家に帰るまでが旅行です

第11日 鉾田−北茨城

1991年8月7日(水) 参加者:安部・安藤・池田・倉田・鈴木・野地・本多・柳田

第11日行程  茨城県鹿島郡鉾田町にある「麻生屋旅館」で目覚めると、雨の音がする。昨夜から降り続く雨は、我々の期待とは反対に依然として降り続いている。昨日に続いて、雨中の旅を続けるしかなさそうだ。
 荷物を抱えてチェックアウトしようとすると、「麻生屋旅館」の旦那さんから声が掛かる。
「また、新鉾田駅まで行くのかい?だったら送ってあげるよ」
「いいえ。今日は鉾田駅までなので大丈夫です」
今日の最初のポイントは大洗。もちろん、新鉾田まで行き、鹿島臨海鉄道で大洗まで出ることも可能であるが、地図を確認すると、鹿島臨海鉄道では大洗までかなり内陸部を走ることになる。一方で、鉾田駅から大洗駅までの間には、茨城交通の路線バスも運行されており、こちらは海岸に近い国道51号線を走るので、外周旅行にふさわしい。
「よし、それなら鉾田駅まで送ってあげよう。近いといっても傘を差しながら歩いていては、荷物が濡れてしまうだろうから」
何度も固辞したが、女将さんも一緒になって「送ってもらいなさい」と言うので、お言葉に甘えて数百メートルの距離にある鉾田駅までワゴン車で送ってもらう。新鉾田駅まで迎えに来てもらったときは、女将さんの乗用車と2台体制だったが、すぐ近くの鉾田駅前だったので、寿司詰め状態だったが、なんとか8人がワゴン車に乗ることができた。
 鉾田駅前停留所は、趣のある駅前広場ではなく、県道8号線沿いにポールが設置されていた。茨城交通は関東鉄道グループに属さないので、駅前から爪弾きにされているのだろうか。
 まだシャッターの下りたままの商店の軒先を借りて雨宿りをしていると、鉾田駅前8時10分発の茨城交通バスがやって来た。バスは鉾田市街地で小まめに停車して乗客を拾っていく。鹿島臨海鉄道が開通しても、新鉾田駅は市街地の外れにあるため、バスの利便さを優先する人も多いのであろう。鉾田川を渡り、当然、新鉾田駅にも立ち寄るものと思ったが、バスは鉾田町役場を経て鹿島臨海鉄道の高架下を通り過ぎる。滝浜新田で国道51号線に出ると、鉄道なんて知りませんといった感じで大洗を目指す。
 国道51号線に入ると、バスは快調に走り出した。周囲には田園が広がり、高速道路に入ったかのようだ。窓ガラスを叩く雨粒が後方へ筋を描いて行く。旭村を抜けて大洗町に入るとようやく鹿島灘が視界に入る。
 バスは大洗の市街地をぐるりと周ってから大洗駅前に到着した。到着予定時刻は8時56分のはずであるが、腕時計を確認するとまだ8時50分。鉾田や旭からの乗客を大洗へ運ぶことが役目の路線とはいえ、路線バスが5分以上も早着していいのだろうか。大洗町内の移動にバスを利用する人もいたのではないだろうかと心配になる。
 鉾田からの運賃は790円と朝から物入りであった。
 鹿島臨海鉄道の本社も入居している大洗駅をのぞくと、鹿島臨海鉄道の拠点だけあって賑やかだ。待合室には水戸へ向かうと思われる地元の用務客や観光客の姿もある。大洗町は人口2万人の小さな港町に過ぎないが、水族館や海水浴場、北海道航路のフェリーターミナルを抱える観光の町として多くの観光客が訪れる。
 雨足は弱まったものの、依然として小雨が降り続く。持参した折り畳み傘を差して、大洗港を目指して歩く。やがて前方に大洗町のシンボル的な存在の大洗マリンタワーが現れる。港中央公園の敷地内に建つビルのような大洗マリンタワーは、1988年(昭和63年)10月に完成。本来の役割は灯台であるが、展望施設としての機能も併せ持っており、横浜マリンタワーと同じコンセプトだ。頂上までの高さは60メートル。あいにくの天候で眺望は期待できないが、昨日、潮騒はまなす公園の展望塔に登れなかったこともあり、ここで鹿島灘を眺めておくのも悪くはないだろう。310円の入館料を支払って、9時に開館したばかりの大洗マリンタワーに登る。
