覚えておきたい時事問題

第13日 富岡−仙台

1991年12月25日(水) 参加者:佐藤・鈴木

第13日行程  3年連続で12月25日のクリスマスは旅先で過ごすことになった。前回の外周旅行は9人の大世帯で統制がとれず、空中分解という憂き目を招いたので、今回は一転して3名の小世帯となる。
 今回のメンバーのひとりは、外周旅行の常連となった鈴木クン。前回、JR常磐線の泉駅からの離脱組で、しばらくは外周旅行にも顔を出さないだろうと、あえて声を掛けなかったのだが、鈴木クンから「今年の冬は外周旅行に行かないの?」と電話が掛かって来た。旅先では文句が出ても、喉元過ぎれば熱さを忘れるとはよく言ったもので、終わってみればそれなりに思い出が残り、もう一度参加してみようと思うのが外周旅行である。
 もうひとりは、高校の同級生である佐藤大志クンだ。正直なところ、旅行を通じては佐藤クンとはまったくの接点がなかった。佐藤クンは、特段に旅行に興味があるわけでもなく、これまでほとんど旅行に出掛けたことすらないという。その佐藤クンが外周旅行に参加するきっかけとなったのは日本三景のひとつである松島に対する憧れがあったからに他ならない。松尾芭蕉の「おくのほそ道」の旅は、松島に対する憧憬が、その着想の大きな要因となったと伝えられている。しかし、「おくのほそ道」では、松島の句が一切詠まれていない。これは、松島の絶景を目の当たりにして、感動のあまり俳句が読めなかったとも伝えられている。「景にあうては唖す」(絶景の前では黙して語らず)とも言われている。佐藤クンならずとも、こんな話を聞けば、松島がどんなところであるか実際に見てみたいという衝動に駆られるのは、自然の成り行きであろう。残念ながら、私は1989年(昭和64年)1月3日に仙石線や石巻線の初乗りに出掛けた折に、松島を訪問してしまったので、佐藤クンのように新鮮な気持ちにはなれない。できる限り松島に関する余計なことはしゃべらずにいようと思う。
 日暮里から6時06分発の425M普通列車で水戸まで先行した後、3分の待ち合わせで8時10分発の「スーパーひたち3号」に乗り換え。「スーパーひたち3号」は、1989年(平成元年)3月11日に登場したJR東日本が初めて開発した特急車両である651系で、在来線では最速となる時速130キロ運転を行っている。国鉄車両とは一線を画した斬新なデザインで、白を基調とし、大きな窓が特徴だ。先頭車両のヘッドマークも電光板で表示されており、未来型特急と呼ぶにふさわしい。グリーン車には、インアーム収納式の液晶テレビがすべての座席に配置されているらしいが、我々が乗車したのは普通車自由席なので、目にすることはできなかった。
 終点の平から2分の待ち合わせで9時22分発の仙台行き241M普通列車に乗り継ぐ。今回のスタート地点となる富岡のホームに降り立ったのは、10時ちょうどのことだった。東北地方入りしてアプローチが長くなり、当日に自宅を出発するのも今回が最後になろう。次回からはいよいよ夜行列車の起用となろう。
 富岡駅には、部活動に向かうと思われる制服姿の女子高生がおり、見慣れぬ我々に冷たい視線が注がれる。富岡駅の乗降客は、普段は顔見知りの人しかいないのだろうか。 富岡駅は市街地から少し離れた場所にあり、ひっそりとしている。駅前には1台のタクシーが客待ちをしているが、利用客は現れず、運転手も暇そうにしている。
 駅前にあった富岡町の案内板を眺めていると、富岡の観光名所として子安観音堂と「東京電力エネルギー館」が紹介されていた。
 富岡川の河口にある子安観音堂は、慈母観音、子持ち観音とも呼ばれる子安観世音菩薩の座像を祀る。大同年間(806年〜810年)に徳一太師が開山したと伝えられ、正福寺子安観音ともいう。昔、にわかに産気付いた妊婦が一心に路傍にあった観音像に祈ったところ、安産したことから、観音像を子安観音と命名して堂を建立したという。しかし、子安観音は富岡町の郊外にあるため、時間が掛かりそうだ。
 一方の「東京電力エネルギー館」は、福島第二原子力発電所の完成を記念して、1988年(昭和63年)7月に完成した施設である。アインシュタイン、エジソン、キュリー夫人の生家をモデルにした西洋風の建物が並び、原子力発電所や原子燃料サイクルに関する展示があるという。前回の旅で日本原子力研究所東海研究所の「原子力センター」を素通りしてしまったこともあり、子安観音よりも興味が湧く。しかも、「東京電力エネルギー館」は富岡町の市街地にあるので、そのままバスで先に進むこともできるだろう。
