薬師寺霊園


 薬師寺霊園    名東区香坂にある。  旧猪子石原村の埋め墓だった。

この辺りは元々旧猪子石原村の土地であったが、旧猪子石村の土地であった今の「新引山」と交換したため、海に浮かぶ孤島のように墓地だけが旧猪子石村内に取り残され、「交換」の字名(現香坂)が残った。


薬師寺霊園 六地蔵
南側の出入り口の所にある。

罪ある人間は罪の軽重によって地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天人道の六つの苦の世界に生まれかわるが、六地蔵はそのいずれの世界からでも救い出してくれるという信仰からきている。

『蓮華三昧経』という教典によって、中世に六地蔵をつくることが盛んになった。

一般的に墓地の入り口につくられ、冥界で迷う死者を救うという。

まだ荒魂(あらみたま)の死霊の段階の霊魂を封鎖する「塞(さい)の神」が仏教化したもので、死の穢(けが)れを地蔵尊に背負ってもらい、土葬の穢れを村に持ち帰らないためのものと言われている。

あたかも神社の鳥居のように、「結界」の役割をしているようだ。



肥田豕石墓石
 肥田豕石(ひだしせき)の墓

江戸時代に猪子石村・猪子石原村を支配した肥田豕石の墓は、薬師寺霊園の南東にあったが、2010年末、北出入り口の「原栄吾先生碑」と並べて立てられた。

豕石は詩歌を嗜(たしな)む時の号であるが、豕は「いのこ」とも読むので、豕石は「いのこいし」と読める。

肥田家は代々孫左衛門(まござえもん)を名乗っているが、この墓は孫左衛門忠乗の墓である。             

肥田家代々の墓は、平和公園の政秀寺の墓地にある。この肥田豕石の墓石は、猪子石村と猪子石原村の村民が領主を偲(しの)んで建てたとも伝わる。














原栄吾先生碑

 原栄吾(はらえいご)先生碑


北側の出入り口には、修験者・原栄吾の石碑が建っている。

彼は、猪子石原村に来て居を構え、自宅を私学校として解放し、児童教育にたずさわった。

栄吾が裏間で、男子に人道・文学を、夫人が表間で、女子に礼儀・作法・裁縫を教えたという。

この石碑は、かつて薬師寺境内西にあったもので、区画整理の時にここまで運ばれてきたようだ。

※原栄吾の碑文は、『猪高村誌』に紹介されているので、そちらを参照されたい。













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