人生は何が起こるかわからないイベント

第14日 仙台−塩竃

1991年12月26日(木) 参加者:佐藤・鈴木

第14日行程  早朝6時に凍えそうな寒さで目を覚ます。さすがに冬の東北は寒い。布団に潜り込んだまま備え付けの石油ストーブに火を付け、部屋が暖まるのを待つが、なかなか部屋は暖まらない。意を決して布団から抜け出し、コートを羽織る。しばらくすると、多少は部屋の中が暖まるが、それでも吐く息は白い。いつまでも布団の中に潜り込んでいる佐藤クンと鈴木クンを叩き起こして身支度を整える。
 6時30分に「旅館高砂センター」を出発し、まずは昨日降り立ったJR仙石線の中野栄駅に立ち寄る。中野栄駅では、既に通勤ラッシュが始まり掛けており、背広姿のサラリーマンの姿が多い。仙台までわずか20分足らずの場所であるというのに、東北の朝は早い。
 我々は中野栄から列車に乗らず、そのまま歩いて仙台港を目指す。仙台港は、仙台市宮城野区、多賀城市、七ヶ浜町にまたがり、正式には塩釜港仙台港区という。仙台港ではなく、塩釜港の一部であるとは意外だが、長らく塩釜港が仙台の外港としての役割を果たしてきた歴史的経緯による。
 キリンビール仙台工場からビールを運ぶために1983年(昭和58年)4月1日に開業した仙台臨海鉄道仙台西港線の踏切を渡り、我々は仙台港の一角にある「仙台港みなと公園」に足を記す。仙台港を見渡せるピラミッド型の展望台があり、公園内はきれいに整備されている。夜になれば格好のデートスポットになるのであろうか。
 目の前にはフェリーターミナルがあり、大型フェリーが停泊している。仙台港からは、太平洋フェリーが名古屋と苫小牧へ就航しているのだ。太平洋フェリーは名古屋に本社を置く海運会社で、基本的には名古屋から苫小牧を結ぶフェリーが仙台に寄港するダイヤになっている。わざわざ仙台に寄港するのは需要があるからには違いないが、太平洋フェリーも宮城交通と同様に名古屋鉄道グループに帰属していることが影響しているような気がする。仙台は名古屋鉄道の勢力圏なのだ。
 「仙台港みなと公園」を後にし、中野栄の隣駅である多賀城駅に向かう。再び仙台臨海鉄道の踏切を渡る。今度はJR東北本線の陸前山王−仙台北港間を結ぶ臨海本線の踏切だ。臨海本線は多賀城海軍工廠(たがじょうかいぐんこうしょう)の専用線の路盤の一部を用いている。多賀城海軍工廠は、1942年(昭和17年)に海軍の銃器・火薬類の生産増大のために建設された軍需工場で、日本最大級の規模であったという。学徒動員により旧制中学校の生徒ら約13,000人が、タコ部屋労働によって艦上戦闘機「零戦」の機銃や弾薬等の製造を行っていたという。現在の陸上自衛隊多賀城駐屯地も多賀城海軍工廠の跡地を利用したものである。
 しばらく歩くと前方に小さな城郭が目に入る。一瞬、多賀城だと錯覚しかけたが、すぐに誤りに気付く。多賀城は戦国時代に築城された城郭ではなく、多賀城は、724年(神亀元年)に大野東人が蝦夷に対する軍事拠点として築いたものに過ぎない。塩釜丘陵上にあったとされる多賀城には、陸奥国府と鎮守府が置かれた。周囲は城柵で囲まれ、櫓で周囲を監視していたと伝えられる。発掘調査によれば、1,000メートルの長さと900メートルの幅を持つ壮大な城塞であったということだ。したがって、前方の城郭は、多賀城を複製したというわけでもなさそうだ。地図にも記載されていないので、城郭に興味津々であったが、やがて城郭の正体がパチンコ屋であることが判明し、がっかりする。多賀城という地名を活かしたアイデアで、我々のように興味を示す人もいるだろうから、広告効果は絶大であろう。
 国道45号線の八幡交差点で信号待ちをしていると、向かいの歩道で中学生ぐらいの女の子が自転車を治している。どうやらチェーンが外れてしまったらしい。
「助けてあげなよ!新しい恋が芽生えるかもよ!」
鈴木クンが茶化す。しかし、自転車のチェーンの修理など素人が容易に修理できるものではない。しかも、そんな言葉を掛けてしまったら、自転車が修理できるまで面倒をみなければならなくなる。今日の行程にも支障を来しかねない。
「自転車のチェーンなんて簡単には直せないよ。直せるなら助けてあげれば?」
鈴木クンに言葉を返す。
「いや、さすがに道具がないと直せないから…」
