士業の道は、修行の道

第4日 横浜−千葉

1990年7月31日(火) 参加者:安藤・奥田・本多・松本・柳田

第4日行程  第4回「日本外周旅行」は、JR東海道本線横浜駅を起点とする。早朝6時の横浜駅には、眠そうな顔をした安藤クン、奥田クン、本多クン、松本クンと私を含めて5人が集まった。松本クンはほとんど寝ていないらしく、目を真っ赤に充血させている。旅に支障を来さなければよいが。
 京浜東北線電車の発着する3番線、4番線ホームは、電車が入線する際にもメロディーを流して合図をしている。最近は発車ベルの代わりに発車メロディーを流す駅が増えているが、注意喚起のために列車の入線時にメロディーを流すのも名案だと思う。
 大宮行きの近郊型103系電車に乗り込むと、早朝だというのに意外に乗客は多い。早朝からの乗客が多いのは、フレックスタイム制を導入する企業が増えたことも影響しているのだろう。最近は通勤ラッシュを緩和するために、出勤時刻を労働者が自由に設定できる企業が多いと聞いたことがある。
 鶴見線の高架下をくぐると間も無く鶴見に到着。横浜からの所要時間は10分だ。鶴見からは先程立体交差をした鶴見線に乗り換える。
「1度改札口を出よう」
途中下車印を集めている安藤クンが言う。最近は途中下車印を用意していない駅やこちらから申し出ない限り途中下車印を押してくれない駅が増えている。おまけに今回の旅で我々が使用している「青春18きっぷ」は、途中下車印の押印を拒否されることもあると耳にする。趣味で途中下車印を集めている人は多いが、これからの時代で有名無実化している途中下車印を収集するのも大変であろう。
「途中下車印を押してもらえますか」
安藤クンが鶴見駅の改札口で頼む。「精算所へ行ってくれ」との返事が来るからと思ったら、改札係はあっさりと途中下車印を押してくれた。鶴見線目当ての鉄道ファンが多いだろうから、鶴見駅では途中下車印の押印申し出も多いのかもしれない。
 次の鶴見線の海芝浦行きは6時29分で、20分弱の接続。鶴見線は朝夕の通勤時間帯以外は列車の運転間隔が30分前後となり、行程に支障を来すため、わざわざ早朝に横浜駅に集合することにしたのだ。
 鶴見駅に降りるのは初めてだったので、わずかな時間であるが駅前を観察する。駅前は横浜市鶴見区の中心街だけあって、朝からスーツ姿のサラリーマンをはじめ人の行き来が多い。曹洞宗の大本山である總持寺も近いが足を伸ばしている時間的余裕はない。駅前には豊岡郵便局があったが、もとより時間外だ。
 鶴見線に乗るためには、通常の改札口のほか、鶴見線用に設けられた中間改札口を通らなければならない。新幹線のように中間改札口が設けられている理由は、鶴見線の全駅が無人駅であるため、運賃の取りこぼしを防止するためだ。ただし、この方法では鶴見線内の無人駅を行き来する乗客には対処できないが、ほとんどの乗客が鶴見線外からやって来る定期券利用者であろうし、設備投資や人員配置をするほどの被害は生じていないのだろう。国鉄時代は鶴見線に乗り放題の「鶴見線フリーきっぷ」なるものを発売していたが、人気がなかったためか、いつの間にか発売が中止されてしまった。
 鶴見線ホームの目の前には、「さわやか鶴見線」と空き缶を並べて作ったモニュメントがあり、なんとなく清々しい。旅の身支度をした我々5名と通勤客を乗せて、鶴見線は発車する。しばらく東海道本線と並走するが、一向に速度を上げる気配がない。
「この電車のろいよ」
本多クンがぼやく。鶴見線は本線の鶴見−扇町間が7.0キロ、支線の浅野−海芝浦間が1.7キロ、武蔵白石−大川間が1.0キロと全線でも9.7キロに過ぎず、駅間も短いため速度を出せる環境にはないのである。
 最初の停車駅である国道を出ると鶴見川を渡り、次第に工業地帯へと分け入る。浅野から本線と分かれて海芝浦支線に入ると、左手には旭運が広がった。新芝浦を出ると列車は直角に曲がって終点の海芝浦に到着。海芝浦のホームの反対側は京浜工業地帯で最も規模の大きな京浜運河だ。運河の向こうには東京湾の人工島である扇島が浮かび、昭和シェルの貝殻マークや「扇島石油」と記された石油タンクが並ぶ。地図で確認すると、扇島には石油基地が整備されていることが判る。
 京浜運河を行き交うタンカーを眺めた後、海芝浦駅のホームに備えてあった「らくがき帳」を見付ける。わざわざ鶴見線を訪ねて来るのは物好きな鉄道ファンぐらいかと思ったが、東京や横浜から散歩がてらに訪ねて来る人も多いことがわかる。我々も記念に日付とメンバーの名前を残す。
