世間で起きている事チェック

第7日 太海−御宿

1991年3月18日(月) 参加者:池田・鈴木・柳田・山田

第7日行程  久里浜から東京湾フェリーで浜金谷に渡り、JR内房線の太海駅に集まったのは、高校受験を終えたばかりの5名。顔ぶれは大幅に変わり、外周旅行の参加歴があるのは私と柳田クンだけで、新顔が3名加わった。まずは横須賀市在住の池田宏クン。旺文社の月刊誌「中3時代」で旅の仲間を募集したところ応募してきたのが池田クンで実際に顔を合わせるのは今日が初めて。すらりとした長身で女の子には人気がありそうなタイプだ。今回の旅を通じて友好を深めたい。鈴木竜彦クンは中学時代の同級生。大学の付属高校に進学を決め、7年間の進路が約束された羨ましい身分。在学中は、学校行以外での関わりは乏しく、旅に興味があるとは知らなかったので、外周旅行への参加の申し出を受けたときは驚いた。もう一人は山田和弘クンで、やはり中学時代の同級生であるが、3年生のときに福井県から転校してきたばかりだったので、鈴木クン以上に交流は乏しかった。それでも地区対抗のソフトボール大会を通じて仲良くなり、関東地方の様子をよく知る機会になるからと外周旅行への参加を決めた。
 まずは、前回の旅の終わりに門前払いされた仁右衛門島を目指す。途中に太海郵便局があったのでもちろん立ち寄る。ちょうど9時になったばかりで、我々が本日最初の客となる。池田クンもこれからの旅に備えて旅行貯金用の通帳を作成した。太海までの道中で、旅行貯金の話をしていたので影響されたのかもしれない。
 前回、肩を落として歩いた道を進み、9時20分頃に仁右衛門島渡船場にたどり着く。前回、忌々しい押し問答を繰り広げた場所で、同じ係員だったら嫌だなと思ったが、今回は若い女性が乗船券売り場に座っている。太海駅に備えられていた割引券を提示すると中学生料金520円が50円引きとなった。
 桟橋でしおり状の観覧券を提示して小舟に乗り込む。乗船券ではなく、観覧券と記したのは仁右衛門島が平野仁右衛門氏個人の所有で、料金には往復の乗船料の他に仁右衛門島の入島料も含まれているからだ。南房総国定公園に指定されている島が私有地であるとは驚く。
 前後に漕ぎ手が1人ずついる小舟に乗り込み、ギーコ、ギーコと揺られれば、すぐ目の前の島に到着。乗船時間は3分もなかったようである。この程度なら橋を架けてしまえば良さそうだが、国定公園に指定されてしまうと、容易に橋を架けられないのかもしれない。あるいは、観光資源を維持するために意図的に橋を架けないのだろうか。夏場なら泳いで渡れそうでもあるが、しっかりと監視が付いており、上陸が見付かると渡船利用時と同じだけの料金を請求されるそうだ。
 我々が乗船した小舟には、レストハウスの荷物を積み込んでおり、仁右衛門島の桟橋ではレストハウスの女の子が待ち受けていた。「いらっしゃいませ。ようこそ仁右衛門島へ」との挨拶でもあれば、レストハウスに立ち寄ろうという展開になったのかもしれないが、女の子は船頭に「御苦労さまです」と声を掛けて荷物を受け取っただけだった。
仁右衛門島  仁右衛門島は周囲4キロ、総面積0.03平方キロと千葉県で最も大きな島である。桟橋の前にはレストハウスが構えており、島内に出入りするためには売店や食堂が入居するレストハウスを通らざるを得ない構造になっている。
 仁右衛門島は、冬も暖かい南房総の気候により、年間を通じて花が絶えることがなく、金銀針茄子(原名キンギンナスビ)という珍しい植物が自生しているとのこと。金銀針茄子は、夏から秋にかけて赤い実を付けるそうだが、残念ながら季節外れだ。
 桟橋からまっすぐ続く道を進むと石垣に囲まれた住宅に行き当たる。ここが島主の居宅で、年代を感じさせる木製の門には「平野」という表札が掲げられている。仁右衛門島の当主は代々「平野仁右衛門」を名乗るそうで、現在の島主は推定で38代目とのこと。1704年(宝永元年)に建て直した居宅とのことだがしっかりした造りだ。奥庭には樹齢600年以上と言われる大蘇鉄もある。
 平野家の居宅を中心として、仁右衛門島内の道は3方向に分かれていたので、外周旅行の原則に従って時計と反対周りになるように右に折れる道を選ぶ。しばらく歩くと島の南端に近いところにある「源頼朝かくれあな」にたどり着いた。1180年(治承4年)に石橋山の戦いに敗れた源頼朝が安房へ逃れたときに、平家の夜襲を避けて身を潜めた洞窟と伝えられている。そして源頼朝をこの洞窟にかくまったのが初代平野仁右衛門に他ならない。その後、源頼朝は、命の恩人である平野仁右衛門に対して「安房一国」を与えることを申し出たが、平野仁右衛門は、「安房一国」よりも「仁右衛門島の領有と周辺の漁業権」を要求したとか。実はこの話には落ちがあって、どうも平野仁右衛門は「安房一国」を「粟一石」と勘違いしたらしい。
 「源頼朝かくれあな」の隣にある正一位福女稲荷祠を眺めた後、太平洋を望む神楽岩へ。こちらは日蓮が仁右衛門島を訪れた際に朝日を拝した場所として伝えられる。日蓮は安房小湊の出身であるから、仁右衛門島を訪れていたとしても不思議はない。平野家も代々天台宗の門徒であったが、日蓮が仁右衛門島に足跡を残していたことを知ると日蓮宗に改宗したという。
 再び平野家の邸宅に戻り、仁右衛門島の南半分を踏破。北へ続く道は1本道なので選択の余地はない。富安風生句碑、芭蕉句碑、源講修歌碑と石碑が続く道を歩いて蓬島弁財天祠へ。平家の時代に宮島から勧請したという弁財天で、長寿を授けるという寿老人も合祀されている。
 北端に近い亀岩展望所からは鴨川市街地が見渡せるロケーション。眼下には展望所の名に由来する亀岩が浮かんでいる。
