旅につきものあるある情報

第5日 千葉−富浦

1990年8月24日(金) 参加者:安藤・林・本多・柳田

第5日行程  午前6時に東京駅地下ホームで安藤クン、林クン、本多クン、柳田クンと落ち合う。今回は新顔がいないので新鮮味に欠けるが、外周旅行がいかなるものかを知っているメンバーであるため行動しやすいという利点がある。
 旅のアプローチは今年3月10日に東京−新木場間7.4キロが開業し、ようやく全線開通したばかりの京葉線だ。6時06分の普通列車に乗り込み、開業区間を初乗りするが、潮見の手前までは地下を走るので面白くない。地上を走ったところでビルの谷間を見せられるだけかもしれないが、それでも地上を走れば多少なりとも景色の変化はある。
 前回の解散地である稲毛海岸に到着すると第5回「日本外周旅行」のスタート。本来はここで集合するはずであるが、メンバーはそろっているし、稲毛海岸でわざわざ下車する必要もないので、このまま列車を乗り通すことにする。
「いやぁ。この前のゴルフは楽しかったなあ」
柳田クンがにやにやしながら言う。前回の旅の打ち上げとして、稲毛海岸駅近くの京葉線高架下を利用した「ファミリーゴルフ」というパターゴルフに挑戦したが、その時の優勝が柳田クンであったのだ。稲毛海岸の駅名標を眺めながらご満悦の様子。ちなみに最下位が私で、パー72打のところを142打と倍近く叩いた。ゴルフの才能はないらしい。
 稲毛海岸を出ると沿線には新築マンションが立ち並ぶ。京葉線が東京へ直通するようになり、京葉線沿線も急ピッチで開発が進んでいる。近頃、首都圏では人口のドーナツ化現象が顕著になっており、話には聞いていたが改めて納得する。地価が高騰している東京都内よりは、1時間の通勤時間がかかるとしても、千葉市周辺であれば手頃な価格でマイホームが購入できるのであろう。
 千葉港で下車すると、ホームに異様な匂いが漂っている。近くの工場が発生原因であろうか。従来から京葉工業地域として発展していた場所だけあって、京葉線沿線は工場も多く、今後は住居地域と工業地域の共存が必要になってくるだろう。
 例によって安藤クンが途中下車印の押印を申し出ると、千葉港の駅員は途中下車印の代わりに駅名小印を押した。正確には途中下車印と駅名小印は異なるものだけど、前回の海浜幕張の駅員よりはマシである。
 千葉港駅は高架線の下に無理やり駅を設置したような構造で、駅前広場のようなものは一切なく、かつての終着駅だったこともにわかに信じ難い。駅前は交通量の少ない寂しい道路で、まだ街は眠っているのだろうか。京葉線の高架沿いの道路を蘇我方面に歩くと、すぐに臨港プロムナードという広い道路に出る。
「この道路はよく整備されているね」
臨港プロムナードを見て安藤クンが褒め称える。この辺りも地形から見て埋立地だろうし、京葉線の全線開通を相俟って、千葉市も都市整備に注力している地域なのではなかろうか。
 臨港プロムナードをたどると千葉港の一角が千葉ポートパークとなっており、人工砂浜まで整備されている。人工砂浜には朝早くから地元の中学生らしきグループ4人が集まっていたが、我々の姿を見るとどこかへ行ってしまったので貸し切り海岸となる。人工砂浜だけあって、砂浜自体はきれいだが、波打ち際の砂は黒ずんでいる。近くを航行するタンカーの油であろうか。景色はいいが、海水浴を楽しむような場所ではなさそうだ。人工砂浜でも貝殻があり、安藤クンが1枚の貝殻を拾い上げる。
「この貝殻はいくらで売れるかな」
安藤クンのつぶやきに柳田クンが反応する。
「こんなところで拾った貝殻はせいぜい2円がいいところだな」
「君にはこの貝殻の価値がわからないのかね。まったく嘆かわしい」
安藤クンが反論するが、2円でも値段が付けばマシだと思う。
 千葉ポートパークには、県民500万人突破を記念して建設したという千葉ポートタワーもあった。1986年(昭和61年)6月15日のオープンで、高さは125.1メートル。高層ビルのような外見だが、展望室からは全面360度を見渡すことができるという。ただし、営業時間は9時からなので、開館まで2時間待ちとなってしまう。
「9時まで待ってみようか?」
本多クンが提案するが、旅が始まったばかりで2時間ものロスは大きく、千葉ポートタワーの見学は別の機会に譲る。
