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末期の涙 


KISEI  YUKARIHANA    MUSEUM  OF  ART 
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中平先生御母堂の今際の際(イマワノキワ)に拝聴した言葉です。



私は一週間前まで、死ぬという事を考えてはいませんでした。今こうして死のう

としています。今日涙で送られるのです。本当にその時にならないと、死は解ら

ないものです。私は老衰です。

皆様が笑って看病してくれて、こんな嬉しい事はありません。今日涙で送られる

のです。これが無常という事でしょう。


死というものが、如何に人の意のままにならない。死が難しい事か解るでしょう

。だから容易く死ぬなんて思ってはなりません。命を大切にしなければなりませ

ん。私の経験を皆様は生かして生きて行くのです。

子供が立派に育つには、女性が賢くなければなりません。

今の若い人は、文学性(情緒)がなさすぎます。




私がこんなに長生きしてきたのも、総て皆様方に私の娘が真実に生きてきたとい

う事を、解ってもらいたかった為です。悲しんだり嘆いたりしている暇はありま

せん。美津子には重大な使命があります。それは父や母のこの真実を行彦(兄の

息子)や皆様に伝える義務があります。



私は今まで娘と思ってきた美津子を、はっきり今縁を切ります。もう貴女は私の

娘ではありません。だから私の後を付いて来てはなりません。私は永い間別れて

いた、お父さんや寅治(兄)の処へ行きます。貴女は行彦を立派に育ててください。


私が苦しむ事は、生きている事です。こんなに苦しむのは、きっと生きている間

に知らず知らずのうちに、悪い事を した罪の償いに、こんな責めに合っている

のでしょう。それにしても耐え難い苦しみです。でも、これを耐えねば行けない

でしょうが、耐え切れなくて、喚いている自分の姿が情けなく思います。


大抵の人は死ぬ時には人々から悲しみ嘆かれていますが、私は皆様が笑って看病

してくれて、こんな嬉しい事はありません。


勉強するのです、その良い例はこの美津子を観れば解ります。勉強なさいませ。


喜びと悲しみとがはっきりした生活をすべきです。


泣かれる私は死ねません。背中に情が残って引き留めるのです。
  
 
                    昭和四十年十月四日


この蓋を開ければ、あの世ですのに、どうしても開けてくれません。私はこんな

に、免許状を揃えたのに未だ死ぬ事を許してはくれません。もう後へは一歩も退

けません。    


この母の苦しむ様を判然と覚えておいて、この死というものが如何に人の意のま

まにならぬ難しい事かということが解るでしょう。だから容易く死ぬなんて思っ

てはなりません。命を大切にしなければなりません。


この母の経験を貴女は生かして生きていくのです。恥ずかしいこの苦しみを覚え

ていて、その上で生きなければなりません。


私は死ぬ事にこんなに苦しんでいます、どうかこの苦しみを味わう事のないよう

に。その為にお茶を勉強し続け苦しみに耐える事を学ぶ事です。



(中平先生と御母堂の会話)


私が、死んでからも、節句は祝って下さい。


そんな下手な経(般若心経)では、あの世へはいけません。


お母さん、きれいに読めるなら、読んでみて。


それが読めるくらいなら、こんなに死ぬのに苦労はせん。


子守歌なんて子供に聴かせるものです。私には、「今宵出船」でも聴かせなさい。


黄饅頭に目口(横田先生)、鍋蓋に目口(編者)、何と可笑しいではありません

か。 (臨終を迎えようとしている病人の傍らで、看病人が疲れて部屋いっぱい

に高鼾で寝ている姿を病人が観て笑っていた。


この人は、大丈夫です。(横田先生が病人の脈を取っていて眠り、反対に病人が

脈を取って云う。)


芸術家(横田先生)とは淋しいものですね、十分の遺言も聴けぬとは。


(家に帰って彫刻を制作する時を得た不手際が有りました。不思議な事に彫刻は

完成直後に割れて壊れてしまいました。)



       (辞世の歌を拝聴しました。)


*鈴虫よ 鳴いてくれるな 切なき思いに 有為の奥山 越へかねて


*我が命 垣根の露と 消ゆるとも この身に余る 御報恩 いかで忘れそ


*時計の針 一刻一刻 運べども それに乗れない 我が身悲しむ


                   昭和四十年十月五日

お互い、労りあって暮らす事だと思います。優れた人は同行二人の精神を、何

時も忘れません。


(死出の旅路には、眠りというものはありません。)


萩の咲く頃死にたいものだと、
母が若い頃話していました。

(十月七日の萩盛りに終焉を迎へました。)           
               
                    昭和四十年十月九日



人と共に、泣き悲しむ事が出来なくてはなりません。山を見れば山となり、鳥

を見れば鳥と鳴く。そこには、欲望というものがありません、純粋な魂だけな

のです。人のことに、泣き喜ぶ、この事を母から教えられました。その人の身

になることが、出来るのです。これは魂の触れあいなのです。だから、自分と

関係つけて、喜びや悲しみを共にしたいのです。この感情が「芸」なのです。

一葉、鴎外、独歩の作品の中に、このような心が見られます。願いと祈りのあ

る姿こそ、救いになると思われます。  

            
                  昭和四十年十月十六日



母が私に残した責任は考えると実に重い事のようです。母は何か新しい生命を

私に宿して逝きましたから、これからも生きていけそうです。悲しんでいる暇

は無いのです。 十六歳以上生きられないと医者から言われた私ですが、今ま

で立派に生きてきましたから、これからも生かしてもらえそうです。

                   昭和四十年十一月三日



母(明治十八年生まれ)が亡くなる時に話していました。自分は死ぬ事にこん

なに苦しんでいる、どうか私に この苦しみを味わう事のないように。その為

にお茶を勉強し続け、苦しみに耐える事を学ぶ事です。

母は「貴女が偉い人になる為に茶を習わしているのでなく、ものが観えるよう

になる為に習うのです。素晴らしい人の作品を観て謙虚な精神でいて、素晴ら

しい事が耳に目に入る為に習わしています」と言っていました。下駄の鼻緒を

挿(ス)げる事を教えてくれた人がいたら、その人が自分にとって師匠であるという

思想がはっきりしていました。



母は絶対に小言は言わない人でした。機嫌の悪いという事はありませんでした

。 どんなに遅くなっても「もう先生はお帰りか」と安じていました。



母は一度もお金の計算をした事はありませんでした。必要な物は何時も買って

くれました。筆一本買う時でも、箱一杯買って来て、その中から一本を選んで

使ったりしていました。でも父が亡くなってから、お金が無い時は、買いたい

物を云うと、はっきりとお金が無いから買えないと答えてくれました。


母は、一度も自分の用事を子供に頼む事はなく、掃除をせよとも言いませんで

した。
                   

                昭和四十二年六月十四日
 





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