飛行機に魅せられて

第16日 石巻−鮎川

1992年3月31日(火) 参加者:安藤・奥田

第16日行程  上野駅16番線ホームから22時37分に発車する急行「津軽」が今回の旅のアプローチとなる。今まで当日の始発列車で外周旅行のスタート地点に向かうことが多かったが、外周旅行の舞台が自宅のある関東地方から東北地方に移ったため、いよいよ夜行列車のお世話になる。今回の旅のスタートは宮城県の石巻。仙台まで行って、仙石線に乗り換える予定だが、スタートが「津軽」では「おや?」と思う人もいるかもしれない。かつての「津軽」は、福島から奥羽本線を経由して青森を結んでおり、仙台は通らなかったからだ。しかし、1990年(平成2年)9月1日から福島−山形間が山形新幹線の改軌工事のため、「津軽」は仙台まで東北本線をたどり、仙山線を経由して奥羽本線をたどることになったのだ。同じ東北本線を走る急行「八甲田」では、仙台到着が3時10分と早過ぎるが、「津軽」なら4時00分。「津軽」の仙台到着時刻も早過ぎるとは言え、「八甲田」よりも50分余計に睡眠時間を確保できるのは大きい。
 大宮を過ぎてから車掌が車内検札に現れたが、我々の持っている普通周遊券と急行券を見て手が止まる。
「これは周遊券ですよね。周遊券は急行券が不要だから、仙台で降りたら払い戻してもらってください」
確かにワイド周遊券やミニ周遊券は、特に急行券を買わなくても、周遊区間までの往復に急行列車の自由席を利用できることになっている。しかし、我々が手にしているのは普通周遊券。JR線及びJRハイウェイバスを201キロ以上利用し、周遊指定地を2箇所以上(特定周遊指定地は1箇所以上)まわって出発地に戻って来ることを条件とした周遊券で、JRの運賃が2割引(学割は3割引)、その他の経由社線が1割引となるという優れものだが、あくまでも運賃が割引の恩恵を受けられるだけであり、急行列車の自由席利用の特典はなかったはずだ。その旨を車掌に申し出る。
「周遊券はすべて乗車できるはずだけどな。後で調べておきます」
そう言い残して姿を消した車掌は、仙台到着まで我々のところに現れることはなかった。
 未明の仙台駅で1時間少々過ごし、仙台5時22分発の仙石線の始発列車となる521S普通列車で睡眠を補い、6時48分に石巻へ降り立つ。今回のメンバーは、昨年の夏以来の参加となる安藤クンと、1990年(平成2年)12月25日以来の参加となる奥田クンだ。もっとも、奥田クンとは同じ高校へ通っており、毎日顔を会わせているので、久しぶりの参加という感じはしない。
 駅前広場に出ると、朝日がまぶしい。幸いにも今日は天候に恵まれそうだ。今回は鮎川半島沖に浮かぶ田代島、網地島(あじしま)、金華山と島めぐりの要素があるので、天候が気掛かりになる。
 前回は「ナンダコリャ丸」の乗船場を探し求めて、無駄に石巻市内を徘徊してしまったので、今度は事前に石巻−田代島−網地島−鮎川間の定期航路を持つ網地島ラインに電話をして、運航ダイヤから石巻の乗船場もしっかりと確認しておいた。旧北上川西岸の河口近くにある門脇桟橋から9時に出航とのこと。石巻駅からだと3キロ少々離れているが、時間はたっぷりとあるので歩いて桟橋を目指す。
 前回の旅で、「ジャンボラーメン」(300円)に挑戦した「牧場ラーメン」はさすがにシャッターを降ろしたまま。早朝営業をしていれば、朝から再戦を目論んでいたので残念。途中に「セブンイレブン石巻立町店」があったので、「ジャンボラーメン」の代わりに朝食用のパンとコーヒー牛乳を仕入れておく。
 日魯漁業石巻工場の前にあった門脇桟橋は、桟橋と言うよりも旧北上川を航行する船舶の係留場所のような雰囲気であったが、暖房の効いた待合室が備えられており有難い。待合室のテレビを見ながら、仕入れたばかりのパンとコーヒーの朝食とする。