 海芝浦の改札口へ足を向ければ、駅舎の代わりに東芝京浜事業所警備員詰所があり、警備員が常駐している。海芝浦駅は東芝京浜事業所鶴見工場の一角にあるため、通常は工場への用務客しか利用しない。だから駅舎は必要なく、代わりに警備員詰所があるのだ。敷地内へは関係者以外の立ち入りはできないため、必然的に駅から外へは出られないことになる。それでも、警備員詰所の前には自動券売機が備えられていたので、警備員に断ってから記念に120円区間の乗車券を購入する。軟券切符は時間の経過により券面の印字が消えてしまうため、記念としては普段は購入しないのだが、珍しい駅に立ち寄ったので、今回は特別だ。券売機の隣には海芝浦駅の時刻表のほか、東芝の社内掲示板が設置されていた。
 ホームに戻るがまだ列車はやって来ない。他にすることもなく、朝日を浴びながら再び運河を眺める。
「海に一番近い駅だね」
松本クンが言う。なるほど。ホームの反対側がすぐに海だから確かに「海に一番近い駅」である。正確には「運河に一番近い駅」だが、京浜運河は東京湾に繋がっているのだから海とは言えないこともない。ホームの鉄柵越しに運河の水面をのぞくと、船の甲板に立っているような気分にすらなる。
 振り返れば、安藤クンと本多クンが線路脇に降りている。
「電車が来たら危ないぞ。早く上がれ」
私が注意するとその点は安藤クンも事前に確認済み。
「次の電車が来るのは7時頃だから、それまでは大丈夫だよ」
滅多に列車がやって来ないローカル線の駅でのような雰囲気が海芝浦駅にはある。もちろん、線路脇に降りることなど本来は許されることではなく、JR職員に見付かったら大目玉だ。
 次の列車で浅野まで2駅戻る。浅野駅は島式と相対式との2種類のホームで構成されており、島式ホームは、鶴見線本線と海芝浦支線の分岐する場所に設けられているため、三角形になっている。その三角形のホームの中央には花壇が整備されており、無人駅にもかかわらず手入れは行き届いているようだ。
 「鶴見線の駅名は人名を使ったものが多いね。確か隣の安善も人名から付けた駅名だったと思うよ」
安藤クンに言われて調べてみると、確かに鶴見線の駅名は人名に由来するものが多い。ここ浅野駅は、京浜工業地帯の埋め立ての功労者である浅野総一郎氏の姓から、「浅野」と命名されている。隣の安善もやはり京浜工業地帯の埋め立ての功労者である安田善次郎氏の名前が由来している。なぜ、「安田」ではなく、姓名から1文字ずつ拾って「安善」になったのかは定かではないが、駅名よりも前に埋め立て地が「安善町」と名付けられたので、駅名が安善となるのも自然の成り行きである。
 鶴見線が走る鶴見臨海工業地帯は東京湾の一部であったが、1913年(大正2年)から1927年(昭和2年)までに埋め立て工事が行われ、もともと地名が存在しなかったので、当時の功労者の名前がそのまま町名になっているところが多い。ちなみに先に通った鶴見小野は、江戸時代からの大地主であり、新田開発に功績のあった小野信行に由来している。これから向かう武蔵白石も日本鋼管の創設者であり、鶴見臨港鉄道の発起人でもあった白石元次郎に由来する。それぞれ「鶴見」と「武蔵」が冠記されたのは、中央本線に小野駅が、東北本線に白石駅があったため、混同を避ける目的があったのだろう。
 浅野からは扇町行きの列車で2駅。武蔵白石で下車する。武蔵白石駅の周辺も工場ばかりであるが、海芝浦のように工場の敷地内にあるわけではなく、駅前には工場勤務者を目当てにした商店や食堂もある。駅前の「恵比寿屋」が通勤前のサラリーマン相手に店を開けていたので、我々も朝食用の菓子パンを確保する。
 武蔵白石からは大川支線に乗り換える。大川支線には車両の長さが17メートルしかない1両編成のチョコレート色をした旧型国電車両であるクモハ12形が現役で頑張っており、鉄道ファンの根強い人気がある。クモハ12形に乗り込むと、床は木製で、現在では見掛けない手すり棒が車両の中央に備えられている。
 ゴトリと動き出すと右に大きくカーブし、本線と分かれる。線路はすぐに直線になり、白河運河を渡ったと思ったら終点の大川に到着。乗車時間はわずかに2分弱で、遊園地の乗り物のようである。
 クモハ12系の乗り心地を満喫することもなく到着した大川は一面ホームしかなく、線路はまだ先へ続いていた。駅構内には数本の待避線があり、タンク車が6両並んでいる。大川支線は貨物輸送がメインなのであろう。この駅も日本鋼管の2代目社長を務めた大川平三郎氏の名前が由来となっている。もっとも、一時は近くにある日清製粉の工場にちなんで、「日清」を名乗っていた時代もあったようだ。