 千葉港駅に戻り、京葉線で1駅隣の蘇我へ向かう。千葉港はかつての京葉線の終着駅であったが、1988年(昭和63年)12月1日に千葉港−蘇我間4キロが開業し、現在は蘇我で外房線と内房線に接続している。蘇我では慌ただしく2分の乗り継ぎ時間で内房線の君津行き1139Mに駆け込む。ちょうど通勤通学ラッシュの時間帯で混雑しているが、各駅に停車していくごとに乗客は減って行く。この辺りは京葉工業地帯が続いているので工場勤務の利用者も多そうだ。小湊鉄道が分岐する五井で座ることができた。
 姉ヶ崎でL特急「さざなみ3号」に道を譲るため1139Mは7分間の停車。安藤クンが途中下車印の収集に走る。しばらくしてキヨスクで買ったアイスクリームを咥えながら戻ってきた安藤クンに何気なく尋ねる。
「途中下車印は押してもらえたの?」
安藤クンは首を横に振る。
「そのままでいいと言って押してもらえなかったよ。時間があまりなかったから粘らなかったけどね」
 1139Mは8時35分に木更津に到着。蘇我−木更津間は距離にして31.3キロ。第1日目の平塚−逗子間の旅が26.6キロで、それよりも長い距離を列車で移動してしまったが、意図的に旅のスピードアップを図ったわけではない。地図を見れば一目瞭然だが、蘇我−木更津間は埋立地に工場が続く京葉工業地帯の一部である。観光スポットはもとより小さな公園すらないのだから下車しても仕方がないのだ。
 木更津駅近くのセブンイレブンでパンとコーヒー牛乳の朝食を確保し、富士見通りを歩いて木更津港を目指す。目当ては木更津港に浮かぶ中の島公園だ。島の周囲が400メートルほどの小さな島であるが、1987年(昭和62年)にTBS系列で放送された明石家さんま主演の大ヒットドラマ「男女7人秋物語」のロケ地となり一躍有名になったスポットでもある。
 中の島へは木更津港から歩行者専用の赤い中の島大橋を渡ることになるのだが、橋の袂がジグザグの階段状になっており、奇妙な形状をしている。中の島大橋の下には木更津港に出入りする漁船のほか、木更津と川崎を結ぶ日本カーフェリーが頻繁に通過するので、船舶の航行に支障を来さないように高度を稼いでいるのだ。高さは27.125メートルあり、日本一高い歩道橋であるという。階段を登って行くとやたらと落書きが目立つ。ドラマの影響で訪問する人々も増えたが、マナーの悪い招かざる訪問者も増えてしまったようだ。階段を登り切り、236メートルの長さの中の島大橋の中央まで踏み出すと風が強く、コンクリート製の橋が揺れている。
「うわぁ〜怖い。助けて〜」
安藤クンや本多クンがぎゃあぎゃあと騒ぎだす。女の子に見せられない顔をしていなかったのは幸いだ。
 中の島公園は島全体が公園になっていた。中の島大橋の近くには木更津漁業組合30周年の石碑があり、「昭和55年2月26日」と刻まれている。木更津漁業組合は、今年でちょうど40周年を迎えることになるのだ。
 中の島には地元の中年のおじさんが1人で居たが、我々の姿を見掛けると中の島大橋を渡って木更津港へ戻ってしまった。騒がしい若者がやってきたと思われたのだろうか。ぐるりと公園内を一周していると、上空に陸上自衛隊のヘリコプターが飛んでいる。中の島のすぐ目の前には陸上自衛隊の木更津駐屯地があったのだ。
 木更津郵便局で旅行貯金を済ませて木更津駅に戻ると、安藤クンと本多クンが「あっ」と声を上げて走り出す。駅構内の待避線で清掃中の久留里線のキハ30形に向かってカメラを構えている。キハ30形は国鉄時代に非電化通勤用車両として開発された車両で、相模線でも見掛ける車両だ。安藤クンは久留里線のファンとのこと。
「久留里線はいいよ。僕は2度乗ったけど、景色が良くてね。今日の帰りも久留里線で帰ろうよ」
私が久留里線に乗ったのは2年前の1988年(昭和63年)8月4日のこと。安房鴨川から鴨川日東バスで古めかしい駅舎が構える上総亀山に降り立ち、2両編成のキハ30形で木更津まで揺られた。渓谷を通り抜け、車窓が良かったことは覚えているが、時間の制約上、安藤クンの希望を叶えることは難しそうだ。
 木更津10時24分発の内房線153Mは非冷房車であったが、窓を開ければ爽やかな風が吹き込み心地が良い。君津を経て青堀で下車する。
「駅前に郵便局が見えたよ」