 「ねえ、もう乗船が始まっているよ!」
 朝食を済ませてしばらくテレビに見入っていると、安藤クンの声が聞こえる。時刻はまだ8時40分で、出航までに20分もあるのに気が早い。待合室の外へ出てみると、目の前には白い船体にブルーのラインが入った高速船が係留されている。網地島の長渡から田代島を経由して門脇桟橋に到着した高速船「ブルーライナー」で、待合室にいたので気が付かなかったが、8時29分に門脇桟橋に到着したはずである。時刻表にも無視された航路なので、かつて東京湾の猿島へ渡った漁船のような船舶をイメージしていたが、総トン数101トン、旅客定員220名の立派な船舶だ。
 下船を終えた「ブルーライナー」では、荷物の積み込み作業が行われており、船室には乗船客の姿もちらほら。我々も荷物を抱えて船内に移動する。船室にもテレビが備えられているが、電波の状態が悪いのかノイズが多い。自動販売機も備えられており、観光船の装いでもある。
 田代島の大泊まで1,000円の乗船券を購入。生活路線と思われるが、時刻表に記されている石巻から鮎川までの鈴吉汽船が1,390円であることを考えれば良心的な運賃設定か。牡鹿半島を宮城交通バスでたどっても鮎川港まで1,430円である。
 牡鹿半島の西岸は「ブルーライナー」が沿岸をたどるので、この区間の外周ルートは航路で代用する。定刻の9時に門脇桟橋を出航した「ブルーライナー」は、ゆっくりと旧北上川を下り、河口に架かる日和大橋を潜り抜ける。防波堤を抜けると、待ちかねたようにエンジン音を上げて、「ブルーライナー」は加速する。いよいよ高速船の本領発揮か。「ナンダコリャ丸」の拠点となる渡波港を遠くに眺め、牡鹿半島の複雑に入り組んだ入江を眺める。伊達政宗の命により、仙台藩士の支倉常長が慶長遣欧使節団を率いて1613年(慶長18年)にサン・フアン・バプチスタ号でローマへ旅立ったのも、牡鹿半島の入江のひとつである月浦からである。月浦の高台には支倉常長の銅像が立っているそうだ。
 「ブルーライナー」は、石巻から35分で田代島の北東部にある大泊港に入港する。田代島は旧北上川の河口から南東に約15キロの海上に位置し、総面積は2.7平方キロ、周囲11.5キロの小さな島だ。人口は約190人で、集落はこの大泊と南東部にある仁斗田の2つ。網地島ラインはいずれの集落にも寄港するので、帰りは仁斗田から13時35分の便に乗る予定だ。
「この島は『ひょっこりひょうたん島』のモデルになったらしいよ」
安藤クンが教えてくれる。「ひょっこりひょうたん島」はHNK総合テレビで1964年(昭和39年)4月6日から1969年(昭和44年)4月4日まで5年間に渡って放送された人形劇であるが、我々が生まれる前のこと。番組を見たこともなくピンと来ない。安藤クン自身も肝心な「ひょこりひょうたん島」についてあまり詳しく知っているようでもない。
田代島  大泊集落にある鹿島神社に参拝した後、島の中央部に続く道をたどる。田代島は海岸段丘が発達し、最も高い地点でも96.2メートルというなだらかな地形で、島内散策には有難い。
 整備された遊歩道を歩き、島の西側にある音が洞(おどがどう)へ。洞窟に波がかぶると音が鳴るからという由来であるが、あまりにも安易なネーミングだ。周囲が静かなので波の音が良く聞こえるが、一般的な波の音との違いは感じられない。
 島の中央部にある愛宕山へ出ると、七ツ壇という小さな塚が並んでいる。前九年の役で1062年(康平5年)の厨川の戦いで敗れて斬首された安部貞任(あべのさだとう)の残党がこの田代島に渡り、遺品を埋めたと言い伝えられている。安部氏の拠点であった厨川柵(くりやがわのさく)は現在の盛岡市にあり、残党が落ち延びるのでは北方ではないかと思われるのだが、とにかく田代島に渡ったらしい。調査が行われた様子もないので、言い伝えの範疇に過ぎないのであろうか。もっとも、財宝ではなく遺品なので、掘り起こしたところで錆びた刀剣類が出て来るだけなのかもしれない。
