スルーしない確かな目

第12日 北茨城−富岡

1991年8月7日(水) 参加者:安部・安藤・池田・倉田・鈴木・野地・本多・柳田

第12日行程  JR常磐線磯原駅近くの「割烹旅館さらしな」を早朝6時30分に出発する。昨夜、野地クンと柳田クンは同じ旅館に宿泊していた金髪のヤンキー兄ちゃんに6時半に出発するなら、出掛けに起こしてくれと頼まれたとかで、依頼主の部屋へ向かった。しばらくすると、2人が安堵した顔で戻って来る。先方も既に起きていたそうで、無事に大役を務め終えたとのこと。2人ともとんだ災難に見舞われたものである。
 小雨の降る中、国道6号線を徒歩で北上する。左手には常磐線のレールが寄り添い、右手には大北川が流れる。本日、最初の目的は北大川の河口にある天妃山だ。旅館から15分も歩けば右手に松の木に覆われた小高い丘が目に入る。
 天妃山の標高はわずかに21.2メートル。茨城県で2番目に低い山として知られる。ちなみに茨城県で最も低い山は、標高19.4メートルの東海村にある天神山だ。まずは天妃山に登ろうと歩きだすと、ほとんどのメンバーは近くにある「セブンイレブン天妃山店」に吸い込まれてしまう。「先に天妃山に行くぞ!」と声を張り上げても聞く耳を持たない。無理に連れ出しても仕方がないので、安藤クンと2人だけで天妃山登山を試みる。
 登山といっても、階段まで整備されているので、登り始めてから頂上に立つまで5分と掛からない。天妃山には、弟橘媛(おとたちばなひめ)神社という小さな神社があった。もともとこの地には薬師如来が祀られていたが、1690年(元禄3年)に徳川光圀が薬師如来を松山寺に移し、磯原大津の海の守護神として天妃神を祀った。その後、1831年(天保2年)に徳川齋昭が日本武尊の妃弟橘姫命を海陸の守護神として、天妃神と合祀したという。
 弟橘媛神社を参拝していると、我々を追いかけるようにして本多クンがやって来た。
「どこに行くのかと思ったら、こんなところに神社があったんだね」
「神社だけじゃないよ!ここは天妃山という立派な山なんだから!」
本多クンに、決して小さな神社を参拝しに来ただけではないことを強調して説明する。  我々も「セブンイレブン天妃山店」に戻り、朝食の確保をする。天妃山へ行かなかったメンバーは各々が朝食を既に確保していた。
「今までどこに行ってたん?」
安部クンからとぼけた質問が出る。
「どうせここからバスに乗るんでしょう?だったら磯原駅から乗ればいいじゃないか!」
倉田クンが不機嫌そうに吐き捨てる。天妃山のことなどまるで眼中になかったらしい。「先に天妃山へ行くぞ!」と誘ったのに、勝手にセブンイレブンに居座ったのではないかと思いつつ、天妃山についての説明をする。
「ええ!そんな名所があるなら、きちんと教えてくれたらよかったのに!」
残念そうにしたのは柳田クンのみで、他のメンバーは天妃山にまったく興味を示さなかった。
 「セブンイレブン天妃山店」の向かいにある天妃入口停留所から7時21分発の大津港駅行きの日立電鉄バスに乗り込む。バスは磯原海岸に沿って国道6号線を北上。大小2つの岩が並ぶ二ッ島を眺めて、大津港に近い大津西町で降車ボタンを押す。
 「降りるところをあらかじめ教えろよ!」
バスから降りると倉田クンがすごい剣幕だ。
「最初から降りる停留所がわかっていたら教えているよ!バスは鉄道のようにあらかじめ時刻表や路線図が入手できないから仕方がないだろう!今だって、このバスでどこまで行けるのか判らなかったんだから!」
私が言い返すと、鈴木クンが仲裁に入る。
「いや、さっきのバスの運転手に最初から運賃を用意しておけと怒鳴られたんだよ」
