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第2日 逗子−久里浜

1989年12月25日(月) 参加者:安藤・伊東・奥田・本多・渡邊

第2日行程  神奈川県の逗子駅前から第2回「日本外周旅行」が始まる。早朝7時のJR横須賀線逗子駅改札前には、前回からの参加者である伊東クン、奥田クン、渡邊クンの他に、新顔の安藤誠クンと本多俊行クンの姿があった。私を含めた総勢6名が今回の旅のメンバーである。
 逗子駅前には水色と銀色の車体に赤いラインの入った京浜急行電鉄バスの長井行きが停車していたので乗り込む。今回の旅では京浜急行電鉄のバスに随分とお世話になる予定なので、あらかじめ車内で運転手から回数券を買っておく。60円券19枚綴りで1,000円の回数券を6冊購入しようとしたら、持ち合わせが5冊しかないという。同じ1,000円の回数券で80円券14枚綴りの回数券ならあるとのこと。60円券19枚綴りなら総額1,140円であるが、80円券14枚綴りなら総額1,120円と20円損することになる。不満は残るが私だけが皆と違う回数券を手にする。
 長井行きのバスは新型車両で、一番前の席を除く車両の前半分がロングシートという設計。通勤通学ラッシュ時にはこの方が乗車定員も増えるし、乗降にも便利なのであろう。我々は物珍しいロングシートに陣取る。
 バスは京浜急行電鉄逗子線の新逗子駅前に立ち寄る。新逗子駅は、1985年(昭和60年)3月2日に逗子海岸駅と京浜逗子駅を統合して誕生した珍しい駅である。輸送力増強により逗子線に8両編成の列車を運行することになったため、従来の駅ではホームが短く、両駅の中間地点に新駅を設置することになったのだ。北口は京浜逗子駅の駅舎をそのまま流用し、南口は湘南電気鉄道時代の湘南逗子駅舎をモチーフにして新設されている。
 バスは国道134号線に入り、桜山トンネルを抜けて逗子市から葉山町へ入る。葉山トンネルを通過し、皇族の別荘として名高い葉山御用邸前から海岸線沿いに出る。我々は葉山御用邸の先にある長者ヶ崎で下車した。
 長者ヶ崎は「かながわの景勝50選」に選ばれており、相模湾に細長く突き出た崖や露出した岩、海中に立つ岩が素晴らしい。長者ヶ浜海水浴場も整備されているが、夏場は多くの海水浴客で賑わう浜辺もさすがに今日は我々の姿しかない。
「ここは景色がいいね。こんな貝を拾ったよ」
安藤クンが貝殻を見せながら言う。外周旅行初参加の安藤クンの印象は良さそうだ。
「あれは富士山じゃないかな」
渡邊クンの指差す方向をみると、朝霧の中に微かに富士山の姿が見える。長者ヶ浜は、江ノ島や湘南海岸はもちろん、天気が良ければ富士や伊豆連山を見渡すことができる眺望スポットなのだ。
「えっ?どこ?どこにあるの?」
江ノ島に気をとられていた本多クンがキョロキョロする。
長者ヶ浜  相模湾に細長く突き出ている長者ヶ崎の先端に行くため、北側の海岸沿いに歩いてみるが、付け根の辺りで「立入禁止」の看板が立っており、先へ進むことはできない。南側の海岸沿いをたどってみても同じことで、結局、長者ヶ崎は眺めるだけで終わった。  長者ヶ崎からは国道134号線を歩いて秋谷の立石公園へ。バス路線もあるが、2キロ少々の距離なので、足でバス代を節約する。
 30分少々歩いて立石公園に到着すると、私有地かと思うほど立派な公園が整備されている。立石とは、波打ち際に突き出した高さ12メートル、周囲約30メートルの巨岩の呼び名だ。この地も古くから景勝地として知られており、三浦七石の一つにも数えられている。長者ヶ崎と同様に「かながわの景勝50選」に選ばれていることは言うまでもない。