153Mの車内から郵便局の「〒」マークを見掛けたと林クンが言う。青堀駅前には富津公園行きの日東交通バスが発車する直前であったが、富津公園行きのバスは頻繁に運行しているので郵便局を優先する。林クンの案内に従って、駅前ロータリーを出たところにある国道16号線を少し君津方面に戻ると、青堀郵便局が現れた。本多クンと林クンは、青堀郵便局で新たに旅行貯金用の口座を開設し、新たな通帳を手にして御満悦だ。
 青堀郵便局から出るとちょうど目の前を富津公園行きの日東交通バスが通り過ぎたので慌ててバスを追い掛ける。ただ追い掛けただけでは、バスに追い付くはずもないが、バスは青堀駅前ロータリーに立ち寄る。その間に国道16号線を富津公園方面に直進すれば、その先の停留所で今のバスに乗り込めるはずだ。青堀郵便局から300メートルも走ると亀井停留所があり、汗をかきながら富津公園行きのバスに乗り込む。車窓は次第にひなびた雰囲気になり、次第に旅の雰囲気が強くなってきた。
 15分もバスに揺られていると、道端に停車したバスが動かなくなった。キョロキョロしていると「終点ですよ」と運転手から声が掛かる。公園の前にあるロータリーのような停留所を想像していたので戸惑った。降車時に林クンが両替をしようとすると、釣銭切れのランプが点灯する。両替用の小銭ぐらいきちんと用意しておいてもらいたいものだ。他のメンバーが手持ちの小銭がないか財布を除き込んでいる間に林クンは気前よく50円玉の代わりに100円玉を運賃箱に放り込んだ。
 停留所から少し歩くと「南房総国定富津公園」という看板が目に入る。南房総という響きが南国を思わせる。
「海へ行く人はいませんか?車で送りますよ」
 停留所の近くでは、「海の家さざなみ」との文字が入ったワゴン車の前でおばさんが客引きをしている。海水浴客の送迎サービスを行い、「海の家さざなみ」へお客を連れ込む魂胆であろう。富津岬の南海岸には布引海岸が広がっている。しかし、我々の目的は海岸ではなく、富津岬の先端だ。
 バス停から5分も歩くと「ジャンボプール」があり、「キャーキャー」と子供達の黄色い声が聞こえてくる。夏休みの真っ最中で、連日、小学生で賑わっているのであろう。スライダープール、波のプール、流水プールなど多彩な種類のプールがあり、人気のスポットのようだ。
「あ〜あ、泳ぎたいな」
本多クンがプールを脇目にしながらボヤくが、行く先々でプールに立ち寄っていては外周旅行が成り立たない。
 富津岬の先端までは停留所から2.5キロの道のりであるが、道路が真っ直ぐに伸びているために何処までも果てしなく道路が続くように感じる。しかも、8月の炎天下で周囲には日差しを遮るようなものは何もない。
「うわぁ〜冗談でしょう?本当にこんな道を歩いて行くの?」
本多クンが悲鳴を上げるがもちろん本気だ。
「富津岬は諦めよう!」
安藤クンがあっさりと切り捨てるが、もちろん外周旅行のポイントである岬を無視することはできない。直線道路なので長く感じるが、2.5キロ程度ならいつも難なく歩いている距離なので、非難の声を背にしながら先へ進む。しかし、夏の日差しは体力を消耗する。ガイドブックには、富津岬の先端まで続くこの道を「親しまれる散歩道」と表現していたが、ガイドブックを手掛けた人は実際に歩いたことがあるのだろうか。少なくとも夏場はとても親しみを感じられるものではない。延々と歩く我々の脇を時折自家用車が追い抜いて行く。富津岬にバスと徒歩で訪れる物好きは我々ぐらいのようだ。
 途中で道路が分岐していたが、いずれの道路も富津岬の先端にある明治百年記念展望塔へ通じているので、まずは北側の道路を選択する。帰りは南側の道路で戻ればぐるりと一周できる。
 バス停から30分少々歩いて明治百年記念展望塔に到着。展望塔の下には売店があり、林クンがガッツポーズをしながら絶叫する。
「おおっ売店があるぞぉ!ジュースが飲めるぞ!」
ラガーマンで日頃から体を鍛えているはずの林クンでも30分の炎天下の強行軍は応えたようだ。「ポカリスエット」を瞬く間に飲み干して、「こんなんじゃ足りない」ともう1本追加。しかし、売店は足元を見るかのように缶ジュース1本に150円の値段を付けている。私はラムネを1本買ったが、安藤クンと本多クンはかき氷を注文。焼そばやパンも売っているが、わざわざここで買う必要もないだろう。