私は最初に下車してしまったので気が付かなかったが、9人の下車に時間が掛かり、運転手がイライラしたようだ。日頃からバスを利用している常連客なら運賃を把握しているかもしれないが、我々のような旅行者は、下車する停留所の直前になって初めて運賃表の表示によって運賃を知ることになるのだ。しかも、安全のため、両替はバスが停車中に行うように呼び掛けているのはバス会社である。日立電鉄バスの運転手の態度は明らかに問題である。ただし、倉田クンの怒りも本来は日立電鉄へ向けるべきではないか。
 大津西町からは五浦(いづら)行きのバスに乗り継ぐ予定であったが、停留所を探していると浜諏訪停留所という別の停留所に出てしまった。大津西町の次の停留所まで歩いてしまったようである。時刻表を確認すると、次のバスまで30分少々の待ち合わせ。五浦までは2キロ程度で、普段であれば歩いているところだが、五浦から先は、平潟まで4キロ近く歩かなければならないので体力温存を優先した。
 倉田クンや鈴木クンは疲れたと言って停留所のベンチに座り込んでしまうが、30分もバスを待ち続けているのも芸がない。幸いにも雨は止んでいる。大津漁港周辺を散策していると、高台にある金刀比羅神社が気になったので足を向ける。金刀比羅神社を名乗るからには、香川県の金刀比羅宮に縁があるのであろう。神社へ続く階段が、金刀比羅宮の象徴である1,368段の石段を連想させる。
「神社へ行くのかい?荷物が大変だろう。うちの物置でよければ、荷物を置いていきな」
長い石段を見上げていると、近くで農作業をしていたおじいさんから声が掛かる。荷物はバス停に置いていきたかったのだが、ベンチは留守番組が占拠しているし、地面は今朝の雨で濡れていたのでやむを得ず担いで来たのだ。有難くおじいさんの言葉に甘えて、荷物を物置に置かせてもらう。
 石段を登り切ったところにあった金刀比羅神社は小振りなものに過ぎなかったが、境内からの眺めは大津漁港から磯原海岸、天妃山を見渡せるものであった。雨上がりなので空も澄み切っており清々しい。しばらく境内で憩い、バスの時間を見計らって石段を下る。
 荷物を受け取ってバス停に戻ると、野地クンがバッグの中をごそごそしている。聞けば先に立ち寄った「セブンイレブン天妃山店」に折り畳み傘を忘れてきたらしい。今なら回収することも十分に可能であるが、わざわざ折り畳み傘を取りに戻るよりも、新しいものを購入した方が経済的であるとして、野地クンは折り畳み傘を放棄した。注意力が散漫になっている証拠なので、私も注意しなければならない。
 浜諏訪から8時08分の日立電鉄バスで、終点の五浦へ出る。歩けば30分も掛かる距離だが、バスに乗ってしまえば5分程度で呆気ない。
 五浦周辺には、立派な「五浦観光ホテル」が構えており、観光地の装いであるが、夏休み期間中だというのに我々の他に観光客の姿がなく、ひっそりとしている。まだ、朝が早いからかもしれない。
 まずは五浦海岸を代表する六角堂を目指す。六角堂は、日本美術院の創始者である岡倉天心が1885年(明治18年)に建築した小堂である。岡倉天心が尊敬していた中国の詩人杜甫の草堂に倣って、六角形に設計したとのこと。岡倉天心は六角堂で読書や瞑想、時には釣りを楽しんだという。ところが、六角堂は、茨城大学五浦美術文化研究所の敷地内にあり、部外者が勝手に出入りすることはできない。研究所の開館時間は9時30分からとなっており、1時間以上も待たなければならない。六角堂が見学できなければ観光客の姿がないのも当然だ。五浦海岸まで来て六角堂を見学しないのも悔しいが、時間のロスが大きいので先へ進むことにする。
 五浦海岸から平潟まではバスがなく、4キロ近くの歩きを覚悟しなければならない。茨城大学五浦美術文化研究所から10分少々歩くと、天心遺跡記念公園があったので小休憩。なるべく不平不満を減らすためのスローペースだ。
 「さすが美を追求するところだね。公園の手入れも行き届いているよ」
