和原山薬師寺 



 薬師寺(曹洞宗)   猪子石原1丁目にある。

薬師如来座像(秘仏/木造・高さ60センチ)を本尊とし、日光菩薩・月光(がっこう)菩薩・護法十二神将を安置する。

境内に西国三十三番観世音石像がある。

薬師寺薬師堂の創建は、弘化4年(1847)のこと。

初代住職恵雲首座が、名古屋古渡から住居をこの地に移転し、自ら堂主となった。

嘉永2年(1849)、開基が寿円座主、開山として情一成充禅師を勧請し、伽藍が整った。

第1世恵雲尼首座、2世運峯恵従尼首座、3世明室恵昭尼首座、4世翠岩仙桂尼首座、5世実明仙成尼和尚、6世祖香梅岳尼和尚、7世常月尼和尚と代々尼寺であった。

情一成充禅師の名が出ないのは、尼寺という位置付けからであろうか。昭和になって、薬師堂から薬師寺へと名前を変えた。

昭和20年3月、大空襲で伽藍が焼失したが、昭和29年8月、本堂が再建された。






 庚申塚(こうしんづか)

庚申塚 薬師寺境内にある。

「庚申待ち」は、道教からきている。年6回ある庚申の日の夜に眠ると、体内にいる三尸(さんし)の虫が抜け出て、天帝にその人の罪過を告げるので、早死にしてしまうという恐ろしい説である。

眠らなければ、三尸の虫は抜け出すことができないので、夜明け(鶏が鳴く頃)まで起きていることになり、村の重要案件をこの夜に話し合うこともあった。

「庚申待ち」は年6回ある。

干支は、十干(じっかん)=甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)と、十二支=子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)の並列並びでできている。

そのため10×12ではなく、10と12の最小公倍数の60種類となり、1年を60で割ると、6回(余り5日/閏年は6日)になる。

ところが、庚申様が年7回ある年が、ごく稀(まれ)にではなく約3年に1度やってくる。これは新暦で考えている限り理解できない。

旧暦は月の満ち欠けを元に作られており、平年は353〜355日しかない。

余った日数は約3年に1度の閏年(1年は384〜385日で、閏月を入れて13ヶ月ある)で調整していた。

これだと「閏年は、庚申様が年7回」になりやすく、逆に年5回しかない平年も発生する。

新暦は明治6年から実施されたが、現在も続く「念仏講」のような伝統行事は、今も旧暦を使用している場合がある。

一般的な話として、約3年に1度の七庚申の年に庚申の御縁年として、庚申塔婆を立てたり、石塔の庚申塚を建てた。

その庚申塚には、「不見(みざる)・不言(いわざる)・不聞(きかざる)」の三猿を彫った。

庚申(かのえさる)の申は、猿だからであり、神道家が祭神を猿田彦とした。

神仏習合なので、本地仏は青面金剛(しょうめんこんごう)である。

なぜ密教的金剛童子の青面金剛なのかについては、江戸時代における農民の庶民信仰を管理したのは修験者(山伏)であり、その影響と思われる。

庚申の日の同衾(どうきん)は禁忌(きんき)であったが、避けようのない庚申の日の出産も、「子供が泥棒になる」として嫌われた。

「石川五右衛門は、親が庚申の日を忘れて同衾した」とか、「庚申の日に生まれたので大泥棒になった」という言い伝えがあったからである。

そんな訳で庚申の年や庚申の日に生まれた子どもには、金に困らぬよう名前に「金」を持たせた。

夏目漱石の本名は夏目金之助であるが、庚申の日に生まれた。

猪子石村・猪子石原村でも古老の名に、鍬(くわ)次郎・鋤(すき)次郎・鉄太郎などの金ヘンの名前(女性名の場合は、スキ・クワ・カマなど)を見かけることがしばしある。

庚申の年や庚申の日に生まれたのであろうと推測される。   


「猪子石」石標

 「猪子石」石標

薬師寺境内にある。

元は田籾線(基幹バスレーン)と山口街道(208号線)の分岐点(高馬酒店の道を挟んだ北側)にあった。

陸軍が立てたもので、かすかに「猪子石」の文字が読み取れる。





















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