まだ行ったことのない世界へ

第3日 久里浜−横浜

1990年3月30日(金) 参加者:青木・奥田・本多・松本・吉尾

第3日行程  1990年になって初めての「日本外周旅行」は、前回解散したJR横須賀線久里浜駅から再開する。メンバーは大幅に入れ替わり、前回の参加者である奥田クン、本多クンに加えて、新顔の青木智明クン、松本和幸クン、吉尾正史クンの3名が加わった。いつもより1時間早い午前7時に集合。天気が不安定なので、なんとか今日1日を持ちこたえてくれるように願う次第である。
 まずは久里浜駅から浦賀港方面に向かって歩く。浦賀港へは京浜急行バスの路線もあるのだが、まだ旅の始まりだし、疲れはないので節約した方がいい。出発早々の歩きで、伊東クンが今回の旅を敬遠した事情は容易に察しがつく。久里浜港に注ぐ平作川に架かる夫婦橋を渡り、県道210号線を北上する。周囲は丘陵地帯に広がる住宅街だ。
 「もうダメだぁ」と5分もしないうちに外周旅行初参加の吉尾クンが弱音を吐く。まだ、旅が始まったばかりで困ったものだと思っていたら、前回の試練を乗り越えた奥田クンがピシャリ。
「このくらいで何を言ってるんだ。まだまだ先は長いぞ。しっかりしろ」
 丘陵地帯を抜けると前方に浦賀港が広がる。浦賀は1.5キロも港が入り組み、港が町を2つに分けてしまっていたため、浦賀に奉行所が置かれて間もない1725年(享保10年)頃から浦賀の渡しと呼ばれる渡船が運航を開始したという。そして、今日でも浦賀の渡しは「ポンポン船」の愛称で親しまれながら運航を継続しているのである。もちろん、今日の最初のポイントはこの浦賀の渡しに乗船することである。
 紺屋町停留所の近くにあった浦賀の渡しの桟橋に行くと、ちょうど対岸から渡し船がやってきた。木造船にエンジンを搭載しており、愛称のとおり「ポンポンポンポン」と音を響かせながらやって来る。渡し船を聞くと船頭が櫂で漕ぐイメージがあるが、現代の渡し船ならエンジン搭載は当たり前か。
 時刻表というものはなく、お客がやって来たらその都度往復してくれるようだ。運賃は80円で、バスに乗るよりも安くて早い。時間も節約できるとあれば、地元の住民に重宝されるに違いなく、しばらくは浦賀の渡しも安泰か。浦賀造船所跡地に建つクレーンやドックを眺めながら対岸まで1分少々で運ばれる。
 渡船で運ばれた東浦賀の桟橋近くには、東叶神社があったので立ち寄ってみる。東叶神社の祭神は、京都の石清水八幡宮と同じ応神天皇。石段の両脇に植えられている蘇鉄は、頼朝公が縁深い伊豆の地より移植奉納されたと伝えられている。
 石段を上って境内に入ると、朝の散歩をしているおじいさんと出会う。朝から見慣れない若者が6人も現れたので興味を持ったのであろう。叶神社の説明をしてくれる。
「ここは東叶神社だけど、渡船で向う岸に渡ったところに西叶神社がある。鳥居が見えるだろう?あれが西叶神社だ」
東西の叶神社は、1181年(養和8年)、京都高尾山神護寺の文覚上人が源氏の再興を願って岩清水八幡宮を勧進し、その後頼朝により平家滅亡の願いが叶ったため「叶明神」の称号が与えられたと伝えられている。
「狛犬を見たか?東叶神社の狛犬は左右とも口を閉じているけど、西叶神社の狛犬は口を開けている。東西で一対になっているんだ」
一層のこと、浦賀の渡しをセットにして、2つの神社を参拝すれば願いが叶うと銘打てば、観光客の誘致につながるのではなかろうか。
 しばらくおじさんと雑談を交わして東叶神社と後にする。しばらく歩くと梅山停留所があり、観音崎行きのバスが10分後に来ることを確認する。3月下旬ではあるが、まだ寒さは厳しく、自動販売機で購入した温かい缶コーヒーをカイロ代わりに震えながらバスを待つ。
 観音崎行きのバスも前回からお世話になっている京浜急行バス。車内の暖房がとても有難い。しかし、バスは暖を取る間も無く観音崎に到着してしまう。