大洗マリンタワー  地上から55メートルの高さにある展望室は、円形ではなく、三角形になっていて面白い。天気が良ければ富士山や筑波山、那須の連山まで見渡せるとのことであるが、さすがに今日はどこを眺めても霞んでしまっている。唯一、眼下に広がる大洗港だけはしっかりと確認できた。
「外周旅行もここからフェリーに乗ってしまえば楽だよね」
安藤クンが隣接する大洗フェリーターミナルを眺めてつぶやく。ブルーハイウェイラインが苫小牧へ、東日本フェリーが室蘭への航路を受け持っており、毎晩、大洗フェリーターミナルを出航していく。外周旅行のルートとしては無理な注文だが、北海道へのアプローチとしては魅力のある航路だ。
 展望室の階下は「展望喫茶シーガル」となっていたが、午前中から喫茶店でくつろいでいては先に進めないのでパス。1階のエントランスホールまで降りると、海の展示コーナーがあり、海の歴史や未来の姿などをテーマにしたパネルが展示されていた。
 大洗マリンタワーを後にして、今度は大洗灯台を目指す。通常、灯台は岬の先端に設置されることが一般的であるが、地図を見ると大洗灯台は海岸に灯台マークが付いている。海岸沿いの県道2号線を歩いて行くと、やがて岩礁に建つ小振りの白い円形灯台が目に入った。しかし、灯台に近寄ろうとすると、「ホテルの私有地につき立ち入り禁止」の標識が掲げられている。海岸沿いに「大洗ホテル」があり、灯台前の海岸はプライベートビーチになっているようだ。
「あれが灯台なの?興醒めだね」
プライベートビーチにおもちゃのような灯台があるだけ。しかも、ホテルの宿泊客でなければ近寄れないとあれば、安藤クンならずとも捨て台詞を残したくなる。そもそも大洗灯台というのは通称で、衛式には磯浜灯柱という。灯柱とは、灯火を発する航路標識の中で灯籠を柱状のものに取り付けただけの簡易な標識をいうのだ。灯柱の定義を当てはめれば、磯浜灯柱は小振りとはいえ体裁は灯台とそっくりなので、灯柱としては立派な部類に入る。初点灯は1949年(昭和24年)12月。現在も現役で活躍しているのかは不明であるが、灯台機能を併せ持つ大洗マリンタワーが完成して、磯浜灯柱の役目は終わったのかもしれない。
 遠巻きに磯浜灯柱を眺めた我々は、近くにあった老人憩いの家前停留所から那珂湊駅行きお茨城交通バスを捕まえる。バスはしばらく大洗海水浴場に沿って県道173号線を北上し、那珂川の河口に近い大洗水族館に寄る。
 大洗水族館は、関東でも本格的な水族館であり、日本で最初にペンギンのショーを開催したことで知られる。イルカやアシカのショーも開催されているのだが、前回、鴨川シーワールドを見学したばかりなので、個人的には素通りしても良さそうな気がしていた。念のため他のメンバーに確認するが、高い入場料を払って水族館を見学する気にはなれないようなので、そのままバスを乗り過ごす。
 大洗水族館を後にしたバスは那珂川に架かる海門橋を渡り、那珂湊市に入る。銚子以来の市制が施行されている地域であるため、なんだか那珂湊市がとても賑やかな都市に感じる。
 那珂湊駅前でバスから降りると、10時半を回ったところだというのに制服姿の高校生が多い。補習授業でもあるのだろうか。本多クンが私の袖口を引っ張りながら言う。
「ねえねえ、あそこの女子高生たちが池田クンのことをカッコいいって騒いでいたよ!」
「へぇ〜。だったら池田クン本人に教えてあげればいいじゃないか」
「声を掛けて池田クンを紹介してあげてもよかったのだけれども、あいつら俺のことをチビと言いやがったから、紹介してあげるのを止めたんだ。嫌な奴らだ!」
本多クンから池田クンに女子高生の会話が伝えられたのかは不明であるが、本多クンの地獄耳には注意した方が良さそうだ。
