和示良神社


和示良(かにら)神社   猪子石原1丁目にある。猪子石原村の氏神。


 和示良神社 鳥居と拝殿(正面奥)  末社の秋葉社と山ノ神社


  和示良神社 由緒


社頭(現在は境内)に由緒書があるので記す。

 由緒

古くからの語り伝えによると、この地に居を構えていた武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫が、安土・桃山時代の文禄二年癸巳(みずのとみ)(一五九二年十月六日)に創建したとされている。
当時この地は、秀吉の海外出兵等の際の交通の要所として栄えており、宿禰の子孫は平和(安全)を願って社を建て、御神(仁)に武内宿禰を祭った。
創建時、記念として境内に植えられた栃の木が、幹周り三m程の大木に成長し、近隣の人々より、「学問・長生き・五穀豊穣・繁栄にご利益がある」と親しまれ、明治の初めまで「原の天神様」と呼ばれていた。
大木は伊勢湾台風で倒れ、平成初めまで廃木として残っていたが、いつしか姿を消した。

御神(仁)(祭られている神様)
 武内宿禰   誉田別命
 木花開耶姫命
 五仁吉師(山ノ神)・・・字藪下より移す
 大山祇神(山ノ神)・・・字交換より移す 
 富士浅間(ふじせんげん)社  秋葉山・・・西原交差点西北より移す            (以上)

(注1)文禄二年は、西暦1593年。

(注2)武内宿禰は、大和朝廷初期に活躍したといわれる伝承上の人物。

(注3)誉田別命(ほむたわけのみこと)は、応神天皇の諡(おくりな/死後に尊んでつけた称号)。

(注4)木花開耶姫(このはなさくやひめ)は、大山祇神(おおやまつみのかみ/山をつかさどる神)の女(むすめ)。


和爾良神社 石柱 和示良の由来

和示良を「かにら」と読む(読める)のは、地元民だけと思われるが、疑問点もある。

本来は、鳥居横の石柱にあるように、「和爾良」であろう。

「爾」は、「に」とも「じ」とも読めるが、略すと「尓」(異体字)である。

これが「示」と似ているので、誰かが書き間違えた可能性もある。

『延喜式神名帳』(927年成立)に、山田郡19座(社)のひとつに「和爾良(かにら)神社」があるが、この神社がどこかは特定されていない。

この和示良神社も候補の一つであるが、元々は「原の天神様」と呼ばれており、創建が文禄2年(1593)なので、当然ちがう。

『猪高村誌(大正7年版)』に、
「文禄二年癸巳歳に猪子石産土神社(猪子石神明社のこと)より別霊して社を創建し、当時流行によりて道實(道真)公の像を安置して、維新の際分霊の因縁により、和示良神社(という)今の名に改称せり」とある。
    ※カタカナをひらがなにした。( )内は執筆者による。

また『猪高村誌(大正7年版)』は、猪子石神明社を「式内社の和爾良神社」としていて、「猪子石原の和示良神社はその分霊」としている。

明治の初めの頃、このような「和爾良伝承社」としての説が一般に流布していて、そこから「天神社」から「和示良神社」への名称変更が行われたと推測される。

鳥居横の「和爾良神社」の石柱(写真右上)の側面には、「明治38年9月建之/平成14年10月再建」と彫られている。




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