 クモハ12形で武蔵白石に戻り、7時49分発の扇町行きに乗り継げば、この列車が鶴見線の完乗列車となる。南武線の支線が分岐する浜川崎を経て、武蔵白石から半円を描くようにして終点の扇町のホームに滑り込む。これで参加者全員が鶴見線を完乗したことになる。個人的には2度目の完乗だ。
 扇町の駅名は、浅野総一郎家の家紋が扇であったことに由来する。改札口には、今回の外周旅行が初参加となる柳田昌宏クンの姿があった。本来は横浜から一緒に参加する予定であったが、事情により横浜での集合時間に間に合わないため、扇町駅へ先回りして我々を待ち構えていたのだ。
扇町駅  扇町駅前には、JR貨物が管理している「無事湖」という池があり、鯉が数匹泳いでいる。無事故にちなんだ洒落だ。お固いイメージのJRであるが、洒落の効いた職員もいるようだ。池の鯉を眺めていると安藤クンと本多クンが途中下車印を押してもらえたとニコニコしながら報告する。扇町駅も無人駅だから途中下車印などあるはずがない。一体どこで押してもらったのだろうか。
「すぐそこに事務所があるでしょう?途中下車印を押してくださいって頼んだら押してもらえたよ」
本多クンが指差す方向には扇町駅に隣接するJR貨物の事務所がある。旅客扱いのJR東日本としては無人駅だが、貨物扱いのJR貨物としては有人駅なのだ。それにしても、JR貨物が旅客扱いの途中下車印を用意しているのだろうか。興味半分で私も事務所を訪ねてみる。
「すみません。こちらで途中下車印を押してもらえると聞いたのですが」
初老の職員に声を掛ける。
「本当の途中下車印ではないけれども、よろしいかな」
そう断ってから、「青春18きっぷ」の余白に「扇町」という少し大きめの駅名小印を押してくれた。規則上は許されることではないのかもしれないが、途中下車印の制度は有名無実化している。かつて関西本線の亀山駅で途中下車印の押印を申し出てみたことがあったが、改札口の脇に途中下車印が用意されており、勝手に押してくれという有様だった。何よりもJR貨物の職員の心遣いを高く評価したい。
「せっかくだから、これも押して行くかね」
初老の職員は引き出しの中から駅のスタンプを出して来てくれる。扇町駅に駅のスタンプが用意されていたとは初耳で、これは価値のある貴重なスタンプだ。有難く持参したメモ用紙に押印させてもらう。普段は荷物ばかりを相手にしているJR貨物であるが、職員の対応はJR7社の中ではもっとも素晴らしいと思う。かつて、私の友人が切符をなくしたときも、その場に居合わせたJR貨物の幹部が名刺の裏に乗車区間と切符を紛失した経緯をしたためてくれて、下車駅の改札口でその名刺を差し出すと何らのお咎めを受けることなく改札口を通過させてもらえた経緯がある。JR貨物の経営はトラック輸送に押されて厳しい経営を迫られていると聞くが、それだけに国鉄時代のお役所仕事から脱却し、お客様本位の思想が早くから社内で根付いているようだ。未だに無愛想な顔で仕事をしているJR東日本の職員にも見習ってもらいたい。
 扇町から昭和へ1駅引き返す。時代を感じさせる駅名だが、由来は駅前に昭和電工の工場があることから名付けられた。片側一面のホームに降り立つと、線路が複線になっているが、ホームがない線路は貨物線のようである。
 昭和駅からはしばらく足が頼りになる。県道101号線に出て、しばらく鶴見線の線路に沿って北上する。周囲は典型的な工場地帯で歩いていても面白味に欠けるが、貨物線の踏切や運河など変化はある。ただし、交通量が多いので空気は悪そうだ。
「疲れたよ。バスに乗ろう」
「空気は悪いし、歩くようなところじゃないよ」
5分も経たないうちに安藤クンと本多クンが口をそろえて言う。なんとなく2人で示し合わせている節があるが、今日はまだほとんど歩いていないので、体力は十分に残っているはずだ。
 大島四ッ角交差点を右に曲がると並木道が続き、ようやく街中に戻ってきたような感じになる。
「花梨の実が成っているよ」
安藤クンが並木に花梨が成っているのを見付ける。並木に花梨の実とは珍しい。バスで通り過ぎていたら気が付かなかったであろう。歩きならではの発見も少なからずある。
 川崎藤崎郵便局に立ち寄り、本日最初の旅行貯金を済ませた後、川崎大師へ向かう。川崎大師の正式名称は、金剛山金乗院平間寺(へいけんじ)といい、1128年(大治3年)に平間兼乗の発願により、尊賢によって開山された真言宗智山派の大本山である。1813年(文化10年)に徳川家斉が厄除けに訪れたことから、厄除弘法大師として知名度を上げ、毎年300万人近いの初詣の参拝客を集めているが、さすがに今日は参拝客も少ない。