安藤クンが感心する。天心遺跡記念公園は、日本美術院第一部五浦研究所跡地を整備して1980年(昭和55年)11月8日に一般公開された公園だ。しかし、管理主体は行政ではなく、岡倉家から寄贈を受けた財団法人日本ナショナルトラストである。財団法人日本ナショナルトラストは、市民参加による自然景観や貴重な文化財、歴史的環境の保全に努めているボランティア団体で、善意だけで公園の維持管理が行き届いているのは立派。
 「なんや。さっさと行きよって。岡倉天心の墓は見て行かへんかったんか?」
天心遺跡記念公園を散策していると、後からやって来た安部クンが声を上げる。茨城大学五浦美術文化研究所の斜め向かいに岡倉天心の墓があったらしい。六角堂にばかり気を取られて、反対側に岡倉天心の墓があったとは気が付かなかった。1913年(大正12年)9月2日に新潟県の赤倉温泉で永眠した岡倉天心の遺骨は、東京都豊島区の染井霊園に納骨されたが、遺言によって五浦に分骨されたとのこと。六角堂に加えて、もうひとつの観光ポイントを見落としたのは失態であった。
 メンバー全員が天心遺跡記念公園までやって来たことを確認してから、再び平潟に向けて出発。ところが、公園から珍客が我々に同行する。
「ほら、ヘケケ!こっちだよ!」
安藤クンが変な名前を付けて手招きするのは野良犬だ。餌を与えているわけでもないのに我々の後に付いて来る。首輪をしていないので野良犬決め付けたが、吠えたりせず、おとなしい。もしかしたら、この辺の住民の飼い犬で、放し飼いにしているのかもしれない。「ヘケケ」は我々の中では一躍アイドル的存在となり、あちこちで「ヘケケ!」と声が掛かる。それにしても「ヘケケ」なんて間抜けな名前をどうして付けたのだろうか。名付け親の安藤クンに尋ねてみても、なんとなく「ヘケケ」が似合いそうだからとのこと。まあ、「ヘケケ」と名付けられたことで親近感が湧いたのも事実である。
 しばらく海岸線沿いの道路を歩いていると、「風船爆弾放流地跡わすれじ平和の碑」という碑文が目に入る。この辺一帯は1944年(昭和19年)11月から1945年(昭和20年)4月の間、アメリカ本土に向けて風船爆弾を放流させた地であるとのこと。風船爆弾は、極秘の「ふ」号作戦と呼ばれ、放流地は他に福島県の勿来関麓、千葉県の一の宮海岸であったという。風船という言葉から縁日で売られているガス風船を連想してしまったが、実際は和紙とこんにゃく糊で作った直径10メートルもの気球であったとのこと。それでも、和紙の気球がアメリカ本土まで届くはずがないだろうと思ったのだが、約9,000個の放流した風船爆弾のうち、約300個がアメリカ本土に届いたという。もっとも、アメリカ本土では山火事や送電線を切断するなどの被害が生じたものの、戦局には影響がなかったという。
平潟港  やがて道路は海岸に別れを告げて平潟集落に入って行く。単なる漁港の町としか思っていなかったのだが、集落には民宿や旅館が目に付く。平潟港で水揚げされるアンコウやウニ、アワビを食べさせる民宿や旅館が古くから栄えていたようだ。残念ながら高校生の予算では手が出ない代物だから無縁だ。
 五浦から1時間少々で平潟港に出ると、平潟入口停留所を発見。「ヘケケ」のおかげで和やかな雰囲気で歩き通すことができた。次のバスまで30分近くあり、安藤クンと本多クンは引き続き「ヘケケ」と戯れている。
 「ここの旅館のトイレは面白いよ!」
バス停の前で時刻表を広げ、今後の行程を検討していると鈴木クンが妙なことを言う。近くに公衆トイレがなかったので、停留所の正面にある「旅館保養館」のトイレを借りたところ、面白い発見があったというのだ。
「とりあえず、トイレ貸してくださいって行けばいいの!」
柳田クンにも背中を押されて、安部クンや野地クンと一緒に「旅館保養館」へ向かう。  「旅館保養館」の玄関先で女将さんが近所の人と雑談をしていたので声を掛ける。 「すみません。こちらのトイレが珍しいと伺ったので、ちょっと見学させてもらえませんか?」