 観音崎は東京湾に大きく突き出した岬で一帯は県立観音崎公園として整備されている。シイやタブなどの照葉樹が深い木立をつくり、東京湾岸では貴重な自然の宝庫となっている。春休みの期間中なので、当然のように観光客で賑わっていると思われた観音崎であるが、ほとんど人の気配はなく、意外に静かである。まだ、朝が早いせいだろうか。
 観音崎と言えば日本最初の洋式灯台が1869年(明治2年)2月11日に初点灯したことで知られる。現在の灯台は3代目で、残念ながら初代の洋式灯台を見ることはできないが、外周旅行で灯台を無視するわけにはいかない。海岸沿いの遊歩道をたどって、観音埼灯台を目指す。海辺の至る所に釣り客の姿があり、古くから黒鯛、真鯛、カレイの釣り場として有名なポイントらしい。
 バス停から10分近く歩いて観音埼灯台の麓までやって来たが、小高い場所に位置する灯台へ続く小道は「工事中立入禁止」の札が出ている。我々と同じように灯台を目当てにやって来る観光客もいるのだろうし、灯台へ行けないのであれば遊歩道の手前で案内してもらわなければ困る。しかし、憤慨したところで灯台に行けるわけもなく、結局、塔高19メートルの白亜の灯台を遠くから眺めるだけで終わる。
 灯台の先には観音崎自然博物館があるが、もうしばらく歩かなければいけないようで、自然博物館まで行ってしまうとバス停まで戻るのが億劫になる。自然博物館までも閉まっていたら目も当てられない。観音崎灯台の麓が観音崎の先端であるようだし、海の向こうに広がっているはずの房総半島の姿も霞んでいる。天気が崩れる可能性もあるので、早々に戻った方が良いという結論になり、バス停へ舞い戻る。
 観音崎停留所の前には観音崎レストハウスがあるが、まだ店は開いていない。唯一、自動販売機だけが稼働していたので、温かい缶コーヒーを購入しようとすると、120円の価格設定になっていたので見合わせる。
「ここは交通が不便というわけでもないのにどうして割高なんだろう?」
青木クンが首を傾げるのも当然だ。山頂のように製品を運ぶのに困難な場所では、運搬料が加算されて割高になるのは理解できるが、観音崎のように立派な道路が通じている場所で割高な価格設定にするのは理解できない。観光地の清掃代が含まれているという可能性もあるが、観音崎では容易に他所から持ち込みができるのだから、あまり意味がなさそうだ。
 観音崎からは横須賀駅行きの京浜急行バスに乗る。走水港を経て、馬堀海岸の手前で内陸部に折れ、京浜急行電鉄の馬堀海岸駅に立ち寄る。バスで横須賀駅へ向かうよりも、鉄道の方が早くて運賃が安いのは確実なので列車に乗り換える。
 馬堀海岸から京浜急行の普通列車で堀ノ内へ出ると、反対側のホームに三崎口からの特急列車がやってきた。堀ノ内で特急列車に道を譲るようなので、メンバーに特急への乗り換えを促す。
「特急料金が必要になるから普通列車の方がいいんじゃない」
本多クンが心配そうに言うが、京浜急行は特急料金なしで特急列車に乗車できる。特急料金の設定の有無は私鉄各社で取り扱いが違うので、乗り慣れない乗客にとっては厄介であるが、京浜急行の特急列車には前回の旅でも三浦海岸から京急久里浜まで乗車済みだ。
 特急列車を横須賀中央で下車。横須賀の市街地に近いので活況がある。まずは今回の旅で初めての旅行貯金をすべく、横須賀中央郵便局を目指す。まっすぐ歩けば横須賀中央駅から5分もかからない場所であったにもかかわらず、道に迷って20分近くかかってしまう。無事に旅行貯金を済ますことはできたが、旅行貯金に興味がない青木クンは不満気な様子だ。申し訳ないと謝るしかない。
 きれいに整備された三笠公園通りを歩いて三笠公園へ向かう。地図によると三笠公園から東京湾沖の猿島へ船が出ていることがわかる。江ノ島、城ケ島とここまで2つの島に足を記してきたが、いずれも架橋されている陸続きの島だったので、完全な離島は猿島が初めて。外周旅行を計画するまで神奈川県民でありながら、猿島の存在をまったく知らなかったので、どのような島であるのか興味深い。
