ITの進化は人類の進化

第8日 御宿−野栄

1991年3月19日(火) 参加者:池田・鈴木・柳田・山田

第8日行程  大原町の「民宿さすけ」で目覚めると、窓から朝の日差しが差し込んでいる。1泊素泊まり3,000円という料金であったが、コーヒー牛乳のサービスがあった。ドライなホテルとは対照的で、民宿というのもなかなかいいものだ。
 昨日は大原駅からタクシーを利用してしまったが、駅から民宿までの経路はしっかりと頭に入れておいたので、朝の散歩を兼ねて大原駅まで歩く。「民宿さすけ」はJR外房線よりも西側にあるが、大原駅の改札口は東側にしか設置されていないため、大原駅から北に200メートルぐらい離れたところにある踏切を渡って、東側に回り込まなければならない。踏切を境に1988年(昭和63年)3月24日にJR木原線を引き継いだ第3セクターのいすみ鉄道がJR外房線と分かれて左へとカーブを描いていく。まだ乗車したことがない鉄道であり、大原までやって来て素通りしてしまうのは惜しいが、外周旅行とは無関係なので別に機会に譲るしかない。
 大原始発6時58分のJR外房線225M普通列車で御宿まで戻り、通算第8日目となる日本外周旅行を再開する。駅舎には、御宿海岸のシンボル的存在でもあるラクダのイラストが描かれている。本日最初のポイントは、御宿海岸に待つラクダの銅像だ。
 駅前通りには街路樹として背の高いワシントンヤシが植えられており、南国ムードを醸し出しているが、さすがの南房総でも3月中旬ではまだ肌寒い。町内を蛇行する清水川をたどって15分ほど歩くと網代湾に面した御宿海岸に出た。
 御宿海岸は房総を代表する海水浴場であるため、首都圏からの観光客も多いが、3月中旬ではさすがに閑散としている。季節外れの御宿中央海水浴場の片隅に、2頭のラクダに乗った王子と姫をあしらった銅像は建っていた。月の沙漠記念像である。
 御宿海岸は、童謡「月の沙漠」の発祥の地である。大正時代の代表的な抒情的な挿絵作家であった加藤まさをは、学生時代に結核の療養のために御宿に滞在。その時に眺めた御宿海岸をモチーフにして、1923年(大正12年)3月に詩と挿画からなる「月の沙漠」を発表した。童謡としての「月の沙漠」は、後に作曲家の佐々木すぐるが勝手に曲を付けて普及させたという。
「月の〜沙漠を〜は〜る〜ばると〜♪」
月の形をした加藤まさを直筆という詩碑を見ながら「月の沙漠」を口ずさんでみるが、あまりしっくりと来ない。御宿海岸と砂漠のイメージが結び付かないのだ。砂漠というのは見渡す限り延々と砂地が続いているものではなかろうか。清水川が注ぎ込む太平洋の大海原とリゾートマンションに挟まれた御宿海岸は砂漠のイメージからほど遠いのである。加藤まさをが眺めた時代はもっと広い砂浜だったのかもしれないが、「月の沙漠」のモチーフになったのは、加藤まさをの出身地である静岡県藤枝市近隣の海岸であるとも伝えられている。だからというわけでもなかろうが、「月の沙漠」の発祥の地が御宿海岸であることを永遠のものにするため、1969年(昭和44年)7月6日にこの地に月の沙漠記念像が建てられたという。
 清水川の対岸には、月の沙漠記念館があり、加藤まさをの作品を公開しているとのことだが、開館時刻は9時となっており、まだ1時間以上もあるので別の機会に譲ることにして、御宿海岸を後にする。
月の沙漠像  次なる目的はメキシコ記念塔。地図を見ると、月の沙漠記念像から1キロ少々離れたところにメキシコ記念塔なるものが記されており、気になっていたのだ。網代湾沿いに歩いていると、前方の丘の上にオベリスクが見え、どうやら目指すメキシコ記念塔のようだ。やがて、手作りの案内標識が現れ、それに従って民宿が集まる住宅街に入り込む。しかし、たどり着いたのはメキシコ記念塔ではなく、大福寺という寺院。どこかで道を間違えたのかと引き返し、地図を確認する。目の前に目的地が見えているだけにもどかしさを感じる。そんな我々を見兼ねたのか、近所のおばさんが声を掛けてくれた。
「あんたらどこへ行きたいの?」
「メキシコ記念塔へ行きたいのですが、案内標識に従ったら迷ってしまって…」
「メキシコ記念塔へ行きたいなら、海岸沿いの道路に出て、トンネルを抜けて裏から回らないと駄目だよ」
おばさんの教えてくれた道は、案内標識とは矛盾するのだが、地図を見てもおばさんの言うことの方が正しそうである。