 富岡駅前と国道6号線を結ぶ県道163号線をたどる。通常は駅から離れるに連れて寂しくなるものだが、富岡町の市街地に向かっているので次第にお店も増えてきて賑やかになる。富岡駅から15分も坂道を歩けば、小浜交差点で国道6号線と合流する。小浜交差点から国道6号線を5分少々北上したところに目指す「東京電力エネルギー館」はあった。
 広大な駐車場を構えた「東京電力エネルギー館」であるが、閑散としており嫌な予感がする。入口の前まで行くと案の定、閉館していた。開館時間は9時から16時30分までで、休館日は毎月第3月曜日と年末年始なっている。この定義によれば、今日は開館しているはずなのだが、早めに年末年始の休館に入ったのであろうか。
 やむを得ず「東京電力エネルギー館」の見学は諦めて、近くにあった警察署前停留所から浪江駅行きの常磐交通自動車バスに乗る。バスはすぐに常磐線の高架下をくぐる。常磐線の富岡駅は市街地の外れに位置しているが、常磐線自体は富岡町の市街地を横切るように通じている。どうせなら富岡駅を市街地に引っ越したら良さそうなものだが、投資に見合うだけの利用客が望めないのであろう。
 浪江駅行きのバスは停留所の間隔が長く、停留所を通過するごとに運賃表の数字が跳ね上がる。まるでタクシーにでも乗っているかのようだ。おかげで景色よりも運賃表が気になって仕方がない。
 バスは三角屋交差点で左折し、国道6号線と別れて大熊町の中心地へ向かう。再び常磐線と交差したので我々は大野駅前で下車した。運賃は560円と朝か物入りであるが、運転手から1,000円の回数券を購入して、3人で100円分の運賃を節約する。
 停留所名は大野駅前であるが、商店街の真ん中に停留所があり、肝心な駅が見当たらない。地図を広げながら周囲をきょろきょろしていると、スーパーの買い物袋をぶら下げたおばさんが見兼ねて声を掛けてくれる。
「あんたらどこへ行きたいの?」
「大野駅です。今、バスでやって来たばかりなのですが、どこに駅があるのか判らないもので・・・」
私が答えるとおばさんは近くの路地を指差す。
「駅ならそこを曲がりなさい。すぐに駅があるから」
おばさんに礼を述べて、示された路地を曲がると、商店街の裏手のようなところに橋上駅舎の大野駅があった。1987年(昭和62年)に完成したばかりの新駅舎で、都会的なデザインになっている。行政区は大熊町であるが、大熊ではなく、大野を名乗っているのは旧村名である大野村に由来する。1903年(明治36年)に駅の誘致を村会で決議した大野村は、当時の年間予算の2倍に相当する2,775円で土地を購入し、自らの予算で大野駅を設置したのであった。安易に大野の駅名を捨てられないのはそんな背景があるからかもしれない。
 大野駅の場所を確認した後、駅から徒歩15分のところにある「福島県原子力センター」に足を向ける。この大熊町も東京電力福島第一原子力発電所の1号機から4号機までが立地する原子力の町なのだ。
 「福島県原子力センター」の入口で来館者名簿を記入する。我々が本日最初の来館者である。「東京電力エネルギー館」と比較すると、役所のような雰囲気で、広報活動の施設というよりも、事務所の一角に展示室が間借りしているような雰囲気だ。「福島県原子力センター」の主な業務は、原子力発電に関する広報活動の他に、原子力発電所の周辺地域における環境放射能の監視測定や安全対策、放射性降下物の調査と多義に渡る。いずれも地域住民の安全を担保するために必要不可欠な業務であり、こうした情報を逐次提供することが住民の原子力に対する不安を取り除くことになるのであろう。
 2階にある展示室では、模型やクイズを通じて原子力発電の安全性をアピールしていた。危険なイメージが付きまとう原子力発電であるが、関東大震災の3倍の強さの地震にも十分耐えられる固い岩盤の上に建設されていることや放射線漏れを防止するために鉄板やコンクリートで隔離されていることなど、安全性について十分な配慮がなされていることが伝わってくる。今年の夏以来、原子力発電所に縁のある地域の旅を続けて、ようやく原子力発電について学ぶ機会に恵まれ、勉強になった。