 実際には、猿島航路は三笠公園内から出航するのではなく、三笠公園の隣に猿島航路を運航する国際シップサービス三笠営業所があり、営業所の前に桟橋が設けられていた。乗船券売り場の前には「次の猿島行きは10時30分です」との案内表示があり、40分の待ち時間となる。待合室も整備されていたが、隣に三笠公園があるので時間潰しにはちょうどいい。
 三笠公園で目を惹くのは岸壁に係留されている記念艦「三笠」である。内部を見学できるようになっていたので、300円の観覧券を購入して甲板に上がる。観覧記念の几帳場があったので名前を記入すると、奥田クンから揶揄される。
「こんなところで名前を書いたら軍国主義者と思われるぞ。左翼に目を付けられるな」
戦艦を見学したぐらいで軍国主義者と思われてはたまらない。そもそも現在の「三笠」は、太平洋戦争後、占領軍の命令によって大砲やマスト、艦橋などが撤去されてしまったものを復元した記念艦に過ぎないのである。
 艦内は船室を展示室に改造してあり、日清戦争や日露戦争を中心とした展示となっている。そもそも「三笠」は1902年(明治35年)にイギリスで建造された戦艦であり、日露戦争においては東郷平八郎司令長官が乗艦する連合艦隊の旗艦として活躍した経緯がある。1905年(明治38年)の日本海海戦では、バルト海から派遣されたロシアのバルチック艦隊を対馬沖で待ち構え、集中砲火を浴びながら勇敢に戦い、ロシア艦隊38隻を全滅させるという海戦史上例を見ない圧倒的な勝利に大きく貢献したのだ。日露戦争はロシアの極東進出によって存亡の危機に立たされた日本が、独立と安全を確保し、国際的な地位を確立したことで知られる。
 記念艦「三笠」の見学を終え、三笠公園をひとまわりすると、東郷平八郎の銅像が「三笠」を背景にして誇らしげに建っている。船首の先にはロシア軍ならぬ米軍施設があり、記念艦とはいえ、かつての日本海軍を象徴する戦艦に主砲を向けられたのでは駐留米軍も落ち着かないであろう。
 猿島行きの桟橋に戻り、往復820円の乗船券を購入する。松本クンが「高いなあ」とポツリ。一定の利用者がいる生活航路でもなく、往復の運賃なのだからやむを得ない。もっとも、高いか安いかは猿島次第となろう。
猿島航路  国際シップサービスは会社名こそ立派であるが、やってきた連絡船は漁船のよう。我々は後部デッキのわずかなスペースに陣取ったが、沖合に出ると東京湾内であるがかなり揺れる。デッキをウロウロしていた奥田クンが海に投げ出されそうになり、危険なことこの上ない。水しぶきを浴びながら10分で猿島に到着する。
 猿島は周囲1.6キロ、面積0.055平方メートルの東京湾に浮かぶ無人島である。1253年(建長5年)5月、日蓮が安房から鎌倉へ渡る途中に嵐で遭難したところ、白い猿が現れて日蓮をこの島に導いたことから猿島を名付けられたという。
 猿島はいかなるところか期待をして上陸したが、桟橋の近くにある店舗はすべて閉まっていてうら寂しい。我々を猿島に運んだ船はすぐに三笠へ戻ってしまうが、猿島には国際シップサービスの職員すら滞在しておらず、無人島に放り出された気がする。猿島の桟橋には最終便の案内しかなく、次の便の出航時間を調べる術がない。あらかじめ船員に確認しておくべきだったが後の祭りだ。
「心配しなくてもどうせ船はすぐに来るよ」
楽天的な吉尾クンに促されて猿島散策に出発する。一緒の連絡船で猿島へやって来た中年女性のグループは海岸の方へ立ち去る。後を付いて行くのも情けないので、我々は猿島の中腹に続く道を進んでみる。
「さあ、無人島に残された我々6名の運命は一体どうなるのでしょうか。ここから先にどんな危険が待ち構えているのでしょうか」
青木クンがテレビの探検番組のリポーター調でその場を盛り上げる。
