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第15日 塩竃−石巻

1991年12月27日(金) 参加者:佐藤・鈴木

第15日行程  早朝6時過ぎに起床し、慌ただしく身支度を整えて本塩釜駅近くの「菊泉旅館」を出発する。昨日、野々島の民宿に泊まれていれば、もう少しゆっくりできたのに恨めしい。
 スーツ姿のサラリーマンが目立つ本塩釜駅を素通りして、塩竃市営汽船の桟橋へ向かう。桟橋には昨日とは異なり「しおじ」が係留されており、新聞や食料品などの積み込み作業が行われている。塩竃市営汽船は、島民の単なる交通手段というだけではなく、島民のライフラインでもあるようだ。
 我々が乗船したのは塩竃を7時15分に出航する便で本日の2便目。始発便は6時に塩竃を出航している。塩竃市営汽船のうち、始発の朴島(ほおじま)行きと最終の塩竃行きのみが、塩竃−朴島の直行便となっており、途中の島々には寄港しない。朴島への所要時間も、通常であれば1時間かかるところを直行便は45分で結ぶ。わざわざ直行便を運航するほど、早朝から朴島へ向かう需要があるのか思ったが、朴島は人口がわずかに50人程度の小さな島に過ぎない。釣り客以外にそんな島へわざわざ早朝から出掛けて行く人がいるとも思えず、実態は塩竈から朴島までの回送便であろう。朴島に船舶を係留しておけないので、わざわざ最終の朴島行きの折り返し便を塩竃直行で帰還させ、早朝に再び朴島へ向かわせているのだろう。定期便にしておけば、希望者があれば乗船させることもできる。6時の始発便で朴島まで行き、そのまま折り返し便に乗船するのが塩竃から浦戸諸島の各島へ最も早くたどり着く方法でもある。どうせなら、貴重な6時の始発便の乗船体験も面白いと思ったが、真冬の早朝に朴島に放り出されても凍えながら時間を持て余すだけなので、7時15分の便に落ち着いた。
 とても寒さに耐えられるものではないので、早々に船内へ避難する。「しおじ」は1989年(平成元年)3月に進水したばかりの新造船だ。総トン数64トン、定員は260名と昨日の「うらと丸」と比較すると少しだけ小振りであるが、冬場の輸送需要からはこれでも大きすぎるのではなかろうか。
 定刻に「しおじ」は塩竈を出航。我々の目的地は浦戸諸島の中で昨日、唯一足を伸ばせなかった朴島だ。朴島の由来は諸説あり、大昔に伝説上の鳥である鳳凰が生息していたことから鳳島と呼ばれるようになったとか、奈良時代に東北地方を統治するために通信用の烽火を上げていたことから烽島と呼ばれるようになったとか、さらには江戸時代に仙台藩の軍用金や貴重な宝物を隠した島であったことから寶島と呼ばれるようになったという説まである。朴島は何だか随分と謎めいた島であるようだ。
「俺は寶島説を信じたいなぁ。朴島に着いたら俺が宝物を探し出してやる!」
佐藤クンがにわかトレジャーハンターを宣言するが、宝物があるならとっくに朴島の島民が見付けだしているであろう。
 塩竃を出航してしばらくすると、船員が運賃の集金にやって来た。朴島までの乗船券を購入すると340円だった。ちなみに夏季は100円増しの440円になるとのこと。夏になれば、海水浴客の需要もあるのだろう。昨日の浦戸駐在所の警察官も海水浴をアピールしていた。
 わずかな乗船客は、桂島、野々島、寒風沢島と寄港する度に下船してしまい、終点の朴島まで乗り通すのは我々3人だけとなる。
「朴島まで何をしに行くの?」
暇そうな船員が我々に声を掛ける。釣竿を持っているわけでもなく、冬場だから海水浴客でもなく、船員が疑問に思うのも無理はない。
「浦戸諸島を見て回ろうと思いまして、昨日から各島に足を記しています。朴島が最後ですね。朴島には何かありますか?」
