国家資格の今と昔

第10日 銚子−鉾田

1991年8月6日(火) 参加者:安部・安藤・池田・倉田・鈴木・本多・柳田

第10日行程  通算10日目を迎える「日本外周旅行」は8人の大世帯となった。参加者は全員、この4月から高校へ進学している。前回に続いての参加となるのは池田クン、鈴木クン、柳田クンの3名。九十九里浜の強行軍を乗り越えての参加となるので頼もしい。前回は参加を見送ったものの、安藤クンと本多クンが外周旅行に復帰した。今回はこれら5名のメンバーに加えて新顔が2名加わる。ひとりは安藤クンの旧友である倉田貴雄クンだ。鉄道やバスの旅に興味があるとのことで、外周旅行に興味を示してくれた。倉田クンとは初対面なので、今回の旅を通じて友好を深めたい。もうひとりは、京都市在住の安部格クン。安部クンは私が中学校の卒業旅行と称してこの春休みに北海道を旅していたときに、釧路からの「急行まりも」の車内で席が隣同士になり、同い年ということもあって意気投合。今回の旅への参加に至った。
 JR総武本線で銚子まで行き、ホームを外川方面に歩いて行くと、オランダ風車をモチーフにしたお洒落な駅舎が現れる。銚子電鉄の銚子駅舎になるが、まだ工事中のよう。作業員の姿はあるが、駅員はいない。正式にはこの8月に竣工となるようだ。
 駅舎の先が銚子電鉄のホームとなっているが、ホームにはレトロ調の車両にオープンデッキ車両が連結されている。全国でも珍しい国鉄ワム80000形貨車を改造した「ユ101」という車両で、「澪つくし号」という愛称が付けられている。もちろん、NHK連続ドラマ小説の「澪つくし」を記念した命名だ。前回、外川で「澪つくし」がらみの看板が乱立しているのを見てうんざりしたが、放送終了から6年経っても銚子は「澪つくし」の街なのである。いや、もはや永遠に「澪つくし」の街であり続けるのであろう。
 物珍しさもあって、我々は当然のように「澪つくし号」に乗り込む。地元の乗客は通常の車両に乗り込み、「澪つくし号」の乗客は我々の他、観光客らしき女子大生の3人組だけだ。
「俺らも予定変更して犬吠埼へ行かへん?」
安部クンが声を上げる。一緒に乗り合わせた女子大生の3人組が犬吠埼へ行くというので同行しようというのだ。
「ダメダメ。勝手なことを言うな。犬吠埼は前回訪問済みなのだから」
即座に安部クンの提案を却下するが、これからいろいろと振り回されそうだ。
 銚子からオープンデッキ車両に揺られて12分。前回、解散地と認定した海鹿島で下車する。予備知識がなければ絶対に読めない難読駅名で「あしかじま」と読む。駅近くの海鹿島海岸に明治30年頃までアシカが生息していたということが地名の由来とのこと。関東地方ではこの海鹿島駅が最東端の駅となる。
「俺らはここまでや。元気でね。さようなら〜」
安部クンはホームで女子大生グループに大声を上げながら手を振って見送る。今宵の女子大生グループの話題になることは間違いないだろう。
 海鹿島駅周辺は閑静な住宅街になっていた。まずは海岸に向かって歩いて行くと、国木田独歩碑の案内標識が目に入ったので立ち寄ってみる。明治時代の文豪である国木田独歩は銚子の出身だったのだ。住宅街の小さな林に囲まれるようにして存在した国木田独歩碑は巨大な岩に碑文が埋め込まれている。代表作としては「武蔵野」が知られるが、碑文には、詩人である日夏耿之介の書による「なつかしき わが故郷は 何処ぞや 彼処にわれは 山林の児なりき」という「独歩吟」の一節が刻まれていた。1952年(昭和27年)7月15日に銚子市民の有志により建立されたものとある。
 解説板に目を通していると、いつの間にか安部クンが石碑によじ登っていた。
「そんなことをしているとバチが当たるよ!」
本多クンが戒める。お墓や供養塔ではないので、バチが当たるかどうかは微妙だが、不謹慎な行為であることには間違いない。
「ええっ!ホンマに!独歩さん!ごめんなさい」
碑文に向かって安部クンが謝るが、茶化しているようにしか思えない。