 岩和田漁港前のトンネルを通り抜けて、かなり急な坂道を登ると、ようやくメキシコ記念塔に到着。わざわざ手作りの案内標識を掲げておきながら、間違った道を指示するなんてひどいものだと憤慨したが、後日、詳細な地図で確認すると、大福寺へ通じる露地の1筋手前の路地に入れば、メキシコ記念塔へ抜ける道があったようである。結果的に手作りの案内標識も間違ってはいなかったのであるが、進むべき露地を示してくれなければ不親切だ。
 メキシコ記念塔の周辺は、メキシコ記念公園として整備されていた。小高い丘の上にあるため、網代湾や弓形の美しい御宿海岸が一望できる。リアス式海岸の続く勝浦周辺とはまったく異なる光景だ。
 高さ17メートルに及ぶメキシコ記念塔は、1928年(昭和3年)に日本、スペイン、メキシコの3カ国の友好の塔として建設された。正式名称は「日西墨三国交通発祥記念碑」と言う。そもそもの由来は、1609年(慶長14年)9月30日未明に遡る。スペイン領フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行が帆船「サンフランシスコ号」でメキシコに向かう途中、台風で遭難し、記念公園に近い岩和田海岸で座礁。乗組員373名中317人が周辺住民によって救助された。救助された乗組員は、住民の手厚い保護を受けた後、大多喜城主であった本多忠朝の計らいにより、江戸城の将軍徳川秀忠と駿府城の徳川家康に謁見。翌年には、徳川家康が三浦按針(ウィリアム・アダムス)に建造させた新造船を贈られ、無事にメキシコにたどり着いた。日本史上で語り継がれている1611年(慶長16年)の答礼使ビスカイノの来日、1613年(慶長18年)に慶長遣欧使節団を率いた支倉常長によるメキシコ、スペイン、ローマ訪問も岩和田村の住民による産物である。
 メキシコ記念塔から少し離れたところには、「ロペス・メキシコ大統領来訪記念碑」も建てられていた。こちらは、1978年(昭和53年)11月1日にメキシコのホセ・ロペス・ポルティーリョ大統領が御宿を訪れ、「兄弟よ、私はやってきた」と笑顔で語り、歴史に培われた友情をさらに誓い合ったことを記念したものである。御宿町は、同年にメキシコ南部にあるアカプルコと姉妹都市協定を締結している。
 「帰りはタクシーで戻らない?」
昨日は積極的に歩いた山田クンから弱気な提案。さすがに疲れが出てきたのであろう。しかし、メキシコ記念公園には公衆電話などは見当たらない。我々しかいない公園に客待ちをするような奇特なタクシーがあるはずもなく、歩いて御宿駅へ戻るしかなさそうだ。
 御宿駅へ続くワシントンヤシが並ぶ南国ムード満点の通りには、「ロペス通り」と名付けられており、道端にあった案内板によれば、ロペス大統領が御宿町を訪問したときにこの道を通ったことに由来するという。大統領が通ったというだけで、大統領の名前が通り名になってしまうのも驚きだが、人口約8,000人の小さな町に一国の大統領がやって来ると言うことはそれだけ大きな事件であったのであろう。歩いたおかげで新しい発見ができたものである。
 御宿駅に戻ると山田クンがキヨスクで買った新聞を広げる。前頭13枚目の貴花田が初日から無傷の9連勝を大きく報じている。
「うわぁ〜貴花田は昨日も買ったのか!今日も勝つといいなぁ」
山田クンが声を上げる。弱冠18歳。我々よりもわずか3歳年上に過ぎない貴花田の活躍には山田クンならずとも注目する。元大関貴ノ花の息子で、兄の若花田と共に注目を浴びて角界に入門した貴花田であるが、実力は評判以上なのかもしれない。
 御宿からは8時43分発のJR外房線1248M普通列車で大原を乗り過ごし、長者町まで進む。駅の近くに郵便局があったので足を向けると岬郵便局であった。ここは夷隅郡岬町の中心なのである。もともとは長者町を名乗っており、郵便局も長者町郵便局であったのだが、1961年(昭和36年)8月1日に隣の太東町と合併し、岬町と改称された。これに伴って郵便局も長者町郵便局から岬郵便局へ改称されたとのこと。