「ああ、さっきの仲間の方ですね。どうぞ。どうぞ。もうお客さんもいないから、旅館内をいろいろ見学していってください。写真を撮っても構いませんよ。見学を希望される方も時々いらっしゃるのですよ」
女将さんは雑談を打ち切って、我々を案内してくれる。最初はやはりトイレで、小便器が筒状の形をしていて珍しい。もちろん、陶器の水洗トイレなのであるが、竹をモチーフにしており風情がある。
「客室も江戸時代の造りを維持しているのですよ」
今度は囲炉裏のある部屋へ我々を案内しながら女将さんは誇り気に言う。ただし、実際には江戸時代の造りをモチーフにしているだけであるため、文化的な価値は皆無で、純粋に宿泊客が風情を楽しむための演出である。しかし、観光で宿泊するだけなら、風情が楽しめて快適に過ごせるのに超したことはない。女将さんに礼を述べて「旅館保養館」を後にする。将来、アンコウ鍋をつつけるような身分になったら「旅館保養館」に泊まってみよう。
 平潟入口10時05分発の勿来駅行きの常磐交通自動車バスに乗り込むと、五浦から我々と一緒に旅をしてきた「ヘケケ」ともお別れ。安藤クンや本多クンがバスの最後尾の窓越しに「ヘケケ〜!!」と叫びながら手を振るが、さすがにバスを追い掛けてまでは来ない。「ヘケケ」はまた五浦の集落へ1匹寂しく戻って行くのであろう。
 バスは平潟入口を出発するとすぐに福島県に入った。外周旅行もようやく舞台を関東地方から東北地方に移す。再び関東地方に戻って来る時はゴール目前になってからだ。
 さて、勿来と言えば、白河関、念種関とともに「奥州三関」のひとつである勿来関(なこそのせき)があった場所だ。いや、厳密には勿来関の場所は現在も不明である。しかし、江戸時代になると、現在のいわき市勿来町を統治していた磐城平藩は、勿来関跡の整備事業に努め、現在では勿来町が名実ともに勿来関跡になっている。平潟入口から3停留所目が関入口で、勿来関跡への最寄りの停留所となる。大津西町でのことがあるので、メンバーに早々に下車する旨を伝えるが、反応はよろしくない。
「勿来関に何があるの?関跡というからには、今は関がないんでしょう。だったらそんなところへ行かなくていいよ!」
安藤クンが投げやりなことを言いだす。そもそも現代に現役の関所など残っているはずがないではないか。しかし、安藤クンの屁理屈に他のメンバーも同調するのだから始末が悪い。強硬に下車しても良かったのだが、勿来関跡は関入口から少々高台に位置し、500メートルほどの山登りを強いられることから不平不満は確実である。やむを得ず関入口の停留所を乗り過ごす。それにしても「なこそ」とはよく言ったものだ。古文で「禁止」の意味の両面接辞「な〜そ」に、「来」(カ行変格活用)の未然形である「こ」が入り、「なこそ」となる。つまり「来るな」という意味なのだ。私には勿来関から「来るな」と言われたような気がしてならない結果となった。
 バスは国道6号線を北上。勿来海水浴場にはビーチパラソルが建ち並ぶ。天候はすっかり回復し、夏の日差しが戻って来た。不安定な天候が数日続いたので、海水浴客も待ちわびたように海へ繰り出しているのだろう。
 勿来駅での接続は良く、10時17分の平行き637M普通列車に乗り継ぐことができた。637Mのシートに腰を落ち着けると、さすがに快適だ。このまま平へ行ってしまいたい気もするが、手前には外周旅行では無視できない塩屋埼が控えている。JR時刻表にもバスの路線図が示されており、勿来関は譲れても塩屋埼を譲ることはできない。10時28分の泉で下車すると、池田クンや倉田クンはドアが閉まる直前まで腰を上げないのだから困ったものだ。
 泉駅前で塩屋埼へ向かうバスの時刻を調べていると、すぐに不平不満が出て来た。