「おおっいい眺めだなぁ。海が輝いているよ」
山田クンが大きな声で言う。リアクションが大袈裟なのではなく、南国の海に心底感動している様子。福井県にも海はあるが、山田クンの住んでいたのは山間部の大野市。平塚市に引っ越してきて湘南海岸は近くなったけど、くすんだ海岸と南房総の海岸では比較にならない。
 桟橋に戻ってみれば島内の見学に要した時間は急いだわけでもないのに20分少々。これならば前回でも十分に立ち寄ることはできたはずである。そう言えば、前回、「今度ゆっくり見学すればいいよ。僕もゆっくり見たいから」と発言した安藤クンが今回の旅に参加していないのは遺憾。今頃は北海道を歩きまわっているはずである。
 仁右衛門島入口・太海フラワーセンターという長い名前の停留所に出ると、バスの待ち時間があったので、停留所の名前にもなっている「太海フラワーセンター」にも立ち寄ってみる。
 300円の入園料を支払うとピンクのプリムラ・メラコイデスの写真をデザインにした派手なチケットが手渡される。券面には「太海フラワー磯釣りセンター」とあり、こちらが正式名称のようだ。鴨川市営の公共施設であり、花と海の楽園がコンセプトらしい。ところが、入口から館内に入ると経路は隣接する温室へ続き、値札付きの鉢植えがずらりと並んでいる。
「この施設は何だ?入園料をとって花屋を見せるなんて詐欺じゃないか!」
山田クンが嘆くのも当然だが、出入口の近くに売店を置くのは観光施設でよくあるパターン。まさか値札付きの花だけということはあるまい。事実、この温室だけが独立して植物売店となっていた。
 植物売店の温室を出たところがバッチワークガーデンで、西洋花壇や露地花壇が広がり、花時計もある。季節はまだ早いが南国の南房総だけあって、ピンクや黄色の花が色鮮やかに咲いている。温室にはハイビスカスやシクラメン、熱帯植物が並んでおり、さすがに値札は付いていない。海の釣堀は海辺を改修して釣り堀にしており、数人が釣りを楽しんでいる。餌付きの貸し竿もあるようで、釣った魚は頼めばその場で調理してもらえるらしい。しかも釣り堀の魚は南房総名産の真鯛である。もっとも、釣り上げた真鯛を買い取るのに1尾3,000円とあり、調理にも別途費用がかかってしまうようなので見合わせる。
 バス停に戻ると発車5分前ではあったが10時39分発の日東交通バスは既に待機していた。太海興津線は仁右衛門島入口・太海フラワーセンターが起点となっているので都合がいい。さっそく運手席の後ろに陣取る。
 バスは太海集落を抜けると、やがて右手に太海海岸が広がり、後方には仁右衛門島が確認できる。短いトンネルを抜けると今度は安房松島で、沖合に浮かぶ島は松島ならぬ雀島だ。松島という地名は至るところで耳にする地名だが、もちろん本家は宮城県の松島だ。全国各地でやたらと松島にあやかって「○○松島」と名付ける海岸が多いが、あまりにも安易に松島を名乗るので却って印象に残りにくい。安房松島も安房雀島を堂々と名乗ればよかったのではなかろうか。
 鴨川ならぬ加茂川を渡ると鴨川市街地に入り、安房鴨川駅前に到着。内房線と外房線のジャンクションの駅であり、この駅から発車する列車は上り列車しか存在しないという面白い駅であるが、内房線と外房線を直通する普通列車もあるので、鉄道ファン以外には興味の対象とはなるまい。我々も安房鴨川駅を見送り、鴨川シーワールド前までバスを乗り通す。
 仁右衛門島入口・太海フラワーセンターから20分で鴨川シーワールド前までの所要時間は約20分。国道128号線と東条海岸に挟まれた細長い敷地に「鴨川シーワールド」がある。「鴨川シーワールド」は、1970年(昭和45年)10月には八洲観光が開園した施設で、現在は八洲観光を吸収合併した三井観光開発によって手掛けられている。「鴨川シーワールド」の周辺にはリゾートホテルや保養所が立ち並び、南房総を代表するリゾート地と化している。関東地方のテレビコマーシャルでも頻繁に宣伝が流れており、1度は行ってみたいと思っていた施設だ。「江ノ島水族館」を素通りしたのに対して、「鴨川シーワールド」に立ち寄るのは旅の方針が一貫していないようでもあるが、何度も足を運んだことのある「江ノ島水族館」と初めての「鴨川シーワールド」の違いで御都合主義である。もっとも、鈴木クンは「鴨川シーワールド」にかつて家族で来たことがあるらしく、日本一高いとも言われる入園料を支払うのに抵抗を感じるのも無理はない。しかし、通常の入園料が高い分、割引プランが豊富なのも「鴨川シーワールド」の特徴で、「行川アイランド」との共通入園券である「ジャンプ&ダンス」が存在する。「鴨川シーワールド」は中学生までが小人料金が適用され、通常の入園料は1,000円となる。ところが、「ジャンプ&ダンス」であれば「行川アイランド」と併せて1,500円で済む。ちなみに「行川アイランド」の通常の入園料は、中学生から大人料金が適用されるため1,550円。「ジャンプ&ダンス」は、料金設定の安い「鴨川シーワールド」に合わせて小人料金で双方の施設に入園できてしまうため、結果的に中学生であれば「行川アイランド」だけに入園する場合も、「鴨川シーワールド」との共通入園券である「ジャンプ&ダンス」を購入した方が安上がりとなる逆転現象が発生するのだ。これには鈴木クンも納得。「ジャンプ&ダンス」を購入して「鴨川シーワールド」に入園する。