 田代島の南東部にある満蔵寺跡は、1391年(明徳2年)の山名氏清らによる明徳の乱により室町幕府が混乱している最中、海賊によって襲撃を受け、住職以下3名の僧侶が惨殺、寺院も焼き払われたという悲劇の舞台であるとの説明板が残っている。もっとも、満蔵寺を襲撃した海賊もその後、大時化で全滅したという。僧侶の怨念が海賊を滅ぼしたのであろうか。
「残党の遺品だとか、僧侶が海賊に惨殺されただとか、この島は亡霊の宿る島かもしれないなぁ」
奥田クンが感想を漏らす。小春日和なので救われるが、天候が悪ければ何かの祟りだと信じてしまうかもしれない。いずれにしてもあまり長居をしたくない史跡なので早々に退散する。
 仁斗田集落には田代島簡易郵便局があったので、貴重な旅行貯金を済ませる。仁斗田港の網地島ラインの桟橋にたどり着いても1時間以上も時間を持て余す。昼食時なので、食堂でもあれば迷わず足を向けるのだが、田代島には外食産業が皆無のようだ。仕方がなく、近くにあった田代島ポケットビーチで過ごす。
 田代島ポケットビーチは、人工の海水浴場で、海辺の小さな砂浜を除いては、周囲をコンクリートで整備してしまっている。もともとは砂浜のない岩場の海岸だったのであろう。夏場になれば、海水浴やキャンプにやって来る人もいるのであろう。
 「あんたらはどっから来たんだ?石巻か?」
ポケットビーチで暇そうにしている3人連れを不審に思ったのか、それとも仕事も一段落して話し相手が欲しくなったのか、地元のおじいさんから声が掛かる。先程まで仁斗田港で網の修理をしていた漁師だ。
「田代島と網地島がどんなところかと気になりまして、神奈川からやって来ました」
「わざわざ神奈川から!でも、どうせ来るなら夏場に来なきゃ駄目だなぁ。夏場は石巻専修大の学生がよくやって来る」
地方の大学生にとって、手頃なサークルの活動場所になっているのだろう。待合室にあった観光パンフレットには、田代島と網地島を総称して「マリンゾートアイランド」と宣伝をしていた。キャンプ場を整備し、海水浴やウィンドサーフィンができることをアピールし、観光客の集客に努めようとしている。
 これをきっかけに、おじいさんから田代島について面白い話を聞かせてもらう。田代島が猫の島であるということだ。田代島では、猫を大漁の守護神として祀っているのだという。猫が餌としての魚を獲ることにあやかったのかと思ったら、漁師が獲った魚を盗む山猫の被害がひどかったので、それを戒めるために猫を祀ったとのこと。それがいつの間にか猫が大漁を招くと言い伝えられるようになったそうだ。もともと魚が水揚げされる港には、餌を求める猫が集まるものだから、漁師と猫の関係は密接なのであろう。一方、犬は猫の天敵と位置付けられ、田代島には1匹も犬がいないそうだ。気にも留めていなかったのだが、言われてみれば犬は見掛けない。田代島では、猫が安心して過ごせるように犬を飼わない習慣があるそうだ。
 おじいさんと別れて13時35分の網地島ラインで網地島へ渡る。今度は高速船「ブルーライナー」ではなく、カーフェリーの「マーメイド」であった。旅客定員は212名と「ブルーライナー」より若干下回るが、総トン数は122トンで乗用車を3台積載できるようになっている。
 仁斗田から網地島の北西部に位置する網地までの所要時間は20分。高速船「ブルーライナー」であれば、わずかに9分の距離であるが、行政区域は田代島が石巻市に属するのに対し、網地島は牡鹿町に属する。