 坂道を登って行くと、やがて斜面に防空壕のような入口がある。一切の案内はないが、周囲は煉瓦造りでしっかりしており、崩れる心配はなさそうなので中に入ってみる。照明はなく、自然光もほとんど入らないので室内は真っ暗。用意のいい青木クンがペンライトを照らす。何か変わったものがあるのではないかと期待したが、コンクリートの壁面があるだけで、部屋の中には何もない。後で調べると明治初期に要塞として建造されたもので、住居施設や指令部として使われていたものであることを知る。フランス積み煉瓦の建造物は全国で4件しかなく、貴重な史跡であったようだ。
 さらに先へ進むとやはりフランス積み煉瓦のアーチ造様式トンネルが現れる。まっすぐなトンネルなので出口は見えるが随分と長いトンネルだ。150メートルくらいはあるだろう。トンネル内にはやはり照明がないので真っ暗で不気味だ。
「大丈夫だ。大したことない。行こう」
私が言うと、先頭になって歩かされる羽目になった。出口は見えるが歩きの我々にとっては異常に長く感じる。「ねえねえ。引き返そうよ」という本多クンの声が聞こえるが、出口が見えているのに引き返すのも癪だ。気味が悪いので足早にトンネルを通過していると、松本クンが「うわぁ」と大声を出して皆を驚かせる。すぐに「ギャー」という青木クンの悲鳴がトンネル内に響く。松本クンの脅しよりも、青木クンの悲鳴にビクッとする。
 トンネルを抜けると目の前には東京湾が広がる。やっぱり途中で引き引き返さなくてよかった。ここからは道が分かれているので目印を付けながら行動する。かつて猿島に来たことがあるという原田康弘クンから事前に猿島は迷いやすいから気を付けるように忠告されていたからだ。
 小さな広場があったので小休憩。猿島には幕末、明治、昭和とほぼ3回にわたって砲台が築かれたというから、ここも砲台跡のひとつであろう。本多クンと吉尾クンは、海辺に降りて潮だまりで遊び始めた。
 曇っていた天候もにわかに回復の兆しを見せ、薄日が差してくる。猿島の中央には展望台があり、東京湾の景色が良く、京浜工業地帯から眺める東京湾とは別の海のようである。展望台には銃弾の跡らしきものもあり、この展望台も戦時中に監視塔か砲台設置場所であったのではなかろうか。軍事要塞だけあって、猿島もかなりの攻撃を受けたのであろう。この展望台は「仮面ライダー」初代ショッカーの秘密基地として撮影に使われたこともあるそうだ。
 海軍港という石碑がある猿島桟橋に戻るが連絡線の姿はない。何時に連絡船がやって来るのかわからないので、桟橋から離れるわけにはいかないが、ここは磯の香りが強烈だ。
「気持ち悪い。早く船が来ないかな」
青木クンがハンカチで鼻と口を覆ってダウン。もっとも、海が好きな本多クンと吉尾クンは磯の香りは歓迎するところで、元気に海辺ではしゃいでいる。
 連絡船が猿島にやって来たのは11時40分。三笠を11時30分に出航し、所要時間は10分だから、1時間ごとのダイヤであることがわかる。
「乗船券を用意してください」
船員が桟橋で乗船券を回収するが奥田クンがそわそわする。
「あれ?切符がない。落としたのかな」
奥田クンがいつものようにやらかしたかと思ったら、青木クンまでもが「あれれ?僕もなくしたみたいだ」と伝染する。
「船内でゆっくり探してください」
船員の好意により便宜乗船が認められ、猿島を後にする。今度は船室で過ごしてみたが、すぐに気分が悪くなって後部デッキに避難する。どういうわけか、外で風に当たっていると船に酔わないが、船内に閉じ込められるとすぐに気分が悪くなる。帰りも相変わらずよく揺れて、酔わない方がおかしいのかもしれない。
 三笠桟橋に到着すると、青木クンは無事に乗船券を発見し、船員に手渡すが、奥田クンの乗船券は見つからないまま。もっとも、猿島へは往復の乗船券を購入しなければ渡ることができないので、追加運賃を支払わずに済む。帰りの乗船券は、猿島に観光客を取り残していないか確認のための役割があるのだろう。
 猿島桟橋からは三笠公園通りを戻って国道16号線を北上。横須賀本港に面した臨海公園を訪問する。臨海公園の裏手はJR横須賀線の横須賀駅があるが、随分と市街地から離れたところに横須賀駅はあるものだ。