 さて、長者町で下車したのは、岬町の由来になっている太東崎へ足を記すためだ。太東岬と飯岡町の刑部岬の間の海岸が九十九里浜と呼ばれているため、太東岬は九十九里浜の起点でもある。ところが、岬郵便局の職員に確認しても太東崎へ向かうバス路線はないという。長者町駅から太東岬までは4キロほど。1時間も歩けばたどり着けそうだけど、今日は朝から御宿で散々歩きまわっている。無理をしないで無難にタクシーを利用とする。
 長者町駅の近くに東洋タクシー長者営業所があったが、車庫にタクシーの姿はなく、営業所にも人の気配はない。やむを得ず、駅前の公衆電話から茂原市にある本社営業所へ電話をして、タクシーを配車してもらう。
 やがて1台のタクシーが駅前に到着し、行き先を告げるが運転手の態度はよろしくない。
「太東岬なんて何もない。わざわざ太東岬へ何をしに行くの?灯台を見るなら九十九里へ行けばいい」
太東岬へ行くのが嫌なのか、乗車距離が稼げないからか、頻りにこのような言葉を繰り返す。
「取りあえず行けば満足しますので、太東岬へ行って下さい。その後、太東駅まで送ってもらいますので」
運転手は不服そうな顔をしながらもアクセルを踏み込み、太東岬へ向かって車を走らせる。岬町市街地を抜けて国道128号線に入り、夷隅川に架かる江東橋を渡る。かつては夷隅川が長者町と太東町の境界になっていたのであろう。やがて、灯台入口という交差点を右折し、細い地方道を進む。丘陵地帯を登り始め、周囲が山道のような様子に変わってくると、運転手はふいに車を停める。
「この先は車両通行止めになっているから、ここから先は歩いて行ってくれ。太東駅に戻るときは、うちではなくて太東にある別のタクシー会社を呼んでくれ。観光なら車を待たせておくほどすぐには戻って来ないだろ」
こう言い放つと、運転手は運賃を受け取って瞬く間に走り去っていった。頼まれても2度と東洋交通のタクシーなど乗車するものか。それにしてもこれほど横柄な態度でよくサービス業が務まるものだと不思議に思う。
 とりあえず、ここまで来たからには太東岬へ足を記さなければならない。にわかに坂道がきつくなるが、道路には車の轍が残っており、車両通行止めの様子はない。タクシーを降ろされた場所から10分も歩けば、太東埼灯台にたどり着く。灯台までの道路は決して広くはなかったが、車両通行止めにはなっておらず、灯台前には小さい駐車場が整備されている。我々が到着した直後には、自家用車で太東埼灯台へやって来た夫婦もいた。
「あの運転手め!車両通行止めだなんていい加減なことを言いやがって!」
鈴木クンの怒りはもっともだ。
 太東埼灯台は海辺ではなく、小高い丘の上に設置され、周囲は木々に囲まれている。当然のことながら、太平洋の海原を眺めることもできない。もともとは海辺に建てられていたが、海岸浸食で倒壊の危険にさらされたため、1972年(昭和47年)に現在の場所へ移設されたという。1952年(昭和27年)5月に初点灯した太東埼灯台は、現在が2代目。白亜の円形灯台で、高さは16メートルの小振りな灯台だ。しかし、海抜58メートルの高さにあるので、海の安全を守るためには十分な高さだ。当初は有人灯台として設置されたらしいが、現在は無人の灯台となっている。
 海辺に出れば九十九里浜を見渡すことができるのではないかと灯台の周辺を散策してみたものの、海辺へ通じる道は見当たらず、そのまま太東駅方面へ引き返すことにする。帰りのタクシーを呼ぼうにも、公衆電話などあるはずもなく、やはり自分の足だけが頼りだ。
「太東駅までどのくらいの距離があるの?」
鈴木クンが心配そうに尋ねる。御宿に続いて今度はどれだけ歩かされるのだろうかという不安が顔に出ている。
「4キロ弱かな」
私が答えると柳田クンが茶々を入れる。
「それなら実際は5キロ以上だな。いつもサバを読んでたくさん歩かせるのだから!」
鈴木クンの顔が曇るが、4キロ弱というのは正確な距離だ。太東駅から太東埼灯台までの所要時間も徒歩45分と紹介しているガイドブックもある。鈴木クンには地図を見せて納得してもらう。
 国道128号線と交わる灯台入口交差点まで戻って来ると、「セブンイレブン岬和泉店」があったので遅めの朝食兼早めの昼食とする。いわゆるブランチだ。各々が弁当やパンなど好きなものに手を出す。日頃はコンビニエンスストアの弁当など高いから手を出さないのであるが、旅に出るとやはり重宝してしまう。私は「大盛り焼きそば」を選んだ。そのまま店先に腰掛けて箸を動かす。