鴨川シーワールド  「鴨川シーワールド」には、「パノリウム」と呼ばれるパノラマ式水族館もあるが、やはりメインはオーシャンスタジアムで開催されるシャチショーとその他のマリンショーだ。タイムスケジュールを確認すると、シャチショーは1時間ごとに開催されており、11時開演のショーはもう始まっているので、次の12時に照準を合わせる。その他のマリンショーでは、11時20分からトドショー、11時30分からイルカショーが開催されるので、いずれかを組み合わせるのが良さそうだ。シャチショーもイルカショーもジャンプがメインのショーであるようなので、マリンショーはトドショーを見学することでメンバーの意見は一致した。
 11時20分のトドショーが開園するまで20分弱の時間を利用して、慌ただしく「パノリウム」を見学する。「パノリウム」は、雲が雨となって地上に落ち、川の流れとなって海に注ぎこむという水の一生をテーマに構成したパノラマ水族館になっていた。淡水、海水に生息する約400種7,000点の魚や貝、甲殻類がリアルに紹介されている。カナリアに似た鳴き声から海のカナリアと呼ばれているベルーガの巨大水槽では、ちょうど11時から始まったベルーガショーが行われているところで、ダイバーが水槽に入ってベルーガに輪くぐりをさせたりしていた。
 ラッコプールで、ラッコのグルーミングを眺めていると時間切れ。11時20分開演のトドショーを見学するために、急いでトドショー会場へ移動する。「鴨川シーワールド」では、共通の会場ではなく、それぞれのショーを独自のステージで行うので忙しい。同じ時間帯に複数のショーが催されるのも会場が異なるからに他ならない。トドショーは、イルカショーよりも人気がないようで、観覧席には空席が目立つうえ会場も小振りだ。勢いよくジャンプするイルカと比較してトドのパフォーマンスは地味なのでやむを得ない。その地味さを補うべくスタッフが思考を凝らしているようで、今日のショーは「トドの水戸黄門」というタイトルが付けられている。やがて黄門様の衣装を身にまとったトドとその両脇に助さん、格さん役のトドが登場。しかし、内容は逆立ちなどの一般的な芸に終始し、水戸黄門のストーリー性がいまいちである。
 続いてメインのシャチショーを見学するためにオーシャンスタジアムへ移動。オーシャンスタジアムは2,000人が収容可能なシャチ専用のスタジアムで、1989年(平成元年)に完成したばかりの施設。「鴨川シーワールド」がこのシャチショーにかける熱意が感じられる。観客席からはプールの背後に太平洋が広がるロケーションであり、ダイナミックさも増す。
 プール近くの席は水が跳ねてびしょ濡れになるとのことなので、我々は後方上段に陣取る。事前に場内アナウンスによる注意も促されるので、ほとんどの観客はプールから離れて座っているが、中には水かぶり席に陣取る勇者もいる。
 12時にいよいよシャチショーの開演。尾ひれや頭を振って挨拶をした後、プールを泳ぎながら何度かジャンプを繰り返す。巨体なのでイルカのようなリズミカルなジャンプではなく、ゆっくりとした動作で巨体を持ちあげてジャンプをし、その後に物凄い水しぶきを上げる。後方上段に陣取っていても、水しぶきが飛んでくるぐらいなので、プール近くの席などは水浸しになっている。当然、そんなところに座った観客もびしょ濡れだが、観客も知っていて座っているのだから笑顔だ。最大の見せ場は全身を水面から持ち上げて、プール上方にぶら下げたボールを尾ひれ蹴るというシャチのオーバーヘッドキック。体長9.8メートル、体重10トンの巨体がどうして持ち上がるのか不思議でならない。まさに迫力は海の王者と呼ばれるにふさわしい。
「うわぁ。すごい迫力だな。こんなショーを見たのは初めてだよ!」
山田クンも大絶賛で、「鴨川シーワールド」の訪問は大正解だったようだ。シャチショーを堪能し、興奮覚め止まぬ状態であるが、時間の都合で「鴨川シーワールド」を後にする。
 鴨川シーワールド前から再び12時31分発の日東交通バスに乗り込む。バスは東条海岸沿いの国道128号線をたどる。この区間はJR外房線も並走しているが、国道128号線の方が海岸に近く外周ルートとなる。程なく天津の市街地に入り、海岸は漁港に変わった。この辺りは山が海岸に迫り出した地形になっているため、農業には不向きで、町民の生活は漁業に頼るとことが大きいのだろう。海岸一帯には天然の岩礁が散らばっており、ところどころで釣り人の姿を見掛ける。
 松ヶ鼻と入道ヶ岬に囲まれた内浦湾をぐるりと周ったところにあった誕生寺入口で下車。鴨川シーワールド前から30分以上もバスに揺られたため、柳田クンはバス酔いで足がふらふらになっている。しばらく休憩しようかと思ったが、柳田クンが「歩いていれば治る」と言うので先へ進むことにする。鈴木クンが付き添っているので大丈夫であろう。
 誕生寺に向かって歩いていると、食堂や土産物屋が立ち並び、にわかに観光地の装いとなる。やがて、「ようこそ鯛の浦へ」というアーチに出迎えられ、アーチをくぐるや否や遊覧船の客引きが現れた。
「鯛の浦遊覧船はもうすぐ出ますよ!」
小湊妙の浦遊覧船協業組合の遊覧船で、運行スケジュールは一切なく、お客が集まれば出航するという不定期遊覧船だ。次の出航時間は未定とのことなので、急かされるように乗船券を購入し、遊覧船に乗り込む。船内には既に団体客らしき集団がおり、我々は便乗させられたようだ。
 誕生寺前の桟橋を出航した遊覧船は、入道ヶ岬方面に向かい、大弁天島と小弁天島を抱える妙ノ浦をぐるりと周る。船内のスピーカーから観光案内が流れるが、団体客の話し声で何を言っているのかさっぱり聞き取れない。あまり大きな遊覧船ではないが、内浦湾内の航海なので揺れはほとんどなく、船酔いの心配はなさそうだ。