 海鹿島周辺は多くの文化人の由来の地であるようで、国木田独歩碑以外にも、竹久夢路詩碑、小川芋銭句碑、尾崎萼堂文学碑などもあるが、碑文ばかりを眺めても国語の授業の続きのようで面白味に欠けるのでパスして先へ進む。
 海岸沿いの県道254号線に出て北上していく。沖合には岩礁が散らばり、太平洋の荒波がしぶきを上げている。明治時代まではこの岩場にアシカの姿があったのであろう。日本沿岸に生息していたアシカはニホンアシカという種類で、水族館などで曲芸を見せてくれるカリフォルニアアシカとは種類が異なる。ニホンアシカは1975年(昭和50年)に竹島で確認されて以来、目撃情報が途絶えており、現在では既に絶滅したのではないかとも言われているそうだ。
 海岸沿いの県道254号線に出ると、目の前に太平洋が広がる。沖合には大小無数の岩礁群が広がる。海水浴客の姿がある砂浜は黄金色に輝いていた。多くの文豪たちもこの風光明媚な景色に魅了されて海鹿島に集ったに違いない。
 県道254号線を30分近く歩いていると、前方に近代的なタワーが視界に入る。持参した地図には何も記載されていないが、惹かれるようにタワーを目指す。たどり着いたのは銚子漁港で、ワターの正体は今年2ヵ月前の1991年(平成3年)6月23日にオープンしたばかりの銚子ポートタワーだ。
 300円の入場券を購入して高さ57.7メートルの銚子ポートタワーに上る。銚子ポートタワーは全面ガラス張りのツインタワー構造となっている。3階と4階が展望室になっており、我々は当然のように最上階である4階の展望室へ。
「うわぁ〜地球が丸く見えるよ!」
柳田クンが目の前に広がる太平洋を眺めて声を上げる。前回、愛宕山の山頂にある「地球の丸く見える丘展望館」の案内標識を目にしたが、ここも同じ銚子市内なので、「地球の丸く見える丘展望館」からの眺めと大きく変わることはないであろう。雄大な太平洋の大海原の先にある地平線は、少し丸味を帯びているように見えないこともない。
 展望台の西側には、太平洋に注ぎ込む利根川の河口が広がり、眼下には日本有数の水揚げ量を誇る銚子漁港が広がる。行き交う漁船の姿も確認でき、なかなか変化に富んだ光景を見渡すことができる。千葉県の「ふるさと千葉5ヶ年計画」の一環として建てられたタワーであるが、鉄道でのアクセスが不便なところではあるものの、建設地はなかなか面白いポイントを選んだものだ。
   銚子タワーに隣接している「ウオッセ21」にも立ち寄ってみる。銚子ポートタワーと併せて整備された「ウオッセ21」の水産物即売センターも1991年(平成3年)6月15日に開設されたばかりの施設だ。水産物即売センター内には、土産物屋の前には銚子漁港で水揚げされたばかりの魚介類が所狭しと並んでおり、小規模ながら函館の朝市を思わせる雰囲気である。黒潮と親潮が合流する銚子沖は、日本屈指の好漁場であり、イワシ、サバ、カツオ、マグロなどが豊富に水揚げされる。観光客へのPRも兼ねて、銚子漁港を観光資源とすべく、市場を整備したのであろう。「安いよ!安いよ!」と声が掛かるが、まだ旅は始まったばかりで、今から土産物を買い込むわけにはいかない。海鮮地魚シーフードレストラン「うおっせ」もあり、銚子の味覚を楽しむこともできるのであるが、まだ開店前であった。漁港のレストランが早朝に開店していないのは遺憾だが、漁師を相手にした食堂ではなく、あくまで観光客を対象としたレストランなのだろう。これからの銚子の観光スポットとして、「ウオッセ21」が注目されていくことは間違いない。
 「ウオッセ21」に近い明神下停留所から千葉交通バスに乗る。利根川の河口を経たバスは、次第に銚子市街地へ入る。やがて、前回の旅以来、何度か行き先として耳にしていた観音で下車。乗車時間はわずか5分だ。
 観音停留所で降りたものの、周囲に観音など見当たらない。通り掛かったおばさんに尋ねれば、30メートルほど先にある観音交差点のところに入口があるとのこと。言われた通りに交差点を目指せば、民家に挟まれるようにして赤い仁王門が構えられていた。少し奥まったところに仁王門が建てられていたので、民家の死角になって気が付かなかったのだ。