「潮だまりにヤドカリがいるよ。5、6分いいですか」
本多クンがヤドカリに目を輝かせるが、公園内の至るところに注意書きがある。
「ここでは魚や貝を採ってはいけないとあるよ」
「ヤドカリと遊ぶだけなら問題ないよ。捕まえてもすぐに逃がすし、魚や貝を採るわけではないから」
本多クンも注意書きには気が付いていたらしい。捕まえてもすぐに逃がすのであれば問題ないだろう。延々と歩き続けてきたので休憩にはちょうどいい。本多クンの希望を受け入れて、しばらく立石公園で過ごす。ただ、残念なことに今日は風が強いのであまり長居するにはふさわしくない。
 立石公園を後にするなり、「腹減った」と本多クンが嘆く。朝が早かったので、朝食を抜いてきたらしい。
「だって、朝食べる時間がなかったもん」
本多クンが不満そうに言うと安藤クンが反論。
「逗子駅でかなり時間があったぞ」
まだ旅が始まったばかりなのに困ったものである。幸いにも近くにセブンイレブンがあったので食糧補給を本多クンに促した。
 お腹を満たして元気を回復した本多クンを先頭に国道134号線をさらに南へ向かって歩く。フリー切符のある鉄道とは違い、安易に乗り降りすると交通費の負担が大きくなってしまうのがバスの欠点だ。
 国道134号線沿いに横須賀秋谷郵便局を見掛けると、時刻はちょうど9時を回ったところ。今回初めての旅行貯金をする。
「どこから来たの?」
窓口の職員はにこやかに対応してくれる。他の局員もゴム印の並んだ通帳に興味を示す。
「由比ヶ浜郵便局は主務者印を押し忘れているね。少し前から主務者印を押さなくてもよくなったからねえ」
鎌倉由比ヶ浜郵便局は、前回の外周旅行で最後に訪問した郵便局である。気が付いたときはその場で主務者印を押してもらうようにしているのだが、鎌倉由比ヶ浜郵便局は、私も押し忘れに気が付いたのが自宅に戻ってからだったので仕方がない。
 次の目的地である佐島公園へはバス路線がないので足を頼りにするしかない。国道134号線から外れて海岸沿いの道路を歩くと沖合に笠島が見える。笠島はウミネコの生息地であるが、季節外れなのでウミネコの姿はない。ウミネコが飛来するのは概ね5月から10月にかけてであるから当然だ。
 佐島公園のある天神島へ続く天神橋はまだ新しく、1986年(昭和61年)3月に架け替えたばかりのようだ。天神橋を渡ると天神島臨海自然教育園があったが、今日は閉まっている。門前には、「市の花北限のはまゆう」という横須賀風物百選の立て札があった。横須賀市は1977年(昭和52年)の市制施行70周年を記念して、横須賀の気候、風土に適した植物の中から、市民投票によりハマユウを市の花として指定したが、その由来は南方系海浜植物であるハマユウ(ハマオモト)の分布の北限地がここ天神島であったからだ。
 天神島を佐島アリーナ方面に向かって歩いて行くと、地図には記載されていないが周囲を社叢に覆われた薄暗い神社がある。
「気味悪いな」
本多クンがつぶやく。神社の鳥居には神社名が掲げてあるのだが、風化しており判読できない。
「どれどれ、僕が解読してあげましょう」
解読を買って出た安藤クンも結局お手上げで神社名は不明のまま。既に廃社された神社かもしれないが、無残な状況で放置するのでは祟りが出る。
 神社の鳥居の隣には、伊藤左千夫や正岡子規らのアララギ派の作風に強い影響を受けた作風で知られる吉野秀雄文学碑があった。吉野秀雄は群馬県高崎市の出身であるが、慶応義塾大学経済学部に進学したので、この辺りにも縁があるのだろう。
 手元の地図では天神島に佐島公園と記載されているのだが、天神島臨海自然教育園の他には公園らしきものは見当たらず、自然教育園が佐島公園のことだと理解し、天神島を後にする。