 鉄筋コンクリート造りの中世和風様式の西解脱門から境内に入ると、古賀政男像が目に入る。古賀政男氏は毎年楽しみにしている明治大学マンドリン倶楽部のコンサートで古賀政男メドレーが必ず演奏されるのでよく知っている。古賀政男氏は、藤山一郎から美空ひばりまで幅広い作曲を手掛けた昭和の作曲家であるが、1977年(昭和52年)3月21日に「川崎大師賛歌」を作曲し、献歌したとのこと。古賀政男氏が他界したのは1978年(昭和53年)7月25日であるから、「川崎大師賛歌」は晩年に作曲されたものであり、古賀政男氏も川崎大師の厄除けにすがったのかもしれない。
 太平洋戦争の空襲により焼失した大本堂の代わりに仮本堂とされた大本坊や1973年(昭和48年)の弘法大師生誕1,200年記念事業として造顕された遍路大師尊像や真言の様式にかなうよう朱色の華麗にして格調ある八角五重塔などを順次見学して大本堂へ。現在の大本堂は1964年(昭和39年)に再建されたもので、平安様式と取り入れているが、鉄筋コンクリート造りだ。堂内には御本尊厄除弘法大師を中心に、不動明王・愛染明王等の諸仏が安置されている。
 「川崎大師では学業向上のお守りを買うんだ」
本多クンと松本クンが境内のお札・お守りお授け所で御守選びに余念がない。川崎大師は厄除け大師のはずだが、商売繁盛から学業成就とあらゆる種類のお守りが並んでいる。
「勉強に近道はないのかなぁ」
本多クンが学業成就のお守りに記載されていた日々の努力が大切である旨の教訓を読んで溜息をつく。
「いくらお守りを持っていても、本人が努力をしなければ成績は上がらないよ」
お札・お守りお授け所のおじいさんの言葉はもっともだ。
 川崎大師と言えば幼い頃に両親に連れて来てもらったときに、参道に金太郎飴のお店が並んでおり、トントントントンと包丁で金太郎飴を切る音が聞こえてきた記憶がある。ところが今日の参道は物静かで、金太郎飴も既に切られて袋詰めされている商品が並んでいるだけ。できたての金太郎飴があれば久しぶりに買ってみようと思っていたのだが、結局、金太郎飴を作っている最中のお店を見掛けることはなかった。
 川崎大師からは京浜急行電鉄大師線の東門前駅へ出る。川崎大師の最寄り駅は川崎大師駅であるが、行程の経路上、東門前に出るのが自然だ。京浜急行電鉄大師線の前身は大師電気鉄道で、参拝客を輸送する目的で1899年(明治32年)1月21日に六郷橋−大師(現在の川崎大師)間を開業したのが始まりである。
 東門前から小島新田行きの普通列車に乗車したのも束の間、次の産業道路で下車する。乗車時間はわずかに1分で、個人的にはわざわざ列車を利用する必要もないと思っていたのだが、安藤クンの希望を優先させた次第。
 産業道路の駅前には川崎大師海岸郵便局があったので、本日2局目の旅行貯金を済ませる。目前に多摩川を控えており、多摩川を渡れば東京都だから、神奈川県最後の旅行貯金ということになろう。
 産業道路こと県道6号線を北上する。この区間は2階建て道路になっており、2階には首都高速道路神奈川1号横羽線が通じており、騒音も相当なものである。
「30分待てばバスが来るよ」
安藤クン多摩川に架かる大師橋の手前にあった大師橋停留所の時刻表を見ながら言う。数少ない蒲田駅行きの京浜急行バスが30分後に来るので、タイミング的にはよさそうだ。ところが先行して歩いていた松本クンや柳田クン、先程までバスに乗ろうと騒いでいた本多クンまでがバス停には目もくれず、どんどん大師橋を渡って行く。大師橋を渡ってしまえば東京都で、羽田空港行きのバスもあるだろうからと安藤クンを促して、歩いて多摩川を渡ることにする。
 大師橋は1939年(昭和14年)11月に竣工した歴史のあるゲルバー式トラス橋で、吊り橋のような形状をしている。橋の長さは552.18メートルで、同形式の橋としては東洋一と言われている。車道は2車線で11.0メートル、両側に2.5メートルの歩道が整備されている。
 「釣れますか?」
大師橋の上から安藤クンが川岸の釣り人に声を掛けるが反応がない。自動車の走行音がうるさくて、安藤クンの声はかき消されてしまっているのだろう。
「変な奴らだと無視されているんじゃないかな。本当に聞こえていないか悪口を言ってみようか」
本多クンが言うのでバカなことをするなと注意する。
 さて、外周旅行で初めての県境越えを経験する。地図で確認すると神奈川県と東京都の県境は多摩川上ではあるが、複雑に入り組んでおり、大師橋付近では多摩川の水域はすべて神奈川県で、対岸からが東京都になるようだ。
 大師橋を渡り始めて5分少々で対岸に到着し、いよいよ東京都入りである。
「東京がこんなに遠いところだとは思わなかったよ」
第2回目の逗子から旅を続けている本多クンならではの感想だ。私自身も東京へ遥々やって来たという気持ちがある。