結局、自転車のチェーンの修理に悪戦苦闘している女の子の脇を素通りしてしまう。近所に住んでいる子だろうし、チェーンが直らなくても自転車を引いて家に帰れば済むことだろうし、得体のしれない高校生3人に囲まれる方が却って迷惑ではなかろうか。
 多賀城駅に出ると、仙台湾と塩竈湾を区分するかのように突き出た七ヶ浜半島へ向かう宮城交通バスもあるのだが、次のバスは9時45分までない。1時間以上の待ち時間になるうえ、帰りのバスの時間も定かではない。佐藤クン待望の松島はすぐ目の前だし、七ヶ浜半島で1日を費やしてしまうことが懸念される。塩竈から松島湾を航行する観光船や塩竈市営船に乗れば、七ヶ浜半島を海上から眺めることができるので、思い切ってショートカットすることにしよう。
 多賀城から8時45分発の仙石線東塩釜行き843S普通列車で3駅の本塩釜へ。仙石線の仙台−石巻間は30分に1本の割合でしか列車はないが、仙台−東塩釜間には区間列車があるので、15分に1本の割合になる。
 本塩釜到着は定刻の8時52分。行政上の表記は「塩竈市」であるが、駅名はすべて「塩釜」と略字体を用いている。本塩釜は松島観光の玄関口である。843Sからの下車客にも観光客の姿がちらほら。本塩釜には観光桟橋があり、松島湾遊覧の観光船が発着しているのだ。我々も観光桟橋に向かうのだが、次の遊覧船の出航時刻は9時なので、急がなければならない。3年前に松島へやって来たときも、やはり本塩釜から遊覧船に乗った。当時の記憶を呼び戻しながら仙石線の高架下をくぐり抜け、塩竈港沿いの道路を走って観光桟橋へ向かう。
 クーポン券を差し出して出航間際の遊覧船に乗ろうとすると、係員から窓口で乗船券に引き換えるように指示がある。我々が今回の旅のために用意したのは、「仙台・松島ミニ周遊券」であるが、周遊指定地への経由社線の乗車券をあらかじめ購入すれば、経由社線の乗車券が1割引となる特典があるのだ。佐藤クンが松島のために今回の外周旅行に参加した以上、松島湾の遊覧船は外せないポイントだったので、「仙台・松島ミニ周遊券」と一緒に購入してクーポン券化しておいたのだ。おかげで1,400円の乗船料が1,260円で済む。
 観光桟橋の目の前にある事務所の窓口でクーポン券を乗船券に引き換える。9時出航の遊覧コースは、丸文松島汽船の「芭蕉遊覧コース」。松島湾の遊覧船は、丸文松島汽船のほかにも、松島湾観光汽船、ニュー松島観光船の3社が松島観光船共同運行会というグループを形成して、共同運航をしているのだ。このうち、本塩釜−松島海岸の遊覧コースは、「芭蕉遊覧コース」のほか、松島湾観光汽船の「奥の細道周遊コース」も経由社線に含まれている。どちらも所要時間は50分で、同じようなコースをたどる。
第二芭蕉丸  今度はきちんと乗船券を提示して遊覧船に乗り込むと、丸文松島汽船の「第三芭蕉丸」はゆっくりと観光桟橋を出航した。1987年(昭和62年)4月に就航したばかりの比較的新しい船舶で総トン数129トン、定員300名と遊覧船にしては大きい。乗船客は20名程度で、冬休み中とはいえ、松島観光はやはりシーズンオフなのであろう。船室に入れば暖房が効いているのだが、せっかくの松島観光なので、寒さに耐えながらデッキに出て風景を楽しむ。
 松島には、松島という島があるわけではなく、松島湾内に浮かぶ島々の総称である。俗に808島と言われているが、実際は260島余りだ。松島丘陵の東端が沈降して、現在のような地形になったという。
 「第二芭蕉丸」は塩竈港を出ると、右手に七ヶ浜半島の断崖に位置する標高55.6メートルの多聞山が迫る。多聞山からの眺めは、松島四大観のひとつで、残念ながら船上からの眺めよりも、松島の島々を背景に塩竈港に出入りする船舶を望む多聞山からの眺めに軍配が上がる。
 多聞山の裏手には、東北電力の仙台火力発電所が現れた。3本の巨大な煙突が松島湾を見下ろしている。松島湾にはあまりにも不似合いな火力発電所で、せめて七ヶ浜半島の南側に建設できなかったのだろうか。
 仙台火力発電所の沖合で「第二芭蕉丸」は旋回し、仁王島をかすめる。波の浸食によって形成されたものであるが、仁王像というよりも、戦艦かスフィンクスを連想させる。仁王島だけではなく、松島湾内の島々にはすべて名前が付けられているそうだ。初めのうちは船内に流れる観光案内のテープアナウンスに耳を傾けていたが、次第に億劫になって聞き流す。