 那珂湊駅の広い駅構内には、車両基地である湊機関区を有し、すべての列車がこの那珂湊駅で行き違う。ホームで10時53分発の阿字ヶ浦行きを待っていると、やがて旧国鉄準急色のキハ22形気動車が入線してきた。二重窓仕様になっており、明らかに北海道からやってきた車両であることがわかる。茨城交通にこんなレトロな車両が走っているとは知らなかった。車内には高校生のほか、一目で鉄道ファンとわかる旅行者の姿もチラホラ。私は車両にあまり興味がないので、予備知識は皆無であったが、車両好きの鉄道ファンにとっては、茨城交通は車両の宝庫らしい。
 列車は那珂湊を発車すると、すぐに左へ大きなカーブを描く。那珂湊の住宅街を走り抜けて、次の停車駅の殿山に到着すると、高校生はぞろぞろと下車していく。近くに那珂湊第二高校があるのだ。那珂湊市役所も殿山が最寄り駅で、那珂湊−殿山間に那珂湊市の市街地が形成されていることがわかる。
 茨城交通湊線は、海岸近くを走っているにもかかわらず、車窓は田園風景と住宅街ばかり。結局、太平洋を眺めることなく、定刻の11時07分に終点の阿字ヶ浦に到着した。下車客には、麦わら帽子に浮き輪を抱えた海水浴客の姿も多く、近くの阿字ヶ浦海水浴場へと消えていく。
 阿字ヶ浦駅の改札口の前で列車から降りて来る人を見送っていると、1人の青年から声が掛かる。外周旅行初参加となる野地航クンだ。野地クンとは初対面。昨年、旺文社の月刊誌「中3時代」で旅の仲間を募集したところ、池田クンに続いて応募してくれた1人である。宮城県名取市の在住で、今朝、自宅最寄りの名取から「青春18きっぷ」を活用して、東北本線と常磐線を乗り継ぎ、勝田までやってきて、茨城交通湊線では、我々と同じ列車に乗っていたそうだ。
「最初は車内で別のグループに声を掛けてしまってね。会えてよかったです」
私が野地クンとあいさつをしているところへ安部クンが口を挟む。
「野地クン、俺、京都の安部や。よろしく。ところでな、新顔は先輩の荷物を持つことがこのグループの決まりや。これ、俺の荷物やし、頼むわ」
安部クンが自分の荷物を野地クンに押し付ける。野地クンも真に受けて安部クンの荷物を抱え出したので、すかさず安部クンの荷物を取り上げ、待合室のベンチに放り投げる。
「今度頼まれたら駅のゴミ箱にでも捨てておいていいからね」
野地クンもとんだ旅行に参加してしまったと思っているに違いない。
 阿字ヶ浦駅近くにあった堀出神社に立ち寄った後、我々は阿字ヶ浦海岸に背を向けて、茨城交通の阿字ヶ浦踏切を渡る。地図を見ると、海岸沿いに道路は途中で行き止まりになっており、阿字ヶ浦より先へ進むには、内陸へ少し入らなければならなかったからだ。朝から降り続いていた雨も現在は止んでいる。
 15分も歩くと阿字ヶ浦の集落は途切れ、最近整備されたばかりと思われる片側2車線の真新しい県道265号線に出る。工事用の車両が頻繁に行き来し、まるで工事のために開通させた道路のようだ。
 今度は県道265号線をたどって北上する。
「こんなところに何があるの?」
倉田クンが不服そうに言う。阿字ヶ浦からまだ20分も歩いておらず、常連メンバーはいつものことだと開き直っているが、外周旅行に初めて参加した倉田クンには外周旅行の行程が不可解でならないようだ。一般的な旅行には目的地があり、目的地までの移動手段はアプローチに過ぎない。しかし、外周旅行は海岸線に旅をするという行程自体が目的であり、明確な目的地というものは存在しないのだ。強いて現在の目的地を定めるとすれば、勝田駅方面に向かうバスの停留所である。もっとも、同じ初参加でも安部クンは中学時代にサッカー部で活躍しており、野地クンも高校では山岳部に所属しているとのことで、しっかりとした足取りである。
「旅行や言うて参加したのに、何や歩こう会の合宿やないか!」
安部クンが持ち前のユーモアセンスでその場を和ませる。