 大師橋を渡り終えたところに羽田特別出張所停留所があったが、記載されているのは蒲田駅行きのバスのみである。前方には京浜急行電鉄の踏切があり、羽田空港線の大鳥居駅も近いので、このまま大鳥居駅まで出て列車に乗るのが賢明だ。
 かつて穴守稲荷の大きな鳥居が付近にあったことに由来する大鳥居駅は、大鳥居第一踏切道立体化工事のため、1988年(昭和63年)1月から羽田空港方面に約160メートル移設されており、仮乗降場のような雰囲気になっている。羽田空港行きの列車は、地元乗客の他に夏休みなのでスーツケースや大きな旅行カバンを抱えた旅行客なども乗り合わせて混雑している。
 終点の羽田空港は、海老取川の手前にあり、羽田空港を名乗りながらも羽田空港の敷地内への乗り入れは許されていない。ここから羽田空港のターミナルビルまでは2キロ近く離れており、京浜急行の連絡バスに乗り換えなければならない。ところが羽田空港駅前に待機していたバスは小型のマイクロバスで、到底、列車からの乗り換え客を受け入れられるものではなく、我々を含めて多くの乗客が羽田空港駅前に取り残されてしまう。続行便が出る様子もなく、取り残された乗客は不満を口にしながらもタクシーで羽田空港に向かっていく。京浜急行電鉄がどうしてこのようなお粗末な対応をしているのか理解しかねるが、文句を言ったところで現状は打開できない。飛行機に乗らなければいけないのであれば、我々もタクシー代を投資することになったであろうが、幸いにも時間の制約がないのでターミナルビルに向かって歩く。
 しばらくは海老取川沿いに歩き、弁天橋を渡って羽田空港の敷地に入る。敷地の手前には「検問中」の看板が掲げられており、不審者が空港敷地内に入らないようにチェックしているのだろう。ところが、我々を追い越して行く乗用車は検問所のゲートを素通りしていく。ゲート前には警察官も数名立っているのだが、特別にあやしい様子がなければフリーパスのようだ。我々は歩いて敷地内に入ろうとしているので、充分にあやしい集団かもしれないが、じろりと睨まれただけで、何事もなく検問ゲートを通過した。
 新東京百景にも選ばれている羽田空港にやって来るのは4ヵ月前に沖縄へ行ったとき以来。羽田郵便局で東京都初の旅行貯金を済ませた後、空港ターミナルビルをのぞいてみると物凄い人だかりだ。夏休みに全国各地へ出掛ける旅行者がここに集結しているのである。当初は空港見学などと考えていたが、あまりにもの人の多さにうんざりして、早々に東京モノレールに乗り込む。
 東京モノレールの駅は羽田を名乗っているが、こちらは空港ターミナルに乗り入れているので、羽田空港へのアクセス線としての機能を十分に果たしている。こちらもスーツケースや大きな旅行鞄を抱えた旅行客と一緒だが、車内にはきちんと荷物置き場のスペースが確保されているので混雑は緩和される。
 流通センターで下車すると、驚くべきことに無人駅。東京モノレールの使命はほとんどが羽田空港へのアクセスになるので、途中駅を利用する乗客はあまり多くないのであろう。改札口に集札箱が設けているだけだったので、安藤クンは切符を集札箱に入れずに記念に持ち帰ってしまう。監視カメラはあったが、別に不正乗車をしているわけではなく、私自身も使用済みの切符を記念にもらって帰ることはしばしばある。
 流通センター駅からは京浜運河に架かる大和大橋を渡って15分程歩き、東京港野鳥公園へ。東京都中央卸売市場に隣接し、首都高速道路湾岸線とJR貨物線に囲まれ、上空を羽田空港に離着陸する航空機は就航するという、とても野鳥が居るとも思えない周辺環境であり、どうしてこんな場所に東京都は野鳥公園を建設したのか疑問に思うが、実際は逆で、この地に野鳥が集まり、バードウォッチングの名所であったことから、1989年(平成元年)10月に東京都は野鳥公園を建設したという。ここも1960年代に造成された埋立地に過ぎないが、造成後の埋立地に雨水が溜まり、池や湿地の出現や植生の回復につれ、都会のオアシスを求めた野鳥が自然に集まったと思われる。
 東京港野鳥公園は中学生からは有料で、100円の入園券を購入する。入口でもらったパンフレットを見ると野鳥公園の敷地面積は24.3ヘクタールとかなり広い。これは見応えがあるなと思っていたが、メンバーは休憩舎に入るなりベンチに座り込んでしまう。
「休憩する前に先に見学しよう。こんなに広い公園を歩きまわったら、どうせ疲れるし、時間が遅くなったら余計に暑くなるよ」
しかし、今度ばかりは同調者が現れない。
「休憩してからだっていいじゃん」