富津岬  明治百年記念展望塔は五葉松を象った風変わりな展望塔であった。構造上は登り口が4箇所ほど設けられているのだが、1箇所を除いてすべて閉鎖されている。最上階まで登ると、目の前には東京湾が広がり、沖合には第一海堡、さらにその先には第二海堡と呼ばれる人工島がある。太平洋戦争中は、その人工島に砲台を設置して、アメリカ軍を迎え撃っていたのだ。さらに遡れば1810年(文化7年)、江戸幕府は富津岬に台場を設置し、外航船の来航に備えていたという。富津岬は軍事拠点として古くから重要視されていたのだ。
 東京湾に背を向ければ、一直線の道路が続く富津岬が見渡せる。
「海の景色よりも僕達が歩いて来た道を眺める方がいいね。感動するよ」
安藤クンがしみじみと言う。我ながらよく歩いたなと感心するが、この道を再び戻らなければならないのかと考えるとうんざりする。他のメンバーも同じように感じたのか、展望塔から降りるとその場に座り込んでしまった。帰りはタクシーを利用するしかあるまい。
 幸いにも展望塔の近くに黄色い公衆電話があったので、林クンと一緒にタクシーの手配に行く。かなり古い公衆電話だったので使えるかどうか心配だったけれど、10円玉を放り込むとプーッという発信音がしたので安心する。ボロボロになった備え付けの電話帳で富津公園タクシーという手頃なタクシー会社があったので電話番号をプッシュする。しかし、行き先を国道465号線に合流する篠部までと告げると空車はないと電話を切られてしまった。富津岬の先端まで2キロ以上も迎えに来るのが煩わしいのだろうか。
「行き先を尋ねられたので配車してくれると思ったのだけどなぁ。残念ながら今は空車が1台もないらしい」
ベンチに座り込む他のメンバーに告げると安藤クンが首を上げる。
「行き先まで確認したのなら、遠距離客ならば配車しようと考えたからに違いない。先に空車があるかを確認すればいいんだよ」
そう言うと今度は安藤クンが富津公園タクシーに電話をする。やがて電話ボックスから出てきた安藤クンがガッツポーズを見せる。安藤クンの作戦勝ちだ。配車まで15分掛かると聞いたので、タクシーが来るまで売店でかき氷を食べていると、5分もしないうちにタクシーがやって来た。慌ててかき氷をかき込むとキーンとした頭痛がした。
 タクシーの定員は本来5名であるが、本多クンと柳田クンは小学生並みの軽量クラスなので運転手を含めて6名が1台のタクシーに収まる。
「布地海岸沿いの道路を走って、篠部のバス停で降ろしてください」
行き先を告げると、運転手から提案が出される。
「大貫駅まで行くの?だったらこのままタクシーで大貫駅まで行ってしまった方がいいよ。大貫駅行きのバスは1時間に1本あるかないかだ。5人ならばタクシー代の方が安いよ」
バスよりもタクシーの方が安いかどうかは疑問だが、効率性を考えればこのままタクシーで大貫駅まで行くのが良さそうだ。行き先を篠部から大貫駅に変更する。運転手は更にマザー牧場まで行くことを提案したが、外周ルート外なので却下。
 富津岬の南側は布地海岸という海水浴場になっており、たくさんの海水浴客で賑わっている。「海の家さざなみ」のおばさんは無事に海水浴客をつかまえることができたのであろうか。富津漁港で海岸と別れて国道465号線に入り、大貫駅前に到着。料金メーターは1,800円を示していた。高額ではあるが1人あたりは360円だから確かにバスに乗り継ぐよりも安かったかもしれない。
 大貫駅の時刻表を確認すると、次の内房線下り列車は12時45分発の安房鴨川行き165M。発車時刻まで30分近くの時間があったので、タクシーの車内から確認した富津千種新田郵便局へ足を向ける。大貫駅から郵便局までは500メートル近く離れていたが、郵便局へ立ち寄ることは苦にならないらしい。
 相変わらず喉が渇くので、駅前の「朝日屋商店」で1.5リットルのウーロン茶を購入。荷物になるが、その都度、缶ジュースを購入するよりも経済的だ。各々が好みの1.5リットル入りペットボトルの飲料を購入する。本多クンは「六甲のおいしい水」を手にした。
「本当にその水は美味しいのかね」
安藤クンがいぶかしそうに本多クンに尋ねる。本多クンもお金を払ってミネラルウォーターを買うのは初めての経験らしい。
「ジュースと同じ値段だし、美味しそうだったからね。でも、やっぱりただの水かなぁ」