 大野駅に戻ると、ちょうど11時46分発の仙台行き245M普通列車がやって来た。相馬まで58分間の列車の旅となる。前回、これだけの乗車時間を確保できれば空中分解を招かずに済んだかもしれない。
 245Mは原町市の玄関口である原ノ町で8分間の停車。常磐線もこの区間は単線であるため、原ノ町で長時間停車する列車は多い。そのためかホームの売店には駅弁が充実している。時刻は12時をまわっており、昼食は駅弁でもよかったのだけど、佐藤クンと鈴木クンはあまり気乗りしない様子。旅は始まったばかりなので、節約を優先する。
 佐藤クンと鈴木クンを車内に残して駅前に出てみると、相馬野馬追(そうまのまおい)像が目に入る。相馬野馬追は、毎年7月23日から25日までの3日間に渡って開催される祭事で、先祖伝来の甲冑を身に付けた騎馬武者が相馬中村神社から出陣、雲雀ヶ原にて古式甲冑競馬や神旗争奪戦が繰り広げられている。1978年(昭和53年)5月22日に国の重要無形民俗文化財に指定され、東北六大祭りのひとつとして紹介されている。今年の夏は仙台七夕祭りを見学することすら叶わなかったが、相馬野馬追もぜひ1度はのぞいてみたい祭りである。
松川浦  245Mは定刻の12時44分に相馬に到着した。今年の夏は水害で常磐線のダイヤが乱れ、散々な目にあったが、今日はダイヤ通りの運行状況で安心する。
 改札口を抜けて駅前に出ると、相馬駅の駅舎が和風調であることに気付く。瓦屋根が美しく、江戸時代には相馬藩6万石の城下町として栄えた気品さえ伝わってくる。
 相馬駅からは松川浦・原釜へジェイアールバス東北の路線バスが出ている。国鉄分割民営化により一旦はJR東日本へ引き継がれたものの、翌1988年(昭和63年)4月1日にJR東日本から東北自動車部が分離独立してジェイアールバス東北となった。 時刻表の路線図には、循環運転のように記されているが、実際は築港道を扇の要としてY字運転が行われており、南へ向かえば松川浦、北へ向かえば原釜にたどり着く。松川浦から原釜までは、距離にして1キロ少々であるため、それならば松川浦まで行き、海沿いを歩いて原釜まで北上。原釜から再びバスに乗って相馬駅に戻って来ることにしよう。
 相馬駅前12時48分のバスに乗り込む。やはり運転手から1,000円の回数券を購入し、3人で100円の運賃を節約する。
 相馬駅前を発車したバスは、南へ大きく迂回して常磐線の線路を跨ぎ、県道38号線をたどって松川浦を目指す。相馬駅は内陸に向かって駅を構えているので、海岸側はいわゆる駅裏に当たるが、国道6号線も通じており、意外に賑やかである。相馬駅もいずれ海岸側にも改札口が設置されるのではなかろうか。
 松川浦には相馬駅から15分で到着。運賃の280円は少々割高感がある。バス停はポールではなく、木製の看板で、「JRバス松川浦」と白字で書かれ、その脇に時刻表が貼り付けられていた。
 周囲は旅館や民宿、土産物屋が並んでいるが、シャッターを降ろしている店舗も多く、ひっそりとしている。冬場に訪れる観光客など皆無に近いのであろう。
 松川浦は、砂州により太平洋と隔てられた南北5キロ、東西3キロの細長い潟湖である。古くは「万葉集」の東歌に「松が浦に さわゑうら立ち まひとごと 思ほすなもろ 我がもほのすも」と詠まれた名勝地で、江戸時代には中村藩の遊休所にもなっていた。湖畔に立てば、大小の島や岩が点在しており、風光明媚な風景は小松島とも評されている。数多くの竹竿が垂直に林立しているのは海苔の養殖場であるとのこと。海苔の他にもアサリの養殖が行われており、春から夏にかけて潮干狩りが行われるそうだ。
 松川浦と太平洋を結ぶ浦口に向かえば、すぐ目の前に砂州の先端に当たる鵜の尾岬が横たわる。砂州には道路も通じており、迂回すれば鵜の尾岬にも立てるのであるが、10キロ以上も移動しなければならない。現在、浦口に架かる全長520メートルの松川浦大橋を建設中であり、この橋が完成すれば、松川浦をぐるりと周遊することができるようになり、新たな観光名所となるだろう。
 松川浦から原釜尾浜海水浴場を経て相馬港に出ると、自然に恵まれた松川浦とは対照的に周囲は一転して工業地帯の装いとなる。相馬港は福島県の物流の拠点でもあるようだ。すぐ近くには相馬共同火力新地発電所の煙突が見える。相馬共同火力新地発電所は、東北電力と東京電力の共同出資により設立された発電所で、石炭火力による発電を行っているという。福島県北部の太平洋沿岸はまさに発電所のメッカだ。