 やがて鯛の生息地である鯛の浦付近で遊覧船は停止し、鯛の餌付けが始まる。やがて餌に群がって鯛が集まって来る。1222年(承久4年)に日蓮が生誕した折に、鯛が深海から海岸まで上がって来て群れ泳いだという言い伝えがあり、それがこの鯛の浦だという。現在でも鯛の浦の鯛は禁漁になっているそうだ。
 遊覧船は鯛の餌付けがメインで、そのまま誕生寺前の桟橋に引き返す。遊覧時間は15分程度で、650円の乗船料ではこんなものであろう。桟橋正面の建物には売店と展示室があると言うので立ち寄ってみると、歴代の遊覧船の模型が飾られていた。明治時代から遊覧船を就航させていたようで驚く。1973年(昭和48年)10月13日には、昭和天皇皇后両陛下も鯛の浦を訪れたとのことで、当時の写真も仰々しく掲げられていた。鯛の浦を一望できる休憩室でしばらく憩う。
誕生寺  日蓮宗を広めた日蓮聖人の生誕を記念して建立された誕生寺へ足を向ける。1706年(宝永3年)に建立された仁王門は、平成の大改修工事中であるうえ、本堂も建設工事中であったが、境内の見学は自由にできるようになっていた。
 幕府や諸宗を批判する攻撃的なイメージの日蓮とは掛け離れた、貴族のような優しい表情の日蓮聖人御幼像を眺めていると背後から声が掛かる。 「5名様で御見学ですか?こちらでは5名様以上でお越しの方には無料で境内の案内をさせていただいております。無料ですからどうかお聞きください」
無料のガイドとはなんとなく胡散臭い気がしたものの、寺院の境内でキャッチセールスもあるまい。声を掛けて来たのは若い女性で、誕生寺の関係者であろうか。もしかしたら日蓮宗の広報活動かもしれないなと思いながら解説に耳を傾ける。
 日蓮が小湊片海の地で生まれたのは1222年(貞応元年)2月16日のこと。そのときに、小湊では3つの不思議な現象が発生し、「三奇端」として現在にも伝えられている。一つは庭先から泉が湧き出したというもので、この泉は「誕生水」と呼ばれ、日蓮の産湯にも使われたという。もう一つは季節外れの浜辺に青蓮華が咲いたという「蓮華ケ渕」、最後は遊覧船で訪問した鯛が群がる「妙の浦」である。
 女性の解説は引き続き、前方に見える祖師堂の日本一大きな鬼瓦に及ぶ。日蓮聖人像を安置する祖師堂は、49代日闡上人が10数年の歳月をかけ、1846年(弘化3年)に建立したもの。その鬼瓦は、遠目に眺めても大きさはさっぱり実感できないが、21畳の広さで重さが3トン。日本一どころか世界一の鬼瓦だという。
 5分ほどの解説が終わったので、境内を案内してくれるのかと思えば、ガイドはこれで終わりだという。
「最後に記念撮影をさせていただきます。この写真は宣伝を兼ねていますので無料で1枚差し上げます。無料なので要らなくてもどなたかもらって下さい」
要らなくてももらってくださいという言い回しに思わず吹き出してしまう。女性の正体は写真屋だったのだ。大勢のグループを見付けて無料ガイドを申し出て、写真を撮影する。見本として現像した写真はどうせ捨てるのだから無料で進呈してしまい、他にその写真を気に入った人がいれば売り上げに繋がるわけだ。もっとも、写真を撮影して、その場でもらえるのかと思えばそうではなく、後日郵送するので住所と名前を書いて欲しいとのこと。
「やっぱりグループの代表者が名前を書くべきでしょう。誕生寺からお布施の依頼が来るかもしれませんね」
柳田クンが私の顔を見ながらにやにやする。嫌なことを言うものだ。もっとも、写真屋と誕生寺がそこまで結託していることはなかろう。せいぜい写真屋のダイレクトメールぐらいか。もっとも、小湊の写真屋からダイレクトメールをもらったところで、何かのお世話になる可能性は限りなくゼロに近い。後日、自宅に送付されたのは、4ツ切りの写真と注文書だけで、発送元は小湊ではなく、東京都杉並区にある「小路谷写真株式会社」だった。山田クンと鈴木クン、柳田クンは写真の出来栄えを見て、1枚800円の写真を注文したので、写真屋の商法は大成功だったことになる。
 祖師堂でおみくじを引き、境内をひとまわりする。背後には山々が迫り、海辺にありながら山寺の雰囲気だ。至るところで改修工事が行われており、運悪く大改修の時期にやって来てしまったようである。
 山門前に並ぶ土産物屋を冷やかしていると、店先にパイナップルや文旦が並んでいる「(有)松孝」という看板を掲げた土産物屋があった。小湊でパイナップルや文旦を栽培しているのだろうか。首を傾げていると店のおやじから声が掛かる。
「兄ちゃんたち!パイナップル食べて行かないか?」
差し出されたパイナップルをかじりながら、しばらく店のおやじと雑談になる。
「俺も若い頃は金がなくてね。旅先ではよく野宿をしたものだ。これからどこへ行くんだ?」
「『行川アイランド』へ行ってみようと思っています」
「『行川アイランド』まで行くなら、『おせんころがし』にも行ってみるといい。景色がいいぞ。新道はトンネルばかりでつまらないから、旧道を歩いて行くといい。まだ若いのだからここから歩いても大した距離じゃない」
おやじはパイナップルの追加に加えて、文旦の砂糖漬けなど、次から次へと振舞ってくれる。もちろん、試食用なのだろうが、次第に何も買わないのが申し訳ないような気分になってくる。だからと言って、今からパイナップルや文旦を抱えて旅をするわけにはいかない。店内には果物以外にも普通の土産物屋にある商品が並んでいたので、少し気になった「鯛せんべい」を買い求める。「鯛せんべい」は、大正時代に禁漁になっている鯛の代わりに考案された小湊の名菓である。
 誕生寺を後にすると、さっそく買い求めたばかりの「鯛せんべい」を開封し、口にしてみる。小麦粉で作ったせんべいを鯛の形に焼きあげたものに過ぎないが、なかなか美味しいので、他のメンバーにもお裾分けをする。