塩竃市役所浦戸振興課発行の「浦戸諸島観光ガイド」にも朴島はほとんど無視されているので、船員に尋ねてみる。
「そう言われてもねぇ。何もないなぁ。夏場なら海水浴客がいるけど。この時期はたまに釣り客がいるぐらいだしね」
 定刻の8時15分に「しおじ」は朴島に到着。我々を降ろすと、入れ替わりに地元のおばさんを一人だけ乗せて「しおじ」はすぐに塩竃へ向かって去って行く。周囲は閑散としており、なんだか孤島に取り残されたような心境だ。
 待合室に荷物を置いて、まずは、数少ない朴島の観光スポットである明神社へ向かう。集落を抜けて、小さな社が待つ高台に立つと、集落や港を見下ろすことができる。港の近くではよくある光景だ。朴島の氏神が祀られており、島民の心の拠り所となっているのではなかろうか。我々も敬意を表して参拝をしておく。
 朴島は、周囲2.2キロ、面積0.15平方キロと浦戸諸島の有人島では最も小さな島である。朴島での滞在時間は1時間45分もあるので、充分に朴島を一周できる距離であるが、残念ながら島の道路は、東側の南半分だけにしか通じていない。それでも、せっかく道路が通じているのだからと朴島散策に出掛ける。
 しばらく海岸の近くに通じていた道路は、集落を抜けると内陸に折れ、やがて菜の花畑が広がる。朴島の菜の花は、純粋な松島系白菜の種を採るために栽培されており、他の植物との交配を避けるため、近くの雑草を抜くなど、島民が大変な手間をかけて大切に育てているという。もっとも、真冬に菜の花が咲いているわけがなく、季節外れの菜の花畑は荒涼とした雰囲気だ。空は曇り、やがて粉雪が舞って来る。そして、朴島の短い道路は、無人の通合島を望む海辺で行き止まりとなっていた。
孝子の碑  「浦戸諸島観光ガイド」によれば、この付近に「孝子の碑」というものが記されているので周囲を探してみる。少し桟橋方面に戻ったところで、佐藤クンが高さ1メートル弱の石碑を発見。碑文は摩耗が激しくほとんど判読できないが、おそらく「孝子の碑」に違いない。1287年(弘安10年)11月20日に建立された古碑との言い伝えがある。近くには共同墓地もあり、何かの供養塔のような感じもする。
「薄気味悪いから早く行こうよ!」
鈴木クンに促されて、700年も前に一体何のために建立されたのか不明のまま「孝子の碑」を後にする。
 途中で宝物の代わりに貝塚を発見したぐらいが成果で、早々に待合室に引き上げる。時間を持て余していると、外から声が聞こえる。
「お兄さんたち!缶蹴りしませんか?」
外を見れば、こちらの様子を伺っている小学生達が5人いる。朴島に住む小学生達なのであろう。学校が冬休みに入ってしまい、いつものメンバーと限られた遊び場所で退屈だったのであろう。見慣れない我々3人を見掛けて声を掛けてきたのである。都会では見ず知らずの高校生に一緒に遊ぼうなどと声を掛ける小学生など皆無であろう。
「よし!ちょっと相手してやるか!」
佐藤クンから威勢よく立ち上がる。
「よし!やろう!手加減はしないぞ!」
鈴木クンが呼応する。まさか高校生が本気で小学生を相手に勝負を挑むはずもなく、その辺りの手加減は佐藤クンも鈴木クンも心得ている。初めはじゃんけんで鬼を決めてゲームをスタート。同じ子が続けて鬼になったときは、わざと負けて鬼を代わってあげたり、我々が鬼になったときは、わざと遠征して陣地を離れ、缶を蹴らせてあげたりと、それなりの配慮をしながら缶蹴りを楽しむ。しばらくすると、雪は止み、やがて薄日が差してきた。走りまわるので、少々汗ばむ程度に体が温まった。
 やがて市営汽船の出航時刻である10時が近くなったので、缶蹴りを終了して、小学生たちに別れを告げる。
「なんでもう帰るの?塩竃行きは11時30分だから時間はあるよ!」
小学生の1人が泣きそうな顔をして言う。