 大藻根島と小藻根島の間をすり抜けた「第二芭蕉丸」は、櫃ヶ浦沖合の島々を縫うように航行する。洞門が4つもある鐘島は、自然の傑作だ。鐘島に大波が打ち寄せると、まるで鐘を打ったように聞こえるとのこと。
 松島海岸には予定よりも5分早い9時45分に着岸する。普段なら5分程度の早着は気にならないが、遊覧船で所要時間が短縮されるとなんだか損した気分になる。
 松島海岸の周辺には観光名所が目白押しだ。まずは、観光桟橋の正面から杉木立の参道が続く瑞厳寺に足を向ける。観光桟橋前の賑やかさとは対照的に、参道に足を踏み入れると静寂に包まれる。瑞巌寺は、828年(天長5年)に慈覚大師円仁によって開創された奥州随一の禅寺である。もともとは天台宗の総本山である延暦寺に由来し、延福寺と呼ばれていた。しかし、鎌倉時代中期に延福寺は執権の北条時頼によって滅ぼされてしまう。その後、法身禅師が臨済宗円福寺として開山。現在の瑞巌寺の正式名称も松島青龍山瑞巌円福禅寺という。北条時頼が延福寺を滅ぼした理由は諸説あり定かではない。延福寺の僧徒が北条時頼に対して反乱を起こしたとも、延福寺の僧徒の退廃を目にして、延福寺に兵を差し向けたとも伝えられる。いずれの説にも共通するのは法身禅師の進言があることで、臨済宗と天台宗の抗争が背景にあったようだ。
瑞巌寺  500円の拝観料を支払い、境内に入ると中年女性のガイドが客待ちをしていたが、我々には一切声を掛けて来ない。高校生を相手にしても、お客にならないと判断したのであろう。もちろん我々もお金を払ってまでガイドを付ける気はない。
 現在の瑞巌寺の本堂は、桃山時代の様式を伝える荘厳な建物である。1609年(慶長14年)に伊達政宗が5年の歳月を費やして完成させたものである。瑞巌寺は伊達家の菩提寺でもあったのだ。建築にあたっては、諸国から名工130人を招集し、建築材は紀州の熊野山中から取り寄せたという。それゆえに、本堂の唐戸や欄間、襖や床の間の豪華な絵画は、日本の自然美を代表する人工美の極致とされている。伊達政宗は、瑞巌寺だけではなく、塩竃神社、仙台大崎八幡宮、陸奥国分寺薬師堂の造営にも注力しており、信心深い戦国大名であったようだ。
 続いて足を運んだのは海辺にたたずむ「観瀾亭」。観瀾とは、さざ波を観るという意味で、松島湾を間近に望む「観瀾亭」は、正にさざ波を観る場所である。もともとは豊臣秀吉の伏見桃山城にあった茶室を伊達政宗が拝領して江戸の藩邸に移築。その後、2代仙台藩主の伊達忠宗がこの地に再移築した。当初は納涼観月の亭として「月見御殿」と呼ばれており、仙台藩の接待用の御仮屋御殿として利用された。「観蘭亭」と命名されたのは、5代藩主伊達吉村の時代であったという。外観は簡素な造りで、豊臣秀吉の茶室にしては質素なものだと思ったが、内装は対照的に豪華絢爛。床の間や襖、障子腰板には金箔が張り付けられており、桃山式極彩色で描かれた林木花卉と渓流の図がある。仙台藩絵師佐久間修理の作品で、国重要文化財に指定されている。しかし、豪華な内装は、時の権力者の権力の象徴でもあり、あまり好きにはなれない。
 「観瀾亭」に併設されている松島博物館には、伊達家伝来の什宝物や武具、装身具、化粧道具、書画が陳列されているようだが、時間の制約があるので思い切って割愛する。
 観光桟橋に戻れば「五大堂」が目に入る。松島を象徴する代表的な建築物だ。五大堂は、807年(大同2年)に征夷大将軍の坂上田村麻呂が毘沙門堂を建立。828年(天長5年)には、瑞巌寺を開山した慈覚大師円仁が大聖不動明王を中心に、東方降三世、西方大威徳、南方軍荼利、北方金剛夜叉の五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになったという。五大明王像は秘仏とされ、5代藩主伊達吉村が500年ぶりに開帳した1700年代以降、33年ごとに開帳されるという。次回は15年後の2006年(平成18年)の予定だ。
 足下の橋桁の隙間から海面が見える透かし橋を渡って「五大堂」へ。現存する建物は、1604年(慶長9年)に伊達政宗が創建したものと伝えられる。瑞巌寺本堂と同じく桃山様式の建築だ。五大堂の軒下の4面には、それぞれの方位に対する十二支の彫刻が施されていた。
