サラブレッド士業

第6日 富浦−太海

1990年12月25日(火) 参加者:安藤・奥田・本多・柳田

第6日行程  JR内房線123Mで4ヵ月ぶりに「びわの町」富浦へやって来た。今回のメンバーは安藤クン、奥田クン、本多クン、柳田クンと私を含めて総勢5名となる。前回の旅のメンバーと比較すると常連の奥田クンが復帰して、林クンが離脱した。2ヵ月後には高校受験を控えているので、参加者はもっと少なくなるのではないかと危惧したが、最後の息抜きにやって来たメンバーがほとんどのようである。
 本日の最初の目標は前回断念したバス路線がない大房岬(たいぶさみさき)だ。タクシー利用も考えたが、駅前には1台もタクシーが待機していないうえ、近くにあった営業所にもタクシーの姿はなく、季節外れの観光客が多いのか、季節外れなのでタクシーが待機していないのかは定かではない。いずれにしても歩くしか選択の余地はなさそうだ。
 前回の旅の帰りに駅前の観光案内所でもらったパンフレットを頼りに国道127号線へ出て、南へ下る。国道127号線沿いはお店が並び、昔ながらの商店街の雰囲気になっている。
 富浦駅から15分ほど歩いたところで岡本橋を渡り、国道127号線と分かれて岡本川沿いの道を進む。この辺りが大房岬の付け根の部分になっている。しばらく岡本川を河口までたどる。
「田舎だなぁ〜」
本多クンが周囲を見回しながら言うと安藤クンが同調する。
「こういうところはドラマに出てきそうだね。学生が肩掛け鞄なんかをぶら下げて下校する場面だとか。こんなところに住んでのんびり暮らしたいね」
ところが安藤クンの所感に対して本多クンが余計な茶化しを入れる。
「安藤クンの住んでいる大磯だって似たような場所じゃないか!」
 やがて岡本川沿いの道路は、岡本川の河口から海岸沿いの道路と変わる。
「パンフレットに絶景また絶景とある多田良海岸はどんなところだろうね」
安藤クンが楽しみにしていたという多田良海岸に出ると、東京湾の向うに富士山が確認できる。
「おおっ確かに絶景また絶景ですなぁ」
安藤クンが大袈裟に言うが、富士山は日頃から見慣れているので、それだけでは感慨は湧かない。海岸の風景を少々見慣れてしまったことも影響しているのかもしれない。
 パンフレットの地図では、大房岬の先端まで延々と海岸が続いているように描かれているが、実際は多田良漁港の防波堤によって海岸は途切れていた。海沿いの道路が整備されているのも漁港までで、漁港から大房岬へ続く道はなさそうだ。
「この先は岸壁だよ。また後戻りするの?」
本多クンがうんざりしたように言う。前回、岩井海岸を歩かされたことに懲りているようでもある。
「パンフレットの絵地図を信用したのが失敗だったなぁ」
こんな言い訳をすると有難いことに安藤クンも同調してくれる。
「パンフレットというものは誇張している箇所が多いものだよ。観光パンフレットの役目は、パンフレットを見た人にここへ行きたいと思わせることだからね」
悪者はパンフレットととなり、幸いにも私は責任を逃れることができた。
 幸いにも漁港から大房岬の尾根筋に出る道が続いていたので、それほど迂回させられることもなく、大房岬を目指すことができそうだ。もっとも、尾根筋に向かう道は急坂で山登りの気分になってくる。
「やっぱりレンタサイクルなんて借りなくてよかったなぁ」
前回、大房岬をレンタサイクルで周ろうと提案した本多クンが言う。大房岬に限らず、岬は起伏が激しいところが多い。
 「ここは『たいぶさみさき』というのか。俺はてっきり『おおぼうみさき』と読むのものだと思っていたよ」
柳田クンが道端にあった平仮名表記の看板を見て言う。私は前回、観光案内所で読み方を教えてもらっていたが、予備知識のない人は「たいぶさみさき」とは読めないであろう。
 大房岬の中心には「南房総富浦ロイヤルホテル」が待ち構えていた。白い鉄筋コンクリート6階建ての大きなホテルで、結婚式場も備えている。これほど立派なホテルが大房岬にあるとは知らなかった。タクシーも頻繁にホテルに出入りしており、知らなかっただけで大房岬は南房総を代表する観光スポットなのかもしれない。それならばバス路線があってもよさそうなものであるが、ホテルの利用者のほとんどは自家用車だろうし、数少ない鉄道利用者は最寄り駅からタクシーを利用するか、送迎バスを利用するのであろう。我々もホテルの利用者に紛れこんで送迎バスに乗るという手段もあったのかもしれないが、身なりからホテルの利用者ではないことは一目瞭然か。