 県道265号線を更に15分ほど歩くと、県道247号線と交差するT字路に出た。突き当たり正面には雑木林で囲まれた敷地が広がり、工事用車両はその敷地へ出入りしているようだ。やがて、工事の看板によって、敷地の正体が1991年(平成3年)10月に開園予定の「国営ひたち海浜公園」であることが判明する。この場所には、1939年(昭和14年)に旧陸軍の水戸飛行学校が置かれていたが、戦後、アメリカ軍に接収されて、水戸対地射爆撃場となる。しかし、民家に近い場所であったことから、騒音問題や住民の死傷事故が発生し、茨城県民挙げての反対運動が起こった。こうした中で、1971年(昭和46年)には一切の射爆撃行為が停止され、1973年(昭和48年)3月に日本への返還に至る。開園を2ヵ月後に控えた「国営ひたち海浜公園」は、返還された水戸対地射爆撃場跡地を有効活用するために、国の「首都圏整備計画」の一環として整備された公園であったのだ。
 「国営ひたち海浜公園」の敷地に沿って県道247号線を西に向かって歩く。勝田市街地方面に向かって歩いていれば、どこかでバスを拾うことができるだろう。既に阿字ヶ浦から30分以上も歩いており、次第にメンバーの口数も少なくなる。弱り目に祟り目で、しばらく小康状態であった天候が崩れ、再び土砂降りの雨になった。
 「ねえねえ、交通公園からバスに乗ろうよ!」
「安全運転中央研修所交通公園」という標識を通り過ぎたところで、本多クンが私の背中を突きながら提案する。
「交通公園に行けばバスがあるの?」
持参した地図にはバス停のマークもないので、思わず聞き返してしまう。
「交通公園から勝田駅までのバスが出ているよ」
「よく知っているね。でもどうしてそんなこと知っているの?」
本多クンが茨城県のローカルバス事情に精通しているのか不思議だったので尋ねてみる。
「これに書いてあるよ!」
本多クンはバッグの中から取り出した1枚のチラシを差し出す。交通公園の案内チラシで、茨城交通の勝田駅の発車時刻と中央研修所の到着時刻が記されている。中央研修所とは、交通公園の敷地内にある研修施設で、正式には安全運転中央研修所附属交通公園と言うらしい。中央研修所の発車時刻は記載されていないが、中央研修所に到着したバスがそのまま折り返すことぐらいは想像が付く。運行頻度も1時間に1本となかなかのものだ。チラシは那珂湊駅で倉田クンが見付けたそうだ。私はチラシの存在にはまったく気が付かなかった。それにしても、交通公園に行く予定なんて一切していなかったのに、よくチラシを持ってきたものだ。
「バスの時間が載っていたし、交通公園も阿字ヶ浦の近くにあったからなんとなくね」
倉田クンの観察力と本多クンの機転に救われた。県道247号線から交通公園へ通じる坂道を5分ほど歩くと、無事に交通公園の正門前にある中央研修所停留所を無事に発見。
 交通公園は1991年(平成3年)6月に開園したばかりの施設で、まだ開園から2ヵ月しか経っていない。那珂湊駅に交通公園の案内チラシがあったのも、できたばかりの施設を宣伝する必要があったからなのだ。交通公園は、子供が交通ルールや交通マナーを学ぶための施設で、正しい自転車の乗り方やダミー人形を使った実験による飛び出し事故の危険を学べる研修を行っているとのこと。その他にゴーカートやミニSLもあり、遊園地的な要素もあるようだ。しかし、交通公園の正門前には、「本日雨天のため、乗り物の運転はすべて中止です」という貼り紙があり、受付の女の子が暇そうにしている。
「あの娘、めっちゃかわいいやん。バイトの高校生ちゃうか?」
安部クンは目を輝かせながら受付の女の子へ歩み寄る。見ず知らずの女の子でも気軽に声を掛けるのは安部クンの得意とするところ。しばらく談笑した後、安部クンは交通公園の中に入ってしまい、やがて缶ジュースを飲みながら戻って来た。
「交通公園の中に自動販売機があるで!受付のお姉ちゃんに頼めば中に入れてもらえるで!」
安部クンの情報提供を受けて、何人かが自動販売機へ向かった。単なるナンパだけではなく、必要な情報も仕入れてくるところは立派だ。