「美味しいね。俺も買えばよかったなぁ」
柳田クンが悔しそうに言うが、「鯛せんべい」なら小湊のどこの土産物屋にも置いてあるだろう。通りすがりの土産物屋で柳田クンも無事に「鯛せんべい」を手にする。
 誕生寺入口停留所に戻るとうまい具合に日東交通バスがやってきた。松孝のおやじには旧道を歩くことを勧められたが、バスがあるのにわざわざ歩くこともあるまい。
 日東交通バスは国道128号線の新道と旧道の分岐点である日蓮交差点を過ぎるとすぐにトンネルへ入る。トンネルを抜けたかと思ったら、また次のトンネルで、確かにトンネルばかりで面白くない。もっとも、旧道はトンネル掘削技術が乏しい時代に山を迂回するように造られた道路で、新道はトンネル掘削技術を活かしてショートカットしていくのだから、新道にトンネルが多いのも当たり前か。
 L特急「わかしお」の停車駅ながら、1面1線のローカルムード満点の行川アイランド駅を眺めて、終点の「行川アイランド」に到着。鴨川シーワールド同様に、南房総を代表する一大リゾート地である。1964年(昭和39年)8月13日開園と比較的歴史もある施設で、園内には「行川アイランドホテル」やプール、野外バーベキュー場などを備えているが、国道128号線に面した駐車場周辺の景色は殺風景だ。
 入口で「鴨川シーワールド」で購入した共通入園券である「ジャンプ&ダンス」を提示すると係員は怪訝な顔をする。私や池田クン、山田クンは長身で、高校生どころか大学生に間違えられることもしばしばあるのでやむを得ない。
「3月31日まで中学生です」
自主申告をすると、証明書を見せろと言われることもなく無事にゲートを通過。旅の途中で「ジャンプ&ダンス」の半券を切り離してしまい、「切りはなし無効」の文字を見ながら「俺の半券、切れちゃったけど大丈夫かなぁ」と心配をしていた山田クンもあっさりと入場が認められた。
 入口のゲートを抜けると目の前には大きなトンネルがあり、このトンネルを抜けたところに行川アイランドがある。入口でもらった園内案内図には「ふれあいいっぱい。楽しさいっぱい愛ランド」とのキャッチフレーズがあり、トンネルを抜けたところに眩しいぐらいのリゾート地か、桃源郷が広がっているのだろうかという期待が生まれる。  しかし、トンネルを抜けた目の前に広がったのは、リゾート地でも桃源郷でもなく、どこにでもある公園のような中央広場であった。唯一、広場を囲むように植えられているヤシの木が南国ムードを演出している。既に開園から20年以上が経過しており、過度な期待を抱く方が間違えているのだろう。
 「行川アイランド」の目玉はフラミンゴのダンスである。「行川アイランド」までやって来たからにはフラミンゴのダンスは外せない。「愛ランドショー」と名付けられた動物のショーは、「フラミンゴファンタジックショー」の他に、「クジャクのダイビングショー」、「ホロホロ鳥の空中パレード」、「わくわくドッグショー」が開催されていた。その他に4月下旬から8月下旬までの期間限定で「ポリネシアショー」もある。すべてのショーを見物する時間はないので、14時30分開演の「フラミンゴファンタジックショー」に標準を合わせ、それまでの時間を園内散策に当てることにする。
 熱帯地方の珍しい小猿を集めたモンキーハウスや日本では「行川アイランド」でのみ飼育されている国際保護動物アノアを眺め、潮見岬の展望台に立つと外周旅行らしくなった。眼下には「行川アイランドホテル」が谷間に囲まれるように建っているが、リゾートホテルにしては少々くたびれている。ホテルの前にあるプールも、季節外れなので人の気配がなく、寂れたように感じてしまうが、夏になれば活気を取り戻すのであろう。
 時間になったので園内中央にある「フラミンゴファンタジックショー」の会場へ足を向ける。さすがに「行川アイランド」のメインイベントなので、見物にやって来る観光客の姿も多い。もっとも、これは園内を散策して見掛けた観光客の数の割にはという注釈付きで、観客席には空席の方が多い。
 やがてスタッフに引き連れられてピンクのフラミンゴの群れが現れる。「ワルツに合わせてピンクの天使たちが華麗に舞う魅惑のショー」という宣伝文句であったが、フラミンゴのダンスの正体は、スタッフに率いられたフラミンゴが会場内を右往左往するだけ。羽を広げることもなく物足りなさが残る。
 「行川アイランド」を後にし、「松孝」のおやじが推奨する「おせんころがし」に足を運ぶ。「おせんころがし」は「行川アイランド」から少し鴨川方面に戻ったところにあり、国道128号線にも案内標識が出ていた。
 国道128号線から工事現場へも続くかと思われるような未舗装道路を進むと、慰霊碑のある崖に行き着いた。近くにあった案内板の解説によれば、お仙とは、近くにある大沢集落を治めていた豪族の娘で、お仙の父親は強欲非道な人物で、村人を散々苦しめていたという。ある日、悪政に耐えかねた村人は、夜中にお仙の父親が寝ている隙に崖から突き落として殺害をしようと決意。これを知ったお仙は、父親の服を身にまとい、父親の身代わりとなって村人から崖下に突き落とされた。村人も翌朝までお仙が身代わりになっていたことに気が付かなかったという。
 崖の上から海辺を見下ろすと、90度に近い崖で迫力がある。柳田クンが鈴木クンにカメラを借りて、崖から見下ろした風景の写真を撮影する。あまりにも体を乗り出すので思わず声を出す。
「危ないぞ!『おせんころがし』に続いて『やなぎだころがし』なんて名称が付けられたら洒落にならないぞ!」