「またバスに乗るの?もう止めようよ!」
倉田クンが不機嫌そうに言う。しかし、今度はバスで平に向かうのではなく、塩屋埼という、きちんとした目的があるのだ。
「塩屋埼にさえ立てれば、その後は平へ出て、そのまま仙台に向うことは約束しよう。だけど塩屋埼まで省略することはできない。塩屋埼まではバスがあるし、もう何キロも歩くようなことはないよ。塩屋埼は時刻表にも掲載されている観光地だから、何もないなんてことはないよ」
今日は8月8日。外周旅行の終了後、仙台へ出て、日本三大七夕として知られる七夕祭に繰り出そうという計画になっていたのだ。しかし、倉田クンは塩屋埼に何があるんだという顔をしたままだ。
「ほな、仙台で合流ということにしようや。塩屋埼へは行きたい人だけ行けばいいやん。行きとうない人はここから仙台に直行するということでどうや?」
安部クンが真面目な顔で提案する。このまま塩屋埼へ行っても不平不満を募らせるだけだろうから、安部クンの意見を受け入れることにした。
「よし、わかった。今から塩屋埼を周って平駅に出ると、乗れる列車は平13時32分発の251Mだ。251Mの仙台到着は16時16分だから、16時20分に仙台駅の新幹線改札口で待ち合わせをしよう」
新幹線の改札口を指定したのは、在来線の改札口は複数あって混乱を来す可能性があったからだ。安部クンと倉田クンが引率するように離脱組を先導していく。今日中に横須賀の自宅へ帰らなければならないという池田クンがここで離脱するのはともかく、前回、九十九里浜を共にした鈴木クンと柳田クンも離脱組なのは心外。野地クンは迷った挙句、離脱組の後を追いかけた。一方、バス乗り場に残ったのは安藤クンと本多クン。本多クンはともかく、安藤クンが残ったのは意外だ。勿来関の屁理屈を唱え、倉田クンと共同戦線を張っていたのではなかったのか。
「うん。まあ、ここまで外周旅行に参加していて、途中で投げ出してしまうのも納得がいかなくてねぇ」
照れくさそうに答える。そういう性格だから、安藤クンは、これからも文句を言いながらとことん外周旅行に付き合ってくれるだろう。
 泉駅前からのバスも常磐交通自動車の路線だ。10時52分発のバスに乗り込み、3人体制で塩屋埼を目指す。通常、バスは駅から離れるに連れて、次第に閑散とした地帯を走るようになるものだが、このバスに至っては次第に周囲が賑やかになってくる。旧磐城市の市街地である小名浜が近付いているのだ。小名浜は、元々港町として漁業が栄えていたところであるが、周辺には臨海工業地帯が形成され、東北を代表する産業地域に成長している。
 いわき市内を流れる藤原川を渡ったバスは、やがて福島臨海鉄道の線路を跨ぐ。福島臨海鉄道は、泉−小名浜間を結ぶ貨物専業鉄道で、1972年(昭和47年)9月30日までは、旅客営業も行っていた。小名浜の活況を考えれば、常磐線へのアクセス鉄道としての生き残りも可能であったのではないかと思われるが、逆に貨物の取扱量が増えて、旅客営業にまで手が回らなくなったのかもしれない。やがてバスは小名浜駅という旅客営業の名残りのような停留所に停車した。もちろん、現在の小名浜駅は貨物専用駅である。
 バスは江名の集落を抜けると県道15号線から外れて狭い道に入り込む。塩屋埼の付け根の部分を横切り、豊間集落にあった灯台入口で下車。通り掛かりのおばさんに塩屋埼灯台までの道順を確認して、海岸沿いの県道382号線をたどる。澄み切った青空が広がり、海はコバルトブルーに輝いている。最初は海岸に出ても塩屋埼灯台は確認できなかったが、緩やかなカーブを曲がると左手に断崖が現れ、その上に建つ白亜の灯台が目に入った。
 灯台入口から15分ほど歩いて、塩屋埼灯台の麓まで来ると、塩屋埼停留所のポールが立っている。塩屋埼まで乗り入れるバスがあるとは知らなかった。帰りの足として利用できないかと思ったが、時刻表を確認して淡い期待は消える。海水浴客の便宜を図るために夏季期間だけ、平駅から朝夕に1往復が設定されているのみであったのだ。