奥田クンが面倒臭そうに言うので、園内の見学は自由行動にした方が良さそうだ。休憩舎にメンバーを残して1人で園内散策に出掛ける。芝生広場を歩いていると、後ろから柳田クンが「一緒に行くよ」と追いかけて来た。
 東京港野鳥公園の敷地は、JR貨物線と道路により東西に分断されているが、正門のある西側の敷地と東側の敷地は連絡通路で結ばれている。まずは連絡通路を渡って東側の敷地から散策を開始する。東観察広場には望遠鏡が備えられており、のぞいてみると淡水の池を中心にヨシ原と樹木が周りを囲んでおり、カイツブリ、カモ、小鳥などが観察できる。羽田空港に着陸する航空機が轟音を響かせながら通過するが、野鳥はまったく動じない。しばらく望遠鏡を通じて野鳥の観察をしていると、残りのメンバーもやってきた。
 3階建てのネイチャーセンターに入ると冷房が効いている。館内には観察室、展示室、視聴覚室、図書コーナーがあり、ガラス張りの展望室からは潮入りの池が見渡せる。
「屋外の観察広場よりも、ここで野鳥の観察をした方がよかったな」
奥田クンが観察室のソファに座り込みながら言う。安藤クンと本多クンは東観察広場に続いてここでも望遠鏡をのぞき込み、野鳥の観察に余念がない。私は東観察広場でずっと望遠鏡をのぞいていたため、すっかり首が痛くなってしまい、再び望遠鏡をのぞき込む気にはなれないので、柳田クンと他のコーナーを見学して回る。レジャーコーナーで記念スタンプを押し、野鳥の本がずらりと並ぶ図書館に足を運ぶと、松本クンが手招きをしている。
「ここにも旅のノートがあるよ」
海芝浦駅に続き、松本クンが見付けた「今日の感想を御書き下さい」と記されたノートにも記念に日付とメンバーの名前を残し、今日の感想を書き加える。
 「雀から見た人間の手」という人間の手を象った大きなクッションがあったり、野鳥の成長の記録が展示されていたり、ネイチャーセンターは思っていたよりも充実した施設であったため、予定よりも長居をしてしまう。冷房の効いた環境でまとまった時間を過ごせたので疲労は回復したが、屋外へ出ると容赦なく熱気が漂って来る。
「流通センター駅に戻るのもバスにしよう」
安藤クンがここでもバス利用を提案する。しかし、どうせバスを利用するのであれば、流通センター駅へ戻るよりも、このまま品川駅へ出てしまった方が効率的だ。入口でもらったパンフレットの交通案内によれば、品川駅東口行きの都営バスがあるようだ。
 西側の敷地にある生態自然園を見学し、東京港野鳥公園を後にする。パンフレットにある東京港野鳥公園入口停留所は見当たらず、ようやく見付けた停留所は東京港野鳥公園から20分も歩いた大井埠頭バンプール前(大東運輸大井物流センター前)停留所であった。
 品川駅東口行き品川98系統の都営バスはクリーム色と黄色の車体。運賃は均一160円と安く、品川駅東口へ出るルートの選択は正解だったようだ。
 「それ両替じゃないよ」
小銭がなくなったので、車内の運賃箱で両替をしようとしたら安藤クンから引き止められる。都営バスの運賃箱に両替機能はなく、お釣りが必要な乗客が運賃箱にお金を入れると、料金の160円が差し引かれてお釣りが出て来るという活気的なシステムらしい。結局、これからバスに乗る機会が増えることもあり、運転手に頼んで手持ちの1,000円札を小銭に両替してもらう。
 「このバスで品川駅まで行くね。寝てもいい?」
本多クンが私に尋ねる。寝ている間に私が突然下車しようと言い出すことを懸念してのことだ。
「終点まで乗るから安心しな。品川駅に着いたら起こしてあげるから」
 都営バスは、大井埠頭を北上して品川を目指す。倉庫街を走り抜けるルートなので、一般の利用客はほとんどいない。景色も単調なので、本多クンならずとも睡魔に襲われ、他のメンバーも眠ってしまう。
 東京水産大学前で運転手が交替し、大井埠頭から30分以上かかり品川駅東口に到着。品川駅ではあるが、行政区は東京都港区。品川駅が品川区に存在しないことは意外に知られていない。
 乗り継ぎ予定の門前中町行きバスの時刻を調べてから「常盤軒」という立ち食いそば屋で遅めの昼食となる。私は「天ぷらうどん」を注文したが、メニューをよく見れば「品川丼」なるものがあり、如何なるものか今度試してみたい。食後に安藤クンと松本クンを伴って、散歩がてらに郵便局を探したが、バスの発車時刻が迫ってきたので途中で品川駅に引き返す。
 品川駅東口を14時ちょうどに発車した門前仲町行き海01系統の都営バスは、しばらく先程の道を引き返し、再び京浜運河を渡る。大井出入口から首都高速道路湾岸線に入ると大渋滞。ここから東京港トンネルを通過するのだ。東京港トンネルは片側3車線、全長1.9メートルの海底トンネルで、大井埠頭と13号地(東八潮)を結ぶ。