 今度は気分を変えて「みちのく伊達正宗歴史館」へ赴く。ここも3年前にやって来た施設であるが、佐藤クンや鈴木クンをぜひ案内したい場所である。この「みちのく伊達正宗歴史館」には、等身大の蝋人形が展示されており、時代を過去にタイムスリップしたような錯覚に陥らせてくれる施設なのだ。もちろん、蝋人形に歴史的価値など認められないが、刀剣や甲冑を並べた資料館よりも、歴史を学ぶには都合がいい施設だと思う。もちろんメインは「伊達政宗公の生涯」で、5歳で天然痘にかかり右目を失明。独眼竜正宗との異名をとりながら、天下を青年期から徳川家に仕えて太平を願った晩年期まで、伊達政宗の劇的な生涯を学ぶ。
 他にも「みちのくの偉人達」というコーナーがあり、太宰治や宮沢賢治、石川啄木などの43体の等身大の蝋人形が都道府県別に並んでいた。ほとんどが故人であるが、鈴木善幸元内閣総理大臣のように、昨年政界を引退したばかりの蝋人形まである。財団法人日本国防協会の初代会長で、元衆議院議員の保科善四郎の蝋人形の前には、3日前の12月23日に他界したことを伝える手書きの貼り紙がなされている。もっとも、「みちのく偉人達」は、蝋人形を羅列しただけの展示物であまり感心できない。「伊達政宗公の生涯」と比較すると、ストーリー性にも欠け、面白味がないのだ。
 「みちのく伊達正宗歴史館」の出口は土産物屋になっていた。観光施設にはよくあるパターンであるが、伊達政宗の湯呑や扇子、幟などが並べられている。土産物屋に立ち寄る機会はあまり取れそうにないので、しばらくフリータイムとし、私も友人への土産を買い求め、宅配便で発送した。
 今度は松島湾に浮かぶ福浦島を目指す。五大堂の北東に位置する福浦島は、6ヘクタールの小さな島であり、現在は自然公園となっているが、歴史的因縁の残された島だ。瑞巌寺が天台宗延福寺から臨済宗円福寺に生まれ変わったことは先に述べたが、北条時頼の襲撃を受けた延福寺の宗徒は福浦島に逃れる。そして、福浦島に護摩壇を築いた宗徒は、普賢堂閣円を中心に北条時頼と年齢を記した木札を100枚用意し、呪詛を始めたという。しかし、隔離された福浦島では食糧を確保することが難しく、宗徒は次第に餓死していく。そして、最後まで生き残った普賢堂閣円も、最後の1枚となる木札を火中に投げ込み、「時頼の身命をたちどころに奪い賜わんことを!」と言い残して絶命したという。
 150円の通行料を支払って、福浦橋を渡る。通行料という名目であるが、実際は福浦島の自然公園の維持管理費も含まれているのであろう。全長252メートルの朱塗りの福浦橋は、松島湾でも目を惹く存在である。
 島内は赤松、杉などの樹木に覆われており、遊歩道が整備されていた。現在の福浦島は呪詛とは無縁の存在である。福浦島に砂浜があったのは意外な発見だ。貝塚や福浦弁財天などを眺めて、20分少々で島内を一周。島内には売店もあったが、季節外れのためかシャッターを降ろしたままであった。
 松島海岸の最後のポイントは「松島タワー」である。「松島タワー」から松島海岸の情景を見渡そうという考えだ。「松島タワー」までは、高城川に架かる松島大橋を渡って20分近くかかった。
 高さ64メートルの「松島タワー」は、白い円柱状で、展望室の部分が2層になって赤く塗装されている。「ホテル壮観」の付属施設で、350円の展望券を購入すると、暇そうにしていたエレベータガールがすぐに我々を招き入れてくれた。「ホテル壮観」は東武鉄道系列の松島観光開発が経営しているとのこと。
 エレベータで展望室に運ばれると、周囲に視界を遮る高層建築物がないので見事な眺めだ。松島海岸も眼下に見渡すことができる。松島の景観を展望する目的で建設された「松島タワー」であるが、文化財保護委員会の認可を受けずに建設に着手したため、文化財保護法違反に問われ、物議を醸した。結局は、当初計画の高さ90メートルを64メートルに変更して、1964年(昭和39年)の開業に漕ぎ付けたという。
 エレベータは我々を展望室に残したまま下に戻ってしまう。帰りは呼び出しボタンを押して迎えに来てもらうシステムだ。ボタンを押してからエレベータが迎えに来るまでの所要時間は約3分かかる旨の注意書きがある。展望室には先客はなく、我々の貸し切り状態だ。「松島タワー」のスタッフも誰もいないので、もしもエレベータが迎えに来てくれなければ、我々は完全に閉じ込められたことになる。