「ごめんな。塩竃ではなくて、これから大高森へ行くんだ。大高森は10時の便しかないから、どうしてもこの船に乗らないと駄目なんだ」
私が説明すると、しょんぼりとしてしまう。
「また、今度来るから、そのときに缶蹴りの続きをしよう。俺達は神奈川県の平塚というところに住んでいるから、大きくなったか平塚にも遊びにおいで。仙台と同じで、七夕祭が有名なところだから!」
鈴木クンが小学生たちを気遣って声を掛ける。もちろん、朴島を再訪する予定などなく、社交辞令に過ぎない。それでも鈴木クンの言葉が小学生たちにささやかな楽しみを与えたことには間違いない。
「わっかたら、また来てよ!約束だよ!」
こうして朴島の小学生と別れて大高森行きの塩竃市営汽船「うらしお」に乗り込む。桟橋を離れても、姿が見えなくなるまで小学生たちは我々に手を振り続けてくれた。
「きっと、朴島の子どもたちはあの5人だけなんだろうね。いつも同じメンバーだけで遊んでいるので、新しい遊び仲間がやって来たから嬉しかったんじゃないかな。朴島じゃあ、夏になっても海水浴客が遊びに来るとは思えないしね。でも、明日になったら俺達のことなんて忘れているかもね」
佐藤クンがポツリと言い残した。
 「うらしお」は、今朝、朴島まで乗船した「しおじ」と比較するとかなりくたびれている。1974年(昭和49年)5月に進水と、我々よりも年期が入っているのだからやむを得ない。総トン数62.38トン、定員177名の船体であるが、乗船客は我々3名だけのようだ。普段は、乗客ゼロで運航されることもあるようで、遅かれ早かれこの区間の定期便は廃止になってしまうような気がする。
 船内で大高森までの乗船券を購入すると、運賃は520円。塩竃−朴島間が1時間で340円だったことに比べると、所要時間が10分の朴島−大高森間は、かなり割高な運賃設定になっている。利用者が観光客であることを見越して、この区間には宮城県や塩釜市からの運賃補助が出ていないのかもしれない。朴島は塩竈市に属するが、大高森のある宮戸島は、鳴瀬町に属する。宮戸島は、松ヶ島橋で本州と陸続きになっているため、市営汽船を運航する必要性は乏しいのだ。
 定刻の10時10分に終点の大高森桟橋に接岸。夏季はこの先の宮戸まで乗り入れているが、冬季は大高森が終点となる。大高森は、標高105.8メートルの小さな山であるが、山頂展望台からは松島湾と石巻湾を一望でき、松島四大観(大高森〜壮観、富山〜麗観、扇谷〜幽観、多国山〜偉観)のうち、最も見晴しの良いところとして知られる。大高森桟橋は大高森登山口に位置し、季節が良ければハイキング客の姿で賑わっているようだが、季節外れのためか周囲は閑散としている。
大高森  近くに宮城交通の大高森登山口停留所を見付けたが、しばらくバスはやって来ないので、終点の室浜を目指して歩く。県道27号線はすぐに松島湾と別れて、宮戸島の内陸部へ分け入る。周囲は収穫の終わった畑が広がっており、のどかな田舎道だ。交通量もほとんどない。単調な道のりであるうえ、朴島での缶蹴りの疲れも出てきて、次第に口数が少なくなる。室浜へ行く途中には、月浜、大浜という海岸もあったのだが、やむなくこれらはすべてショートカットして、室浜への最短ルートを選択する。
 大高森桟橋から1時間少々歩いて目的地の室浜に到着。夏場は海水浴客で賑わう海岸も、今日は誰も見当たらない。白い砂浜海岸に穏やかな波が打ち寄せている。西側には、嵯峨渓の風光明媚な姿が広がっていた。
 しばらく室浜海岸でたたずんでいると、やがて1台のタクシーがやって来た。野蒜駅から地元客を運んで来たようだが、そのまま引き返すのが惜しいらしく、我々に声を掛けてきた。
「これからどこに行かれます?この時間じゃあバスもしばらく来ないでしょう。3人ならバス代もタクシー料金も大差ありませんよ!乗って行きませんか?」