 「あ〜疲れた!ねえねえ、灯台に登る前に少し涼んでいこうよ!」
本多クンが灯台へ通じる階段の手前に店を構える「岬売店」を指差す。本当は先に灯台へ登ってからと言いたかったけれど、わざわざ塩屋埼へ付き合ってくれた本多クンの意見を尊重して、店内のテーブル席に座って「かき氷」を注文する。もちろん店内に冷房なんて効いていないが、浜風が吹き抜けるようになっており、日陰に居れば涼しくて気持ちがいい。
 「かき氷」を食べ終えて一息つくと、灯台に登るのが億劫になってきたが、ここで引き返しては離脱組と一緒になってしまう。荷物を店内に置かせてもらって、灯台を目指す。
塩屋埼灯台  灯台の麓まで小高い丘を登ると、嬉しいことに塩屋埼灯台は内部見学ができるようになっていた。今まで訪れた野島埼灯台や犬吠埼灯台も見学が可能な灯台であったが、業務の都合により見学できなかったのだ。100円のチケットを購入すると、塩屋埼灯台の写真がデザインされた半券には、「塩屋埼灯台見学記念」とあり、裏面には灯台の概要が記されていた。
 初点灯は1899年(明治32年)12月15日、高さは24メートルとなっている。当初は煉瓦石造であったが、1938年(昭和13年)11月5日の福島県沖地震で倒壊。1940年(昭和15年)3月30日に鉄筋コンクリート造で再建したものの、太平洋戦争で破壊され、灯台機能を喪失した。三度、塩屋埼灯台が蘇ったのは、1950年(昭和25年)4月7日のことである。その後、1957年(昭和32年)に松竹映画「喜びも悲しみも幾年月」が公開されると、塩屋埼灯台は一躍脚光を浴びることになる。「喜びも悲しみも幾年月」は、灯台職員とその家族の人生の哀歓を描いた作品であったが、当時の塩屋埼灯台長であった田中績・きよ夫妻をモデルにしたものだったのだ。もちろん、塩屋埼灯台も映画に登場している。
 灯台の螺旋階段を登っていると、次第に目が回ってくる。ふらふらになって展望所にたどり着くが、灯台からの眺めは見事だ。高さ50メートルの断崖の上に灯台が建っているのだから、高さは70メートル以上になる。沖合には岩礁が目立ち、やはり早くから灯台が建設されただけあって、この地も海上交通の難所であるようだ。
 「うわぁ〜安藤クン。もしかして怖いの?」
本多クンが、灯台の壁面にぴったりと背中を付けて、前に出ようとしない安藤クンをからかう。
「うるせえなぁ!落ちそうになっても助けてやんないぞ!」
威勢はいいが、態勢を変えようとしない安藤クンを無理やり引っ張りだして記念撮影を決行する。
 灯台から下りて来ると、灯台を望むような場所に「雲雀乃苑」という小さな公園があった。敷地内には、美空ひばりの「みだれ髪」の歌碑と遺影碑が建っている。美空ひばりが、1987年(昭和62年)10月、最後のレコーディングした「みだれ髪」には、塩屋埼が歌い込まれていたことが縁になっているようだ。もっとも、「みだれ髪」を作詞したのは作詞家の星野哲郎であり、美空ひばりはこの地に立ったことがあるのだろうか。
 薄磯海岸沿いの道路を灯台入口まで引き返す。灯台でゆっくりし過ぎたのでバスの時間までぎりぎりになってしまった。灯台入口停留所にたどり着いたのは12時14分。ちょうど、バスの発車時刻だ。しかし、周囲を見回してもバスの姿はない。念のため、バス停の前にある雑貨店のおばさんに確認してみると、まだバスは来ていないという返事で安心する。
 湯本から7分遅れでやって来たバスは、部活動帰りの中学生で混雑していた。中学生達の話題はもっぱら七夕祭についてだ。仙台と同様にいわきでも8月7日が七夕になっており、数万人が訪れる大規模なお祭りになっているようだ。私の地元である平塚では7月7日であるため、8月7日が七夕と言われてもピンと来ないが、七夕が7月と8月に分かれたのは、明治改暦が影響しているらしい。本来は旧暦の7月7日の夜が七夕だったのだ。