「それにしても鄙びた場所だね。僕達以外に誰もいないじゃないですか。どこの村からお仙をここまで運んで来たの?」
地図で確認すれば、ここから500メートルも山間に行けば、大沢の集落があるようだ。昔は山道が続いていたのかもしれないが、現在はトンネルを通らなければ、ここから大沢集落まで行くことはできない。それに人が死んだ場所を華々しく観光名所として宣伝することも不謹慎だろうし、有名になれば却って自殺の名所にもなりかねない。
「でも、こんな崖から放り投げられたら、転がるどころか急転直下だと思うけどな」
池田クンがポツリと漏らした感想には納得。
 「おせんころがし」は長居するような場所でもないので早々に切り上げる。国鉄が初めて駅名に固有名詞を採用したという行川アイランド駅に足を運んでみたが、次の列車までは1時間近くあるので、日東交通バスの世話になるのが無難そうだ。行川の中心である浜行川集落まで歩き、行川停留所から上総興津駅行きのバスに乗る。これで日東交通バスにも乗り収めだ。
 行川から乗ったバスはほとんど海とは無縁の山間を走り、興津の市街地に入る。随分と開けた街のように感じるが、興津は独立した市町村ではなく、勝浦市の一部に過ぎない。かつては興津町を構成していたが、1955年(昭和30年)2月11日に勝浦町(現在の勝浦市)と合併している。
 興津海水浴場を抱えた興津地区も観光色が強く、上総興津駅前には観光案内所もあったので立ち寄ってみる。観光案内所では、守谷湾の西岸のある守谷洞窟を観光PRに活用している。
「ここから守谷洞窟までは歩いて10分ぐらいです。ぜひ立ち寄ってください」
観光案内所の職員に勧められるが、ここまで盛りだくさんの行程だったので、メンバーにも疲れが見え始めている。どうしたものか思案していると、外周旅行初参加の山田クンが積極的な意見を出す。
「ぜひ、行ってみようよ。ここまで来たのに疲れているから行かないなんてもったいないじゃないか!」
元気な山田クンに引率されるように守谷洞窟を目指す。JR外房線沿いの道路を歩いてトンネルを抜け、守谷湾に沿って歩く。守谷洞窟へは標識もあるので迷わずに済む。守谷漁港を通り抜け、もうすぐ守谷洞窟というところで妙な看板に出くわす。
「これより先、清掃料300円いただきます」
一体どういう趣旨なのだろうか。ここから先へ進むには300円を支払わなければならないということなのだろうか。
「自動車だけということは考えられないかな」
柳田クンがもっともらしいことを言うが、これより先は行き止まりになっているので、わざわざ300円払って自動車を乗り入れる人などいないだろう。それに自動車が大正ならば清掃料ではなく駐車料金だ。やはりここから先の海岸に立ち入るためには清掃料の負担を求めるという趣旨ではなかろうか。
「知らん顔して行きましょう。黙っていれば大丈夫だ」
鈴木クンが強硬策に出て先へ進む。黙っていれば大丈夫というのは少々乱暴だが、料金所があるわけでもなければ、管理人らしき姿も見当たらない。夏場の海水浴客に対するものであろうと見当を付けるが、観光案内所も守谷洞窟を観光資源としてPRするのであれば、観光客を惑わせるような看板を放置しておくのはどうかと思う。環境維持のために一定の負担を観光客に求めることが必要だというのであれば、洞窟を有料にすれば良いのだ。
 結局、我々は誰にも咎められることなく守谷洞窟に到着。守谷洞窟は、入口の高さ6メートル、幅8メートル、奥行き30メートルの海蝕洞窟で、これとは別にもうひとつ小さな洞窟がある。案内板の解説によると、4回の隆起と3回の沈降が繰り返されて形成されたものという。守谷洞窟が発見されたのは1924年(大正13年)。騎馬民族征服王朝説で知られる考古学者の江上波夫氏が旧制浦和中学校(現在の浦和高等学校)に在学中、結核の療養で興津へやって来たときに発見したとのこと。洞窟が大正時代まで発見されなかったとは信じ難く、それまで洞窟と認識されていなかっただけではなかろうか。
 上総興津駅へ戻るのも知恵がないので、守谷湾沿いにしばらく歩き、鵜原駅方面に向かう。
「まさか鵜原駅まで歩くつもりなの?」
鈴木クンが冗談じゃないという顔で尋ねる。もちろん、私もそこまでは考えていない。
「適当なところでタクシーを拾って勝浦海中公園に行くつもりだよ」
しかし、地方道に流しのタクシーなど滅多に走っているものではない。唯一、柳田クンが見付けた公衆電話も地元の高校生が占拠しており、しばらく待ってみたが長電話が終わる様子もない。
 次の公衆電話を探して歩いていると、後方から空車のタクシーが我々を抜き去る。慌てて手を振るが運転手はちらりと振り返ってそのまま走り去ってしまった。
「少し合図が遅かったんじゃないかな」
山田クンが言うが、背後からやって来るタクシーに早く合図をしようと思えば待ち構えているしかない。
「次は皆で一斉に手を振ろうよ!」
山田クンの提案に賛同するが、次のタクシーが通り掛かるのはいつになることやら。
 しばらく歩いて国道128号線と合流すると、多少なりとも交通量は増えてくる。やがて前方からタクシーがやって来たので一斉に手を振る。キーッとブレーキを掛けてタクシーは一旦停車したが、何を思ったかそのまま走り去ってしまった。対向車線を走っていたので、反対方向へ向かう客を嫌ったのであろうか。先程の運転手も我々を認識しながら走り去ってしまったし、この辺りのタクシー運転手は態度がよろしくない。好景気に支えられて乗客を選り好みし、運賃を際限なく値上げするタクシーは好きになれない。その後、空車のタクシーが通り掛かることはなかった。