「窓から顔や手を出すことは絶対にお止めください」
東京港トンネルに入る前に車内では繰り返しテープのアナウンスが流れるが、トンネル内は大渋滞で排気ガスが充満している。こんな状態なら窓から顔や手を出すどころか、誰も窓を開けたりはしないだろう。
 初めて経験する海底トンネルの通過に興味津々であったが、実際に通過してみると通常のトンネルと変わりがなく、それどころか充満する排気ガスと大型車両がひしめく状況からして、火災が発生したら一溜りもないので早くトンネルを通過することを願うばかり。東京港トンネルを抜けてお台場海浜公園が目の前に広がったときにはホッとする。
船の科学館  船の科学館前でバスから降りると、夏休みのため押役連れの姿が多い。1974年(昭和49年)7月に開館した船の科学館は、お台場地域における最初の建築物であり、船体を模した建物はお台場のシンボル的な存在である。屋外には南西諸島を航海した「サバニブランカ号」や「野性号U」等が展示されており、一通り見学してから館内へ。
 船の科学館の入館料は学生料金も設定されているのだが、学生証の提示がなければ大人料金になると言われ、学生証を忘れた本多クンが入館に猛反対。偶然にも船の科学館では、「お天気フェア‘90」というイベントが行われており、こちらは無料ということもあって、入館を見送ってイベント会場へ足を運ぶ。
「お天気フェアはテレビのニュースでも紹介されていたよ」
安藤クンに教えてもらう。ニュースになるほど大きなイベントが実施されているとは知らなかった。イベント会場に入ると、アメダスや富士山レーダーなど、天気予報でよく目にするデータがブラウン管に映し出され、解説が添えられている。やがて八王子天気相談所の代表原嶋宏昌氏の講演が始まるとのことで、係員に勧められるままに講演会を聴講する。原嶋氏の講演は、日本の地方公共団体で天気相談所を設置しているのは、八王子市の他に日立市と郡山市の3都市しかないことや関東地方の気候についてなど多彩に渡る。最後まで聴講しなければ失礼かと思ったが、バスの時間があるので途中で退席する。ぞろぞろと6人が抜けだしたので気分を害されたかもしれない。
「ほとんどの人が居眠りしていたよ。講師が気の毒だね」
安藤クンがポツリ。居眠りするなら無理に聴講する必要はないと思うのだが、仕事の関係でやむを得ず出席していたのだろうか。
 船の科学館前には既に門前仲町行きのバスは待機しており、160円を支払って乗り込む。品川駅東口から乗車したのと同じ海01系統で、ここからJR京葉線の新木場駅まで都営バスの乗り継ぎとなる。車内は閑散としていたが、有明テニスの森公園前から汗臭い中学生が大量に乗り込んできて異様な雰囲気となる。安藤クンによれば、中学テニス関東大会が開催されているとのことで、参加校の生徒であろう。安藤クン、奥田クン、本多クン、柳田クンと中学校ではテニス部に所属しているが、関東大会とは無縁である。
 深川車庫入口で下車すると、安藤クンと奥田クンの姿がない。降りる合図に気が付かなかったのかと少々慌てたが、発車しかけたバスのドアが開き、2人がバスから吐き出されるように降りてきた。
「前のドアが開いたから、前から降りようとしたのだけど、乗って来る人に押し返されちゃってね。仕方なく後ろのドアに回ろうとしたのだけど、ドアを閉められちゃって」 奥田クンが嘲笑気味に言うと安藤クンが興奮気味に続ける。
「降ります!降ります!と怒鳴り続けていたらようやく気付いてもらえてドアを開けてくれたけどね」
無事に降りることができたので何よりだが、すし詰め状態のバスの乗降も苦労する。
 深川車庫入口から10分も歩くと深川車庫に到着。今度は錦糸町駅行きの錦13系統で辰巳三丁目まで出る。深川車庫から1キロ足らずの距離で、短区間をバスで乗り継ぐのは馬鹿馬鹿しい。辰巳三丁目から新木場駅までは、フェリー埠頭からやって来る海02系の路線が通じているが、辰巳三丁目から新木場までも歩いて1キロぐらいなので、これぐらいなら歩いてしまってもいいだろう。
 辰巳埠頭を東に向かって歩き、新曙橋を渡ると京葉線の高架橋が寄り添ってきた。東京−新木場間は1990年(平成2年)3月に開業したばかりの区間であり、それまでは新木場が京葉線の起点であった。
 新木場駅の北側には、ゴミを埋め立てて造成されたことで知られる夢の島があり、夢の島公園が整備されている。夢の島公園には1954年(昭和29年)3月1日、北大西洋のビキニ島で行われたアメリカ軍の水素爆弾実験の際に発生した多量の放射性降下物(いわゆる死の灰)を浴びた遠洋マグロ漁船が展示されている。社会見学を兼ねて立ち寄る予定であったが、朝からの強行軍が祟り、足を向ける気力がない。安藤クンに「早く電車に乗ろうよ」と急かされるままに京葉線の列車に乗り込んでしまう。