 バスはしばらく田園地帯を走り抜けると、次第にいわき市の市街地に入って行く。いわき市は、1966年(昭和41年)10月1日に新産業都市建設促進法により、5市4町5村という異例の大規模合併が行われたため、市街地が市内に散逸している。小名浜は旧磐城市、平は旧平市に属していた。JR常磐線の駅名が「いわき」ではなく、「平」を名乗っているのも旧市名に由来する。
 市街地で七夕祭に影響すると思われる渋滞に巻き込まれ、バスが平駅前に到着したのは定刻の12時50分を10分以上も遅れた13時過ぎだった。それでも、平13時32分発の251Mまで20分以上の時間があったので、旅行貯金に当てる。時間的に余裕があるので3局ぐらいは周れそうだと考えていたが、郵便局は意外に混雑しており、平柳町郵便局、平新川町郵便局と旅行貯金をこなすとタイムアップ。最後は251Mに駆け込み乗車をする羽目になる。旅行貯金もほどほどにしなければならない。
 251Mも部活動帰りの高校生で混雑していた。灯台入口からのバスといい時間帯が悪い。もっとも、草野、四ツ倉と停車する度に、まとまった下車客があるので、仙台まで立ち続ける心配はなさそうだ。
 四ツ倉を出て、鞍掛山トンネルと抜けると、国道6号線が寄り添ってきて、その先には太平洋が広がる。常磐線もようやく外周路線の趣だ。平から4つ目の末続までがいわき市域で、いわき市はかなり広い。それもそのはずで、総面積1,231.34平方キロは、日本で最も広い市であるのだ。ちなみに日本で最も広い市町村は、北海道にある総面積1,408.09平方キロの足寄町である。
 広野で251Mの車内はがらりと空き、ここまでが一般的ないわき市の通勤通学圏であるようだ。広野火力発電所を右に見ると、次第に常磐線の車内から太平洋が離れて行く。今日の予定は251Mを仙台まで乗り通すことで変わらないが、そろそろ日本外周旅行としての解散地点を決めなければならない。地図を眺めていると、常磐線と国道6号線が絡み合うようにして北上しているが、富岡を過ぎたところで、常磐線は内陸に逃げ込み、国道6号線がまっすぐ北上して外周ルートになっている。国道であればバス路線ぐらいありそうだし、次回は富岡から仕切り直すのが良さそうだ。
 定刻の14時08分よりも5分ほど遅れて251Mは富岡に到着。しばらく停車するということなので、解散宣言をして、ホームに降り立つ。一部の「L特急ひたち」が停車するので、それなりの規模の町を想像していたが、駅前は寂しい限り。もっとも、次回、訪問した時には新たな発見があるかもしれないので、楽しみは先にとっておく。
 富岡で10分以上も停車した251Mは次第に遅れを増していく。車内放送では水害による遅れとのことだが、不通区間があるわけではなく、ダイヤが乱れて列車が数珠つなぎ状態になっているとのこと。首都圏では複々線の常磐線も、この辺りは単線なので、一旦ダイヤが乱れてしまうと復旧は極めて困難だ。それにしても、今日は朝方に少々雨が降ったものの、基本的には晴天であったはずだ。どこかで集中豪雨でもあったのだろうか。今年の天候は梅雨前線が不安定で局地的な豪雨をもたらしている。8月に入ったというのに梅雨明け宣言がされていないのだから異常気象だ。
 通り掛かった車掌に仙台到着時刻を確認すると、19時30分頃になるという。定刻よりも3時間以上も遅れることになり、仙台の七夕祭をゆっくり見学する時間はなさそうだ。
「これじゃあ仙台に着いても安部クンや野地クンに会えそうもないね」
本多クンが苦笑いをした。

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