 「セブンイレブン岬和泉店」の近くには小湊鐡道バスの太東崎入口停留所があり、バス停の時刻表を確認してみたが、バスは8時代と14時代の1日2本だけで役に立たない。店先には公衆電話も設置されているので、タクシーの手配も考えたが、すぐにタクシーで太東駅へ運ばれても、太東10時04分発の千葉行き258Mには間に合いそうもないことに気が付いた。次の列車は1時間30分以上も後の11時39分である。どうせ時間を持て余すなら高いタクシー代に投資はしたくない。東洋交通タクシーの運転手の印象も災いしてタクシー利用は見合わせる。
 春の日差しが照り付け、少々蒸し暑さを感じる中、太東駅へ続く県道229号線をとぼとぼ歩く。周囲は田園風景が多く残り、のどかな場所だ。途中に太東小学校があり、正門には「卒業証書授与式」という看板が掲げられている。今日は小学校の卒業式なのだ。校内からは「さようなら」という声が聞こえて来る。平塚市の小学校では3月20日が卒業式と決まっていたので1日早く、地域によっても違いがあるようだ。我々も先日、中学校の卒業式を終えたばかりであり、にわかに数日前に終えた卒業式の模様を思い出す。
 歩いて太東駅に到着したものの、次の列車までは時間に余裕があったので、待合室に荷物を置いて、池田クンと山田クンと一緒に太東郵便局に向かう。長者町郵便局が岬郵便局に改称されたのに対し、太東郵便局が太東を名乗り続けるのは、町の中心が旧長者町に移ってしまったため、旧太東町の中心であった場所を記憶に留め置くためのようにも感じられる。太東駅から歩いて片道15分近くかかったが、無事に旅行貯金を済ませることができた。
 首都圏内の駅であるにもかかわらず、太東駅には自動券売機の設備がなく、乗車券は短距離切符もすべて窓口で購入しなければならない。持ち合わせのオレンジカードが役に立たないのは不満だが、まだ首都圏にもこのような駅が残っているのだ。上総一ノ宮までの乗車券は、残念ながら硬券切符ではなく、大きめのマルス端末発行乗車券であった。
 太東11時39分発の268Mに乗り込むと、車内には高校生がたくさん乗り合わせている。春休み前の昼間に下校中の高校生と列車に乗り合わせるのは不思議であるが、試験か学校行事の関係なのであろう。もっとも、車内は騒がしく、あまり居心地のよい雰囲気ではない。
 太東からわずか10分の上総一ノ宮で下車。ここから時刻表では空白地帯になっている九十九里浜へ挑むため、駅前にあった「ファミリーマート上総一ノ宮駅前店」で飲食物の調達。本当は食堂に入ってしっかりしたものを食べたかったのであるが、2時間前にブランチを済ませたばかりであったし、昼食時で数少ない駅前食堂は満員だったので見合わせた。池田クンと柳田クンは通常サイズの1.5倍というジャンボおにぎりを確保できたと御満悦。山田クンはヨーグルトを購入し、「おいしい。おいしい」と言いながらその場で頬張っている。私は「大盛焼そば」を平らげたこともあり、コーヒー牛乳だけに留めておく。
 上総一ノ宮駅前にある一宮駅停留所から一宮海岸行きの小湊鐡道バスに乗り込む。夏場であれば、一宮川観光汽船で一宮川を下り、一宮海岸まで行くこともできるのだが、残念ながら季節外れだ。バスは上総一ノ宮駅南側の踏切を渡って真っ直ぐと海岸に続く県道228号線を走る。このまま九十九里浜沿いの県道30号線に出るのだなと思っていたら、手前の海岸三角で左折し、最後は一宮川に沿って終点の一宮海岸に到着した。上総一宮駅からの所要時間はわずかに6分である。
 一宮海岸は一宮川の河口にあるものの、周囲を見回しても太平洋の姿はない。河口で一宮川が北へ屈折して、自然堤防を形成しており、視界を遮っているのだ。5分も歩けば海岸に出られそうであるが、一宮海岸から先へ行くバスは、一松行きが1日2本あるだけ。しばらくは否応なしに歩かざるを得ないので、無駄に体力を消耗しないように先へ進む。
 新一宮大橋を渡って対岸に渡ると、「九十九里有料道路」の案内標識が目に入る。1972年(昭和47年)6月17日に供用開始された有料道路である。一宮町から九十九里町まで海岸線に沿って全長17キロの道路が続いており、別名「波乗り道路」と呼ばれている。外周旅行向きの道路であるが、有料道路を走る路線バスはない。首都圏からの観光客誘致に一役買っている道路であるが、我々にとっては九十九里浜を遮断する障害物に他ならない。