 江戸時代から沿岸漁業の基地として発展してきた佐島港を右に見て、再び国道134号線に向かって歩く。周囲はリゾートマンションやマリンクラブ、新興住宅地など急ピッチで開発が進んでいる様子。
「ここも開発が進んでいるね。僕の住んでいる大磯もどんどん畑がなくなって家を新築しているよ」
安藤クンが言う。佐島も大磯も東京まで1時間少々の通勤圏なので、開発が進むのも当然で、数年後に再訪すればまったく違った装いになっていることだろう。
 国道134号線に出るとちょうど目の前を長井行きの京浜急行電鉄バスが横切る。慌ててバスを追いかけると、運良く近くの長坂停留所にバスは停車し、滑り込みでセーフ。車内は混雑していたが、市立病院前でほとんどの乗客が下車してしまう。
 陸上自衛隊武山駐屯地を右に見て、終点の長井で下車する。ここから荒崎行きのバスに乗り換えとなるが、長井停留所の時刻表には荒崎の文字がない。
「荒崎方面は乗り換えという車内アナウンスがあったよなぁ」
しばらく戸惑ってしまったが、地図を確認すると解決した。荒崎行きのバスは三崎口駅方面から来るので、我々が乗って来たバスと進行方向が逆になるのである。国道134号線を渡り、反対車線にある長井停留所の時刻表を悪人すると、しっかり荒崎行きの時刻が記載されていた。
 次の荒崎行きまでは30分近く時間があったので、フリータイムとし、安藤クンと一緒に郵便局を探す。手元の地図には郵便局のマークはないが、住宅街なので小さな郵便局ぐらいあるだろうと予想したのだが、結局見付けることはできなかった。バスの時刻が近付いて来たので諦める。
 荒崎行きも京浜急行電鉄バスであるが、こちらはかなりくたびれた車両が当てがわれており、走り出すとギシギシと音がする。
「もうすぐ廃車だな」
伊東クンがつぶやいた瞬間にカーンという物音がしたので、ボルトでも外れたのかと思ったら、安藤クンが車内に放置されていた空き缶を蹴飛ばしてしまったらしい。車内に空き缶を放置するマナーの悪い乗客もいるようで困ったものだ。
 荒崎へは複雑な海岸線に沿った道路を進むので、狭くてカーブが続く。海辺の集落にある停留所が新宿だったりして面白いなと思っているうちに終点の荒崎に到着。
 荒崎停留所の近くには芭蕉句碑がある。松尾芭蕉と言えば「奥の細道」のイメージしかないが、荒崎にも何か縁があるのであろうか。横須賀ではしばしば芭蕉句碑を見掛けることになるが、地元の俳人が建てたという趣旨の説明が多く、松尾芭蕉との直接の関わり合いがわからない。
荒崎  荒崎には三浦半島を形作った古代の隆起の跡が幾重にもなって海面から這い上がっている。波の浸食が造り出した洗濯板状の奇景が広がる。安藤クンと本多クンは崖によじ登り、何をしているのか尋ねると、化石を探しているとのこと。渡邊クンは愛用のカメラを抱えて走りまわり、景観の撮影に余念がない。伊東クンと奥田クンは波打ち際でクラゲを見付けたとはしゃいでいる。
「クラゲは寒天でできているのかな」
奥田クンが周囲を笑わせる。クラゲはゼラチン質なので確かに寒天に似ていないこともないが、寒天は、天草(テングサ)、オゴノリなどの紅藻類の粘液質を凍結・乾燥したものであるから科学的には異なる物質である。
 地図には一帯が荒崎公園と記載されているが、佐島公園と同様にここには荒崎公園という名の公園は存在しない。どうやら公園というのは遊具施設のあるような公園ではなく、国立公園という類の公園であるようだ。
 当初の予定では荒崎から荒崎シーサイドコースという遊歩道を歩き、長浜海岸を経て京浜急行久里浜線の三崎口駅へ出るつもりであったが、長者ヶ浜から佐島公園と延々と歩いてしまったので少々疲れた。
「戻るのも不服だけど、バスで三崎口へ出ようよ」