 「松島タワー」の展望室には、旧式のインベーダーゲーム機が備えてあり、松島を目当てにやってきた佐藤クンも景色に飽きてゲームに熱中し始めた。そろそろ退散しようとエレベータの呼び出しボタンを押す。ところが5分を過ぎてもエレベータはやって来る気配がない。エレベータが故障したのだろうか。午後の予定に差し支えるので参ったなと思っていたところにエレベータが到着。我々と入れ替わりに家族連れが展望室へ運ばれてきた。家族連れがエレベータに乗り込むのに手間がかかり、迎えが遅くなったのであろう。
 「松島タワー」からはJR仙石線の高城町駅が近い。松島海岸に背を向けて、県道27号線を歩き、仙石線の高架下をくぐったところで右手に曲がり、しばらく仙石線の線路沿いに歩く。周囲は松島町の市街地で、地図を確認すれば、高城町駅は東北本線の松島駅にも近い。JRでは、仙台以遠(東照宮・長町方面)から松島・松島海岸までの乗車券について、仙台−松島間・仙台−松島海岸間の選択乗車が認められており、松島駅と松島海岸駅が隣接していると錯覚しがちであるが、実際は松島駅と松島海岸駅は2キロ以上も離れている。一方で、松島駅と高城町駅は1キロぐらいしか離れておらず、選択乗車の仲間に高城町も入れて欲しいぐらいだ。
 高城町駅のキヨスクで、鈴木クンがスポーツ新聞を購入すると、プロ野球大洋ホエールズの中山裕章投手のプロ野球界からの永久追放を一面で報じている。小学生や幼稚園児などに対して、猥褻行為をした疑いで逮捕されたことが原因とされている。中山投手と言えば、高知商業で2度の甲子園に出場。1985年(昭和60年)にドラフト1位で大洋ホエールズに入団し、エースとして活躍している選手だ。1988年(昭和63年)のオールスター戦にも出場して、2戦連続で勝利投手となっている。中山投手が2軍で調整していたときに、平塚球場で中山投手からサインをもらったこともあり、応援をしていた選手だけに残念だ。
 高城町から12時24分の「快速うみかぜ10号」で本塩釜へ引き返す。逆行は外周旅行の趣旨に反するが、奥松島と呼ばれる浦戸諸島を無視するわけにはいかない。浦戸諸島への塩竈市営汽船は、本塩釜を拠点としているのだ。
 「快速うみかぜ10号」は、12時35分に本塩釜に到着。今朝と同様に慌ただしく桟橋を目指す。4時間前に訪問したばかりなので、桟橋までの道順はスムーズだ。
 今度は観光桟橋を素通りして、その奥にある塩竈市営汽船の桟橋へ。観光桟橋が手前にあるので、ほとんどの観光客は塩竈市営汽船の存在に気が付いていないのではなかろうか。
 出航直前の「うらと丸」のタラップで、船員に乗船券売り場を尋ねると、乗船券は船内で購入できるとのこと。そのまま「うらと丸」に乗り込む。総トン数89.36トン、定員295名と思ったよりも立派な船舶だ。
 「うらと丸」は13時ちょうどに出航。「うらと丸」は、松島湾に点在する桂島、野々島、寒風沢島、朴島の順に寄港していく。我々は船内で寒風沢島までの乗船券を購入した。経路から言えば、最初に寄港する桂島で下船するのが順当であるが、塩竈市営汽船のダイヤとの関係で、効率よく浦戸諸島を巡るためには順序を入れ替えて、行き戻りすることが必要だ。
 私は船に酔いやすい体質であるが、なぜか甲板で外気を吸っていれば船酔いはしない。今回も寒いのを覚悟で甲板に陣取ったが、真冬の海風は体の芯まで冷える。10分もすると寒さに耐えかねて船内に避難する。
 船内は地元の乗船客ばかりで観光客らしき姿は皆無である。乗客の全員が知り合いであるかのような雰囲気なので、我々は場違いのような感じだ。
 「うらと丸」は、塩竈から20分ほどで桂島の浦戸に立ち寄った後、石浜水道を渡って野々島へ。野々島を出航すると、再び対岸の桂島の石浜に寄港する。桂島には浦戸と石浜の2つの集落が形成されているのだ。「うらと丸」からは、寄港する度に荷物の積み下ろしが行われており、塩竈市営汽船には、島民の生活物資の運搬という重要な役目もあるようだ。
寒風沢島  「うらと丸」は13時50分に寒風沢島桟橋に接岸した。周囲13.5キロ、面積1.45平方キロの寒風沢島は浦戸諸島の中で最も大きい島である。江戸時代は仙台藩の江戸廻米の港として多くの千石船が来航し繁栄をみせていたそうだ。沿岸には仙台藩の砲台跡が残っており、仙台藩にとって海上交通の要所であったことが講じられていたことが伺える。