 守谷洞窟から1時間近く掛かって鵜原駅にたどり着くと時刻は16時25分。勝浦海中公園に行くのであれば、沖合に突き出た海中展望塔を見学しなくては意味がない。鵜原駅の案内板によると、鵜原駅から勝浦海中公園までは徒歩10分とあり、普通に歩いていたのでは16時30分の最終入場時刻までに間に合わない。
「少しぐらい遅れてもなんとかなるかもしれない。入場は16時30分でも17時までは見学は可能です」
山田クンがそう言い残すと勝浦海中公園に向かって走り出す。山田クンも相当疲れているはずだが頼もしい。旅のメンバーに山田クンのようなタイプの仲間が加わるだけで活気が出て来る。私も重い足を引きずりながら山田クンに続く。しかし、鵜原駅から徒歩10分のはずの勝浦海中公園までは、走っても10分はたっぷりかかった。
 勝浦海中公園の券売所はカーテンが閉められており、「本日終了」の札が掲げられている。やっぱり間に合わなかったかと帰ろうとしたところ、通り掛かった清掃係のおばさんから声が掛かる。
「わざわざ走ってやって来たのかい?職員は事務所に残っているから券売所の窓を叩いてみるといい。まだ、入れてくれるよ」
前回の仁右衛門島の事例があるので、あまり気が進まなかったが、同じ勝浦海中公園で働く人が言うのだから試してみる。窓を叩くと職員が顔を出したので交渉。
「閉館時間の5時までに必ず出ますので、展望塔を見学させてもらえないでしょうか?」
「時間はあまりありませんが、それでもよろしければどうぞ」
職員は嫌な顔をせず、展望塔の観覧券を売ってくれた。売れば増収になるのだからこれが本来の姿であろう。
 清掃係のおばさんにも御礼を言ってから鵜原沖に突き出た橋を渡り、海中展望塔へ向かう。高さ24.4メートル、水深8メートルの東洋一の規模を誇る海中展望塔だ。川崎市にある日立造船神奈川工場で展望塔を建設し、約16時間かけてこの鵜原沖まで曳航したという。
 灯台を思わせる螺旋状の階段を下り、まずは水深6.6メートルに位置する海中展望室へ。360度に24個の窓を配置し、窓の向こうにはメバルやボラなどが泳いでいる。水族館のようでもあるが、窓の外は紛れもない太平洋だ。この鵜原沖は寒流と暖流の接点にあり、年間で約90種類以上の海の生物を観察することができるという。池田クンと柳田クンは海底の様子を眺めるのは初めてだと言って、頻りにカメラのシャッターを切っていた。
 海上展望室からリアス式海岸の深い入り江と老松の美しい鵜原理想郷、これから向かう八幡岬、勝浦灯台などを眺めるとタイムアップ。ビジターセンターに海の資料館もあったのだが、見学する余裕はなく、約束通り17時ちょうどに勝浦海中公園を後にする。
 砂子ノ浦を経て国道128号線に出ると、待合室を構えた松部停留所があった。時刻表をのぞき込めば、幸いにも10分後に勝浦駅行きの小湊鐡道バスがある。勝浦市内に入ると日東交通バスから小湊鐡道バスの管轄に変わる。
 待合室でぐったりしていると、目の前を勝浦駅行きのバスが通り過ぎようとしたので慌てて合図をする。バスの運転手も待合室に乗客がいないかを確認するために徐行していたので事なきを得たが、タクシーに続いてバスにまで見放されたら大変だ。
 勝浦湾沿いを走ったバスはわずか7分で終点の勝浦駅に到着。時刻は18時前で夕闇が迫っている。本来ならこの辺りで旅を打ち切るべきなのであろうが、今日は、当初、今回の旅に参加する予定であった松本クンが、事前に大原の安い民宿を予約してくれている。大原まで行程を進められればベストだったのが、明日、大原から引き返して来なければいけないことを考えると、もう少し先へ進んでおきたい。
 鵜原でタクシーに乗らずに済んだので、勝浦観光はタクシーを利用して簡単に済ませることにする。幸か不幸か、これから向かう八幡岬にはバス路線がないため、徒歩かタクシーに頼らざるを得なかったのだ。勝浦での観光ポイントを八幡岬にある勝浦城址と勝浦灯台に絞り、御宿へ抜けることにしてタクシー乗り場へ急ぐ。
 勝浦駅前で客待ちをしていた勝浦タクシーに乗り込み、行き先を告げると運転手は怪訝な顔をする。
「勝浦城址には本当に何もないけどいいの?」
城址なのだから現在は何も残っていないのは当たり前。我々の目的は勝浦城址よりも八幡岬に立つことなのだから支障はない。
「とりあえず行ってみてください。何も無くても行けば気が済みますから」
 タクシーは勝浦港を通り抜けて勝浦城址を目指す。我々が運ばれたのは八幡岬公園というところで、公園内の坂道を登れば勝浦城址だという。公園の駐車場でタクシーに待機してもらって勝浦城址を目指す。
 坂道を登って行くと、勝浦湾を望む広場があり、アスレチック施設などが整備されている。子供の遊び場としては最適だが、日が暮れかかった広場には誰もいない。この広場にかつて勝浦城が築城されていたのだろうか。通常の城址には、礎石が残っているものであるが、広場には礎石どころか遺構らしきものはまったく見当たらない。
 勝浦場の築城時期は不明。もともとは上総武田氏が支配する大多喜城の属城であったが、1542年(天文11年)に里見氏に属する正木時忠によって攻略されたと伝えられている。その後、正木時忠の五男である正木頼忠が城主となるが、1590年(天正18年)に豊臣秀吉によって里見氏が上総を没収されると、正木頼忠も勝浦城を明け渡し、勝浦城は廃城となった。