安藤クンが提案する。昨日の雨で荒崎シーサイドコースも水溜りが多そうだし、安藤クンの提案に従った方が無難だ。他のメンバーも異論はなく荒崎停留所に戻るが、12時発の三崎口駅行きが出たばかり。もっとも、次のバスは12時20分で、この辺りはバスの本数も多いのであまり時間を気にする必要はない。
 荒崎停留所の前には「おばあちゃんの店」という駄菓子屋があったので入ってみる。トタン屋根の建物には懐かしい駄菓子が並んでおり、店の名のとおりおばあちゃん3人で頑張っていた。
 「今日は寒いねぇ」と出迎えてくれたおばあちゃんから各自が好きなものを買う。私は海の近くにある店だからと「剣先いか」を2本購入。いかに付いているタレが美味しく、すぐに平らげてしまったので1本追加する。
 荒崎12時20分発の三崎口駅行き京浜急行バスは我々の貸し切り状態で出発するが、次の漆山からすぐに3人が乗り込んでくる。運行本数が多いだけあって、バス利用者の需要も高そうだ。
 行きのバスでは気付かなかったのだが、国道134号線との合流地点の手前に富浦公園という大きな公園を見付ける。立ち寄ってみたい衝動に駆られたが、後の行程に差し支えるので今回は見送り。自宅から近いのでその気になれば来る機会もあるだろう。
 荒崎から約20分で終点の三崎口駅前に到着。朝からバス詰めだったので、バスに弱い渡邊クンは辛そう。目の前には京浜急行電鉄の三崎口駅があるのだから、このまま列車の旅に切り替えたい気分だが、三浦半島の先端を無視することはできない。せめて油壺行きのバスがやって来るまでの時間を利用して鋭気を取り戻してもらうしかない。
 私と安藤クンは例によって郵便局探しに出掛ける。やはり持参した地図に郵便局は記されていないが、鉄道の駅近くに1局ぐらいはあるだろう。
「誰かに聞いてみよう」
安藤クンが言うが、周囲に通行人は見当たらない。三崎口という駅名からも連想できるように、ここは三浦市の市街地はもとより、駅名として冠記されている三崎町の中心からも離れているのである。さすがに駅前だけあって、お店は何軒かあるが、何も買わないのに郵便局の場所だけを聞くのもためらわれる。結局、長井に続いて三崎口でも郵便局に振られた。
 時間はあるので郵便局の代わりに京浜急行電鉄の油壺延長工事の様子を見に行くことにする。京浜急行電鉄は1970年(昭和45年)年11月に三浦海岸−油壺間の工事施行認可を得て工事に着手したが、1975年(昭和50年)4月に現在の三崎口まで開業したものの、残る三崎口−油壺間は一向に開業の気配がないので、どのような状態か気になっていたのである。三崎口から油壺方面に向かって線路をたどっていると、伊東クンと渡邊クンに出会う。やはり京浜急行電鉄の油壺延長工事が気になったようだ。肝心の工事は三崎口駅のすぐ先のトンネルを掘りかけた状態で放置されている。後に横須賀市在住の池田宏クンから京浜急行電鉄の油壺延長工事は、油壺周辺の用地取得が難航し、事実上、工事は凍結状態になっていると教えてもらった。
 三崎口駅に戻ると安藤クンと伊東クンが三崎駅口の券売機で記念入場券を購入している。私も旅先で入場券を記念に購入することはあるが、対象はもっぱら硬券切符であり、券売機で販売している軟券は印字が月日の経過で消えてしまうので手を出さないようにしている。
 油壺行きの京浜急行電鉄バスの発車を待っていると、列車の到着と同時にかなりの乗客が乗り込んでくる。油壺まで久里浜線を延長する需要はそれなりにありそうだし、どうせなら油壺から先の三浦市街地まで延長したら便利になるのではなかろうか。鉄道だけではなく、沿線開発と組み合わせた事業にすれば、巨額の投資に対する採算も見込まれるのではないかと思う。