 寒風沢島には、浦戸諸島を見渡せる日和山展望台があり、その近くには十二支方角石やしばり地蔵といった遺跡や文化財も残されている。十二支方角石は、天保年間より天体観測や出入り船の警戒に使用していた直径45センチの方位石。しばり地蔵は、かつては寒風沢島にも遊郭があり、遊女たちが男たちの船出を止めようと、地蔵を荒縄で縛って逆風を祈願したと伝えられている。いずれも寒風沢島の繁栄を伝えるものだ。
 せっかく寒風沢島へやって来たのだから、日和山展望台には足を運びたいと考えていたのだが、我々が寒風沢島に滞在できる時間はわずかに20分。観光案内標識を見ても、桟橋から日和山展望台までは1キロもないと思われるのだが、さすがに20分では日和山展望台までの往復は難しい。だからといって、桟橋で貴重な20分も過ごしてしまうのは悔しく、桟橋に最も近い場所に記されていた「寒風沢造艦の碑」を足早に目指す。
 桟橋から5分少々で「寒風沢造艦の碑」にたどり着く。想像以上に大きな石碑で、見上げなければならない。「寒風沢造艦の碑」は、黒船でペリー提督が浦賀に来航した後に、仙台藩が造船技師である三浦乾也を招き、日本で初めて鋼鉄製の西洋軍艦「開成丸」をこの寒風沢島で建造したことを記念して、島民や関係者によって建てられた石碑である。「開成丸」は、1856年(安政3年)に起工し、翌年に完成している。全長33メートル、幅8メートル、高さ32メートルの軍艦で、進水式には第13代仙台藩主の伊達慶邦をはじめ、諸藩の重役らが多数参列したそうだ。
 目の前には寒風沢水道を挟んで野々島が横たわっており、塩竈桟橋で入手した「浦戸諸島観光ガイド」によれば、不定期の渡船があるようだ。渡船を利用すれば効率的な旅ができるのだが、周囲を見回しても渡船の案内などなく、渡船が運航している気配もない。地元の人だけが知っていればいいことなので、案内は不要ということだろうか。不定期便などを宛てにして、寒風沢島に取り残されても困るので、当初の予定どおり塩竈市営汽船を駆使して浦戸諸島めぐりを続ける。
 桟橋に戻って14時10分発の塩竈行きに乗り込むと、先程の「うらと丸」であった。「うらと丸」は我々を寒風沢島で降ろした後に朴島を往復。行きと同じように浦戸諸島の各地に寄港しながら塩竈を目指していく。
 今度の乗船時間はわずかに10分なので、船内には入らずに甲板で過ごす。寒風沢島から桂島の石浜までの一帯は、戊辰戦争の際に榎本武揚や土方歳三らが率いる幕府艦隊が投錨したとこであり、五稜郭へ向かうための兵士の集結地であったという。今回の旅に出るまで浦戸諸島のことなど何も知らなかった。歴史に思いを馳せていると、目の前に石浜の集落が現れた。
 桂島は、周囲6.8キロ、面積0.76平方キロと、島の大きさでは寒風沢島に次ぐが、人口は浦戸諸島で最も多く、寒風沢島の2倍にあたる約500人が生活をしている。東西に長い桂島には、東側の石浜と西側の浦戸に集落が形成されており、塩竈市営汽船も双方の集落に寄港する。それならば、石浜から浦戸まで歩いて、今度は浦戸から塩竈市営汽船に乗れば都合が良い。石浜から浦戸までは2キロ程度なので、歩いても1時間はかからないであろう。
 石浜には浦戸諸島唯一の浦戸郵便局があるので、もちろん旅行貯金に立ち寄る。郵便局の入口の前には小さな子どもが入口の前で両手を横に広げて通せんぼをする。
「中に入りたいから通してもらえる?」
優しく頼んでみたつもりだが、無言のまま首を振る。困っていたところに、郵便局で用事を終えた母親が現れて「こら!駄目じゃない!」と子どもの手を引く。無事に浦戸郵便局で旅行貯金を済ませることができた。
 浦戸までの道路は桂島の尾根に沿って通じている。石浜集落を抜けると道路脇には限られたスペースに畑が耕されており、さらにその先には松島湾が広がる。右を見ても左を見ても海が望めるのだ。