 銚子観音の通称で親しまれているが、正確には飯沼山圓福寺という真言宗の寺院で、正確には飯沼観音と呼ぶらしい。飯沼観音は圓福寺の本堂で、東南に約200メートルも離れたところに本坊があるが、かつてはひとつの境内であったという。銚子の市街地にそれほど大きな敷地を持つ寺院が存在していたとは驚きであるが、もともと銚子の市街地は、圓福寺の門前町として発展してきたのだという。
 仁王門をくぐって境内に入れば、本堂の手前に小振りの観音様が鎮座していた。飯沼観音は板東三十三観音巡礼の27番目の観音霊場である。しかし、境内には巡礼をしているような参拝客は見当たらず、地元のおじいさんが散歩に来ているぐらいだ。
 境内には、鐘楼、多宝塔、竜王殿などの大小の様々な建物が配置されている。もっとも、これらは太平洋戦争で焼失してしまい、戦後に再建されたものばかりだという。鈴木クンと柳田クンはおみくじを引いて結果に一喜一憂していた。
 観音と言えば、銚子電鉄の観音駅が名高い。何が名高いかと言えば、駅構内で販売している「たい焼」である。あらかじめ注文をしておけば、車内でも受け取れるという「たい焼」は、駅構内で販売しているだけでなく、型をはみ出すほどのボリュームがあり、地元の人が箱買いするほど美味しいことでも知られる。ぜひ、観音駅に立ち寄って「たい焼」を賞味したいところだが、飯沼観音から観音駅までは300メートル近く離れている。
「観音駅まで行って銚子電鉄に乗るの?だったらいいけど、電車に乗らないでまたここに戻ってくるなら止めようよ」
鈴木クンが早朝からの歩きで、前回の二の舞は御免だという顔をして言う。観音駅の「たい焼」なら、また賞味する機会はあるだろうし、他のメンバーもあまり「たい焼」に興味を示さないので先へ進むことを優先する。
 飯沼観音から海に向かって歩くと、今度は銚子漁港中央卸売市場に出た。中央卸売市場に沿った道路の向かいには魚介類の直売所があり、観光地化された「ウオッセ21」よりも庶民の台所といった雰囲気がある。
銚子渡船場  銚子漁港中央卸売市場を抜けると渡船場に出た。ここから利根川の対岸にある波崎町までは、波崎町営渡船が運航されている。利根川の中央付近が千葉県と茨城県の県境であり、渡船で県境越えをするのも面白い。目と鼻の先に銚子大橋が架けられているのだが、もちろん町営渡船を利用する。
 町営渡船の待合室に入ると、お年寄りの姿が目立つ。お年寄り同士の会話から、波崎から銚子市内への病院通いの帰りのようだ。銚子大橋の全長は約1,450メートル。銚子大橋が開通したと言っても、お年寄りに限らず、歩行者は渡船よりも本数の少ないバスに乗るか、波崎まで20分以上も歩かなければならず、町営渡船の需要は多いようだ。
 対岸から総トン数20トンの「第十五波崎丸」がやって来た。待合室を出ると今朝からの怪しい曇り空がとうとう崩れ、ポツポツと雨が降り出す。外周旅行としては通算10日目にして初めての雨だ。しばらく渡船とバスを乗り継ぐだけなので、その間に天気が回復することを祈る。
 定員94名の「第十五波崎丸」に乗船したのは30名程度。定員の3分の1以下の乗船率であるが、平日の昼間としては盛況であろう。波崎町営渡船は、1962年(昭和37年)12月10日に銚子大橋が供用開始されるまでは、利根川河口の交通を担う要であったが、その役目は現在でも変わらない。赤いアーチ橋の銚子大橋を眺めながら、波崎まで5分間の船旅を楽しむ。
 通算7日間に渡る千葉県の旅を終えて、いよいよ1都3県目になる茨城県の旅が始まる。渡船が波崎桟橋に接岸すると、雨足はますます強くなるものの、桟橋からすぐに待合室に入ることができたので濡れずに済む。さらに、待合室の正面が波崎停留所で、待たされることもなく鹿島バスターミナル行きの関東鉄道バスがやって来た。
 バスの車内は意外に込んでおり、我々は立つ羽目になる。鹿島への需要がそれほど多いのかとも思ったが、バスは波崎町の市街地で小まめに停車。波崎町内の移動にバスを利用する人も多いようだ。