 臨海公園には桜並木が整備されているが、まだ3月だというのに既に桜は散り始めている。今日はまだまだ寒さを感じるが、桜を見る限りでは今年の春の訪れは早い。米軍横須賀基地の軍港を眺めながらベンチで寛ぐ。
「せっかくだから桜の木を背景に写真を撮ろう」
吉尾クンの提案で、桜の木の前で卒業式とも入学式とも言えるような記念写真をパチリ。
 横須賀駅からJR横須賀線に乗ってしまうと、次の田浦までは外周ルートとなるものの、田浦の先で京浜急行と交差して内陸部へ入ってしまう。それならば、最初から京浜急行に乗車した方が合理的だと京浜急行の汐入駅まで来た道を少し戻る。
 正午を過ぎ、昼食の時間帯となる。どこか適当なお店で昼食にしようと思ったが、各々が好き勝手に食べたいものを挙げるので収拾がつかない。仕方がないので集合時間だけを決めて、それぞれ好みの店に入ることにする。私と松本クンは、手軽に済まそうと「伊勢田」という立ち食いそば屋に入った。
 「伊勢田」はおじいさんが1人で切り盛りしていたが、昼食時だというのにお客は我々2人だけで少々気の毒な気がする。朝からよく歩いてお腹が空いていたので、「スタミナうどん」を注文する。そば屋でうどんを注文するのは邪道だと言う人もいるが、好みだから仕方がない。名前は「スタミナうどん」で、肉やかき揚げが盛られているのだが少々物足りず、「かけうどん」を追加注文。しかし、追加注文は失敗で、半分も食べたところで満腹感が出てくる。残すのはもったいないので最後まで平らげたが、立ち食いそばの類は1杯では物足りず、2杯では持て余す。
 重い腹を抱えながら他のメンバーと合流し、特急で追浜に向かう。特急は汐入から追浜まではノンストップなので都合がいい。ただし、車内は混雑しており、座ることはできなかった。
 汐入からわずかに6分で追浜に到着。列車に揺られる時間が極端に短いので物足りなさを感じる。
 「ここでもまた郵便局に行くの?だったら時間を決めて自由行動にしよう」
旅行貯金に興味を示さない青木クンが提案する。横須賀中央郵便局の件が懲りたらしい。用事もないのに郵便局へ付き合わされるのも確かに苦痛だろうし、これから向かう野島公園に14時に待ち合わせとする。
 旅行貯金派の本多クンと松本クンを引き連れて、まずは追浜駅に近い追浜郵便局へ。追浜郵便局の建物は、明治時代のような造りで風格がある。続いて横須賀本浦郵便局へ足を伸ばす。ここでは「御自由にどうぞ」と飴が置いてあったので、松本クンがひと掴みもらってきた。
「さあ、ゆっくり野島公園に向かっても2時に間に合うな」
旅行貯金を2局増殖し、野島公園へ向かう。別行動にしたおかげで、移動もスムーズだ。ところが、地図を見ながら歩いているにもかかわらず、なかなか野島公園には行き着かない。
「駅の方に戻っていると思うけどな」
松本クンがポツリと言うと本多クンも同調。
「一周してしまったような気がする」
多少心配になったが、地図を見ながら野島公園と信ずる方向に歩いているのだから間違いはなかろう。
「大丈夫だ。野島公園も近い」
瀬ヶ崎本通りを歩きながら自分自身の不安を払拭するために言い切った矢先、前方に京浜急行の列車が視界に入る。どこかで方角を間違ったのだが、まったく見当が付かない。この辺りは小さな路地が多いので、曲がる道を間違えたのかもしれない。本多クンと松本クンから散々愚痴をこぼされたのは書くまでもないが、道に迷ったおかげで横浜六浦郵便局に立ち寄ることができたのは不幸中の幸い。
 横浜六浦郵便局に寄り道したこともあり、野島公園にたどり着いたのは14時10分。ところが野島公園には青木クン達の姿はなく、同じように道に迷ったのだろうか。しばらく公園の入口で待っていると、「来たよ」との松本クンの声。遅刻はお互い様だなと思っていたら、14時になっても我々が現れないので、他の入口で待っていないか探していたようである。平謝りするしかない。