桂島  石浜から浦戸までの道のりの半ばまで来ると浦戸第二小学校があった。双方の集落から子どもたちが通うことを配慮して、双方の集落の中間地点に小学校を造ったのであろう。もともとは寒風沢島にある浦戸第一小学校の分校扱いであったが、1953年(昭和28年)6月に独立した小学校となっている。寒風沢島の過疎化も影響し、かつての本校であった浦戸第一小学校よりも、現在ではこの浦戸第二小学校が浦戸諸島を代表する小学校になっているようだ。もっとも、冬休み中のため、小学校の校庭には人影がない。
 浦戸集落に入って、松崎神社へ足を運ぶ。浦戸集落の高台にある社叢に覆われた小さな神社だ。神社の裏手に回って社叢を抜けると断崖の上に出た。白崎山展望台だ。浦戸諸島を一望することができる場所で、午前中にたどった松島海岸も確認できる。
 周辺を公園として整備工事中の浦戸桟橋にたどり着いたが、野々島へ向かう塩竈市営汽船まで時間がある。じっとしていても寒いだけなので、待合室に荷物を置いて、周辺を散策してみる。もっとも、浦戸集落周辺にある観光名所は展望台ぐらいしかなく、杉林を抜けたところにあった西の山展望台、仁王島を伺う観月山展望台を踏破すると見るべきものもなくなった。
 浦戸集落にある「内海商店」でパンとコーヒーを購入し、待合室に戻って遅い昼食とする。少々物足りなさを感じたので、再び「内海商店」に戻って食料を調達しようとするとふいに声が掛かる。
「おい!さっきからウロウロしているな。何をしているんだ!ちょっと来い!」
桟橋近くの浦戸駐在所の駐在員に咎められる。観光客の姿もない真冬の桂島に見慣れない顔があったので不審に思ったのであろう。何もやましいことはしていないが、警察官に職務質問をされたのは初めての経験なのでうろたえる。
「市営汽船の時刻まで時間があるので、暇つぶしに周辺を散歩していただけです」
「大学生か?」
「いいえ、高校生です」
そう答えると、駐在員は私の年齢が想像していたよりも若いことに驚き、にわかに穏やかな表情になった。
「今日は寒いだろう。まずは駐在所の中に入りなさい」
好意なのか、取り調べのためか判らないが、小さな島では逃げても無駄なのでおとなしく駐在員に従う。駐在所には石油ストーブが焚かれており、確かに暖かい。
「どこから来た?」
「神奈川県です」
再び駐在員は驚いた顔をする。てっきり仙台あたりからやって来たと思っていたようだ。
「高校生だけでこんなところまで来ているのか?保護者が同伴していないのなら校則違反だろう?」
校則違反と言われてビクッとするが、正直なところ校則なんて読んだことがないので、違反かどうかと問われてもわからない。
「両親の許可は得ています。校則には、身だしなみについては規定されていますけど、それ以外のことは何も書かれていません」
両親の許可を得ていることを強調し、校則についてはとりあえず否定するしかない。だいたい神奈川県の高校の校則を桂島の駐在員が知っているはずもないのだ。
「やっぱり首都圏の学校は違うね。この辺りだと、高校でも宿泊を伴うときは、保護者同伴なんて校則がある学校も多いよ」
校則についてはそれ以上の追及はなく安心する。氏名と年齢、学校名の確認に続いて、桂島にやって来た理由を問われる。
「奥松島がどんなところが気になって、今日と明日ですべての島に行ってみようと思っています。今日も寒風沢島から石浜に来て、ここまで歩いて来ました」
「冬の浦戸に来ても何もないだろう。せっかく来るなら夏に来なければいかん。海水浴ができるからね。今度は夏に嫁さんを連れて来なさい。事前に駐在所に問い合わせてもらえれば、良い民宿を紹介するよ」
お土産にと地元で養殖した海苔をいただく。浦戸諸島は海苔の養殖が盛んなのだ。最初は不審者として声を掛けられたが、どうやら話をしているうちに健全な観光客と認識してもらえたようだ。しかし、校則の件は気掛かりだったので、後で自宅に連絡して、母親から駐在所に電話を入れてもらった。これで駐在員が学校に問い合わせたりすることもないだろう。
 待合室に戻ると、佐藤クンと鈴木クンがなかなか戻って来ない私を心配してくれていたので、駐在所での職務質問について告白する。
「風貌が怪しいからだよ!密入国者と間違えられたんじゃない?」
鈴木クンが笑いながら言う。日本海沿岸に密入国者が現れるとは聞いたことがあるが、太平洋にも不審船はやって来るのだろうか。
 15時55分の塩竈市営汽船で野々島へ向かう。今度も「うらと丸」で、塩竈−朴島間をピストン輸送しているようだ。今度も乗船時間はわずかに10分である。