 県道117号線に入り、波崎第一中学校の前をバスが通過すると柳田クンが目を丸くして声を上げる。
「うわぁ〜ヘルメットをかぶって自転車通学しているよ!」
確かに普段はあまり見掛けない光景だが、地方に行くと自転車通学にヘルメットを着用している学校は多い。
「ヘルメットなんて田舎の象徴だよ!」
鈴木クンが言い放つが、これは言い過ぎ。車内には地元の人がたくさん乗り合わせているので気分を害したのではないかと肩身が狭くなる。
 鹿島バスセンターへ向かうバスは、利根川寄りの国道124号線を走るルートと鹿島灘寄りの県道117号線を走るルートがあるが、我々が乗車したのはもちろん後者だ。しかし、車内からは鹿島灘を眺めることはできず、のどかな田園地帯を走り抜ける。雨も次第に小降りになってきた。
 このままバスで鹿島バスセンターまで直行してもいいのだが、鹿島灘にまったく挨拶していないので、鹿島灘に面した神栖海浜運動公園へ立ち寄ってみよう。運転手に最寄りの停留所で降ろしてもらうように頼む。
 バスの乗客は波崎から離れるに連れて次第に減少していったが、神栖に近付くと再び増加に転じる。市街地が離れるに連れて、郊外の自宅へ戻る人が下車し、市街地が近付くに連れて郊外の自宅から市街地へ向かう人が増えて来るという傾向が顕著なバス路線だ。神栖は鹿島臨海工業地帯が近いので、工場に勤務する人が暮らす住宅街が形成されている。
 県道117号線を直進していたバスが左折をして、鹿島灘に背を向けて走り出したので、「あれっ」と思って地図を確認する。運転手には神栖海浜運動公園の近くで降ろしてくれるように頼んであったのにどんどん神栖海浜運動公園から離れて行くではないか。やがてバスは国道124号線に合流してしまったので、慌てて降車ボタンを押す。
「ここは公園の最寄りじゃないよ!」
運転手が怪訝な顔をするが、地図を照らし合わせても神栖海浜運動公園の最寄り停留所は知手浜付近である。運転手はどこか他の場所と勘違いをしているのではなかろうか。
「ええ。でも、ちょっと立ち寄りたいところができまして。すみません。ありがとうございました」
運転手と問答をしても仕方がないので、適当にお茶を濁してバスを見送る。後で調べてみると、鹿島港を一望できる展望塔を備えた港公園という公園があり、おそらく港公園と勘違いしたのだろう。運転手の勘違いに乗じて港公園へ運ばれていれば、新しい発見があったかもしれないが、そのときは行程の修正を図ることばかりに気を取られていた。
 空は灰色だが、幸いにも雨は止んでいる。バスから降りた停留所名を確認すると奥野谷公民館前とある。地図で正確な位置を確認すると鹿島港の南航路に近い。神栖海浜運動公園までは4キロ近く離れており、雨が降りそうな天候の中、わざわざ足を運ぶ気にもなれず神栖海浜運動公園は見送り。
 ちょうど昼食時だったので、適当な店を探す。幸いにも国道124号線沿いには食堂が軒を並べており、少し迷った挙句、「中華料理杏林」の暖簾をくぐる。店の前には空き地のような広い駐車場があり、大型トラックが2台駐車していた。トラックの運転手がこの店のお得意様なのであろう。店内に入ると女性のヌードポスターが貼り巡らされ、成人向け雑誌が山積みされている。
「おおっええ店やないか!」
安部クンは大はしゃぎだが、高校生の我々には随分と刺激の強い店だ。目のやり場に困りながらラーメンをすするが、堂々と成人雑誌に目を通す安部クンが羨ましくも思える。誰もがこの手のものに興味を持つ年代なのだ。食事が終わってもなかなか席を立とうとしない安部クンを追いたてて店を出る。
 ここから真っ直ぐ鹿島を目指してもいいのだが、わざわざバスを途中下車したのに昼食のためだけに立ち寄ったのでは芸がない。神栖海浜運動公園の代わりになるポイントがないかとラーメンを食べながら地図を確認していると、ここが鹿島臨海鉄道の旧鹿島港南駅があった場所に近いことに気が付いたのだ。せっかくなので、鹿島港南駅があった場所を訪ねてみる。