 「マーメイド」は田代島の属島である砥面島の東側を航行し、釜ヶ崎と立ヶ崎に囲まれた入江を進む。前方には白浜海水浴場が広がるが、季節外れの海岸に人影はない。代わりにベーリング像が台座に腰掛けてこちらの様子を伺っている。ベーリング没後250年を記念して、1991年(平成3年)7月6日に建てられたばかりの記念碑だ。1739年(元文4年)6月20日、ロシアの航海士であったヴィトゥス・ヨナセン・ベーリングの指示を受け、マルティン・スパンベア率いるロシア第2次北太平洋大探検隊が網地島沖に到着。周辺で1週間前後の測量を行っている間に、網地島の島民との間に、日露史上初めての交易が行われたという。それならば実際に網地島へやって来たスパンベアの銅像を建てればよさそうなものだが、観光資源として考えるならば、ベーリング海峡を発見したことで知られるベーリングの知名度にあやかりたかったのかもしれない。
 「マーメイド」は、立ヶ崎の根元に位置する網地島桟橋には、定刻よりも5分早い13時50分に接岸した。正確には、網地島ラインの時刻表には、網地の出航時刻しか記されていなかったので、網地での停泊時間が当初から5分間の予定であるならば、定刻に到着したことになる。
 我々は桟橋から網地島の北東から南西に長い網地島の背骨にあたる県道214号線を進む。網地島には、網地島ラインの他に、鮎川と網地島を結ぶ牡鹿町営船が就航しており、網地島の南西部にある長渡(ふたわたし)を15時43分に出航する最終の町営船に乗るつもりだからだ。
 網地島は面積6.43平方キロ、周囲18.3キロの島で、人口は約1,300人。田代島の倍以上の規模がある島である。網地から長渡までは約5キロあり、普通に歩いていては15時50分の町営船に間に合わないのだ。しかし、田代島と同様に海岸段丘の平坦面が発達した島であるため、歩くのはそれほど苦にならない。観光パンフレットには、サイクリングコースとして紹介されており、網地桟橋の近くにもレンタサイクルの案内を見掛けたが、乗り捨てができないので活用できなかった。
 網地と長渡のちょうど中間地点ぐらいに網長小学校と網長中学校が県道214号線を挟んで向かい合わせに立っている。双方の集落からの通学の便を図るために、中間地点に学校を建てたのであろう。離島ではよく遭遇するパターンである。島名の「網地」ではなく、「網長」を名乗っているところはユニークで、長渡集落の住民の意向かもしれない。網長中学校のグランドの脇には本格的なテニスコートも整備されており、観光客も利用できるようだ。
 ラベンダー畑を抜けて網地から1時間ほどで長渡に到着。長渡にある網地島郵便局で旅行貯金を済ませた後、細い路地に惑わされながら、牡鹿町営船が発着する長渡桟橋を探し当てる。無人の小さな待合室がぽつりと建っているだけで、町営船が本当にやって来るのか不安になったので、近くにいた漁師に何度も確認してから待合室に入る。
 待合室には、町営船の時刻表の他に、臨時便を案内する貼り紙があり、電話番号が記されている。1時間も待てば定期便がやって来るのだけど、定期便が網地へも寄港するため時間がかかる。早めに鮎川へ出られるのであれば、それに越したことはない。幸いにも待合室に公衆電話が設置されていたので、安藤クンが試しに電話をしてみる。ところがこの電話でとんでもない情報がもたらされる。
「臨時便というのはチャーター便のことで、鮎川まで15,000円だって。まあ、それだけなら定期便を利用すればいいのだけど、今日は波が高いから、15時43分の定期便は長渡には寄港せず、網地へ直行するらしいよ。今から鮎川へ行きたければ、臨時便を利用するしかないって!」