JR東日本が谷川連峰の名水として「大清水」の販売を開始したことは記憶に新しいが、一般的にミネラルウォーターが店頭に並ぶようになったらしい。ミネラルウォーターは水質の悪い海外では一般的に流通しているらしいが、水道水を飲むことができる日本でどれだけの人がお金を払って水を買うのだろうか。郵便局によってはウォータークーラーが設置されており、冷えた水で喉を潤せるので、少なくとも私はミネラルウォーターに手を出す気になれない。もっとも、ウーロン茶をわざわざ高いお金を払って買うのも五十歩百歩か。他のメンバーはジュースのペットボトルを手にしている。
 165Mは有難いことに冷房車両であった。大都市近郊区間を走る列車は冷房車両が当たり前となったが、房総半島の鉄道はまだまだ非冷房車両が多い。ところが、この冷房車両が一瞬の気の緩みをもたらす。本来であれば、我々は次の佐貫町で下車して、東京湾を一望できる南房総大坪山山頂に建立された東京湾観音に立ち寄る予定であった。東京湾観音は、全世界の戦死戦災者の御霊を慰霊し、世界永遠の平和を祈念するために1961年(昭和36年)建立された。胎内には314段の階段が通じており、十三沸や七福神を祀ってあるという。そして、何よりも浦賀水道を往来する船の灯台の役目も果たしているとあっては、外周旅行では当然に立ち寄るべきスポットだ。冷房車両の居心地の良さに我を忘れてしまった。自分のミスに気が付いたのは佐貫町の次の上総湊を発車した後に、車内で持参した地図を開いたときである。
「東京湾観音に行くのを忘れていたでしょう?」
安藤クンがニヤニヤしながら私の顔をのぞき込む。知っていたのなら教えてくれればいいものを、知らん顔しているのだからひどいものだ。東京湾観音へ行くためには、佐貫町から2キロ近く歩かなければならず、安藤クンは富津岬の再来を阻止しようとしたに違いない。
 引き返すという選択肢がないわけでもない。第1回の旅で江ノ電の腰越を通過してしまったときは、次の列車で引き返している。時刻表を確認すると、165Mが次の竹岡に到着するのは13時05分。対向列車である千葉行き186Mの竹岡発車時刻は13時04分。タッチの差で乗り換えることができないようであるが、内房線は単線である。この165Mと186Mは竹岡駅で行き違うことは間違いない。竹岡駅が島式ホームであれば、到着した瞬間に反対ホームに停車している186Mに乗り移ることは可能であろう。皆に乗り移りの準備をするように伝える。事情を理解しているのは安藤クンだけなので、他のメンバーは不審そうだが、説明は対向列車に乗り移ってからだ。車内に間も無く竹岡に到着する旨のアナウンスが流れる。ドアの前で荷物を持ち、乗り移りに備えるが、減速した165Mの車内から視界に入って来た竹岡駅のホームは相対式2面2線であった。これでは駄目だ。対向列車の186Mに乗り移るためには、階段を使って反対側のホームに移動しなければならない。私だけならチャレンジしたかもしれない。しかし、今回は5名の集団行動だ。しかも、186Mの乗り移りに失敗したうえ、今乗っている165Mに戻ることもできなければ、何もない竹岡に取り残されてしまう。この区間の内房線のダイヤは1時間に1本。1時間のロスはあまりにも代償は大きい。私は散々迷った挙句、乗り移りを諦め、165Mの車内に留まることにした。対面ホームに停車していた186Mが嘲笑うかのようにゆっくりと竹岡を発車していく。他のメンバーが不審な顔をするが、あまりにも私が落胆しているので、誰も声を掛けて来ない。代わりに安藤クンが状況を説明する。東京湾観音へは改めて落ち穂拾いにやってくるしかなさそうだ。
 気を取り直して13時10分の浜金谷で下車。ホームからは鋸山が間近に見える。その名のとおりむき出しの岸壁が連なり、鋸の歯を立てたような山容を呈する。もっとも、正式には乾坤山といい、昭和50年代までは建築資材とするために房州石と呼ばれる凝灰岩を切り出していたという。
 浜金谷駅前から国道127号線に出て、南へ10分ほど歩く。金谷神社に続く脇道に入ると、鋸山ロープウェイの山麓駅にたどり着く。運賃は片道400円、往復720円となっており、ロープウェイで下山するのであれば、あらかじめ往復乗車券を購入しておくのが経済的だ。しかし、地図を見れば日本寺の境内を経て、ロープウェイの山麓駅とは反対側にある南側の山麓に抜けられそうでもある。