 バスは三浦市街地の手前で瀬を向けるように方向転換して油壺を目指す。周囲に旅館が目立ってくると終点の油壺であるが、季節外れの平日なので周辺は閑散としている。それでも土産物屋は店を開けており、我々がバスから降りると数少ない貴重な観光客に「いらっしゃいませ」と声を掛けてくる。
 油壺は戦国時代に三浦氏の最後の地となった新井城があった場所である。1516年(永正13年)に北条早雲の大軍が新井城に攻め寄せ3年間の兵糧攻めにより三浦義同・義意を討ち取り、相模国を平定したのである。現在の新井城跡は東京大学付属臨海研究所になってしまっていて跡形もない。唯一、三浦義同の墓がひっそりと海辺に残るだけである。
 油壺と言えば「京急油壺マリンパーク」が有名であるが、入場料が高いので、誰からも行きたいという声は上がらない。私もかつて訪問したことのある施設でもあるし、無理に立ち寄る気にはなれず、今回は見送ることにする。
 油壺からは城ケ島までは城ケ島観光周遊船を利用する予定だったので、そのまま周遊船の桟橋へ向かう。バス停から歩いて5分程で桟橋にたどり着いたものの、人の気配はまったくない。江ノ島に続いて城ケ島でも船が欠航かと思っていると、近くにあった三浦観光油壺営業所から係員が声を掛けてくる。
「船に乗りますか。6人なら船を呼びますよ」
今日は朝から観光客が誰も来なかったので、周遊船を運航していなかったそうだが、お客が来れば船を出すという。油壺−城ケ島間は京浜急行電鉄バスなら270円のところを周遊船は870円と割高であるが、バスはかなり内陸部を走るし、間違いなく周遊船の方が外周旅行にふさわしい。乗船券を購入すると珍しいことに硬券であった。遊覧船の乗船券は、だいたい写真入りの紙切れタイプの乗船券が多い。
 周遊船は城ケ島から呼ぶので30分近く時間がかかるという。伊東クンはここでもクラゲを発見し、奥田クンと一緒にクラゲと戯れに消えた。私はおとなしくストーブのある待合室で暖を取り、ここまでの旅の記録を整理する。
周遊船「城ヶ島」  我々の貸し切りかと思われた三崎観光の周遊船「城ケ島」は、後からやって来た家族連れ4人が加わって総勢10名となって油壺を出航する。
「餌をやってカモメが寄ってきたら、捕まえて焼鳥にして食うのだよ」
甲板で餌付けをしていた船員が我々に向かって言う。もちろん冗談だ。
「はい。餌を買う人いる?100円だよ」
船内でカモメの餌の販売が始まった。私がすかさず100円を渡すと、1本の「かっぱえびせん」を差し出す。
「はい。ありがとう」
皆がキョトンとしたことは言うまでもない。もちろん、これも船員のユーモアだ。しかし、我々のメンバーで1人だけ冗談に気が付かない人がいた。
「ええ!たった1本で100円もするの!」
奥田クンが目を丸くする。船員は慌てて「冗談だよ」と付け加え、私に「かっぱえびせん」を1袋手渡した。
 カモメは「かっぱえびせん」が水面に落ちると一斉にたかる。前回訪れた稲村ヶ崎の海浜公園にいた鳩の姿を思い出す。「かっぱえびせん」はスナック菓子として売られているものだからカモメにはもったいない。奥田クンは自分で半分以上食べてしまったとか。
 周遊船「城ケ島」は、相模湾から太平洋に出て、城ケ島の南側を航行する。船内には北原白秋の詞に梁田貞が作曲した「城ケ島の雨」が流れる。城ヶ島は詩人の北原白秋もこよなく愛した緑豊かな美しい島だ。馬の背洞門を眺めて、白い灯台の待つ安房埼沖を周り込み、東京湾をかすめる。周遊船「城ケ島」の航行時間はわずか40分であるが、相模湾、太平洋、東京湾と3つの海を跨ぐ。