 12時50分の勝田駅行き茨城交通バスは我々9名の貸し切り状態。夏休み中ではあるが、悪天候のため交通公園には閑古鳥が鳴いている。今日の中央研修所からの利用者は、職員と我々だけになるのではなかろうか。発車まで時間があったので、運転手に馬渡十字路で東海駅行きのバスに乗り継ぎたい旨を伝えておく。安部クンが受付の女の子と戯れている間に、私は公衆電話で茨城交通の勝田営業所に問い合わせをして、東海駅行きに乗り継ぐためには、勝田駅まで出なくても、馬渡十字路で乗り換えればよいことを確認しておいたのだ。ただし、このバスの馬渡十字路の通過予定時刻が13時ちょうど。一方の東海駅行きのバスの馬渡十字路の通過予定時刻が13時01分。鉄道のように時間が不正確なバスなので、せめてこのバスが遅れずに馬渡十字路に到着できるように配慮してもらいたかったのだ。
「東海駅行きに乗り継ぐのであれば、交差点のところで降ろしてあげよう。馬渡十字路という同じ停留所名だけど、東海駅行きの停留所は、このバスの停留所は少し離れているんだ」
運転手はメモ用紙に馬渡十字路の地図を描いて、東海駅行きの停留所の場所と我々を便宜下車させてくれる場所を説明してくれる。あらかじめ運転手に相談しておかなければ、危うく乗り継ぎ損ねるところだった。この辺りは九十九里浜での痛い経験が活かされている。ところが、私と運転手のやり取りを聞いていた倉田クンが口を挟む。
「どうして勝田駅まで行かないの?東海駅に行くなら勝田から常磐線に乗るのが素直でしょう?」
残念ながら倉田クンには外周旅行の趣旨が理解できないようだ。運転手も倉田クンの発言を聞いて怪訝な顔をする。
「一体どこまで行きたいの?」
「原研前です」
倉田クンが余計なことを言う前に咄嗟に私が返事をする。原研前とは、日本原子力研究所の東海研究所前にある停留所名だ。原研前から常陸多賀へ向かうバスがあることも事前に確認済みであったのだ。運転手も行き先が原研前と聞いて納得した様子。
「確かに原研前に行くのであれば、勝田駅まで行くよりも馬渡十字路で乗り換えた方が早いな」
倉田クンが運転手に余計なことを言い出す前に後部座席へ連れ戻し、事情を説明する。
「原研前ってところに何があるんだよ!」
倉田クンは事前に外周旅行の趣旨を理解していなかったようで、行程に不満を漏らすが、割り切って同行するか、どうしても納得できなければ申し訳ないが離脱してもらうしかない。
 勝田駅行きの茨城交通バスは定刻に中央研修所を発車。開園前の「国営ひたち海浜公園」と田園の中を快調に走り、馬渡十字路の交差点に到着したのは12時55分だった。我々のために急いでくれたのであろうが、5分も早着して大丈夫なのだろうかと心配になる。もっとも、中央研修所から馬渡十字路までは民家もほとんどなく、普段から途中の停留所からの利用者は皆無に近いのだろう。馬渡十字路から次第に勝田市街地に入っていくことになるのだし、ここから先が定時運転になれば利用者に迷惑が掛からないのかもしれない。
 運転手に礼を述べて、東海駅行きの停留所へ走る。時刻に余裕はあるが、東海駅行きのバスが早発する可能性もある。しかし、我々の心配を他所に東海駅行きの茨城交通バスは定刻よりも7分遅れでやって来た。
 東海駅行きのバスも先客はなく、我々9名の貸し切り状態となった。バスが走り出すと安部クンが整理券を取り忘れたと騒ぎ出す。
「すみません!整理券取り忘れました!同じグループで同じ停留所から乗りましたので!」
声を張り上げて運転手に自主申告した。
 バスはしばらく地方道を走った後、国道245号に合流する。国道の右側には松林が続くが、その向こうには日本原子力研究所の東海研究所があるはずだ。日本原子力研究所東海研究所が設置されたのは、1957年(昭和32年)のこと。ここは日本で最初に原子力の火が灯った場所なのである。
 原研前は日本原子力研究所東海研究所の正門前にあった。近くに「原子力センター」という原子力発電所に関する資料館もあり、倉田クンにも説明が付きそうだ。
 まずは乗り継ぎとなるバスの時刻を確認する必要がある。バスの管轄は茨城交通から日立電鉄に替わる。しかし、日立電鉄バスの停留所のポールには、バスの時刻表が記載されていない。