 「南房総富浦ロイヤルホテル」の近くから大房岬の遊歩道に入る。大房岬の北端に近い第一展望台までは、「南房総富浦ロイヤルホテル」から10分ほどで到着。大房岬一帯は大房岬自然公園として整備されている。ホテルの宿泊客にとってみれば、手頃な散歩コースといったところだろう。
 第一展望台からは海辺に下りる道が続いていたので行ってみる。最近は誰もこの道を歩いていないのか、足の踏み跡がまったく、雑草が覆い茂っている。少々不気味だなと感じながらも大きな岩場の海岸にたどり着く。岩によじ登って周囲を見回すと正面には前方には前回訪れた鋸山、対岸の三浦半島と富士山が望め、今度は間違いなく絶景だ。
「富津岬よりはるかにいい眺めじゃないか。ここで休憩にしようよ」
富浦駅から歩き通しだったので、本多クンの提案にしたがってしばらく休憩とする。周囲を散策していた奥田クンが水準点を見付けたと声を上げる。地殻変動の様子はこんなところでも観察されているのだ。
 第一展望台まで戻って、今度は大房岬の南西に位置する第二展望台を目指す。遊歩道を10分ほど歩いて第二展望台にたどり着くと、安藤クンが座り込んでしまう。
「靴擦れができちゃったよ。新しいシューズで来たのがいけなかったなぁ」
旅に出るときは履きなれた靴で出掛けるのが良い。歩くことの多い外周の旅ではなおさらである。
 第二展望台からの眺めは三浦半島の先端にある城ケ島や伊豆半島と第一展望台とは異なる赴き。大房岬も富津岬と同様に戦時中は軍事要塞として機能しており、第二展望台の近くには大房岬砲台跡も残されている。
 1時間少々かけて大房岬をラケット型に一周。多田良西浜海岸を経て県道302号線に出ると、野房停留所があった。さすがに歩き疲れたので、バス停前のベンチに座っていると、お婆さんがやってきた。いくら疲れているとはいえお年寄りを立たせておくわけにはいかないので席を譲る。「すみませんねぇ」とお婆さんはベンチに腰掛けたが、5分もすると「ありがとう」と言い残してどこかへ行ってしまう。バスに乗るのではなく、日常の散歩コースの休憩場所がバス停のベンチだったのだ。
 遅れの常習である館山駅行きの日東交通バスは、この日も5分遅れで姿を現した。予定では那古船形で内房線に乗り換えるつもりであったが、タッチの差で那古船形10時39分発の内房線141Mに乗れそうにない。バスが定時運行であったら、楽に乗り継ぐことができたので恨めしい。しかも、県道302号線は那古船形から内房線よりも内陸に入ってしまう。しかし、1時間に1本の内房線を待つのは時間のロスが大きいので、そのまま腰を据えて館山を目指す。
 館山市内に入るとバスは商店街に入り込み、ますます遅れを増して館山駅前に到着。「青春18きっぷ」を手にしていたので、内房線に乗り継げていれば那古船形駅前までの運賃で済んだにもかかわらず、館山駅前までの余計な運賃を支払わされるのは腹立たしい。その原因が日東交通バスの遅れにあるのだから尚更だ。
JRバス関東フラワー号・館山営業所  館山駅前郵便局で旅行貯金を済ませた後、JRバス関東の館山営業所に足を運ぶ。国鉄時代には国鉄バス乗り放題の「南房総フリーきっぷ」が発売されていたので、もしかしたらJRバス関東が引き続き「南房総フリーきっぷ」を取り扱っているのではないかと思ったからだ。ところが、営業所で確認すると、現在は「南房総フリーきっぷ」を販売していないとのこと。
「東京から来る方には『南房総Qフリーきっぷ』という往復の乗車券をセットしたものを発売しているのですけどね。でも、回数券を使えば少しはお得ですよ」
営業所の女性職員の勧めに従って、1,000円の回数券を購入しておく。100円分だけおまけがあるのだ。
 館山駅前の「胡蝶食堂」で早めにラーメンの昼食をとった後、館山駅前11時35分発の安房白浜行きJR関東バスに乗り込む。「急行フラワー号」の愛称が付けられていたが、平凡なワンマン運転の路線バスで、特別料金が必要であるわけでもない。
 「急行フラワー号」もしばらくは徐行運転であったが、市街地を抜けると快調に走り出す。しばらくすると、海上自衛隊館山航空基地が右手に現れた。もともとは、関東大震災によって隆起した浅瀬を埋め立てて旧海軍が建設した飛行場館山海軍航空隊の基地であった。日本最大級のヘリポートには、プロペラを旋回させた海上自衛隊のヘリコプターが駐機している。