 「九十九里有料道路」を除けば、県道30号線が外周ルートになるのであるが、県道30号線に平行して生活道路が通じている。バス路線は、生活道路を経由している可能性が高いので、我々は敢えて生活道路を進む。
 一宮海岸から30分も歩くと一宮町から長生村に入る。
「うわぁ〜村ですか!とんでもないところまで来てしまったなぁ。ところで、ここは『ながおむら』ですか?」
柳田クンに尋ねられるがにわかに読み方はわからない。
「どうかなぁ〜。『ながお』だったら、しばらくは『かんち』と呼ばれそうだな」
どうして「ながお」が「かんち」に化けるかと言えば、昨夜のテレビドラマに遡る。月曜日の夜に街から女性が消えたと言われるほど人気をはくしたフジテレビ系列のテレビドラマ「東京ラブストーリー」が最終回を迎え、我々5人も民宿のテレビで見入ってしまった。そのときの登場人物のひとりが織田裕二の演じる永尾完治で、ヒロインで鈴木保奈美の演じる赤名リカからは、常に「かんち」と呼ばれていたのだ。しばらく、疲れを忘れて「東京ラブストーリー」の話題で盛り上がり、長生村様様であるが、正式には「ちょうせいむら」であることを後で知る。
 長生村に入ってから1時間近く歩いたころに、突然、目の前の交差点左側から白子車庫行きのバスが現れ、我々を嘲笑うように走り去って行った。県道84号線との交差点で、茂原駅から白子車庫へ向かうバス路線があるようだ。程なく現れた一松停留所の時刻表を確認すると、1時間に2本の割合でバスがある。かなりの頻度で安心したが、それでも次のバスまで40分もあり、待ち時間がもったいない。少しでも歩けばバス代の節約にもなる。
 一松停留所から10分も歩くと白子町に入り、やがて幸治橋停留所にたどり着く。停留所近くにあったコンビニエンスストアで「ポカリスエット」を購入し、日陰で20分近くバスを待つ。時間的にはもう少し先まで歩けそうであったが、足の裏に水ぶくれができてしまって歩くのが辛くなってきたのだ。
 白子車庫行きも小湊鐡道バスの管轄。小湊鐡道と言えば、市原を拠点にした内房地区のイメージが強いが、戦時中に外房地区のバス事業者の多くを傘下に収めた歴史経過が影響している。
 運行頻度が高いだけあって白子車庫行きのバスは平日の昼間でも利用者が多く、かろうじて座ることができた。バスは旅館やホテル街を通り抜け、10分足らずで終点の白子車庫に到着した。 
 白子車庫はその名の通り小湊鐡道バスの車庫で、周辺は白子町古所の集落の中心地であったが、季節外れの海水浴場以外に見るべきものはなさそう。白子車庫には、小湊鐡道バスの運行系統図が掲げてあったので、これから先のルートを検討する。
 白子車庫からは大網駅行きの大網01系統があり、白里海岸までは海沿いを走ることがわかる。また、白里海岸からは大網駅からやって来る大網02系統が、その先の九十九里センターまで通じているようだ。小湊鐡道バスの管轄は、九十九里センターまでのようであるが、その先も別会社のバス路線がありそうである。ところが、バス路線を確認して安心したのも束の間、すぐにバスのダイヤに苦しめられる。白子車庫から大網駅へ向かうバスは14時台に1本もなく、次は15時05分と1時間以上も時間が開いてしまう。
 あまりにも時間のロスが大きいのでそうしたものか思案していると、茂08系統という茂原駅から白里海岸へ向かうバスが、白子車庫より2キロ近く先の牛込停留所を通ることがわかる。牛込まで行けば白里海岸行きの早いバスに乗れるかもしれない。30分ぐらいならなんとか歩けるだろう。さっそく、牛込停留所を目指して歩きだすと、幸治橋停留所での待ち時間で疲れを回復した山田クンが走り出す。
「一松のようにタッチの差で乗り遅れたら悔しいから、先に行ってバスが来たら待ってもらうように頼んでおきます!」
頼もしい限りだが、バスを何分も待たせるのは不可能だ。我々も山田クンに遅れないように先を急ぐ。
 大きなリュックを背負いながら、水ぶくれのできた足で走るのはなかなか過酷だ。3月中旬の春の日差しでも汗が噴き出して来る。来ているコートを腰に巻き、長袖の腕をまくって山田クンを追いかけるが、差はどんどん広がる。他のメンバーも同様だ。山田クンのどこにそんな体力があるのだろうか。