「山頂駅から国道127号線までは山道をたどるとどのくらいの距離がありますか?」 切符売り場の兄さんに尋ねてみる。
「階段を下りれば500メートルぐらいですね」
あまりにも近いので拍子抜けだ。もちろん高低差があるので平地を500メートル歩くよりも体力は必要であるが、その程度の体力であればまだ残っている。国道127号線に出れば保田方面に向かうバスも走っているのだろう。片道乗車券を購入すると、390円の券面額に運賃変更のスタンプを押印した硬券切符であった。
 我々を待ちかねていたかのように改札が始まったので、貸し切り状態かと思えば先客が2人おり、しばらく客待ちを強いられていたようだ。我々が乗り込むとすぐにガイド嬢が続き、ロープウェイはすぐに発車。線路長680メートル、高低差223メートルの山頂駅までの所要時間は3分20秒だ。だんだんとロープウェイが山頂に近付くにつれて、房州石を切り出した跡がはっきりとしてくる。
 山頂駅に到着すると硬券切符は回収されてしまって記念にはならない。せっかく貴重な硬券切符なのだから、記念に持ち帰れるようにすれば旅行者にも喜ばれるだろうに。逆にすぐに回収してしまうなら、ペラペラの紙片でも十分で、券面額390円の旧券の在庫がなくなれば、鋸山ロープウェイの硬券も姿を消すことになるのかもしれない。
 山頂駅には「石切資料コーナー」があったので立ち寄ってみる。「石切資料コーナー」には、江戸時代の石切りの道具や作業着が展示されているほか、石切りの方法や鋸山の歴史についての説明がある。古くは室町時代から港湾の積み石や建築材料として房州石は重宝されていたようであるが、当時の石の積み出しには相当な困難を極めたことは容易に想像ができる。
 「石切資料コーナー」から階段を登って展望台に出ると、ここが鋸山の山頂で「鋸山山頂標高329m」と記された木製の標識が立っていた。意外に標高の低い山で、階段を下れば500メートルほどで国道127号線に出られるという山麓駅職員の説明にも納得できる。目の前には東京湾から館山の洲崎まで続く景色が広がり、いよいよ房総半島へやって来たという実感が湧いてきた。天気が良ければ対岸の三浦半島の向うに富士山も確認できるとのことだが、今日は霞んでしまって姿を確認することができない。東側にはかつての上総国と安房国の国境になっていた山稜が続いている。
 しばらく展望台で憩い、下山を開始する。東へ続く尾根道を5分も歩くと日本寺の西口管理事務所にたどり着いた。正式には乾坤山日本寺と言う鋸山の中腹に境内を持つ曹洞宗の寺院で、725年(神亀2年)6月8日に聖武天皇の勅願によって行基が開創したというのだから歴史は古い。それにしても日本寺とは大層なネーミングである。国道127号線に下るためには日本寺の境内を通過しなければならないようで、我々は半ば必然的に400円の拝観料を支払って日本寺の境内に入る。
 拝観券には、「鋸山日本寺案内図」が付いており有難い。案内図を頼りに境内を散策しながら下山するのが良さそうだ。
「地獄のぞきに行ってみたいなぁ」
案内図を眺めながら林クンが言う。垂直に落ち込む断崖絶壁の一部に岩が付き出ているところがあって、そこから眼下をのぞき込めるようになっているようだ。なかなか面白そうなポイントで、私も林クンに同調するが安藤クンが猛反対。
「地獄のぞきに行くまでは坂道を登らなければいけないじゃないか。疲れるだけだから止めた方がいい」
日頃ラグビーで体を鍛えている林クンはまだまだ体力は有り余っているようだが、安藤クンをはじめ、他のメンバーはまだ富津岬の疲れが尾を引いているようでぐったりとしている。結局、地獄のぞきは多数決で否決されて断念する。
 水がチョロチョロと流れているだけで、案内図に記されていなければ滝とは気が付かない不動滝を望む天台石橋まで行くと、再び安藤クンと林クンの意見が分かれる。安藤クンは国道127号線までの近道となる大仏前参道を進むことを主張するが、林クンは遠回りになるものの見所の多い千五百羅漢道を進もうと提案する。400円の拝観料を払っているにもかかわらず、日本寺の境内をすべて素通りというのもどうかと思い、今度は林クンの提案を尊重する。
 千五百羅漢道へ続く道の途中に、どういうわけか聖徳太子像が祀られている。由来などの説明はないので、飛鳥時代の聖徳太子と奈良時代に創建された日本寺との関係は謎のままだ。