 館山航空基地を通り過ぎると再び館山湾が右手に広がる。しばらくすると波の浸食作用で平らになった岩盤が隆起して階段状をなしている見物海岸が広がった。1703年(元禄16年)11月23日に野島崎を震源とする元禄大地震で岩盤が隆起したのに続いて、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災でも岩盤が隆起したため、見物海岸はテラス状の岩盤が2段続いている。周期的に120年後には3段目のテラスが形成されるのであろうか。他のメンバーは眠ってしまって見物海岸に気が付かない。年末といえども南国の南房総の日差しは強く、眠気を誘う陽気である。
 館山駅から30分近くバスに揺られた洲の崎灯台で下車する。周囲は静かな農村といった感じで、館山駅周辺とはまったく装いが異なる。小高い丘の上に白い灯台が洲の崎灯台のようだ。まずは洲の崎灯台に挨拶するため、海岸沿いに続く小道を歩く。
「こんなところに階段があるよ」
後ろに続いていた本多クンから声が掛かる。振り返ると民家の路地から石段が続いており、どうやらこの石段が灯台へ続いているようだ。石段を登って行くと、途中に小さな神社があり、灯台の守り神であろうか。
 目指す洲の崎灯台にはたどり着いたものの、灯台入口の扉には鍵が掛かっており、内部見学はできない。1919年(大正8年)に初点灯した高さ14.8メートルの灯台は無人であった。その代わりに高台に建つ灯台周辺からは館山湾を行き交う船を見渡すことができる。
 石段を下って岩場の海岸に出てみる。先客は若いカップルが海岸にたたずんでいたが、我々の姿を見るとどこかへ行ってしまった。季節外れの海岸を訪れる人は少なく、2人の世界を邪魔してしまったようだ。洲崎は房総半島の最西端に当たる。富津岬からは間近に見えた三浦半島も少々霞んでしまっている。海上自衛隊館山航空基地が近いため、上空には海上自衛隊のヘリコプターが旋回しており、タイミングが良ければ自衛艦船の回航も眺めることができるのであろう。
 洲の崎灯台前の停留所に戻ると、バス停には既に販売を中止した旧国鉄時代の「南房総フリーきっぷ」の案内が未だに残っている。国鉄が分割民営化されて3年以上が経過したというのにのどかなものだ。
 区間運行の伊戸行きを見送り、13時12分発の安房白浜行き「急行フラワー号」に乗り込む。「急行フラワー号」は、「白砂青松百選」の平砂浦沿いの房総フラワーラインを快調に走り抜ける。真冬だというのに沿道の花畑には黄色い菜の花が咲いている。春になれば一面は菜の花が咲き乱れて、まさしくフラワーラインと化すのであろう。房総フラワーラインも「日本の道百選」に選ばれている。
洲崎  安房自然村辺りから野島埼灯台が視界に入り、洲の崎灯台前から再び30分少々バスに揺られて野島崎灯台で下車。洲の崎灯台とは異なり、周辺にはホテルや土産物屋が立ち並んでいる。ここは房総半島の最南端に当たり、温暖な気候が好まれるのか観光客の姿も多い。
 野島埼灯台も観光施設化しており、内部見学もできるようになっているのだが、あいにく火曜日は定休日で閉まっていた。博物館などは月曜日が休館日であることが多いのだが、火曜日が定休日とは珍しい。やむを得ず六角形の白い灯台を外部から眺める。野島埼灯台は、日本の洋式灯台の2番手として1869年(明治2年)12月18日に点灯した。ちなみに1番手は今年3月30日に日本外周旅行の3日目に訪問した三浦半島の観音埼灯台で、同年の元旦に点灯している。観音崎と並んで東京湾の入口でもある野島崎沖も海難事故の多い地域であるから灯台の設置が急がれたのであろう。灯台の前には「野島埼灯台」と旧字体の標識が掲げられている。
 野島埼灯台の手前には厳島神社があり、せっかくなので立ち寄ってみる。厳島神社の創建は1776年(安永4年)と灯台よりも歴史が古く、松林に囲まれて荘厳な雰囲気が漂っている。境内に祭られた七福神は、安房出身の石工武田石翁によって1779年(安永8年)に作られたものだという。参拝を済ませて境内を後にしようとすると、声が掛かった。
「どうですか?少し見学していきませんか?さあ、どうぞ、どうぞ。ぜひご覧になって行ってください」