商魂逞しい運転手だ。こちらとしても、運転手の話に乗ってもいいのだが、バスと同じルートをタクシーで走るのは芸がない。そこでタクシー運転手にこちらから提案。
「この案内板には、大高森の西側を走る道路が記されていますけど、こちらの道を通って野蒜駅に出ることはできますか?」
持参した地図には大高森の東側に通じる県道27号線しか記されていないが、室浜の観光案内板には、大高森の西側にも道路が通じてあるように記されていたのだ。
「いいですよ。西側の道路は舗装されていなけれど、車も通れる道ですから。夏場は海水浴客で県道が渋滞で混雑するので、時々この道を走るんです」
思惑が一致したのでタクシー利用に決定する。
 乗車したのは「奥松島観光タクシー」で、普段は野蒜駅前で客待ちをしていることが多いという。先程の乗客もやはり野蒜駅からの利用者であったようだ。季節外れのこの時期に野蒜駅−室浜間を往復できるのは、運転手にとっても大きな臨時収入になるのではなかろうか。
 すぐに道路は未舗装の砂利道となり、なんだか遊歩道のような装いになる。しかし、しっかりと轍が残っているので、運転手の言う通り、車両が通行できるのであろう。途中、運転手は何度かタクシーから降りて、行く手を遮る木々の枝を除けながら先へ進む。
 時折、左手に大高森の展望台が見え隠れする。タクシー利用のついでに展望台へ立ち寄れないか運転手に尋ねてみたが、車でもっとも近くまで行っても、そこから15分は歩く必要があるというのでパス。15分ぐらい歩くのは問題ないが、往復で30分。その間、タクシーを待たせておいたら、タクシー料金がどれだけ跳ね上がるかわかったものではない。
 やがて県道27号線と合流し、未舗装道路区間も終了。バス路線と同じルートをたどって、松ヶ島橋を渡り、宮戸島を後にする。2キロほど続く野蒜海岸沿いを走って、野蒜駅に出ると、ちょうど12時03分発の仙台行きの1124S普通列車がやって来た。
「あの列車に間に合うように急いで下さい!」
運転手を急かすが、運転手の返事は呑気なものだ。
「急げば間に合うよ。この辺りの電車は頼めば待ってくれるから」
室戸から1,880円という1人460円のバス代3人分よりも割高なタクシー代を支払って、ホームに駆け込むと、頼むこともなく列車に間に合った。
 野蒜から仙台行きの列車に乗ったのでは、目指す方向と正反対であるが、浦戸諸島を経由して野蒜へ出てしまったため、高城町−野蒜間が虫食いのように残ってしまっている。この区間をフォローするために、仙石線で高城町−野蒜間を往復することにしたのだ。
 1124Sは定刻の12時18分に高城町に到着。高城町は昨日、松島海岸を経てやって来たばかりなので、駅前散策をする気にもならず、そのままとんぼ返りで12時31分発の快速「うみかぜ11号」に乗り込む。「うみかぜ11号」は、高城町を出ると野蒜までノンストップ。15分かかった野蒜−高城町間を約半分の8分で走り抜ける。仙石線は陸前富山から東名の手前までが海岸沿いの区間で、「うみかぜ11号」からの車窓が松島湾の見収めになる。
 12時39分着の野蒜に戻って落ち穂拾いも完了。野蒜から先の海岸線は石巻湾を構成するが、残念ながら仙石線は少々内陸部へ入り込んでしまうので、車窓から石巻湾を眺めることはできない。
 矢本の手前で航空自衛隊松島基地が視界に入る。航空自衛隊のパイロット養成部隊が配置されている基地で、「ブルーインパルス」と呼ばれる航空部隊による曲芸飛行を見せる航空ショーも開催されている。
