兜塚 山口街道沿い(猪子石原3丁目)にある。 小牧・長久手の戦いのときの兵士の塚。 天正12年(1584)3月、犬山城まで進出した秀吉軍と、小牧山に陣を置いた家康軍のにらみ合いが始まった。 小牧・長久手の戦いの始まりである。 相手陣地を攻めるのは難しく、先に動いた方が負けという膠着(こうちゃく)状況にしびれを切らしたのは、秀吉方の武将・池田恒興(つねおき)であった。 懸念を示す秀吉を押し切り、岡崎城下を攻撃するという中入(なかいり/後方攪乱)作戦を決行せんと、密かに三河に向かった。 これに気づいた家康軍は、後を追う。 三河進撃隊最後尾にいたのが、秀吉の甥で、わずか17才にして総大将の三好秀次隊(第四隊)であった。 4月9日の早朝5時頃、彼らは白山林(はくさんばやし/現在の四軒家の北の丘陵)で、朝食をとろうとしていた。 そこへ、大須賀・岡部の徳川隊が、森林に隠れて接近し、鉄砲の一斉射撃を開始した。 不意を突かれた三好秀次隊は大混乱し、午前6時頃には総崩れとなって、先行する堀秀政隊(第三隊)がいる南方に向かって敗走した。 この時、山口街道沿いに西の猪子石原方面へ逃げて斃(たお)れたとすると、この兜塚あたりになる。 村人は敵味方関係なく、ていねいに葬ったという。 区画整理以前は、広さ八畳間、高さ2メートル程の塚であっ たが、昭和57年4月に、写真のような改修碑が地主の寺田家によって建てられた。 トップページにもどる 猪子石原村に戻る |