声の主は厳島神社の境内にある「白浜海洋美術館」の管理人。「日本で初めて唯一の海の美術館」とうたっているが、お世辞にも立派とは言えない小さな美術館である。素通りするつもりであったが、あまりにも閑散としていて気の毒だったので、200円の入館料を投じて「白浜海洋美術館」を見学する。案の定、館内には観光客の姿はなく我々の貸し切り状態である。江戸時代の漁業の道具や工芸品が展示されており、美術館というよりは博物館のようである。房総半島発祥の大漁半纏、万祝(まいわい)コレクションを眺めて美術館を後にしようとするが、館内には我々しかいないので帰りにくい。タイミングを見計らっていると、幸いにも中年女性のグループがやってきたので入れ替わりに美術館を退散する。
 野島崎灯台の停留所に戻ったが、時刻表を確認しても千倉駅は直通するバスは見当たらない。すべての便が安房白浜止まりとなっており、千倉駅へは安房白浜乗り換えとなる。野島崎灯台から安房白浜までは1キロ強の距離なので、安房白浜まで歩いてしまった方が早そうだ。
 安房白浜に向かって歩いて行くと周囲にはリゾートホテルが立ち並ぶ。
「こういうところに泊まれる身分になりたいね」
安藤クンがポツリという。好景気で週末を手頃な場所にあるリゾートホテルで過ごす人達も多いのだろうが、1泊10,000円以上もするホテルは中学生の身分の我々にとっては高嶺の花である。
 野島崎灯台から白浜町の中心である安房白浜までは歩いて10分もかからなかった。JRバス関東安房白浜駅を名乗っており、バスなのに駅を名乗るとはおもしろい。我々は駅といえば、鉄道の乗降場というイメージを持っているが、そもそも駅とは、律令制で官道に設けて、公の使いのために人馬の継ぎかえや宿舎、食糧などを提供した場所なのだから、バスの乗り継ぎ場所が駅を名乗ってもおかしくない。
 次の千倉駅行きのバスまで時間があったので、小戸郵便局まで歩いて旅行貯金を済ませ、郵便局の近くにあった小戸から千倉駅行きのバスを捕まえることにする。千倉駅へ向かうバスの経路は、国道410号線こと房総フラワーラインを走行するルートと安房平磯から海沿いの地方道に入る汐湊経由のルートがある。外周旅行としては、海沿いの地方道を走る汐湊経由が望ましいのであるが、汐湊経由は安房白浜7時35分発の1日1本だけのダイヤでは利用できない。選択の余地なく房総フラワーライン経由のバスに乗る。
 小戸14時12分発のJRバスは、始発が1停留所前の安房白浜だというのに定刻よりも7分遅れでやって来た。時刻表によれば、このバスの千倉駅到着は15時04分となっている。安房鴨川行きの内房線173Mの千倉発車時刻は15時19分であるからこれ以上の遅れは困る。
「どうしよう。これじゃあ内房線に間に合わないかもしれないぞ!」
安藤クンが運転手の後ろで声を上げる。運転手に内房線に乗り換えることを遠回しに訴える作戦だ。
 千倉町に入るとバスの車窓から海が姿を消してしまう。千倉町のメインストリートは海岸沿いではなく、内陸に1本入った国道410号線だからやむを得ない。汐湊経由のバスは、漁港沿いの地方道を走るのであろう。
 安藤クンの訴えが運転手に届いたのか、もともとどこかで時間調整の余裕があるダイヤだったのか定かではないが、バスは7分の遅れを取り戻して定刻の15時04分に千倉駅前に到着した。173Mまで当初の予定通り15分の待ち合わせ時間ができたので、本多クンと柳田クンと一緒に千倉牧田郵便局に走り、旅行貯金を済ませる。旅行貯金派の安藤クンが付いてこなかったのは不思議で、千倉駅に戻って尋ねてみると、173Mの発車時刻を15時13分と勘違いして、無理な旅行貯金は見合わせたとのことであった。
 千倉から内房線173Mに乗り込む。路線名は安房鴨川までが内房線となっているが、洲崎を境界に外房に入っている。久しぶりの列車であったが、わずか7分の乗車時間となる南三原で下車。
 南三原からは、再び日東交通バスの世話になる。南三原駅前に停留所は見当たらず、駅前通りをまっすぐ進み、国道128号線に出たところに南三原駅前停留所を発見した。日東交通バスは南三原駅前には乗り入れず、国道128号線を直進してしまうのだ。
 次のバスは南三原駅前15時40分発の鴨川駅前行きである。待ち合わせ時間としては好都合だが、日東交通バスが遅れの常習であることは承知済み。旅行貯金ができるのではないかと郵便局を探してみるが、周辺には見当たらない。
「この辺りに郵便局はありませんか?」