 鹿島臨海鉄道の鹿島臨港線は、1970年(昭和45年)7月21日に北鹿島−奥野谷浜間の19.2キロの貨物専業鉄道として開業した。その後、新東京国際空港へ航空機の燃料を輸送するためのパイプラインが完成するまでの間、鹿島臨港線を利用して暫定的に航空機の燃料を新東京国際空港へ輸送することになった。新東京国際空港の建設に反対する過激派との闘争は開港後も続いていたので、当然、鹿島臨海線の沿線住民は燃料の暫定輸送には反対した。そこで鹿島臨海鉄道は、住民の理解を得るために、1978年(昭和53年)7月25日から貨物専用線であった鹿島神宮−北鹿島−鹿島港南間18.6キロの旅客営業を開始する。鹿島神宮−北鹿島間は国鉄鹿島線への乗り入れで、信号所しかなかった北鹿島は折り返しのための運転停車で、列車はすべて通過扱いとなっていた。しかし、鹿島臨海線の列車は1日3往復のみの営業。1日の平均輸送人員は20人前後に過ぎなかった。やがて1983年(昭和58年)8月8日にパイプラインの供用が開始されると、暫定輸送は終了。鹿島臨海線の旅客営業も同年11月30日を最後に終了し、わずか5年4箇月の歴史に幕を閉じたのである。
 鹿島港南駅跡は、鹿島港南踏切に変身しており、駅があった面影はまったく残されていなかった。予備知識がなければここに駅があったことなどわからない。もともと旅客営業が暫定的なものであったから、鹿島港南には駅舎などは設けられていなかったのだろう。貨物列車でも通過しないかとしばらく踏切で様子を伺っていたが、雨足が強くなってきたので退散する。
 鹿島港の南航路にも足を記してから神之池(ごうのいけ)へ出る。鹿島港に隣接する神之池は台形状の形をしている。てっきり人工池だと思っていたが、もともとは現在の7倍の総面積約326万平方メートルもある円形の自然池であった。1965年(昭和40年)までは水郷国立公園にも含まれていた。しかし、鹿島臨海工業地域の整備を進めるにあたって、1967年(昭和42年)から埋め立てが始まり、現在の姿に至る。  神之池沿いにしばらく歩いた後、再び国道124号線に出た。鹿島神宮方面へ向かうバスを捕まえるためだ。雨足はますます強くなってくる。バス停のポールが見えたので駆け寄ってみると、木崎停留所であった。ところが、バス停に掲げられた時刻表や路線図には鹿島バスセンターの文字が見当たらない。
「あっちにもバス停があるよ!」
本多クンが交差点を挟んだ数十メートル先にあるバス停のポールを指差す。交差点を超えてポールをのぞき込めば、こちらも木崎停留所で、「鹿島バスセンター」の文字が確認できた。バス停は、停留所名が同じであっても、行き先によって場所が異なるので、惑わされることが多い。
 関東鉄道バスで鹿島バスセンターへ運ばれる。関東鉄道バスは鹿島神宮駅よりも市街地に近い鹿島バスセンターの発着となっており、鹿島神宮駅には立ち寄らない。
 鹿島バスセンターから鹿島神宮駅を目指して歩く。鹿島バスセンターから鹿島神宮駅までの道は、ちょうど3年前の1988年(昭和63年)8月4日にJR鹿島線の初乗りにやって来たときに、奥田クンとこの道を歩いたことがあるので、地図を見なくても道順の見当は付いている。香取から鹿島神宮に到着したものの、折り返しの列車が1時間近くなかったので、バスで香取へ戻れないかと鹿島神宮駅のキヨスクで相談したところ、バスは鹿島神宮駅ではなく、鹿島バスセンターに発着することが判明。たまたま商品を搬入していた業者のトラックで鹿島バスセンターへ送ってもらった。しかし、適当な時間のバスはなく、やむなく鹿島神宮駅へ舞い戻った次第である。
 鹿島町の市街地は、JR鹿島線と鹿島臨海鉄道の鹿島臨港線に挟まれるようにして形成されている。町役場は鹿島臨港線の沿線に近い場所に位置しており、大洗鹿島線もわざわざJR鹿島線に乗り入れるのではなく、鹿島臨港線に乗り入れて、鹿島駅を新設すれば自社の収益が増えるのではなかろうか。神栖町役場も鹿島臨港線の沿線近くにある。鹿島臨港線が旅客営業をしていた時代は、本来は貨物専業鉄道であったため、わざわざ旅客用車両のキハ1000形を維持管理するのは負担であったかもしれないが、日本鉄道建設公団が建設していた水戸−北鹿島間の53.0キロを引き受け、1985年(昭和60年)3月14日に大洗鹿島線として開業。現在は立派な旅客鉄道会社となっている。茨城県の県庁所在地である水戸へのアクセス線としての需要は認められそうな気がする。