 矢本からは石巻近郊になるため、「うみかぜ11号」も各駅に停車する。石巻のひとつ手前である陸前山下を発車すると、やがて左から石巻線のレールが現れた。思わず進行方向左側の車窓を凝視してしまう。石巻には我々が乗車した仙石線と小牛田−女川間を結ぶ石巻線のジャンクションであるが、かつては仙石線と石巻線の駅舎が別々に存在していたのだ。駅舎が別々になっていた理由は、仙石線が元々国鉄線ではなく、宮城電気鉄道の路線であった名残である。地元では仙石線の駅舎を電車駅、石巻線の駅舎を汽車駅と呼び分けていた。仙石線は電化されているから電車駅、石巻線は非電化なので汽車駅という次第で判りやすい。私が初めて石巻へやって来たのは、1989年(昭和64年)1月1日。まだ電車駅が顕在で、「仙石線のりば」と駅名と同じぐらいの大きさの看板が掲げられた風格のある駅舎が印象的だった。一方、汽車駅たる石巻線の石巻駅も同じ駅前ロータリーに面して構えており、両駅は50メートル程度しか離れていなかった。しかし、同じ駅での乗り継ぎにもかかわらず、乗客は一旦、改札口を通過しなければならなかったし、駅員を配置の観点からも非合理的であった。そこでJR東日本は、1990年(平成2年)7月21日に汽車駅に仙石線ホームを増設し、電車駅を汽車駅に統合したのだ。今回は、統合後、初めての石巻訪問となるので、どのように様子が変わったのか興味がある。
 「うみかぜ11号」は12時54分に終点の石巻に到着。仙石線からの車窓は、以前の記憶と大きな違いがないように思えるが、増設されたホームを歩き、かつての汽車駅の改札口を通り抜けると、違いを実感する。汽車駅も改装されており、以前よりは明るくなった印象を受ける。駅前ロータリーに出て、電車駅を確認すれば、旧仙石線の跡地は、既に駐輪場と化していた。
 時刻は13時になったところであるが、ここから先は牡鹿半島に挑むことになるが、残された時間は半日足らず。このまま牡鹿半島に入れば中途半端なことになるので、今回は石巻解散が妥当だ。残る時間は石巻観光に当てるのが無難であるが、石巻に来たからにはぜひとも乗船してみたい遊覧船がある。数日前、日本テレビ系列の「ズームイン!!朝!」で紹介されているのを偶然に見掛けたのだが、石巻には「ナンダコリャ丸」という遊覧船が就航しているという。就航コースは、1時間程度で石巻湾をぐるりと周遊するものであるが、特徴があるのは風景よりも船長である。「ナンダコリャ丸」の船長である阿部崇氏はユニークな人物で、遊覧船を出航させるとユーモア溢れるガイドを始める。船酔いした乗船客がいれば、「ここで酔わないと、酔うチャンスはありませんよ!」とか、「小指と小指を絡めて引っ張れば船酔い防止になるけれど、男女間で行うと恋に酔う恐れがあります」などという具合だ。下手な漫才よりもはるかに面白いということなので、石巻に来たら「ナンダコリャ丸」に乗船しようと決めていたのだ。ところが、偶然にテレビ放送を見ただけなので、石巻のどこから「ナンダコリャ丸」が出航しているのかさっぱりわからない。全国放送で紹介されるぐらいだから、石巻駅に観光案内ぐらいはあるだろうと思ったのだが、そのような案内は見当たらない。駅員に尋ねてみても、「ナンダコリャ丸」の存在を知らないようで首を傾げるだけ。船長の道楽で運航しているとのことでもあったし、地元でもほとんど認知されていないのかもしれない。
 石巻駅近くにあった石巻立町郵便局に立ち寄り、旅行貯金を済ませた後、局員に「ナンダコリャ丸」について尋ねてみる。しかし、ここでも「ナンダコリャ丸」は認知されていなかった。
「聞いたことないな。とりあえず石巻港へ行ってみたら何か判るかもしれないなぁ」
石巻湾を就航する遊覧船なのだから、どこかの桟橋から出航しているに違いなく、石巻港へ行ってみるのが最も手早いのかもしれない。局員の話に寄れば、石巻港までかなりの距離があるようなので、近くにあった羽黒山公園で小休憩をして鋭気を養う。石巻市街地には、標高50メートルの小高い羽黒山が構えており、桜の名所となっている。山頂にある羽黒山鳥屋神社に挨拶して、黙々と石巻港を目指して街中を歩く。
