んでいく。国道45号線に出て、気仙沼線の線路と並走を始めると、トンネルを出て来たディーゼルカーがタクシーを追い抜いて行く。
「あの列車ですよ!これじゃあ間に合わないじゃないですか!」
声を荒げるが、運転手は飄々としている。
「陸前港に着いたら誰かが先に走って発車を待ってもらえばいい」
内心はふざけやがってと思うが、今さらどうしようもない。列車と同時に陸前港駅に到着したので、支払いは安藤クンに任せて私と奥田クンとがすぐに車外に飛び出す。ところが陸前港駅は地上駅ではあるが、高い築堤上にあるため、階段を掛け登らなければならない。全速力でホームに登ったときは、既に2947Dは陸前港を後にしたところで、トンネルに消えていくディーゼルカーを虚しく眺める。
 2947Dに間に合わなかったことだけでも腹が立つが、息を切らせてホームにやって来た安藤クンから更に衝撃のやり取りが伝えられる。
「運賃が2,730円だったから3,000円を渡したんだけどお釣りをくれないんだよ。お釣りは?って言ったら、えっ?早く言った方がいいんじゃないって!」
これで歌津タクシーの運転手の魂胆がわかった。初めからぎりぎりに陸前港へ到着して、お釣りを懐に入れるつもりだったのだ。そうでなければ、こちらが散々時間を気にしているのに、少しも急ぐ素振りを見せなかった。むしろ、わざとゆっくりタクシーを走らせているようでもあったのだ。おまけに慌ててタクシーを降りたので、私と安藤クンは折り畳み傘を車内に忘れてきてしまった。昨日の網地島交通のタクシーといい、今回の旅はタクシーの巡り合わせが悪い。
 次の列車まで時間があるので、どこかで夕食をと考えたのだが、周囲には数軒の民家と畑があるだけで、外食産業など見当たらない。ホームの階段を下りたところに「フレッシュフーズみなと」という食料品店が店を開けていたのを幸い、カップラーメンを購入。店のお婆さんに頼んでお湯をもらい、ホームの待合室で箸を動かす。列車の音が聞こえるなと思えば、盛行きの快速「南三陸3号」がゆっくりホームを通過していった。普段は重宝する快速列車だが、通過駅にいるとどうして停車してくれないのかと恨めしく感じる。
 腹ごしらえをしたら、今度は宿の手配だ。駅前の公衆電話に備え付けの電話帳で宮城交通の運転する推奨する大谷の民宿を探すが、電話帳に掲載されているエリアは志津川町と歌津町だけ。大谷は隣の本吉町に属する。やむを得ずNTTのハローダイヤルに電話をし、大谷駅近くの「民宿浜見」を紹介してもらう。ところが「民宿なぎさ」は夏場だけの営業なのか休業中とのこと。休業中の民宿を紹介するハローダイヤルも困ったものだが、「民宿浜見」で代わりに紹介を受けた「民宿紅屋」に電話をすると、素泊まり3,000円で引き受けてくれた。値切らずに素泊まり3,000円という料金設定なのだから大谷の民宿は確かに安い。
 待ちくたびれたところでようやく気仙沼行き949Dが到着。周囲は既に闇に包まれており、車窓を楽しむことはできない。かつての気仙沼線の本吉は、本吉町の中心地だけあって、灯火が増えるのも束の間、すぐに暗闇が周囲を覆う。ここからの旧線区間では、太平洋沿いに列車が走っているはずだ。
 定刻の20時20分に大谷に到着。1面1線の無人駅であるが、駅前に国道45号線が通じており、交通量も多い。「民宿紅屋」は国道45号線を気仙沼方面に歩いたところにあり、食料品やたばこを扱う店が併設されている。それでも玄関では鹿の剥製の出迎えがあり、民宿としては立派なものだ。
 2階の部屋に案内されるが、他に宿泊客はいない様子。浴場には大浴場もあるのだが、我々だけなので大浴場に隣接する小さな家族風呂利用となる。「大谷温泉」の文字もあったのだが、本当の温泉ではなく、大浴場を温泉と称しているようだ。銭湯が温泉を名乗るようなものであろう。家族風呂で汗と雨を流して災難の多い長い1日を終えたのである。

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