 城ケ島大橋をくぐると城ケ島桟橋に到着。桟橋には同じ三崎観光の周遊船「三崎」が接岸しているため、「城ケ島」は「三崎」に横付けされる。下船するときは、一旦「三崎」に乗り移ってから桟橋に降り立つ。本来ならば「三崎」は、油壺に向かっているはずであろうが、観光客が少ないので「城ケ島」だけで間に合わせているのだ。
 城ケ島桟橋の近くにある海南神社で参拝した後、白秋詞碑に足を運ぶ。周囲は海岸整備工事中であるが、観光客のために白秋詞碑には出入りができるように通路が設けてある。1949年(昭和24年)7月10日と40年前に立てられた白秋詞碑には、周遊船の船内で流れていた「城ケ島の雨」の歌詞が掘られている。
「今回の旅で一番感動したところだねえ」
白秋詞碑を丹念に眺めながら安藤君が言う。北原白秋は城ヶ島大橋の真下あたりに住み、城ヶ島に降る雨を飽かず眺めて暮らし、島村抱月の率いる「芸術座音楽会」のためにこの歌を詠んだという。白秋詞碑の隣にあった白秋記念館は、残念ながら月曜日休館。
 遅い昼食は城ケ島大橋の袂にある「そば新」に入る。小さな座敷もあったのだが、6人が座れるスペースがなかったのでカウンターに並ぶ。「そば新」を名乗っているが、メニューを見る限りは大衆食堂のような感じだったので「ラーメン」(450円)を注文する。細麺に醤油味スープ、海苔、葱、メンマ、チャーシューという定番の具材で、昔ながらのラーメンを思わせる。
 「ユースに泊まったの?」から始まった女将さんは話好き。城ケ島の魅力をいろいろ語ってくれる。灯台科学館や終戦まで砲台が設置されていたという城ケ島公園など、見どころはたくさんあるようだ。
「今は海岸一帯を工事しているけれど、夏になれば工事も終わってきれいに整備されているから、また来てくださいね」
女将さんと再訪を約束して「そば新」を後にする。
 さて、女将さんから教えてもらった城ケ島の観光ポイントを見て回ることも一考の余地があるが、今日はすでに10キロ以上歩いており、さすがに億劫になってきた。周遊船で既に城ケ島の周囲を一周しているので、島内の名所を丹念に訪問しなくてもいいような気がしてきた。自宅から近いので尚更である。
 結局、城ケ島はショートカットして、歩いて城ケ島大橋を渡る。橋の袂には1989年(平成元年)5月24日完成したばかりの「島の娘」というオブジェがある。愛らしい娘が城ケ島への旅行者を出迎え、我々のように城ケ島を後にする旅行者を見送っているようでもある。
 城ケ島大橋は、自動車だと通行料が徴収されるが、歩行者や自転車ならば無料で渡れる。1960年(昭和35年)4月に開通し、全長575メートル。海面からの高さは16メートルから23.5メートルもあるので、橋の上では風が強い。「あっ」と本多クンが声をあげて海面を覗きこんでいるので、どうしたのかと尋ねれば、手に持っていたゴミ袋が飛んでいってしまったとのこと。ゴミ袋ぐらいでよかったが、大切なものを飛ばされないように注意しなければならない。
 城ケ島大橋を渡って県道215号線に出れば、海岸沿いを走る三浦海岸行きのバスがあるだろうと見当を付ける。案の定、向ヶ崎町停留所があり、1時間に1本の頻度で三浦海岸駅行きの京浜急行電鉄バスがあった。運良く次のバスは20分後にやって来る。
「バスが来るまで休憩だね」
伊東クンが言うが、向ヶ崎町は周囲に何もなく待ちぼうけをするような場所ではない。 「時間があるから2つ先の宮川町まで歩こう。宮川町まで歩けばバス代が節約できる」 停留所に記載されていた運賃表を見て、歩きを提案するとみるみる伊東クンの顔が曇る。
「どちらにしても乗るバスは三浦海岸駅行きだから、ここからバスに乗ってもらってもいいよ」