「もうバスは走っていないのかなぁ」
鈴木クンが不安そうな声を上げるが、いつやって来るか判らないバスを待つわけにはいないので、とりあえず近くにある原研前郵便局へ。旅行貯金がてら、郵便局員に日立電鉄バスについて確認をしてみる。
「日立電鉄のバスですか?今も走っていますよ。時刻までは判らないなぁ」
時刻は日立電鉄に確認すればよい。そう言えば日立電鉄の停留所のポールに連絡先の電話番号があったはずだ。急いで停留所に戻り、ポールに記載されていた電話番号をメモして郵便局に戻る。局内にあった公衆電話から安藤クンが日立電鉄に問い合わせる。
「急いで!急いで!」
受話器を置いた安藤クンが血相を変えて飛び出した。事情がよくわからないが安藤クンの後を追う。日立電鉄の原研前停留所に戻れば、背後に常陸多賀駅行きのバスの姿があった。原研前から常陸多賀駅へ向かうバスは1日3本で、ちょうどやって来たバスは貴重な2本目であるとのこと。これを逃せば次のバスは3時間後であるとのことだった。絶好の接続であったが、おかげで「原子力センター」に立ち寄る時間はなくなってしまった。原研前郵便局に立ち寄ることができたのが救いか。
 原研前からもしばらく松林で隔離された原子力発電所の敷地が続く。東海村は正に原子力の村である。松林が途切れると久慈川に架かる久慈川大橋で、行政区は日立市に入る。続いて茂宮川に架かる新茂宮橋を渡り、日立電鉄の久慈浜駅に近そうな南町で下車した。そのままバスに乗っていれば、JR常磐線の大甕駅にも連れて行ってもらえるのだが、久慈浜から鮎川までは、常磐線よりも海沿いを日立電鉄が走っているので、鉄道に敬意を表した。バスの乗り継ぎが続いており、ちょっと気分転換を図る目的もある。
 「腹減ったなぁ。何か食べようよ〜」
本多クンの情けない声を聞いて時計を見れば、時刻は15時近くになっている。バタバタとバスを乗り継いだので、昼食の時間を取ることができなかった。ここから先は列車、バスの頻度も多いことを確認しており、ダイヤの心配をする必要もなくなった。久慈浜駅の近くにある食堂にでも入ろうと考えていると、突然、土砂降りの雨が降り出す。今日はこのパターンが非常に多い。偶然、雨宿りに入った軒先の近くに「チャイニーズレストランクーニャン」という中華料理店があったので、吸い込まれるように店内へ入る。
 「チャイニーズレストランクーニャン」の女将さんは中途半端な時間帯に9人ものお客が押し寄せたので驚いた様子だったが、すぐに愛想よく対応してくれる。セットメニューがあったので、「Aセット」(850円)を奮発。縮れ麺のラーメン、チャーハン、麻婆豆腐の組み合わせで、お腹が減っていたこともあり、美味しく平らげた。
 女将さんに久慈浜駅までの道順を尋ねると寝耳に水の情報がもたらされる。
「あれ!お客さん!日立電鉄に乗るのかい?この雨で久慈浜駅は水没してしまって、しばらく電車は動かないよ!でも、心配しなくても大丈夫。復旧までにはそれほど時間はかからないはずだから。それまでここでゆっくりすればいいよ」
復旧の見込みを簡単に口にするのは、同じようなことがしばしばあるのだろうか。もしかしたら、地元には復旧の見込みの連絡があったのかもしれない。いざとなれば大甕(おおみか)駅まで出て常磐線で先に進むことにしよう。それにしても久慈浜駅が水没しているというのは気になる。店に荷物を預かってもらって、久慈浜駅に様子を見に行くことにした。
 店の外は相変わらずの土砂降りだ。傘を差して久慈浜駅を目指す。駅が水没しているなどにわかに信じ難いものがあったが、駅が近付くにつれて足下を流れるが増して来る。道路は次第に川のような様相を呈してきた。
久慈浜駅  久慈浜駅にたどり着くと、線路は完全に水没してしまい確認できない。これでは当分、日立電鉄の復旧は望めないであろう。それならば、タクシーで大甕駅に出てしまおうと、久慈浜駅近くにある久慈浜タクシーの営業所を訪ねるものの、シャッターが閉まって人の気配はない。タクシーも大甕から呼び寄せるしかなさそうだ。
