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  紫花人形  序の章=雪割草)


KISEI  YUKARIHANA    MUSEUM  OF  ART  ;


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陽の当たる縁側で祖母と孫が優しく欅造りの火鉢で餅を焼きながら話し合っていた幼い頃の想い出の情景を懐かしく懐古しています。厚い座布団、赤色と黄茶色の袖なし半纏(ハンテン)、幼子は長袖、老婆は半袖、老婆より幼児の人形を大きくしているのは、幼児が主役であるからでしょう。幼子が腕に抱く西洋人形は父が上方 (関西)に出掛けた時の土産でしょう。優しい父の想い出を抱いているのです。
作者は敷地が2000坪の裕福な商家で仁徳と慈愛に満ちた両親の元で幼少期を過しています。父は何時も幼 い作者を肩車して可愛がってくれたそうです。遠方からの来客に娘が茶を点てる事を喜び、この子の為なら自慢できる茶室を建てたいと云うと母は否(イヤ)、他人に褒められると尚更質素にありたい と願っていました。家の座敷も料亭風の窓を付けたりして贅沢な造りで床柱にも銘木が使われていましたが、作者は趣味に合わないと云ったそうです。
先生方と料亭の得月楼で会食をした事が有りました。五十年振りに訪れた得月楼は、まるで昔の家に帰った様だと話していました。部屋の佇まいや仲居さんの立居振舞も昔の様で、床の間を背に座る横田煕生先生が高尚に観えた様です。座敷には見事に咲いた梅鉢が飾られていました。作者の家紋も梅鉢でした。



地面から突き上げた、雪割草のように廻して見て欲しいのです。

芥川龍之介の著作「蜘蛛の糸」の話を小さい時聞いても、終わりにが地獄に堕ちて、それから、誰が救って呉れるのか問うものでした。どうしても、お釈迦様に救って貰いたかったのです。罪人を救って呉れなかつたら、お釈迦様の意味が無いのではないか、どうしても救って呉れるように 泣きながら頼んでいました。そうです、三歳の頃から人が最期に仕合わせに成らないと承知しない性格が今だにあります。

瘤(コブ)の在る小父さん に、「その瘤は良い瘤か、悪い瘤か」と言ったら、「良い瘤だよ」 と言ったので、私は台所に行って、升に灰を入れて持ってきて、「花を咲かせて」と頼みました。

父は部屋でも壁の下に障子が沢山あって、開くのが好きでした。総てが料亭(得月楼) 好みでした。床柱などに「猿滑り」等の銘木を好んでいましたが、私はこの趣味は好きでないと言って遣りました。

三歳の頃より茶の手解きを受け、毎日のように浜口先生に習っていました。朝は学校に行く前、帰ってからも座っていました。日曜日には十三時間ぐらい座っていました。こうして現在毎日茶を飲んでいる姿を母が観たら随分喜んでくれるでしょうに、この生活が茶の理想の姿、あり方です。私が生涯懸けて望んでいた生活です。