伊東クンに言い残して大根畑に囲まれた県道215号線を黙々と歩く。やがて八景原という景勝地の案内を見付ける。北原白秋の時代である大正初期には、油壺、城ケ島に勝る景勝地であったそうだが、今の様子からは想像もつかない。海辺に立てば絶景が望めるのかもしれないが、立ち寄ってみる気力もなく先へ進む。
 周囲に民家が増えだしたところに宮川町停留所があり、歩きに難色を示していた伊東クンもしっかりと宮川町までついて来た。予定通りの三浦海岸駅行きの京浜急行電鉄バスを捕まえる。車内が空いているのを幸い、全員が海沿いの進行方向右側の席を陣取る。しかし、私と安藤クンを除く4人は疲れからかすぐに眠ってしまった。
 バスはかなり狭い道や大根畑の中を走り、岩堂山を超える。江奈湾を経て東京湾が顔を出すと、道路も穏やかなシーサイドラインと変貌する。バスは快調に走って宮川町から30分少々で三浦海岸駅に到着する。
 今度こそ間違いなく鉄道に乗れる。バスに苦しんでいた渡邊クンも三浦海岸駅に到着してにわかに元気を取り戻したようだ。
「こうバスにばかり乗っていると、電車に乗りたくなるな」
いつもなら鉄道にばかり乗る旅で、何が面白いんだと言わんばかりの奥田クンが珍しい感想を口にする。
 三浦海岸からは京浜急行電鉄の特急列車のロングシートに腰を下ろす。特急と言っても京急久里浜までは各駅に停車するので普通列車と変わりがない。周囲は既に薄暗くなっており、12月の日照時間は短い。
 三浦海岸から10分足らずで京急久里浜に到着。ロングシートから腰を上げると伊東クンが弱音を吐く。
「もう降りるの?だったら今日はここで解散にしよう」
しかし、久里浜と言えば江戸時代、鎖国中の日本に開国を求めてきたアメリカのペリーが来航した地でもあり、その記念碑が東京湾フェリーの発着場の近くにあるという。せっかく、久里浜まで来たのだから最後に記念碑まで足を伸ばしたい。
 駅前の中央通り商店街を抜けると、久里浜小学校と明浜小学校の2つの小学校が道路挟んで向かい合わせになっている。我々の歩いている道路が学区の境界で2つの小学校が向かい合わせになったのであろうが、両校を統合すれば無駄もなくなるだろうにと考えてしまう。
 京急久里浜駅から20分近く歩いて久里浜港に面したペリー公園に到着。公園の中央には目的のペリー記念碑が建っていたので解散の記念撮影。公園内にはペリー記念館もあるのだが、こちらは月曜日なので休館日であった。
「次回からは月曜日は避けよう。月曜日はどこも休みだから」
渡邊クンが提案する。今回の旅では城ケ島の白秋記念館も休館日だった。週末を開館する公共施設は月曜日を休館日にするパターンが多く、一考の余地はありそうだ。
 「帰りはバスに乗ろうよ」
文句を言いながらもペリー公園まで付いて来た伊東クンが提案。しかし、バスは開国橋、夫婦橋経由となっていて、久里浜駅まで随分と遠回りをしそうな感じだ。もう、今回の旅は久里浜で打ち切るのだし、久里浜駅まで歩いて戻っても差し支えあるまい。
 行きとは異なる道を歩いて京急久里浜駅に戻ると、途中のセブンイレブンからジングルベルが聞こえてくる。今さらながら今日はクリスマスだったかと気が付く。
 帰りは京急久里浜駅ではなくJR横須賀線の久里浜駅へ。両駅は100メートルほど離れているので、それぞれ異なる駅名を名乗っている。JRと京急のどちらかが譲歩して駅の位置を少し移動させれば、同一駅になれそうだが、今のところそのような気配はない。
 「久里浜駅って素敵だね」
どこかで左足を痛めて、足を引きずりながら歩く安藤クンが時代を感じさせるJR久里浜駅の駅舎を眺めてつぶやく。京急久里浜駅とは対照的な殺風景な駅前広場がローカル色を醸し出しており、ノスタルジックな空間を演出していた。

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