 聖徳太子像の近くにある維摩窟には、岩壁の洞穴に沿ってたくさんの石仏が安置されていた。それぞれの石仏が様々な表情をしているが、首から上がなくなっている石仏もあり、少々気持ちが悪い。明治維新の廃仏毀釈によって破壊されてしまったものだそうで、現在でも「羅漢様お首つなぎ」という復興儀式が行われているという。
 維摩窟から階段を数段登ったところから千五百羅漢道は始まった。千五百羅道に並ぶ石仏は、高雅愚伝禅師の発願により、上総桜井(現在の木更津市)の名工であった大野甚五郎英令が1779年(安永8年)から1798年(寛政10年)に至る前後21年間の歳月を費やして、門弟27名とともに生涯をかけて1,553体の石仏を刻み、風蝕によってできた奇岩霊洞に安置し、奉ったものであるという。
日本寺大仏  千五百羅漢道から長めの階段を下っていくと大仏前広場に出た。広場の正面には、巨大な大仏が鎮座している。薬師瑠璃光如来と称する高さ31.05メートルの大仏で、やはり1783年(天明3年)に千五百羅漢道の石仏を刻んだ大野甚五郎英令が27人の門徒と3年間の月日をかけて彫刻したものだという。もっとも、自然の風食による損傷が激しく、現在の大仏は彫刻家である八柳恭次氏の指導のもとに1966年(昭和41年)から4年をかけて修復されたものであるという。鎌倉の大仏の高さが13.35メートル、奈良の大仏の高さが18.18メートルというのであるから、日本寺の大仏はとてつもなく大きい。珍しく外周旅行に顔を出さなかった奥田クンから、千葉に日本一の大仏があると聞かされたことがあったが、日本寺の大仏のことを言っていたのだなと思い出す。宇宙全体が蓮華蔵世界たる浄土であるとし、世界平和、万世太平の象徴として復元建立されたそうで、物理的な大きさだけでなく、理念の大きさも相当なものだ。
 寺の境内に赤い鳥居を構える乾坤稲荷を経て日本寺仮法堂へ。1939年(昭和14年)に登山者の失火によって焼失して以来、本堂は再建されずに仮法堂が本堂の代わりを担っている。右手に「乾坤山日本寺」、左手に「曹洞宗参禅道場」の看板が掲げられており、仮法堂とはいえ、かなり年季を感じさせる建物である。
 心字池、観音堂を経て、仁王門をくぐると日本寺の散策も終了。小磯川沿いの表参道を進むが、交通の便が悪いので裏道のような雰囲気だ。JR内房線の高架下をくぐり、国道127号線に出たところに、日東交通の鋸山保田口停留所があった。本来の鋸山の玄関口なのであろうが、賑わいはまったく感じられない。
 幸いにも館山駅へ向かうバスは概ね20分に1便と本数が多く、5分も待てば15時ちょうどのバスがやって来る。明鏡岬や東京湾に浮かぶツブネ島、元明平島を眺めてバスを待つ。
「ここのバスは時間にルーズだな。もうとっくに3時を回っているよ」
安藤クンが文句を言ったところに7分遅れのバスがやって来た。
 鋸山保田口から保田駅前までは5分もかからなかったが、この先、国道127号線が内房線よりも海沿いを走っているので、そのままバスに乗り通す。内房線に乗り換えるにしても、1時間に1本なので、列車の待ち時間がもったいない。そのまま勝山駅前まで乗り通す。
 本多クンが安房勝山駅の近くに郵便局があると言うので足を向ける。駅の近くと言っても、安房勝山駅から歩いて5分以上かかった。
「どこから来たの?電車で来たのかい?」
久しぶりに愛想のいい郵便局員であったが、柳田クンが回答に戸惑う。
「神奈川県の平塚からです。電車で来たというか、バスで来たというか、歩いて来たというか…」
世間話なのだから素直に答えればいい。
「勝山には鋸山からバスで来ました。もちろん平塚からは電車で来ましたけど。途中で富津岬にも寄って来ました」
ゴム印と主務者印を押された通帳を確認すると、勝山郵便局の局番は「05050」と切りのいい番号であった。
 勝山郵便局から東京湾に向かってあるくと3分もしないうちに勝山漁港に出た。漁港では、強烈な潮の匂いが鼻を衝く。それでも沖合には日本最後の原始島と呼ばれる浮島を伺うことができる。どうして浮島が日本最後の原始島であるのか理由はわからないが、原生林で覆われていることから、本来の姿をそのまま残している島であるということなのであろう。