 20分ほど走ったであろうか。前方にバス停の前で座り込む山田クンの姿が見える。私に向かってお手上げだという素振りを見せる。走るのをやめてゆっくり歩き、やがてたどり着いた牛込停留所の時刻表を確認する。茂原駅からのバスは夕方までなく、結局、白子車庫からのバスに乗らざるを得ない状況となる。20分間のジョギングはまったくの無駄であった。鈴木クンは肩を落として、「今日の宿の予約確認をして来る」と公衆電話に向かった。
 牛込から乗った15時13分の小湊鐡道バスは、今まで乗ったバスの中で最低の部類に入るバスであった。まず、始発が白子車庫であるにもかかわらず、5分も遅れてやって来た。車両運用の関係もあるので、始発の停留所を必ずしも定時に発車できない事情があるかもしれないので、通常の5分の遅れならまったく問題がない。ところが、実際にバスに乗ってみて、遅れの原因が判明する。バスのスピードが極めて遅いのだ。生活道路だから速度制限が厳しいのであろうか。それにしても後続の乗用車は次々にバスを追い抜いて行く。5分も遅れているのだから時間調整のためにゆっくり走っているわけでもあるまい。それどころか、車内アナウンスは一切流さないし、運賃表の操作も一切行われず、始発の白子車庫を出発したときの状態のままだ。おかげで我々は白里海岸の場所が判らず、バスが左折して慌てて降車ボタンを押す。ところが運転手はバスを停める気配がない。
「ここで降ります!」
運転席に駆け寄って大声を上げる。運転手は急ブレーキを掛けてバスを停車させる。 「ええ!ここで降りるの?」
そう言うと慌てて運賃表を作動させる始末。この間に反対車線を九十九里センター行きのバスが通り過ぎる。大網駅まで行く乗客がほとんどなのかもしれないが、途中の停留所を一切無視するのでは路線バスの意味がない。我々は白里海岸から数百メートル離れた場所に降ろされて恨めしく小湊鐡道バスを見送る。
 白里海岸停留所に戻り、時刻表を確認すると1分前に九十九里センター行きのバスが出たところ。運転手が運賃表操作でもたもたしているときにすれ違ったバスだ。正常なダイヤであれば接続していたに違いなく、先の運転手がダイヤ通りに運転し、白里海岸できちんと降ろしてくれていれば確実に間に合ったはずだ。
「あの運転手がいけねぇよ!わざとゆっくり運転していたんじゃねぇの!」
柳田クンが文句を言う。わざとゆっくりと運転するという言葉を聞いて順法闘争という言葉が脳裏に浮かぶ。順法闘争はサボタージュの一種で、旧国鉄の労働争議の常套手段である。法令や規則を必要以上に順守してダイヤを乱し、業務能率を停滞させるのである。順法闘争は結果的に国民の反感を買い、国鉄の解体をもたらすという皮肉な結果を招いている。そのような手法を小湊鐡道バスの運転手も実行していたのではなかろうか。そうでなければ、後続車に次々と抜かれる徐行運転の理由が説明できない。あの様子では、大網駅に到着するまでに更に遅れは増すであろうし、JRに乗り継げない乗客も出て来るのではないか。
 小湊鐡道バスの停留所の隣には九十九里鉄道バスの停留所が並んでいた。九十九里鉄道という鉄道は耳にしたことがなく、バスの行き先が東金駅だったこともあり、JR東金線の前身が九十九里鉄道だったのではと予想したが外れ。九十九里鉄道は現在の東金駅から九十九里町の片貝までを結んでいた軌間762ミリのナローゲージで、開業したのは1926年(大正15年)11月25日。その後、真亀−片貝−大須賀間の伸延計画もあったが実現することなく、1961年(昭和36年)3月1日に廃止されてしまった。
 九十九里鉄道バスの東金駅行きは30分後の便があり、これに乗れば九十九里町の不動堂まで進める。その先も片貝までは九十九里鉄道の管轄であるから、バス路線は存在するであろうが、接続については不安が残る。
「もうタクシーでいいよ。タクシーで先に進もう」
鈴木クンがバスの乗り継ぎにうんざりした様子で提案する。上総一ノ宮駅からひたすらバスの乗り継ぎばかりなので、他のメンバーの指揮も下がっている。白里海岸から九十九里センターまでは約2キロ、不動堂まで行っても約3キロ。この程度の距離ならバスを乗り継ぐよりもタクシーの方が割安かもしれないし、時間も30分節約できる。それならタクシーに乗ってしまおうと公衆電話へ走り、電話帳をめくる。
「ちょっと待って。あのタクシーが客を降ろしているよ!」