 天候は良好で、にわかに信じられない情報だが、海上の様子は素人にはわからない。だからといって、定期便なら1人あたり450円で済むところを、15,000円も払ってチャーター便に乗船する気にはならない。網地島で足止めされてしまっては、明日以降の行程にも支障を来す。我々の選択肢は網地に戻って定期便を捕まえるしかない。今からならぎりぎり網地に戻る時間はありそうだが、再び5キロの道のりを歩くのは気が滅入る。幸いにも網地島にはタクシーがあるのでタクシー利用にしよう。島内で唯一のタクシー会社である網地島交通に電話をして、配車を要請するが、空車がないという返事。タクシーであれば、網地まで10分もかからないだろうから急ぐ必要もなく、他の乗客も島内での利用に限られるので、空き次第で構わないので長渡へ配車して欲しいと頼む。ところが網地島交通の担当者は「いつ車両が空くかわからないので配車はできない」と言って一方的に電話を切ってしまう。やむを得ず県道214号線を網地へ引き返しかけるが、網地島郵便局の前に網地島交通のタクシーが停まっているのを発見する。ところが車内に運転手の姿はない。メーターが倒されていないので、貸し切りということでもなさそうなので、再び網地島交通に電話をして、運転手を呼び出してもらうことにする。郵便局内にあった公衆電話の受話器を取るが網地島交通の回答は相変わらずである。
「今、空車がないってさっきも言っただろ!」
しかし、今度はこれで引き下がらない。
「今、郵便局の前にお宅のタクシーが停めてあるのですが、メーターも倒していないので空車ということですよね。ただ、運転手がいないので、今すぐに呼び出してもらえませんか?」
ところが私の質問に答えることなく、再び電話を切ってしまう。網地島交通と言っても、事実上の個人タクシーであろうし、どうせ電話の主が運転手なのであろう。それにしてもひどいタクシー会社だ。島のローカルタクシーだから、島民だけを相手にして、部外者の乗車は拒否しているのだろうか。しかし、仮にも認可を受けて営業している公共交通機関だ。こんな対応が許されるわけがなかろう。
 電話でのやり取りが気になったのか、郵便局員から声を掛けられたので事情を説明する。
「そうですか。今日はタクシーの営業を休みにしたのかもしれませんね。それよりも長渡に町営船が寄港しないなんて考えられないな。どこからの情報なのだろう。最終便はいつも15時20分頃にやって来るので、それまで桟橋で待ってみてください。もし、20分になっても町営船がやって来なかったら、また郵便局まで来てください。近所で車を持っている人に頼んで網地へ送ってもらえるように頼んであげます。ここから網地まで車なら5分もかからないので、網地の出航時刻には充分間に合いますよ」
有難い郵便局員の申し出に感謝して、言われたとおりに長渡の待合室で町営船を待つ。しばらくするとポーッという汽笛が聞こえ、待合室を飛び出すと町営船「牡鹿丸」の姿があった。
 桟橋で両手を振って「牡鹿丸」を迎え、船内で乗船券を売りに来た船員に真相を尋ねてみる。
「今日は波が高いから、長渡に町営船は寄らないで、網地へ直行してしまうと聞いたのですが、どうなっているのでしょうか?」
船員は不思議そうな顔をしている。
「どこでそんな案内があったのですか?この程度の波であれば運航に支障はありません。本当に波が高いときは、欠航しますよ!」
どうやら臨時便という貼り紙を見て、てっきり牡鹿町の案内だと思い込んでいたが、漁船の所有者が勝手に臨時便を名乗って商売をしているのかもしれない。そうだとすれば、我々を騙してチャーター便を手配させ、小遣い稼ぎをたくらんだ可能性が高いと思われる。網地島交通の運転手といい、臨時便の船長といい、網地島に対しては悪い印象ばかり残ってしまう。救いは網地島郵便局の局員だけだ。
 町営船「牡鹿丸」は総トン数99トン、定員190名。決して大きな船とは言えないが、少なくとも臨時便よりは大きな船であろう。冷静に考えてみれば、「牡鹿丸」が寄港できない波の高さであれば、漁船クラスの臨時便だって寄港できないに決まっている。
