猪子石原村






     和示良神社    薬師寺    薬師寺霊園    兜塚





 猪子石原村絵図(史跡の会活字化)


 猪子石原村絵図

新しく開墾された「新田畑」は、検地をうけて後、村高に加えられるが、検地をうけた年の干支によって、「酉新田」とか「辰新田」とか称した。

「御見取所(おみとりしょ)」というのは、川が氾濫した為に土地が悪く(隣は砂入)、収穫量が定まらないので、毎年見た目で「見取米」を徴収されていた場所のこと。

「控」は、「所有」を意味する。猪子石原村の領主は、肥田孫左衛門であった。「天神」は、今の和示良神社。「ヤクシ」は、薬師寺。「三昧」は、薬師寺霊園。


 主な字名

天神下(てんじんした)・・・和示良神社のことを、明治の初めまで「天神」と呼んでいた。神社の北西側。
欠ノ下(かけのした)・・・「崖の下」の意。神社の北東側。
村崎(むらさき)・・・「村先」で、村のはずれ。
新引山(しんひきやま)・・・元々猪子石村の土地であったが、字「交換」と土地交換したので猪子石原村に属する。


 沿革

猪子石原村は小さな村で、江戸時代は人口も少なく石高は176石しかなかった。

和示良神社の古い棟札に「八軒」とあるが、その苗字は寺田・水野・寺尾等、今の守山区・尾張旭市に多い苗字で、猪子石村からではなく、矢田川を渡ってきた人々によって村が形成された。

人口は、文化・文政時代(1820頃)には、49戸(238人)に増えている。

明治初期まで春日井郡に属し、明治22年、愛知郡の猪子石村に編入された。




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