山田クンが声を上げ,柳田クンと一緒にタクシーへ駆け寄る。運転手と交渉していた柳田クンが手招きをするので、交渉成立かと思ったらちょっと様子がおかしい。
「乗せてもいいのだけど、この辺りの地理に不慣れでね。うちは千葉のタクシー会社だから。誰か道案内をしてもらえる?」 偶然にも捕まえたタクシーは、千葉市内を拠点とする双葉タクシーである。千葉市内からここまでは30キロ離れており、そんな区間をタクシーで利用する人がいるのだから世の中は羽振りが良い。
「道案内なんて必要ありません。この道をまっすぐ行ってもらえれば結構です」
我々は海岸線沿いをたどることが目的なので道案内など不要である。問題はどこまでタクシーで連れて行ってもらうかだ。もちろんタクシー料金との相談にもなるが、地図を見ると蓮沼海浜公園が目に留まる。海浜公園には展望塔もあるので、九十九里浜を見渡すこともできそうだ。ここまでバスの乗り継ぎばかりで、肝心の九十九里浜にも挨拶できていない。距離にして10キロ程度であり、タクシーに乗車する距離としても手頃であろう。行き先を蓮沼海浜公園に決める。
 乗ってしまえばさすがにタクシーは速く、5分もしないうちに真亀川を渡り、九十九里町に入る。右手には「国民宿舎九十九里センター」の建物が見える。国民宿舎の前がバスの終点である九十九里センターだ。
 かつての九十九里鉄道の終点であった片貝は、九十九里町の中心に近く、閑静な住宅街になっている。旧上総片貝駅があった場所は、片貝駅停留所になっている。駅を名乗っているところに九十九里鉄道の名残りが感じられる。
 片貝で我々と九十九里海岸を遮っていた「九十九里有料道路」が途切れる。しかし、県道30号線から海岸までは500メートルぐらい離れているので海は見えない。
 成東町から蓮沼村入るとコンクリート製のビルのような蓮沼海浜公園展望塔が視界に入る。蓮沼海浜公園の入口でタクシーを降りると、料金メーターは3,170円を示していた。1人あたりの料金は634円だ。
蓮沼海浜公園展望塔  蓮沼海浜公園は、九十九里浜に面した全長4キロにも渡る千葉県立都市公園。敷地の広さは400,000平方メートルにも及ぶ。これだけ広い公園になると、さすがに散策する気力も体力も残っておらず、展望塔にだけ立ち寄ることにする。
 8階建てのビルのような展望塔にはエレベーターのような文明の利器はなく、172段の階段を一歩一歩登っていかなければならない。平日の昼間であるが、何組かのカップルと行き違う。大学生だろうか。お金もかからないので手頃なデートコースになっているのだろう。
 高さ30メートルの展望塔の頂上からの眺めは、九十九里浜のロングビーチが果てしなく続き、海岸沿いの防砂林と白い砂浜、青い海のコントラストが見事だ。内陸部に目をやると、海浜公園の周辺には蓮沼の田園風景が広がっている。蓮沼村は、1889年(明治22年)4月1日の町村制施行に伴い、蓮沼新田と平野新田が合併して誕生した村なのだ。現在は蓮沼海浜公園を目玉にレクリエーション都市としてのPRに努めている。
 九十九里浜の景色を堪能して階段を下りていると、戸締りにやって来た管理人と出会う。日は傾いているとはいえ、まだ日没まで時間があるというのに、展望塔は16時になると閉鎖されてしまうのだ。タクシーを利用したから間に合ったものの、バスの乗り継ぎをしていたら悔しい思いをするところだった。
「もう誰もいませんでしたか?」
管理人に尋ねられると山田クンが声を上げる。
「まだアツアツさんがいましたよ!」
「アツアツさんですか?」
管理人が苦笑する。
「2人きりの世界でしたからねぇ」
山田クンがにやにやして冷やかす。
「このまま一晩閉じ込めてあげた方がいいかなぁ。でも、そんなわけにもいかないか」
管理人は笑いながら階段を駆け上がって行った。
 蓮沼海浜公園の近くに横芝駅行きのバスが走っていることは確認済みだったので、停留所を探し歩く。県道30号線沿いにあった西浜停留所の時刻表を確認すると次の千葉交通バスは2時間後までない。蓮沼村内は横芝駅を起点としてバスが循環運転しているが、2時間も待ちぼうけの挙句、横芝駅へ運ばれてしまうのは芸がない。東へ歩けば野手浜方面へ向かうバスもありそうだ。再びタクシーという選択肢もあるが、今日はもう2回もタクシーの世話になっており、あまり散財したくない。鈴木クンの反対を押し切って歩く。