相馬港  相馬駅行きのバスの時間まで余裕があったので、松川浦との分岐点となる築港道方面に向かって歩き、東京有機化学前停留所から14時52分発のジェイアールバスを捕まえる。相馬駅での乗り継ぎ時間は11分と余裕があるものの、15時近くになってもバスは姿を現さない。15時になってもこなかったらタクシーを手配するしかないと思っているところへ、7分遅れのバスがやってきた。佐藤クンと鈴木クンには、相馬駅に着いたら走るので、運賃と周遊券をあらかじめ手元に用意しておくように促す。
 バスが相馬駅に到着する前から運転手の脇にスタンバイして、ドアが開くと同時に運賃箱へ小銭を放り込み、改札口へ走る。後ろに佐藤クンと鈴木クンが続いていることを確認しながらホームへ出ると、ちょうど15時16分発の仙台行き251M普通列車が入線して来るとことであった。
 251Mに乗れば外周旅行の舞台は福島県から宮城県に移る。常磐線に頼っていささか掛け足気味ではあるが、塩屋埼と松川浦のポイントは押さえたので、成果としては十分であろう。
 新地−坂元間で県境を越えて宮城県へ。15時47分の亘理に降り立つと、周囲は少し薄暗くなっている。冬場の旅は日照時間が短いので少々損した気分になる。亘理駅前からは16時16分発の鳥の海ホーム行きの宮城交通バスに乗り継ぐが、冬の東北は夜が早い。周囲が真っ暗になってしまう前に、この辺りで今宵の宿を確保した方が良さそうだ。鳥の海には、「国民保養センター鳥の海荘」があるので、鈴木クンが公衆電話に向かう。しかし、受話器を置いた鈴木クンは首を横に振る。年末年始に入る前の平日だというのに満室との返事。忘年会の予約でも入っているのだろうか。電話帳を頼りに他の宿泊先を探すが、鳥の海どころか、亘理での宿泊施設は少なく、手頃な宿泊先が見付からない。結局、バスの時刻が迫り、宿泊先が決まらない状態でバスに乗り込む。
 亘理で下車したのは、阿武隈川河口の南側に位置し、古代の阿武隈川旧河口跡が堆積によって堰き止められてできた鳥の海に立ち寄るためだ。鳥の海は、内湾状の汽水湖で、周囲6.8キロ、総面積1.3平方キロの大きさは、仙台湾沿いに散在する湖沼群の中では最大となる。鳥の海と名付けられるだけあって、野鳥の生息地としても有名で、かつては仙台藩の伊達家の狩場にもなっていたそうだ。現在はバードウォッチングの名所として愛鳥家に知られている。
 宮城交通バスは白と赤を基調とした車体で、名古屋鉄道が経営に参加していることから名鉄カラー仕様となっている。16時16分の鳥の海ホーム行きは、パートや学校帰りの乗客で賑わう。この次の17時30分の便から19時05分の便まで概ね30分間隔のダイヤとなっており、仙台圏に入ったことを実感する。
 バスは小まめに停車して乗客を降ろしていく。周囲はすっかり闇に包まれ、これでは鳥の海へ行ったところで何も見えないだろう。仕方なく鳥の海は諦め。亘理大橋に近い荒浜小学校前で下車した。阿武隈川を渡り、岩沼市に入れば、岩沼駅に出るバスや宿泊施設があるだろうと考えたのである。
 街灯もほとんどない真っ暗な住宅街の路地を抜けると、阿武隈川の堤防に出た。そのまま堤防沿いの道を歩いて行くと、川口神社という河口にふさわしい神社があった。神社で無事に岩沼へ出て、今宵の宿が見付かるように祈る。
 亘理大橋の袂まで歩くと、明神橋停留所を発見した。ところが、真っ暗で時刻表や行き先が確認できない。誰も灯りを持っていなかったので、鈴木クンが近くの家に懐中電灯を借りに行った。しばらくすると、懐中電灯の代わりにバスの時刻を教えてもらったと言って鈴木クンが戻って来る。
「次のバスが最終で、18時48分の岩沼駅行きだってさ!」
時刻は17時40分。地図によれば、亘理大橋を渡ったところにも納屋停留所があり、できれば海岸線に近い阿武隈川の対岸をたどりたいのであるが、納屋からのバスについては未確認で、既に最終のバスが出た後かもしれない。納屋まで行って、バスがなければ再び明神橋に戻って来る余地もあるが、今から亘理大橋を往復していては、18時48分のバスに乗り遅れる可能性もある。
「ここで待とうよ。対岸に渡ったところで岩沼駅に行くのに変わりないのだし、これだけ暗くなってしまっては、どちらも同じだよ!」