 鹿島神宮駅へ出る途中に、駅名にもなっている鹿島神宮があったので立ち寄る。鹿島神宮は、全国に約600社あると言われる鹿島神社の総本山で、神栖町にある息栖(いきす)神社、佐原市にある香取神社と合わせて東国三社と呼ばれている。外周ルートから少々外れる息栖神社は素通りしてしまったが、ルート上にある鹿島神宮は無視できない。
 大鳥居前には参詣客用の駐車場が整備されており、土産物屋が軒を連ねる。天候は冴えないが、さすがに観光客の姿が目に付く。水郷筑波国定公園では外せない観光スポットだし、夏休み期間中とあれば当然か。銚子からしばらく観光とは無縁の旅を続けていたので観光客の姿が新鮮に見える。
 しばらく歩くと朱塗りの荘厳な造りの楼門が現れた。1634年(寛永11年)に水戸初代藩主である徳川頼房が奉納したもの。徳川頼房は、「水戸黄門」で知られる徳川光圀の父親に当たる。福岡県の筥崎宮の楼門、熊本県の阿蘇神社の楼門と並ぶ日本三大楼門のひとつとのこと。
 楼門をくぐると正面ではなく、右手に本殿が構えていた。こちらは1619年(元和5年)に江戸幕府の2代目将軍である徳川秀忠によって奉納されたもの。紀元前660年の創建と伝えられる鹿島神宮に対しては、徳川家も畏敬の念を抱いていたことが伺える。
 本殿からは、奥の院へ続く奥参道が通じていたので先へ進む。参道の両側には木立が生い茂っている。鹿島神宮の社叢は、1963年(昭和38年)に茨城県の天然記念物に指定されている。約70ヘクタールの境内には、630種類を超える多彩な植物が繁茂しているとのこと。天気は相変わらずの雨模様であるが、しとしとと降る雨は、却ってわび・さびの風情を醸し出す。
 奥参道の左手には鹿園があり、30数頭の日本鹿が飼育されていた。鹿の神である天迦久神(あめのかくのかみ)が、天照大御神の命令を鹿島神宮の御祭神である武甕槌大神のところへ伝えにきたことから、鹿島神宮では鹿が使いとされている。鹿園で飼育されている鹿は、奈良の神鹿の系統を受けているそうだが、奈良の鹿が放し飼いされているのに対して、鹿島神宮の鹿は狭い鹿園に閉じ込められて少々窮屈そうだ。
 奥宮も重要文化財に指定されており、1605年(慶長10年)に徳川家康が本殿として奉納したものとのこと。現在の本殿が造営されたときに奥宮として移築したという。
 奥宮の向かいには芭蕉句碑があり、1687年(貞享4年)に「鹿島詣」で鹿島神宮を訪れた際に詠んだ「此の松の実生えせし代や秋の神」と刻まれている。句碑は1766年(明和3年)の建立でこちらも歴史がある。
 奥宮の参拝を済ませたので戻ろうとすると、安部クンが境内案内図を見ながら提案する。
鹿島神宮・要石 「戻る前に要石(かなめいし)を見に行かへん?なんか面白そうやで」
要石は奥宮の左手に続く小道をさらに進んだところにあった。周囲を鳥居と杭で囲まれて、仰々しく祀られた要石は、見た目は小さな石に過ぎない。しかし、徳川光圀が家来に掘らせたところ、七日七夜掘っても掘り切れず、諦めて埋め戻したと伝えられている。現在では鹿島神宮の大神が降臨した御座とも、地震を起こす大鯰の頭を押さえている鎮座とも言われているとか。触ることすら許されないので、少々物足りなさを感じるがやむを得ない。下手に触れば大地震が発生するかもしれないのだから。
 本殿の近くには宝物館もあったのだが、見学時間は16時までだったので、タッチの差で間に合わなかった。日本最古で最大の「直刀」が国宝に指定されており、宝物館の目玉であるようだが、眺めたところで我々にはその価値もわからないだろうし、気にせずに先へ進む。