 「牡鹿丸」は網地に寄港した後、網地島の北端の釜ヶ崎を再び迂回して鮎川を目指す。網地から鮎川までの航行時間は20分であるが、寝不足と疲れのため、船室でうたた寝をしてしまう。気が付いたときには、もう鮎川桟橋が目の前に現れていた。
 さて、時刻はまだ16時30分をまわったところ。鮎川と言えば日本有数の捕鯨基地であり、1838年(天保9年)に、金華山沖で組織的な網捕り式捕鯨が始まりと伝えられている。1906年(明治39年)には近代的な捕鯨基地が完成し、日本の近代捕鯨の幕開けとなった。しかし、1950年(昭和25年)に日本水産が女川へ移転、1965年(昭和40年)に極洋捕鯨が塩竃へ。1977年(昭和52年)には大洋漁業も塩竃へ移転するなど、鮎川の衰退が始まる。そして1988年(昭和63年)には、ミンク鯨とマッコウ鯨の沿岸捕鯨を中止されるなど、捕鯨を取り巻く環境自体が年々厳しくなっている。
 かつては町中に鯨の解体作業による血の匂いが漂っていたという捕鯨の町も現在は金華山観光の拠点としての位置付けになり、捕鯨基地としての面影は、「ホエールランド」と呼ばれる牡鹿町営博物館と鯨製品を扱う土産物屋だけだ。探せば鯨を食べさせる飲食店もあるのだろうが、我々の手が出せるものではないことは明白だ。私が小学校低学年の頃は、学校給食にも鯨の竜田揚げなどのメニューがしばしばあったが、今日では冷凍物の鯨が高級料理となってしまっている。
ホエールランド  せっかくなので「ホエールランド」を見学しようと足を運ぶが、開館時間は17時までであるにもかかわらず、入館券売り場の窓口のおばさんは「最終入館時刻は16時までです」と融通が利かない。やむを得ず、「ホエールランド」の正面広場に飾られている巨大な捕鯨船の前で記念撮影をして退散する。
 明日は鮎川から金華山へ向かうので、本日は鮎川港の近くに泊まりたい。金華山行きの観光桟橋の正面にある鮎川ステーションに行けば、どこか安い宿を紹介してもらえるかもしれないと足を向けるが、途中で「宿の紹介承ります」という看板が出ている「しんたくい」という土産物屋が目に入る。しかし、店に入れば土産物を買わざるを得なくなるだろう。電話番号だけを手帳に控えて、鮎川ステーションの公衆電話から白々しく電話をする。
「あの〜こちらで宿を紹介していただけると聞いてお電話をさせてもらったのですが…」
しかし、相手が一枚上手だった。
「今、鮎川ステーションですか?すぐ近くにあるから直接来なしゃい。安い宿を紹介しちゃるから!」
宿が安くても高い土産物を交わされたら割に合わないなと思いつつ、恐る恐る先程の「しんたく」の暖簾をくぐる。
「電話の人か?まあ、こっちに来んしゃい!」
人の良さそうな老夫婦が迎えてくれて、いくらか警戒心は弱まる。案内されたのは店の裏側で、テーブルと椅子が備えられている。
「あのう、安い宿を紹介していただきたいのですが・・・」
椅子に座ってしまうと延々と土産物を勧められるかもしれないので、最初に用件をはっきりとさせておく。
「わかっとるよ。安い宿を紹介するから安心しんしゃい。その前に、今、コーヒーを入れているからちょっと座って待ちんしゃい」
お客にならないことを理解してもらえたのだろうか。とりあえずインスタントコーヒーなので、このぐらいなら御馳走になっても退散できるだろう。奥さんがコーヒーを運んでくると、「しんたく」の主人であるおじいさんと雑談が始まる。
「あんたらはどこから来なさった?」
「神奈川県の平塚です」
奥田クンが答えるが、宮城の人に平塚と言ってもまず知らないであろう。ところが、おじいさんは目を大きくして反応する。
「おおっ!平塚か!知っとる!知っとる!競輪の街じゃな!」
これは驚いた。平塚には1950年(昭和25年)11月22日に開設された平塚競輪場がある。それほどの知名度があるとは思えない平塚競輪を知っているとは相当のギャンブル好きか。今まで関東以外の出身者で平塚を知っている理由は、日本三大七夕と呼ばれる七夕祭りぐらいである。ちなみに日本三大七夕は、仙台、平塚、一宮と言われている。