佐藤クンの意見はもっともである。素直に明神橋で18時48分の岩沼駅行きのバスを待ち、バスがやって来た時には運転手に見落とされないように大きく手を振って合図を送った。
 岩沼駅行きも宮城交通バスである。バスは亘理大橋を素通りして、しばらく闇に包まれた地方道を走り、やがて交通量の多い国道6号線に合流する。国道6号線に入ると街灯も増えてホッとした。亘理大橋よりも1つ上流に位置する阿武隈橋を渡り、岩沼市街地に入る。活気のある岩沼駅に到着すると、佐藤クンや鈴木クンも安心したようだ。
 岩沼から19時34分発の145Mに乗り込むと、黒磯始発の東北本線を走ってきた列車であった。通勤・通学ラッシュとは反対方向に向かう列車なので、車内は比較的空いている。
 館腰で仙台空港の文字を発見し、館腰駅が仙台空港への最寄り駅であることを知る。地図を見れば、館腰駅から1キロぐらいのところに仙台空港の滑走路がある。ターミナルビルまでは滑走路を回り込まなければならないので、3キロ少々離れているが、タクシーに乗れば10分も掛からないであろう。館腰駅は、仙台空港へのアクセスを図るために設置された駅とのことで、それならば最初から仙台空港を名乗れば良かったと思うのだが、1985年(昭和60年)4月22日の開業当初は、国鉄としても航空機へ乗客を差し出すような駅名にはしたくなかったのかもしれない。
 終点の仙台には19時53分に到着。さすがに今宵は仙台泊まりだ。どうせ市内に泊まるのであれば、明日の行程を考えて、仙石線の沿線が望ましい。とりあえず、仙台港に近い中野栄まで行ってみることにする。
 地下道を通り抜けて居候のような場所にある仙石線のホームに向かう。仙石線はもともと1925年(大正14年)6月5日に宮城電気鉄道が仙台−西塩釜間を開業したことに始まる。その後、1928年(昭和3年)11月22日に石巻まで全通。1944年(昭和19年)5月1日に戦時買収により国有化された。そんな歴史的経緯もあり、ホームが他のJR線と離れた特殊な位置関係にあるばかりか、東北本線や仙山線が交流電化であるのに対して、仙石線だけは直流電流となっている。
 仙台20時14分発の東塩釜行き2041Sは、首都圏から転用された水色の103系電車。ロングシートのいわゆる通勤型車両で、京浜東北線に乗っているかのような錯覚に陥る。仙台のビル街を走り出したかと思えばすぐに沿線は住宅街に変わる。杜の都仙台といえば人口93万人、東北一の大都市であるが、経済規模は首都圏と比較するとまだまだ発展途上の都市であるようだ。
 20時31分の中野栄で下車すると、駅前には国道45号線が通じているだけで、見渡す限り宿泊施設などありそうにない。駅前にあった「ファミリーマート中野栄駅前店」で店員に相談してみるが、首を傾げるだけで有益な情報は得られなかった。もう少し仙台市内の中心へ戻った方がいいかもしれないと駅に引き返すと、佐藤クンが「旅館高砂センター」の広告を発見する。試しに鈴木クンが電話をすると、素泊まり3,300円で予約が成立した。高砂を名乗るからには、中野栄のひとつ仙台寄りの陸前高砂に近いのであろう。それでも、中野栄の駅近くに宿泊施設が見付からないのであれば、隣の駅でも御の字だ。場所を確認すると、陸前高砂と中野栄の中間辺りにあるようなので、それならば列車を利用するよりも歩いた方が早い。
 中野栄駅から15分ほど歩いたところに「旅館高砂センター」はあった。「ゆ」のマークの看板が掲げられており、旅館だけではなく銭湯も兼業しているようだ。案内された部屋は民宿のようで、石油ストーブが備えられている。まずは冷えた体を温めようと浴場に向かえば、銭湯利用者とは別に宿泊者専用の浴場が備えられており、大きな浴槽でゆっくりと入浴することができた。
 入れ替わりに佐藤クンが浴場に向かい、私は布団にもぐりながらテレビ朝日系列で放送している刑事ドラマ「さすらい刑事旅情編W」を見入る。鎌倉を舞台にした作品で、旅先で地元近くの情景をテレビで目にするのも妙な気分だ。
番組が終わっても佐藤クンが戻って来ないので、浴場へ様子を見に行くと、話好きのおじいさんと一緒になってしまったとかで、脱衣場でのぼせてひっくり返っていた。旅慣れていない佐藤クンにとっては、とんだ1日だったのではなかろうか。

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