 野島公園は、横浜市最南部平潟湾入口に浮かぶ小さな島の公園で、歌川広重に描かれた「野島夕照」で知られる。園内を散策していると初代内閣総理大臣の伊藤博文の別荘跡を発見。伊藤博文は、1897年(明治30年)に茅葺屋根の田舎家風意匠をもつ別荘を建築した。当時の野島は、風光明媚な立地であったことから、大正天皇や当時の皇太子裕仁親王(昭和天皇)をはじめ、多数の皇族や政府高官が訪れたという。
 野島公園の散策後は、金沢シーサイドラインの野島公園駅に出る。横浜新都市交通の金沢シーサイドラインは新杉田と金沢八景を結ぶ新交通システムで、1989年(平成元年)7月5日に開業したばかり。運輸省規格の新交通システム第1号で、ゴムタイヤ走行による揺れや騒音の少ない鉄道と大々的に宣伝されていたが、昨年、初乗りしたときには、バスに近い揺れを感じ、揺れの少ない鉄道とはとても言い難いと感じた。
 野島公園駅の駅舎は白をベースに黄色と青色でデザインされており未来的。自動券売機で購入した乗車券も通常は横長に印字されるとことを縦長に印字してある。何かと変わり種で利用者の興味を惹こうという作戦か。その割には駅構内は薄暗く、あまり居心地のいい空間ではない。
 車窓には、きれいに整備された人口砂浜や金沢八景大橋がある海の公園が広がる。並木中央では金沢シーサイドラインの車両基地を確認。並木中央からは右手には倉庫街、左手には新興住宅街が広がる。ちょうど金沢シーサイドラインが区画の線引きをしているようだ。
 終点の新杉田に到着し、自動改札を通り抜けようとすると青木クンがいない。振り返れば自動改札機に足止めされており、何度切符を突っ込んでも戻ってきてしまうという。やむなく駅員を呼び出す。
「切符を折ってしまうと自動改札機は通れないから、今度からは気を付けてください」
どうやら磁気テープの切符を半分に折ってしまっていたらしい。最近は急速に乗車券の磁気テープ化が進んでいるので気を付けなければいけない。
 新杉田ではJR根岸線への乗り換えの合間を利用して、駅前の横浜杉田郵便局で旅行貯金。今度は自然な立ち寄りなので青木クンからも不満の声は出ない。
 JR根岸線に乗り込むと、吉尾クンが一生懸命メモを執っている。私と同じように旅行の記録を付けているのかと思ったら、小遣帳を付けるために、朝からの支出を記録しているとのこと。私も見習う必要がありそうだ。
 久しぶりにJRに乗ったものの、新杉田から2駅5分の根岸で下車。本牧市民公園に隣接する三渓園を目指す。根岸駅から三渓園までは地図でも見ても3キロぐらいの距離があり、歩くには距離があるのでバスに乗ろうとしたら、松本クンから歩こうという意見が出る。積極的に歩きたいのではなく、当初の見込みよりも旅費がかかっているので、できる限り節約をしたいようでもあるが、松本クンの心中を察して歩く。
 しばらく根岸線と並んで歩いた後、ガードをくぐって貨物線と並走する国道375号線に入る。
「まだ三渓園に着かないの?もう疲れたよ」
吉尾クンが弱音を吐くが、なんとか励ましながら本牧市民公園に到着。根岸駅からたっぷり30分以上はかかった。皆、ぐったりとしてベンチに座り込む。
「足に豆ができちゃったよ」
吉尾クンが靴を脱いで自分の足を労わる。私も足に水膨れができているようだが、もう少し頑張らなければならない。
本牧市民公園  本牧市民公園は、1968年(昭和43年)に終了した本牧埠頭関連造成用地の海面埋立てにより、それまであった海を失った人々や港で働く人々のために庭球場、運動広場、池などの施設を整備し、翌年に公開された公園である。園内には1989年(平成元年)に横浜市と上海市の友好都市締結15周年を記念して造られた上海横浜友好園が目を惹く。上海横浜友好園は、横浜市が上海市に寄贈した横浜上海友好館のお返しとして上海市から提案、整備されたもので、中国江南様式による庭園である。六角形の二重屋根が特徴的な湖心亭などが池の中に巧みに配置され、背景となっている三溪園の緑と崖が独特の雰囲気を醸し出している。また、鉄道ファンには嬉しいD51も展示されていたが、内部の公開時間は16時まで。時刻は16時15分で、一足遅く、金網の外から眺めるだけで終わる。