「ところで、鮎川まで何をしに来た?金華山か?」
「実は我々の出身地である平塚から日本の海岸線を沿って旅を続けていまして、今日は田代島と網地島へ行ってきました。今日は鮎川に泊まって、金華山へは明日渡る予定です」
私が旅の趣旨を説明する。
「ほお〜。変わったことをしとるな〜。それやったら予算は大丈夫か?」
「はい。節約を旨とした旅で、宿泊はもっぱら素泊まり。食事はパンで済ませることが多いですね。昼も抜きでしたから」
「そりゃいかん!だったらそばでも食べていきなしゃい!」
おじいさんは奥さんを呼ぶが、インスタントラーメンが1つしか残っていないという。最初は固辞していたのだが、奥さんが近所の食料品店へラーメンを買いに行くと言うので、さすがにまずいと思い、私が食料品店へ走ることにする。もちろんラーメン代は自分持ちだ。
 インスタントラーメンを抱えて店に戻ると、奥さんがすぐに調理をしてくれた。できあがったラーメンには、卵や野菜、ハムなどが添えられており恐縮する。我々がラーメンを食べている間に奥さんは近所の民宿へ電話。学生だからと本来は素泊まりで4,000円のところを3,200円にまけてもらえるようにも交渉もしてくれた。おじいさんも店で売っているものを勧めることもせず、真に善意の人であった。ここまでされては、何も買わないのも申し訳なく、だからと言って高級なクジラ製品などは手を出せない。安藤クンと相談のうえ、手頃な「するめいか」(500円)を手にする。「するめいか」なら旅の非常食としても役に立とう。ところが奥さんから咎められる。
「無理に何かを買わなくてもいいの。私らは好きで旅の人の世話をしているのだから。これを御覧なさい。今までここでお世話した人からの御礼状です。もしも、私らに恩返しをしてくれるのなら、社会人になって自分の力でお金を稼いでから、またここに来て、そのときはたくさん買ってちょうだい」
結局、御礼に購入しようとした「するめいか」も土産に頂くことになってしまった。鮎川を再訪する機会があれば、必ず「しんたく」に立ち寄り、今日の御礼をしなければなるまい。丁重に御礼を述べて店を後にする。
 店で渡された地図を頼りに紹介された「民宿タケダ」を目指す。安藤クンと御礼に「するめいか」を購入しようとしたことは、却って申し訳ない結果を招いたなと話をしていると、奥田クンが吐き捨てるように言う。
「だいたい貧乏旅行しているなんて言うのがいけないんだ!食費まで節約しているなんて他人に言うことじゃないだろ!みっともない!」
奥田クンの言葉にカチンと来る。私だって食事を恵んでもらうために節約をしている旨を話した訳ではない。
「そこまで言うならどうしてラーメンを御馳走になったんだ!みっともないとか、今になって怒るぐらいなら、御馳走になる前に店を出れば良かっただろ!」
思わず怒鳴り返してしばらく気まずい雰囲気が続く。
「まあ、まあ。確かに貧乏旅行を強調し過ぎたかもしれないけど、お店の人が善意でしたことだから・・・」
安藤クンが双方の鉾を収めさせようとしていることは理解できるが、お互いに感情的になっているので、すぐに仲直りなどできない。しばらくはお互い口を開かない時間が続いたが、風呂に入ってさっぱりした後、改めて3人で腹を割った話し合いを行う。とりあえず、お互いに言いたいことをはっきり言った後、明日からは今日のことを一切口にしないことでその場は収まる。前々回も最終日にメンバーが分裂した前例もあり、このままだと今回の旅もいつ空中分解してしまうかわからない。

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