本多クンがバスを待っていたお婆さんに尋ねるが耳が遠いようだ。
「はい。何でしょうか?」
「この辺りに郵便局はありませんか?」
「ええ、まだみたいですねぇ」
「・・・・・・」
お婆さんは状況から本多クンがバスの話をしていると思ったらしく、とんちんかんな返答に終始する。地図で確認しても郵便局は見当たらないので、旅行貯金は諦めた。
 日東交通バスは定刻を10分も遅れてやって来た。南三原駅前から1キロぐらい離れたところに南三原郵便局を発見し、郵便局の場所がわかっていても諦めざるを得なかったようだ。
 三原川を渡ったところで右手に太平洋が現れる。白渚海岸が続き、ようやく外周ルートらしくなってきた。和田漁港を経て、再び海岸沿いを走るが、江見を過ぎたあたりから複雑な地形の海岸となり変化に富む。
 南三原駅前から20分少々で仁右衛門島入口に到着。今日は仁右衛門島を見学して、安房鴨川へ出て旅を締めくくるのが良さそうだ。仁右衛門島入口停留所から民宿や土産物屋が並ぶ通りを抜けて仁右衛門島への渡船場へ急ぐ。仁右衛門島の見学時間は17時までなので、時間的にはぎりぎりだ。
 なんとか16時20分に渡船場に到着。仁右衛門島までの渡船料と入園料がセットになったチケットを購入しようとすると、乗船券売り場の中年女性がチケットの販売を拒否する。
「ここは5時までなので、また明日来てください」
明日と言われても、我々は宿泊客ではないので、簡単には引き下がれない。
「明日と言われも今日帰らなければならないので困ります。パンフレットには40分で見学できると書いてありますよね。まだ30分以上あります。必ず5時までに引き上げますから見学させてくださいよ」
「でも、後日ゆっくりと見学した方がいいんじゃないの?」
「簡単に来ることができないから頼んでいるんじゃないですか!」
「一体あなたはどこから来たの?」
「神奈川県ですけど」
「神奈川県なら近いじゃない。いつでも来れるでしょ!」
「だったらあなたが交通費を払ってくれるのですか?こっちは社会人じゃないのですから旅費だって簡単に都合できるわけじゃないんです」
押し問答の末、中年女性は渋々ながらチケットを売ってくれそうな様子を見せたが、安藤クンが余計な口を挟む。
「もうやめなよ。今度ゆっくり見学すればいいよ。僕もゆっくり見たいから」
安藤クンの言葉に中年女性の態度が再び変わる。
「友達だってそう言っているじゃない。今度にしなさいよ!一生来られないわけじゃないでしょ!」
中年女性は片付けを始めてチケットは頑として売らないという態度を示す。
「そうですか。こんなところには一生来ませんよ!」
中年女性に嫌みのひとつも言ってやりたくて、捨て台詞を残してその場を立ち去る。しかし、腹の虫は治まらない。もちろん怒りの矛先は安藤クンだ。
「どうして余計な口を挟むんだ!もう少しでチケットを売ってもらえたのに!鴨川まで行けたのに台無しじゃないか!」
しかし、安藤クンは「はい、はい。すみませんでした」と上辺だけの言葉を口にするだけで聞く耳を持たない。不本意ながら仁右衛門島渡船場から10分ほどの太海駅で今回の旅を打ち切ることになる。
 ついていないときは悪いことが重なるものである。この後、我々は太海から内房線で安房鴨川に出て、外房線で帰路に付いたのであるが、外房線の車内で財布を落としたことに気付く。安房鴨川駅のキヨスクでお土産を買ったので、そのときまでは確かに財布を持っていた。落としたのであれば安房鴨川駅に違いないと、安房小湊で列車から降りて、駅前の公衆電話から安房鴨川駅に連絡。財布の落し物が届いていないかを確認する。しかし、財布の落し物は届いていないとのこと。とりあえず、安房鴨川に戻って財布を探してみることにし、安房小湊から再び安房鴨川へ引き返したのだが、安房小湊駅前の公衆電話ボックスに、自宅へのお土産として買ったお菓子を置き忘れてしまった。安房鴨川駅で名前と連絡先を伝え、財布が見付かったら連絡してもらうように頼んで帰路に付く。車内で財布を落としている可能性もあるので、千葉駅でも外房線の車内で財布の落し物が見付からなかったかを確認し、同様に名前と連絡先を伝えておく。しかし、その後、安房鴨川駅からも千葉駅からも連絡はなく、結局財布は見付からずに終わった。とんだ災難に見舞われた旅の締めくくりである。

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