 本牧市民公園に隣接する三渓園は、生糸貿易により財を成した原富太郎によって1906年(明治39年)5月1日に公開された。175,000平方メートルの広大な敷地内に京都や鎌倉から歴史的価値の高い建造物が移築されているという。ところが、三渓園に来るまでに体力を使い果たしてしまい、広大な敷地を見学する気力が湧かない。自宅から近いこともあり、いつでも行ける場所なので、無理に見学しなくてもいいような気になってきた。躊躇しているうちに最終入園時刻となる16時30分を過ぎてしまったので、三渓園の見学はまたの機会に譲る。
 予定ではバスで山下公園方面に出るつもりであったが、あいにくバスの時間がよろしくない。本牧市民公園から山下公園までは4キロ以上あり、歩けないこともないのだが、この状況で歩くと言えば非難を浴びることは明らかだ。頻繁に走っているバスで根岸駅に戻ることが無難と判断する。
 外周旅行では初めての利用となる横浜市営バスは全線180円の均一料金。バスに乗ろうとすると「運賃は前払い」と運転手に言われ、小銭の手持ちがなかったので乗車に戸惑ってしまう。一般にバスの運賃収受方法は、前払いだったり後払いだったりと統一的な取り扱いはない。同じ均一料金でも京都市営バスは運賃後払い方式だし、前払いなら停留所にその旨の注意書きをしておくのが筋だと思う。必ずしも常連客ばかりが利用するとは限らないのだから。
 乗ってしまえばさすがにバスは速く、30分以上もかかって歩いた道のりを10分もかからずに根岸駅まで連れ戻される。やはり最初からバスで三渓園に向かうできであったが、今さらどうしようもない。
 根岸駅からは再びJR根岸線に乗る。海岸線を無視しているようだが、あまり細かいことを気にしていてはいつまで経っても先には進めない。
 山下公園に近い石川町で下車すると、駅前の様子はすっかり変わる。駅前にはショッピングストリートが続き、行き交う人々はお洒落な格好をしている。旅の身支度をしている我々は明らかに場違いな感じだ。
 「Rlooming street」というショッピングストリートを通り抜けて海の見える丘公園に向かう。横浜ベイブリッジを望む絶好のロケーションから、横浜を代表する公園のひとつとして人気は高い。山手の観光コースからは外せない存在となっているので足を伸ばしてみたが、周囲は恋人同士ばかりで、邪魔をしないように早々に立ち去る。
 横浜開港記念事業の一環として1961年(昭和36年)1月に開業した横浜マリンタワーへ。高さ106メートルのタワーは、横浜港の象徴的な存在で、灯台としても機能しているというのだから驚きだ。灯台の名称もズバリ横浜マリンタワー灯台だ。展望台からは山下公園や横浜港が一望できる。ここで吉尾クンが土産物を見たいというのでしばらく付き合う。
 横浜マリンタワーの向かいにある山下公園は、関東大震災の瓦礫を使って海を埋め立てて1930年(昭和5年)3月15日に開園した歴史ある公園。知名度は全国区で、日本で最も有名な公園と言っても言い過ぎではないだろう。幼い頃に両親に何度か連れて来てもらったことがあるが、いつも何かの序でで、山下公園を目的にやって来たのは初めてではなかろうか。
 山下公園からはシーバスで横浜駅に出て解散することを確認する。時刻は17時を過ぎたところなので、急げば17時05分のシーバスにも間に合いそうだが、旅の終盤でバタバタしても仕方がない。松本クンはすぐにシーバスに乗って帰りたい素振りを見せたが、それでは山下公園を素通りすることと同じなので、次の17時25分の便に乗船することに決める。それまではフリータイムとして自由に過ごすのが気分転換にもなっていいだろう。