 帰り掛けに土産物屋の前に設置されていた自動販売機でサントリーの「アセロラ・コーラ」という変わり種商品を発見したので試してみる。アセロラは、鮮やかな赤色のサクランボに似た果実で、ビタミンCを多く含んでいる。近年の健康ブームによって、「アセロラドリンク」が普及していることは知っていたが、とうとう「アセロラ・コーラ」なるものが登場した。ところが自動販売機から出て来た缶には「無果汁」の表示。柳田クンに冷やかされながら「アセロラ・コーラ」を賞味するが、甘酸っぱい風味がするだけのフレーバーコーラだった。飲んだ後にも口の中に甘さが残り、さっぱりした通常のコーラに軍配が上がる。柳田クンには、私がまた変な物に手を出したと冷やかされた。
 鹿島神宮を後にし、10分も歩けば見覚えのある立派な高架ホームを構えた鹿島神宮駅が現れた。券売機で鹿島臨海鉄道の切符を購入しようとしてはたと気が付く。我々はJR全線が乗り放題の「青春18きっぷ」を所持している。JR鹿島線はすべて鹿島神宮止まりになっているが、戸籍上は次の北鹿島までがJR鹿島線となっており、北鹿島から先が鹿島臨海鉄道大洗鹿島線だ。鹿島神宮駅で発売されている切符は当然のことながら、鹿島神宮からの運賃になっている。我々は北鹿島までの乗車券を所持していることになるのだから、ここで切符を買ってしまっては、鹿島神宮−北鹿島間が二重払いになるのではなかろうか。
 改札口では「青春18きっぷ」を提示し、ホームに停車していた鹿島臨海鉄道の16時34分発水戸行き180Dに乗り込む。発車までに時間があったので、通り掛かった車掌に声を掛けて、北鹿島からの切符を購入したい旨を申し出る。「青春18きっぷ」や北鹿島までの乗車券を所持して乗り越しを申し出る乗客は少なくないと見え、車掌はすぐに我々の申し出を理解して、北鹿島からの乗車券を車内券で発券してくれたのだが、そこからが大騒動であった。鹿島臨海鉄道の車内券はすべて駅名をすべて手書きで発券しなければならないのである。我々の行き先は、長者ヶ浜潮騒はまなす公園前なのだ。正式表記で13文字、平仮名で20文字の駅名は、日本で最も長い駅名なのだ。我々は8人の大世帯。車掌は、わずか2駅160円の区間のために、「北鹿島」と「長者ヶ浜潮騒はまなす公園前」という文字を車内補充券に8回記入しなければならない。途中で発車時刻になってしまい、発券は一時中断。発車後に続きの発券が行われたが、池田クンと釣銭の授受でトラブルになる。結局は車掌の勘違いで無事に解決。
 鹿島神宮を発車した180Dは、すぐに左へカーブする。右手には鹿島神宮の社叢が見え、やがて鹿島臨港線が寄り添って来る。鹿島臨港線と合流したところで列車は運転停車。JRの駅でありながらホームはなく、全列車が通過するという珍しい北鹿島駅だ。実態は単なる信号所である。周囲を見回しても何もなさそうだ。実態として駅の体裁を成していないのだから当然である。北鹿島で対向列車との行き違いをして、180Dはゆっくりと動き出した。
 鹿島神宮から10分で長者ヶ浜潮騒はまなす公園前に到着。1面1線の単式ホームには、あまりにも駅名が長いため、2段表記になった駅名標が建っている。1990年(平成2年)11月18日の開業当初は、マスコミにも大々的に取り上げられたが、現在は一段落している。この日本一長い駅名は、「子どもたちに夢をあたえるような駅名にしたい。」という思いから、大野村の生井沢村長によって命名された。駅名の由来は、角折海岸が文太長者ゆかりの海岸であることから生まれた「長者ヶ浜潮騒」に、自生南限地である「はまなす」を組み合わせたことによる。
 駅舎は存在せず、もちろん無人駅だ。駅前には開業と同時に造られたと思われる新しい公衆トイレが建てられている他は見事に何もない。そのような場所に新駅が誕生したのも、やはり生井沢村長の熱意によるところが大きい。大野村には、もともと荒野台、鹿島大野、鹿島灘と3駅が存在したため、4駅目となる長者ヶ浜潮騒はまなす公園前の設置には鹿島臨海鉄道も難色を示していた。しかし、生井沢村長が何度も関係機関に足を運び、粘りに粘ってようやく設置が認められた駅であったのだ。駅周辺の開発もこれから始まるのであろう。