 首都高速湾岸線と並走する京葉線は通勤型103系のロングシート。東京湾を望む路線であるにもかかわらず、車窓を楽しみにくいロングシート車両はもったいない。
 1989年(平成元年)10月に開業したばかりの葛西臨海公園を過ぎ、旧江戸川を渡ると東京都の旅も呆気なく終わってしまう。半日で東京都を通過してしまうのは少々大雑把な気がしないでもないが、東京湾岸の交通網がよく整備されていたことも影響する。これから旅する千葉県は房総半島を抱えており、踏破するのも時間がかかりそうである。
 舞浜に近付くと東京ディズニーランドが見えてきた。本当は舞浜駅を東京ディズニーランド駅と命名したかったそうだが、ウォルトディズニー社からディズニーランドを名乗る以上、駅員や駅舎もちろん、京葉線の車両もすべてディズニー仕様とすることを条件として提示され、断念したという噂がある。キャッスルの駅舎、ミッキーマウスの駅員、ウェスタンリバー鉄道の列車なんか実現したら面白いだろうが、そんなことをすれば業務に支障が出る。
「俺、ディズニーランドはまだ1回しか行ったことがないなぁ」
柳田クンがぼやくが、ディズニーランドならこれから先、恋人と出掛ける機会にも恵まれるのではなかろうか。駐車場には観光バスや乗用車がびっしりと並んでおり、今日もたくさんの観光客で東京ディズニーランドは賑わっていることであろう。
 京葉線に乗り続けるのも悪くはないが、列車の本数が多いのでどこかで試しに降りてみようということになり、幕張メッセに近い海浜幕張で下車してみる。
「途中下車印を押して下さい」
安藤クンが改札口で頼むと、駅員が妙なことを言い出す。
「また電車に乗るのだろう?そういう場合は途中下車印を押さないことになっている」
JR東日本にまたいい加減な駅員が現れた。途中下車印は旅客営業規則第230条(普通乗車券の改札及び引渡し)第1項において、「普通乗車券を使用する旅客は、旅行を開始する際に、当該乗車券を係員に呈示して入鋏等を受け、途中下車をする際に、これに途中下車印の押なつを受け、また、乗継をする際に、これを係員に呈示して改札を受けるものとする。」と規定されており、途中下車をする際には途中下車印の押印が必要なのだ。それに、途中下車印は、乗客を当該駅まで運んだことの証明にもなるのだから、押印しなければそれこそ切符が不正乗車に使われてしまう可能性もある。かつて、JR東海道本線の茅ヶ崎駅でも「同じ日に列車に乗るなら途中下車印はいらない」と似たような屁理屈を述べ、職務怠慢どころか乗客に説教する駅員がいて閉口したものだが、海浜幕張もまたしかりである。結局、安藤クンは海浜幕張で途中下車印を押してもらうことはできなかった。
 海浜幕張駅前はリゾート地の雰囲気で、これからのウォーターフロントにふさわしい街づくりが進められている。
「あれっ?この車両、横浜博覧会のときに桜木町の駅前に展示していた車両だ」
奥田クンが駅前に鉄道車両を利用したレストランを見付けて声を上げるが、横浜博覧会に行ったのは1年以上も前で、桜木町駅に車両が展示されていたことすら私の記憶は定かではない。
 海浜幕張駅から徒歩15分程の幕張メッセでは、「大恐竜展」が開催されており、幕張メッセは当然に訪れるべきポイントだと思っていたのであるが、入場料は1,600円となかなか高い。他のメンバーからは反対意見が出されて「大恐竜展」の見学は却下。幕張メッセに行かないのであれば。せめて幕張海浜公園ぐらいには足を記しておこうと思ったが、こちらも安藤クンが「そんなところへは行きたくない」と猛反対。正確には「歩きたくない」だろうが、機嫌を損ねて出掛けなくても再訪する機会はあるような気がしたので、先に進むことにする。
 再び京葉線に乗って2駅目の稲毛海岸で下車。時刻は17時過ぎだが、まだ日は高い。駅名に海岸を名乗っているにもかかわらず、駅から海岸までは1キロ以上も離れている。稲毛海岸にも海辺に稲毛海浜公園があるが、幕張海浜公園へ歩くことを拒んだ安藤クンが歩くはずもない。しかし、稲毛海岸駅には、京葉線の高架下を利用した「ファミリーゴルフ」という施設があり興味を惹く。高架下は金網が張り巡らされ、有効に活用できていない箇所も多いが、稲毛海岸では高架下をパターゴルフ場として整備し、見事に有効活用している。1ゲーム500円と手頃な料金だったので、今日の打ち上げに1ゲーム興じることにしよう。

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