 広場から先へ続く階段を登って行くと、養珠院像が待つ展望台にたどり着いた。養珠院は勝浦城主であった正木頼忠の娘で、1577年(天正5年)4月4日に勝浦城で生まれた。本名は万と言い、徳川家康に見初められて側室となる。万は、1602年(慶長7年)3月に長福丸(徳川頼宣)、翌年8月に鶴千代(徳川頼房)を生み、2人の子供はそれぞれ紀州徳川家と水戸徳川家の祖となる。徳川御三家の2つがここ勝浦に由来しているのだから驚きである。また、晩年は、病人には薬を与え、貧しい者には衣服や財産を与えるといった福祉事業に取り組んでいたという。
 太平洋から突き出た八幡岬の展望台からは、既に太陽が沈んだ水平線が広がり、これから訪問する勝浦灯台には既に点灯されている。眼下は断崖絶壁で、険阻な地形が広がっていた。
 「せっかくだからアスレチックに挑戦したいな」
駐車場に戻る途中の広場で、歩き疲れているはずの山田クンが突拍子もないことを言いだす。
「アスレチックなんてどこにでもあるよ。それよりも早く戻らなければタクシー代がどんどん高くなってしまうよ」
私が言うと、山田クンは驚いた顔をして言う。
「ええっ!タクシーって待ってもらうだけでも金がかかるの!」
タクシーの料金体系に待ち料金があることは常識だと思っていたが、普段、タクシーとは縁がない中学生にとっては意外に知られていないことなのかもしれない。中学校の修学旅行でも、自由行動時間中にタクシーを利用したグループがあったのだが、奈良の法隆寺までタクシーを利用したときに、運転手から「戻って来るまで待っていましょうか?」と尋ねられ、好意的な運転手だなと思って「お願いします」と答えたところ、見学や昼食を終えて3時間後に戻って来ると1万円近い待ち料金を請求されたというトラブルがあったと耳にした。
「当たり前じゃないか!そんなことも知らないの?」
柳田クンが笑って答えると、山田クンは一目散に駐車場に向かって走り出す。
「何しているの!早く戻ろうよ!」
 待ち料金が加算され、到着時よりも300円運賃が高くなったタクシーで勝浦灯台へ向かう。この辺りもリアス式海岸が続いてとり、八幡岬の隣に突き出た岬状のところに勝浦灯台は建っていた。
勝浦灯台  タクシーから降りて高さ21メートル、八角形の白亜の勝浦灯台に歩み寄ると、「灯台見学、便所の使用固くお断り」という看板が掲げてある。もう少し書き方がありそうなものだが、正式には勝浦航路標識事務所と言い、職員が常駐している施設なので、見学やトイレの借用を申し出る旅行者が後を絶たないのかもしれない。仮に見学できるようになっていても、我々には時間がないので悔しい思いをしなくて済む。灯台の前で記念写真を撮影してタクシーに戻った。
 予定していた観光スポット2つを踏破し、後は御宿駅に出るだけとなったが、運転手から提案がある。
「近くに官軍塚があるので寄ってみましょうか?御宿駅まで行く途中にあるので、遠回りにもならないよ」
官軍塚についての予備知識はなかったが、地図で確認すれば、官軍塚は確かに御宿駅へ向かう途上にあり、史跡マークも付いている。待ち料金は加算されるが、せっかくなので運転手の提案に賛同しても良さそうだ。
 川津漁港の高台にある官軍塚には、展望台と供養塔が整備されていた。戊辰戦争で北海道の五稜郭で抵抗を続ける旧幕府の海軍副総督榎本武揚を鎮圧するため、津軽藩から要請を受けた熊本藩は、米国汽船を雇って1869年(明治2年)1月2日に350名の援軍を乗せて横浜港を出航。函館を目指す途上の翌3日に、ここ川津沖の「関東の鬼ヶ島」と呼ばれる難所で暴風雨に遭遇し難破。川津住民の救助活動により220名が救助されたが、130名が犠牲になったという。官軍塚はその犠牲になった130名を供養するために、川津沖を望む高台に築かれたものであった。
「ここで写真を撮らないの?」
柳田クンが鈴木クンに頻りに写真撮影を進めるが鈴木クンは拒否。
「供養塔の写真なんか撮ったら、心霊写真ができてしまうかもしれないじゃないか!」
鈴木クンは意外に迷信深い。代わりに私がパチリと1枚撮影する。供養しているのだから心霊写真になるはずがないのだ。後日、現像した写真を確認したが、当然のことながら何の変わりもない写真であった。
 官軍塚から御宿駅へ直行するとタクシーメーターは3,010円を示していた。5人なので1人あたり600円。意外に安く済んだので安心する。しかし、周囲は既に暗くなってしまい、さすがにここまでが限界だ。あと1時間あれば、御宿にある月の沙漠記念像やメキシコ記念塔にも足を記せたのだが残念。勝浦海中公園へ向かうときにタクシーを拾えなかったのが尾を引いた。今日は御宿で外周旅行を切り上げるしかなさそうだ。
 御宿からJR外房線2228Mに乗り込み2駅の大原へ移動。松本クンが予約してくれた「民宿さすけ」は、大原駅から徒歩15分ほどの場所と聞いていたが、正確な場所がわからないのと疲れもあってタクシーを利用してしまう。
 塩田川を越えたところの住宅街に今宵の宿となる「民宿さすけ」はあった。看板には「民宿佐助」とあるが、領収証は平仮名表記で、どちらが正しい表記なのかは定かではない。1泊素泊まりの料金は税込み3,000円。民宿に宿泊するのは初めての経験であるが、民家に居候するような感覚で多少の違和感があるものの、外周旅行を続ける限りは民宿との付き合いも増えていくのだから慣れるしかない。そもそも、民家に宿泊するから民宿なのだと納得する。風呂は広めで、外周旅行初参加の池田クンや山田クンと裸の付き合いをしていたら、すっかりのぼせてしまった。
 21時からはフジテレビ系列のドラマ「東京ラブストーリー」の最終回を男5人で見入ってしまう。ヒロインの赤名リカ(鈴木保奈美)が永尾完治(織田裕二)と別れてしまい、ハッピーエンドにならないという衝撃的な結末に興奮覚め止まぬまま眠りに付くのであった。

第6日目<< 第7日目 >>第8日目