 「チャイニーズレストランクーニャン」に戻り、大甕のタクシーを2台手配してもらうことにした。さすがに9名もいると1台のタクシーに乗車することはできない。10分もかからないうちに大甕からやって来た日立電鉄タクシーに乗り込む。この辺りは鉄道、バスだけではなく、タクシーも日立電鉄の領域であるようだ。
 2台のタクシーに分乗して、「大甕駅まで」と行き先を告げる。
「この雨では常磐線も動いていないかもしれないよ」
運転手が嫌なことを言うが、とりあえず大甕駅まで行ってもらう。大甕駅まで行けば、常磐線の運行情報も日立電鉄の運行情報も入手できる。いざとなればバスやタクシーで行けるところまで行くしかない。
 久慈浜から大甕駅まではタクシーで10分と掛からなかった。しかし、私が乗ったタクシーは3メーターであったが、もう1台のタクシーは2メーターで済んだとのこと。料金にしてわずかに80円の差に過ぎないが、同じ区間を走っているのに何だか損した気分になる。
 大甕駅の改札口には、日立電鉄は16時30分頃から大甕−鮎川間のみ運転を再開する予定であるとの張り紙があった。やはり、大甕駅まで出てきて正解であった。時間があるので、16時の貯金業務終了間際に駅近くの大甕郵便局で旅行貯金を済ませることができた。
 16時20分頃に「日立電鉄の運転を再開しますので、ご利用のお客様はホームへお越しください」とのアナウンスが流れる。我々は鮎川までの乗車券を購入して、JRとの共同改札口を通り抜ける。跨線橋を渡り、最も山側に設置された日立電鉄のホームに降り立つ。しばらくホームで待っていると、鮎川方面から2両編成のワンマン列車がやって来た。運転を再開して鮎川からやって来た列車であろう。やれやれとロングシートに腰を降ろして出発を待つ。
 大甕駅で日立電鉄の復旧を待っている間に雨は止み、今度は薄日が差してきた。随分と気まぐれな空模様である。ワンマン列車は大甕駅で10分間停車した後、ようやく発車ベルがなった。ドアが閉まり、ゴトリと列車が動き出すと、野地クンが飛び上がる。いや、野地クンだけではない。私もとっさに立ち上がり、運転席の後方に駆け寄る。列車は鮎川とは正反対の常北太田方面に動き出したのだ。日立電鉄は大甕−鮎川間のみを復旧するのではなかったのか。我々は大甕駅の改札口の貼り紙を見て、当然に鮎川からやって来た列車が大甕駅で折り返すものと思っていたのだ。いつの間に大甕−常北太田間も復旧したのだろうか。少なくとも我々がホームに降りて来てからはそのようなアナウンスは一切なかった。我々は9人もいるのだから、全員がアナウンスを聞き逃したなんてことは考えられない。しかし、文句を言っても列車を停められるわけでもなく、我々は次の久慈浜まで運ばれることになる。
 久慈浜に降り立つと、すっかり水が引いており、平静を装っている。つい1時間前まで線路を呑み込んでいた雨水はどこへ行ってしまったのだろうか。列車は、我々9名をホームに残して、常北太田方面へ走り去っていく。ホームのベンチに腰掛けて、鮎川行きの列車を待っていると、夕陽がまぶしい。明日こそは天候が回復してくれること願う。
 久慈浜を16時48分の列車で大甕へ引き返す。結果的にタクシーで大甕駅へ向かったことが無意味になってしまったが、久慈浜−大甕間の列車に乗ることができたのでよしとしよう。列車は常磐線を跨いで山側に回り込み、大甕に到着。大甕ではほとんどの乗客が入れ替わる。そのため、日立電鉄も事実上、常陸太田−大甕、大甕−鮎川の2系統の運行形態をとっており、すべての列車が大甕で10分間停車するダイヤになっている。