 駅から海岸に続く道を10分も歩くと、駅名にもなっている「潮騒はまなす公園」にたどり着いた。「潮騒はまなす公園」は、駅よりも一足早く、1990年(平成2年)4月28日に開園している。もともと公園の敷地は、椎や樫、黒松が植生する場所であった。しかし、黒松が松くい虫の被害にあって、伐採せざるを得なくなる。そこで生井沢村長は、この地を公園として再生させることを思い付いたのだ。
 公園の中心にはシンボル的な存在である展望塔が構えているが、見学時間は16時30分までとなっている。
「管理事務所に灯りが点いているし、頼んだら登らせてくれるのと違うか?」
安部クンが言うが、時刻はもう17時近い。頼んだところで迷惑そうな顔をされるだけだろうし、次の列車の時刻まで30分もないので、慌ただしくなりそうだ。天気もあまり良くないので、無理して登ることもないだろう。季節が少し遅いので、はまなすを愛でることはできなかったが、緑の多い公園内を散策してから駅に戻る。
 長者ヶ浜潮騒はまなす公園前から17時22分発の184Dに乗り込む。184Dが動き出すと、にわかに周囲が薄暗くなり、窓ガラスに大粒の雨が叩きつける。
 はまなす自生南限地帯に近い鹿島灘を経て大洋村に入る。鹿島灘、大洋と海に縁のある駅名が続くが、太平洋はさっぱり見えない。その代わりに左手に湖面が広がった。
「あの湖は何て言うの?」
池田クンに尋ねられ、咄嗟に「霞ヶ浦だよ」と答えてしまったが、不安になって地図を確認すると北浦と記されている。しかし、国土庁では、霞ヶ浦を西浦、北浦、外浪逆浦(そとなさかうら)、北利根川、鰐川(わにがわ)、常陸利根川の各水域の総称と定義しているので間違いではない。やがて築堤上のホームがある北浦湖畔に列車は到着した。
 184Dを新鉾田で下車。鉾田町は、江戸時代、水戸から江戸へ送る物資の積替地としてにぎわう陸上交通の要衝であり、現在も鹿島臨海鉄道、鹿島鉄道の2線が乗り入れる。鉾田から先は大洗まで大きな集落はなく、今日は鉾田泊まりが妥当であろう。
 高架下にある新鉾田駅は、鉾田町の市街地の外れにあるようで、周囲には空き地が多い。もともと市街地を避けて線路が敷かれたところに駅を造ったのだから当然と言えば当然だ。
 鈴木クンがすぐに公衆電話で今宵の宿探しを始める。しかし、8人の大世帯は考えもの。空き部屋があっても、8人と伝えると断られてしまうという。6軒目の電話で何とか「麻生屋旅館」が素泊まり3,900円で引き受けてくれた。
 「麻生屋旅館」も鹿島鉄道の鉾田駅に近い市街地にあるらしく、新鉾田駅からだと歩いて20分近くかかるという。相変わらずの雨模様で、駅から出歩くのも煩わしいなと思っていると、新鉾田駅まで迎えに来てくれるとのこと。8名の送迎なので、マイクロバスでもやって来るのかと思ったが、しばらくするとワゴン車と乗用車の2台の迎えがやって来た。
 宿に荷物を置くと、雨が少々小降りになったので、夕食の調達がてら散歩に出掛ける。「麻生屋旅館」から歩いて5分ぐらいのところに鹿島鉄道の鉾田駅があり、昭和初期の面影を残す風情のある終着駅だ。現在の鉾田駅が営業を開始したのは1939年(昭和14年)4月1日。全体としては和風の駅舎であるが、駅舎の出入口に三角形のオブジェが設置されており、和洋折衷の駅舎になっている。「鹿島鉄道線鉾田驛 STATION HOKOTA」という木製の駅名標が掲げられており、ホームには「長驛 STATION MASTER」という標識もあった。ここから鹿島鉄道に乗ってみたい衝動に駆られたが、外周旅行の途上なので別の機会に譲る。
 鉾田駅近くにあった「セブンイレブン鉾田駅前店」で、夕食用に「チキンカツ弁当」(380円)を購入。値段の割にはボリュームのある弁当で、コンビニ弁当も最近はなかなか充実している。
 「あ〜あ、今日は阿字ヶ浦までは行けると思ったけどなぁ」
旅館に戻って夕食にすると、安藤クンが恨めしそうに言う。無駄に銚子で歩かなければ、もっと先へ行けただろうと言いたげだ。しかし、先を急ぐだけでは旅の面白味は半減してしまう。先は長いのだし、のんびり旅を続けようではないか。

第9日目<< 第10日目 >>第11日目