 地図を見ると近くに西ヶ崎という小さな岬があったので、そちらにも足を記してみることにする。ところが勝山漁港から西ヶ崎へは海岸沿いの道路が通じておらず、内陸部を迂回することになったので、安藤クンの機嫌がよろしくない。
「こんな山道みたいなところを歩くのなら素直にバスに乗ろうよ。大体この道は本当に海に出られるの?」
以前、横須賀の追浜で方向違いの案内をしてひんしゅくを買った前科があるが、今度は地図と照らし合わせて何度も方向を確認しているので間違いないだろう。もっとも、西ヶ崎にたどり着くまで20分近くかかってしまった。
 西ヶ崎で再び浮島を眺めて岩井方面に向かって歩く。今度は海沿いに道路が整備されているので安心だ。勝山漁港で気になった潮の匂いもまったく気にならなくなり、嗅覚というのはすぐに麻痺してしまうようだ。
 歩き疲れたので岩井袋の岩場の海岸でしばらく休憩。本多クンは真っ先に海辺へ向かう。やがて元気になった安藤クンも海辺に繰り出し、小さな蟹を見付ける。本多クンと林クンが加わって蟹を捕まえようとするが、蟹は素早く逃げ回る。やがて林クンが蟹の行く手を阻もうとして投げた石が蟹に命中してしまい、蟹は石に潰されてしまった。
「蟹だって命があるんだよ。殺したら可哀想じゃないか!」
安藤クンが林クンに説教する。ここまではいいのだが、続きがよろしくない。
「そもそも西ヶ崎へ行こうと言い出した人がいけない。素直にバスに乗っていれば、この蟹は死なずに済んだはずだ」
とんでもない言い掛かりだ。西ヶ崎へ行くことと蟹の死との間にどれだけの因果関係があるのだろうか。
 国道127号線に出ると町営住宅前停留所を発見。次のバスまで20分近くあるが、さすがに先へ歩こうと言い出せる雰囲気ではない。幸いにも停留所の近くに「漁場屋」(いさばや)という海産物店があり、時間を潰すのにちょうどいい。もっとも、海産物店で我々が購入したのはジュースやアイスクリームの類である。
 「まったく時間にルーズなバスだな。許せないよ」
鋸山保田入口に続いて安藤クンが文句を言う。疲れが溜まって余計にイライラしてきたのかもしれない。町営住宅前からの日東交通バスも5分遅れてやってきた。
 日東交通バスで岩井駅前を乗り過ごして富浦駅前まで向かう。内房線は岩井−富浦間を岩富トンネルでショートカットしてしまうのに対して、国道127号線は忠実に海岸沿いをたどってくれるからだ。
「このバスは大房岬(たいぶさみさき)に行かないの?」
車内で安藤クンに尋ねられたので、運転系統図を調べてみたが、やはりバスは大房岬の根元を通過してしまうようである。富浦で下車して、大房岬を周る方法を考えなければならない。
 ウトウトしているとバスは富浦駅前に到着。寝ぼけ眼の状態で荷物を抱え、慌ててバスから飛び降りる。富浦駅前には何軒かの土産物屋が並び、名産である房州びわを使ったゼリーや羊羹が並んでいる。富浦町は房州びわの80パーセントを生産しており、収穫時期の5月下旬から6月下旬までは、国道127号線沿いにも直営店が軒を並べるとのこと。さすがに8月下旬では、房州びわそのものは残っていない。
 駅前の停留所で大房岬へ通じるバス路線がないかを確認してみたが、それらしき路線は見当たらない。観光案内所があったので尋ねてみるが、返事は思わしくない。
「大房岬を周わるバスはありませんか?」
「ありません」
「じゃあ、大房岬を周る手頃な交通手段はありませんか?」
「手頃な手段と言ってもねえ。タクシーに乗っても途中から遊歩道になってしまうので、結局は歩かないと岬の先端までは行けないよ」
とりあえず、大房岬の観光パンフレットだけをもらって、他のメンバーが待つ富浦駅の待合室に向かう。
「大房岬はなんとしても今日中に行こう。次回は館山からだ」
珍しく安藤クンが積極的な意見を言うが、タクシーでも一周することはできないのだから考えものだ。既に17時を回っており、時間的にも無理がある。
「レンタサイクルはどうかな?」
本多クンが駅前に掲げてあるレンタサイクルの看板を指差すが、大房岬へ向かう途中に坂道があるのは容易に予想がつく。しかも、自転車を再び富浦駅に返却にこなければならないのは少々煩わしい。今回は富浦で解散するしか余地がないようだ。
「今夜は1,500円までならOKだ」
解散を決定すると今日中に大房岬へ行くと頑張っていた安藤クンも切り替えが早く、今度は今夜の打ち上げの相談を始めた。

第4日目<< 第5日目 >>第6日目