 大甕を発車すると再び常磐線を跨いで海側に出る。大甕に停車するためだけに2度も常磐線を跨ぐのであれば、最初から海側にホームを設置すればよさそうなものである。実際に常北電気鉄道として1928年(昭和3年)12月27日に大甕−久慈(現在の久慈浜)間を開業させたときは、大甕駅の海側にホームを持っていた。しかし、1947年(昭和22年)9月1日に大甕−鮎川間を伸延させたときに、用地取得の都合により、山側にホームを設置せざるを得なかったのだ。
 大甕から先は日立市の市街地を走り抜ける。沿線には日立製作所の関連企業の工場が点在しており、日立電鉄の役割は工場への通勤手段にあるようだ。近くを常磐線が並走しているものの、常磐線には駅がないので競合関係は成り立たない。
 常磐線に寄り添うようにして終点の鮎川に到着。やはり常磐線に鮎川駅は存在しないので、鮎川の住民にとっては日立電鉄が唯一の鉄道となる。周辺には工場の社宅と思われる集合住宅が建ち並んでいる。線路は日立方面に数百メートル伸びており、やはり日立電鉄には日立までの伸延予定があるように察する。旧常北電気鉄道時代の1942年(昭和17年)5月22日に日立までの敷設免許を既に取得しているのだ。鮎川から日立まではまだ3キロほどの距離があるが、この区間を開業することができれば、常磐線とのアクセスも便利になり、日立電鉄の利用者も飛躍的に伸びるのではなかろうか。ネックになっているのはやはり用地の確保であろう。
 鮎川からは日立電鉄バスに乗り継ぐ。10分遅れで鮎川駅に姿を現したバスは、既に夕方のラッシュが始まっており、工場勤めのサラリーマンで混雑していた。ほとんどが日立製作所の関連企業の工場に勤める人であろう。バスは国道245号線をたどって、遅れを取り戻す様子もなく、日立駅海岸口に到着。
 日立駅からはようやく常磐線の旅となる。列車の待ち合わせ時間を利用して、鈴木クンが待ち合わせ時間を利用して高萩駅周辺の宿の手配を試みるが、昨日と同様、9名の飛び込み予約はなかなかうまくいかない。
 18時29分発の平行き447M普通列車の発車時刻が迫って来たので、宿の手配を中断し、券売機で磯原までの乗車券を購入する。高萩で泊まるつもりであったが、宿が手配できないのであれば、明日の行程を考えて磯原まで行ってしまうことにした。今日は「青春18きっぷ」の利用ではないため、JRの切符もその都度購入しなければならない。
 8月上旬ではあるが、既に夕闇が迫って来ており車窓を楽しむことはできない。地図を見ると常磐線は高萩の手前から海岸線近くを走っているようだ。高萩を乗り過ごし、2駅先の磯原で下車する。
 磯原駅前の公衆電話で再び宿の手配を試みるが、9人を受け入れてくれる宿が見付かっても、場所や値段でなかなか調整が付かない。
「ここに電話してみようや!」
安部クンが磯原駅に広告を掲げていた「割烹旅館さらしな」の電話番号をメモして公衆電話に向かう。割烹旅館なんて我々の旅には無縁だと思っていたので、最初から問い合わせをするつもりもなく、どうせ空振りだと思っていたら安部クンが公衆電話ボックスから手招きをする。
「素泊まりで3,500円って言うとるけど、ええかな?」
素泊まり3,500円であれば外周旅行の予算的にも許容範囲だ。しかも、磯原駅から100メートルも離れていない場所にあるという。それにしても、割烹旅館に素泊まりなんてことが許されるのだろうか。  安部クンの案内に従って、駅から徒歩2分ほどの「割烹旅館さらしな」にたどり着く。案内されたのは我々9人が収まる大広間で、本来の用途は宴会場なのかもしれない。割烹旅館は、地元の人が料理だけを目的に利用することもあるので、部屋が空いていれば素泊まり客も受け入れてくれるとのこと。
「こんなところに泊まるのは初めてだよ。てっきりビジネスホテルに泊まるものと思っていたから、歯ブラシすら用意して来なかった。この辺にコンビニはあるかなぁ」
野地クンが合宿のような雰囲気に戸惑いを見せているが、これが外周旅行の醍醐味でもあるのだ。

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