 私は本多クンと2人で山下公園を散策する。シーバス乗り場の隣には、日本郵船が1930年(昭和5年)4月25日に竣工し、北太平洋航路を中心に活躍した「氷川丸」が係留されている。1960年(昭和35年)12月21日に現役を退くまで北太平洋を238回も横断したといのだから立派である。現在は見学施設やレストランとして利用されている。本多クンは記念艦「三笠」に続いて、「氷川丸」の見学をしたそうであったが、今日はもう見学時間が終わってしまっている。
 「それにしてもアベックが多いな。ベンチは全部ふさがっているよ」
園内を散策していると周囲を見回しながら本多クンが言う。あまりにも大きな声なので本多クンを諭す。山下公園や海の見える丘公園は、定番のデートコースだからアベックが多いのも当たり前である。
「男同士で来るところではないな。もう山下公園には来たくない」
本多クンはボヤくが、彼女ができたときに果たして同じ発言が聞けるかは疑わしい。
 1989年(平成元年)3月25日から10月1日まで開催されていた横浜博覧会で気動車が運行されていた旧山下臨港線跡などを確認し、シーバス乗り場へ戻るが、周囲にメンバーの姿はない。既に17時25分発のシーバスの乗船が開始されている。
「早く乗らないといい席がとれないよ。シーバスは自由席だから」
本多クンが乗船を急かす。他のメンバーも既に乗船しているのかもしれないし、17時25分の便に乗ることはわかっているのだから、乗り場の前で待っていなくても大丈夫だろう。
 シーバスは、山下公園と横浜駅を結ぶ水上バスである。存在は知っていたが、利用するのは今回が初めてで興味深い。船体は平べったく、なんとなく不細工だが、真っ白なボディは清潔感がある。船内は左右4席ずつが並び、本多クンの心配を他所にまだ座席に余裕があった。
 前方に陣取り、船内を見回すが他のメンバーの姿はない。代わりに先生に引率された幼稚園児のグループが乗り込み、船内は騒がしくなる。
「格好いいじゃん。これでどこまで行くの?」
子供達は船内を気ままに動き回り、あちらこちらで大声を挙げる。
「うるさいな。このガキめ!」
本多クンが文句を言うがどうにもならない。横浜駅までの辛抱だ。
 シーバスは定刻に山下公園を出航。船内に青木クン達の姿はなく気掛かりだが連絡をとる術がないので、帰宅後に改めて確認するしかない。
 船内には観光ガイドが流れ、周辺の観光案内が始まる。右手には横浜ベイブリッジが現れ、左手には横浜博覧会跡の「みなとみらい21」の敷地が広がる。「みなとみらい21」は1983年(昭和58年)から計画が勧められ、数年後には立派なウォーターフロントが整備されるのであろう。
 シーバスは横浜駅到着を目前にしたところで、水面と橋梁の隙間がわずかしかない高島線(貨物線)の橋梁下を通過する。この隙間を通過するために、平べったい船体にする必要があったのだなと納得する。
 横浜駅東口と行き先が表示されていたシーバスであるが、横浜そごうの一角にある桟橋から横浜駅まではたっぷり10分は歩かされた。山下公園へ行くには便利かもしれないが、横浜駅での乗り継ぎは少々不便を伴いそうだ。
 横浜駅構内のロッテリアで本多クンと2人だけの打ち上げをする。今回は前回以上に疲れたというのが本多クンの本音。これから先も歩くことが外周旅行の基本になりそうな予感がする。日本第二の都市の玄関である横浜駅では既に夕方のラッシュが始まっており、自宅に戻るまではもうひと頑張りしなければならない。山下公園で行方不明になった4人は、17時25分のシーバス出航直前に乗り場へ戻って来たが、私と本多クンの姿がなかったのでシーバスを見送り、関内駅まで歩いてJRで家路に着いたとか。新顔3名とは中途半端な状態で別れてしまったので、今後も外周旅行に参加してもらえるかは微妙なところだ。

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