 西浜停留所から1時間近く歩いてようやく蓮沼村を抜けて横芝町に入る。周辺に工場があるためか、行き交うダンプカーやトラックが増えて来る。海岸も見えないので歩いていても楽しいものではない。
 栗山川に架かる尾形橋を渡ると行政区は横芝町から光町に移る。時刻は17時を過ぎて周囲も薄暗くなってきた。西浜停留所から7キロ近く歩いているが、野手浜方面に向かうバスの停留所は見当たらない。疲労もピークに達して誰も口を開かない。足取りも重くなり、惰性で歩き続ける。もしも立ち止まってしまったら、一歩も歩けなくなりそうであった。
 うつむき加減で歩いている中、ふと顔を上げるとバス停が見える。停留所には「老人ホーム」と記載されているが、周囲に老人ホームは見当たらない。地図を見れば海岸側の路地に入ったところに「擁護老人ホーム光楽園」があるようだ。あまり期待せずに時刻表をのぞき込むと、行き先表示が八日町駅となっている。野手浜まで8キロほど九十九里海岸沿いに走った後、JR総武本線の八日市場駅を目指す路線だ。幸いにも30分後に最終のバスがある。
「上等じゃないか!よく歩いたよ!ここからバスに乗ろう!もうこれ以上は歩けないよ!」
山田クンが声を上げる。もちろん山田クンの意見に反対するものはいない。私も含めて全員が停留所のポール脇に座り込んでしまう。
「すべては太東岬へ行ったときのタクシーの運転手がいけねぇよ!きちんと灯台まで行って、太東駅に送り届けて暮れていたらもう少しバスの乗り継ぎもスムーズになったかもしれない」
池田クンが今日の悲惨な行程の要因を分析する。1日で歩いた距離も計算してみると20キロ強にも及ぶ。ハーフマラソン並みの距離を重い荷物を抱えながら歩いたことになる。何しろ九十九里浜は時刻表の空白地帯なので、事前に下調べをすることができず、行き当たりばったりの行程となってしまった。あらかじめバスの時刻表でもあればプランを組めたのだが、そもそも現地へ出掛けなければどこのバス会社の管轄かもわからない状況だったのだ。
 八日市場駅行きの千葉交通バスは、定刻の18時03分に現れた。バスは程なく野栄町に入る。完全に日は暮れて周囲には闇に包まれる。今日は「国民宿舎飯岡観光センター」を予約しており、できれば飯岡まで旅を進めたかったのだが、この時間では野手浜から先へ進むバスの接続も怪しいうえ、飯岡までバス路線が通じていない可能性も高い。バスは野手浜で左折し、内陸部へ入ったので、今回の旅は野栄町の野手浜までという認定をして、そのまま八日市場までバスを乗り通すことにする。他のメンバーは野手浜を通過したことも知らずに夢の中だ。
 八日市場駅からはJR総武本線で飯岡に向かう。飯岡駅から「飯岡観光センター」までは5キロほど離れているが、バスぐらいはあるだろうと高を括っていた。ところが、飯岡駅に降り立つと、駅前は閑散としており、バス乗り場などどこにも見当たらない。集札を終えて暇そうにしている駅員に尋ねてみる。
「飯岡駅からのバスは近所を巡回する程度のバスしかありません。飯岡観光センターへ行くなら隣の旭駅からバスが出ているのだけど。ここからだと国道126号線まで出ないとバスはないねぇ。1キロ少々あるかなぁ」
飯岡町にある「飯岡観光センター」だったので、飯岡駅からバスがあるものだと早合点してしまった。再び旭駅へ引き返すのも時間とお金の無駄であるし、旭駅に戻ったところでバスがある保障はない。やむを得ず駅前で客待ちをしていた飯岡タクシーに乗り込み、本日3度目のタクシーの世話となる。「飯岡観光センター」も1泊素泊まり3,000円という格安の宿泊施設であるが、昨日の「民宿さすけ」といい、アプローチにタクシーを利用していては意味がない。
 タクシーで「飯岡観光センター」に運ばれると、5人であるにもかかわらず、10畳の大部屋を割り当てられ、広々としている。何よりもコーラーのような褐色のラジウム温泉が有難く、旅の疲れを癒してくれる。筋肉痛に対する効能もあるので、我々のために用意された温泉であるかのよう。施設内には温泉宿定番の卓球場もあり、宿に着いたときは「今日はもう動けない」などと口々にしていたのに、温泉上がりに卓球大会が始まるのだからタフなものである。もっとも、寝付きは昨日に増して早かった。

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