 陸前山下から分岐する石巻貨物線の踏切を渡り、1時間少々でJR貨物の石巻港駅近くの港湾にたどり着いたが、周囲は工場や倉庫が建ち並ぶ工業港湾。こんなところから遊覧船が出航しているとは思えず、石巻立町郵便局の局員は、どういうつもりで石巻港へ行けと言ったのだろうか。
 持参の地図を見れば、旧北上川の河口付近にも港湾が整備されているようなので、再び30分ほど石巻湾沿いの道路を歩く。しかし、旧北上川の河口でも「ナンダコリャ丸」に関する情報は皆無で、やむなく旧北上川沿いの道を北上して石巻駅に舞い戻る。結局、3時間掛けて石巻市内を10キロ以上も歩きまわったが、「ナンダコリャ丸」に関する収穫は皆無であった。時刻は16時を過ぎ、もはや「ナンダコリャ丸」の乗船も諦めざるを得ない。
 昼食の時間もとれなかったので、石巻駅前にあった「牧場ラーメン」に入る。この店の看板メニューは2玉半の「ジャンボラーメン」(300円)だ。私と佐藤クンは迷わず「ジャンボラーメン」を注文したが、鈴木クンは並盛りの「ラーメン」を注文。並盛りも大盛りと同じ300円である。
「どうしてジャンボを注文しないの?値段は一緒なのだから、ジャンボにすればよかったのに」
私が尋ねると、鈴木クンは店内の貼り紙を指差す。
『ジャンボラーメンを残した場合は、倍の料金をいただきます。』
注文するまでまったく貼り紙に気が付かなかった。店員も注文する前に注意してくれてもよさそうなものだが、お客のほとんどはルールを知った常連客ばかりなのであろう。それに倍の料金といっても600円で、倍の料金を払っても安い。貼り紙の存在を知っていたとしても、私と佐藤クンは「ジャンボラーメン」を注文したであろう。
 しばらくすると、我々のテーブルには3杯の「ジャンボラーメン」が並ぶ。
「俺、ジャンボなんか注文していないのに!」
鈴木クンが嘆くが、「ジャンボラーメン」に挑戦せよとの神の思し召し。佐藤クンと一緒に鈴木クンをけしかけて、「ジャンボラーメン」に挑戦させる。佐藤クンの指南によれば、先に麺を食べてしまわないと、麺が伸びてしまってまずくなるうえ、分量が増えるので好ましくないとのこと。そこで、具は一切無視をして、まずは麺をひたすら食べ続ける。腹が減っていたので、最初は順調だったが、次第にペースが落ちて来る。それでも300円を余計に支払うのが惜しくて意地になって麺を完食。小休憩をして、具はゆっくりと味わいながら食べる。幸いにも時間制限の注意書きはないので、慌てて食べる必要はない。私と佐藤クンは無事に残りの具とスープを平らげた。
 さて、問題は鈴木クン。まだ、丼には麺が3分の1ほど残っている。
「無理に食べるのは止めなよ。300円余計に払えばいいだけじゃん」
佐藤クンが鈴木クンに棄権を勧告するが、私は逆にけしかける。
「時間はあるから最後まで食べろ!男なら最後まで食べるんだ!」
結局、苦しみながらも鈴木クンも「ジャンボラーメン」を完食した。
 苦笑いをしながら空になった丼を片付ける店員と雑談をしていると、驚くべきことに「牧場ラーメン」の店長と「ナンダコリャ丸」の船長が中学校の同級生であることが判明する。聞けば「ナンダコリャ丸」の乗船場は、万石橋の南側の袂にあり、JR石巻線の渡波から徒歩15分ぐらいとのこと。我々はまったくの見当違いの場所をさまよっていたわけで、石巻に到着した時点で「牧場ラーメン」に立ち寄っていたら、「ナンダコリャ丸」にも乗船できたかもしれない。「ナンダコリャ丸」に乗船できなかったのは残念であるが、有益な情報を確認できただけでも満足しよう。

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