 野々島は周囲8.9キロ、面積0.56平方キロで、浦戸諸島の中央に位置する。野々島には、密貿易を行い巨額の富を蓄えたという内海長者伝説が残されており、その屋敷跡や倉庫として掘られた洞窟が島内各地に残っているという。冒険家が宝探しにやって来そうな島だ。
 野々島桟橋に降り立つと、冬の日差しはだいぶ傾いてきた。残すはこの野々島と朴島だけであるが、朴島には宿泊施設はないので、泊まるのであれば野々島しかあるまい。公衆電話を探し求めていると、桟橋近くの「浦戸諸島開発総合センター」の館内に公衆電話があると地元の人が教えてくれた。
 「浦戸諸島開発総合センター」の公衆電話を借りて、鈴木クンが島内にある4軒の民宿に電話をする。「民宿臨海荘」、「民宿野々島屋」、「民宿みなと屋」とことごとく休業中との返事が返って来る。季節外れの飛び込み客など相手にしたくないのが本音であろう。最後の「民宿さざなみ荘」に電話をすると、子どもが出て、かなり長い時間待たされた挙句、再び子どもが出て「今日は満室です」とのこと。観光客の姿なんかどこにもなく、満室なわけがない。素直に休業中と言えばいいものを、子どもに嘘を付かせて客を断るとはひどい民宿だ。
「本当はここにも泊まれるのだけど、今日は誰もいなくなってしまうのよ」
「浦戸諸島開発総合センター」の管理人は申し訳なさそうに言う。「浦戸諸島開発総合センター」は塩竈市の研修施設で、集会場や研修室を備えているが、宿泊研修にも対応できるように宿泊施設が備えられているとのこと。夜間の利用者がいなければ、管理人は日中で引き上げてしまうようで、事前に申し込んでおけば宿泊できたのかもしれない。
 残された手段は桂島で民宿を探すか、塩竃まで戻るかである。試しに2、3軒ほど桂島の民宿にも電話をしてみたが、やはり休業中の返事が続く。次の16時55分の便が最終の塩釜行きで、仮に桂島で下船して泊まれる民宿が見付からなければ、真冬の東北で野宿を強いられることになる。待合室があるので、風雨は凌げるがやはり野宿は避けたい。それに駐在員に野宿をしているのが見付かれば、今度こそ本当に補導されてしまうかもしれない。桂島には浦戸に18軒、石浜に4軒の民宿があるので、どこかで泊めてもらえるのではないかという期待もあるが、無難に塩竃まで戻ることにする。
 民宿を手配するための電話に時間を取られてしまい、我々が野々島に滞在できる時間は限られたものになってしまった。島内を散策する余裕もなく、野々島漁港と周辺の集落をひとまわりして野々島を後にする。
 16時55分発の「うらと丸」に乗り込み、今回はすぐに船内に陣取る。日が傾いて寒さが増してきたことに加え、なんとなく浦戸で駐在員と顔を会わせたくなかったのだ。悪いことはしていないが、逃亡者のような心境になる。
 塩竃に到着すると、時刻は17時30分。周囲はもう暗くなっている。とりあえず、本塩釜駅まで出て、今宵の宿探しの続きを行う。昨夜と同様に駅構内に広告看板を出していた「菊泉旅館」を佐藤クンが見付けて、駅前の公衆電話から予約を試みる。本来は素泊まり4,000円の宿であったが、交渉の結果3,500円で受け入れてもらえた。旅のビギナーである佐藤クンだが、旅館の価格交渉ができるなら立派なものだ。
 「菊泉旅館」は本塩釜駅から徒歩5分のところにあった。1階が「菊泉寿し」となっており、旅館は寿司屋の2階になっていた。案内された部屋は最近改装されたばかりなのかきれいな部屋で、部屋にはお茶受けのお菓子まで用意されていた。女将さんも善意の人で、支払いの段階で値引きしてもらった宿泊費を更に値引きしてくれ、3人で10,000円になった。浦戸諸島では散々な目にあったが、「菊泉旅館」での余りある厚遇に感謝する。今は貧乏な高校生に過ぎないが、自分で稼げるようになったら今度は「菊泉寿し」で寿司を摘まもうと思う。
 風呂に入ると疲れが一気に出て来た。持参した万歩計を確認すると、5桁の万歩計が1巡している。今日だけで10万歩以上を歩いたことになる。それほど歩いたという意識はなかったのだが、地図を眺めながら今日の行程を振り返ると、知らず知らずのうちに歩いているものである。布団に入るとすぐに眠りに付くことができた。

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