長岡紀行

長岡紀行

紀行などと大げさなものではないのですが、平成22年9月20日21日の二日間
憧れの長岡に行って参りました。
たった二日間でしたけれど、得るものは沢山ありました


土合(どあい)駅のこと…


上越新幹線を使えば、東京から2時間半で着いてしまいますが、それではもったいない!! 各駅停車で渋谷→高崎→水上→長岡とたっぷり6時間をかけて列車の旅を楽しみました。ここは、水上駅を出発して直ぐの土合駅 です。ひとつ前の湯檜曾(ゆびそ)駅とこの土合駅は清水トンネルの中の駅で、昼間ですのにまるで夜行列車に乗っているよう …写真の駅舎から、地下に100mも潜らないとプラットホームに着けないのだそうです。
全く前知識を仕入れないでこの駅を通りましたが、途端に父との登山の思い出がよみがえりました…何十年も記憶の奥に 眠っていたものが、湧き出して来た様に思いました。父と登山に行くのにここを通りました。そしてこの清水トンネルの上には 遭難で有名な谷川岳がそびえている事を父から聞いて身を震わせたものでした…


余程政府から、恨まれたのか長岡城…


ここは、長岡駅です。長岡城と聞きますと、駅から少し離れた場所に「城址公園」 などと称しまして、復元されたお城があっても良さそうですが、悲しいかな長岡城は跡形もなく、この長岡駅が、あの 政府軍(西軍)との激戦があった長岡城の本丸があった場所と言いますから、私の祖先を含む、河井継之助の抵抗がいかに 激しかったのかと思いますと、誇らしくもあり、悲しくもある複雑な気持ちです…徹底的に破壊し尽されたのです。この辺りの町名はすばり、 「城内町」、どんなに恨んでも地名までは破壊できなかったのでしょうね…


河井継之助記念館にて…(1)


長岡に到着するや、まず向かったのが、「河井継之助記念館」です。ここは、河井継之助の屋敷のあった場所だそうです。 屋敷の庭などが残っていますが、それは「つづき」でご紹介します。この「河井継之助記念館」は彼が最期を迎えた只見町にも あるそうですが今回は時間の関係で行けませんでした…
河井継之助記念館で早速祖先調べ開始…「弓削」と言う祖先の長岡藩士の ことを学芸員さんに伺いましたら、館所蔵の長岡藩士の名簿など色々と調べて下さいました…そして驚いた事に、この本の 著者「稲川明雄」さんが、突然私の前に現れて「弓削」姓について教えて下さいました。弓削と言う姓は、織田信長の家臣 だったそうです。しかし織田家の凋落と共に、ここ長岡に流れて来たそうですが、今は長岡にその痕跡や一族が何処にいるかは 分からないそうです…
河井家のお墓のある「栄涼寺」にあるいはお墓が残っているかも知れないが、墓地改修の折り、 無縁のお墓を大分沢山合祀したので、もう「ないかも知れないなぁ」と稲川明雄さんの、お言葉でした。でも予測は出来た 事なのでそれ程気落ちはしませんでした…学芸員「ガイド」さん、稲川明雄さんありがとう御座いました。
栄涼寺にも行きましたので、これも「つづき」でご紹介します…



河井継之助記念館にて…(2)


河井継之助記念館に入館しますと 丁度、ガイドさんの説明が始まって居りました。ガイドさんはきっと、本当に河井継之助が好きで好きで仕方がないのだろうなぁと 思わせる、素晴らしい説明でした…
河井継之助、このような高邁な強い精神力の豪傑、しかも司馬遼太郎氏が 歴史小説「峠」の主人公に据えているのにも関わらず、大河ドラマには決して採り上げられないのは、何故なんだろうか。 とは、思っていますけれど、民放のドラマで一度採り上げられた時、最初の場面が河井継之助のお墓を闇に紛れて、叩き削って いる場面から始まりましたっけ…つまり、英雄であり、政府軍に激しい抵抗をして負けはしましたが、見事な戦いをした彼では ありますが、彼の決断で、家族や大黒柱を失った藩士や領民から見たら恨み骨髄に達する人でもあった訳です…

写真は後の世に作られた河井の銅像ですが、左手は刀の柄に手を、そして右手には望遠鏡を持っています。ファブル・ブラント が、日本に来る前の写真に、右手は懐中時計、左手には望遠鏡というのがありましたが、何かそれと相通ずる印象を受けました。



河井継之助記念館にて…(3)

ガットリング砲のこと


河井継之助が日本に たった3台(門)しかなかった、このガットリング砲の内2門を横浜のジェームス・ファブル・ブラントから購入した 話しは、つとに有名です。しかし、この戊辰戦争長岡の戦いで、河井継之助自らが扱ったと言われるこの砲が、長岡城が 再陥落した後、一体どうなったのかは、今でも分かって居りません…一説には政府軍の手に渡らないように 分解して信濃川に遺棄されたとも、また一説には政府軍あるいは幕府軍の軍艦に 擬装されたとも聞きますが その軍艦は沈没してしまいました。後世に引き上げられて確かにガットリング砲は乗っていたようですが、長岡藩が購入 した砲と同一のものであるのか、あるいは、残りの一門であるのかは分からないようです…
ところで、このガットリング砲というものは、アメリカ南北戦争の産物です…日本を開国に導いたのは、アメリカの ペリー提督だという事は有名な事ですが、そんなアメリカが、戊辰戦争でほとんど軍事的に絡んで来ていません。
イギリスやフランスなどは、軍事顧問や武器供給を盛んにしていますが、アメリカは南北戦争の最中でそれどころでは
なかったのが事実でしょう…
このガットリング砲ですが、ここ、河井継之助記念館に複製として展示されているのが、 アメリカ南北戦争で使われて居たもので、良く見られる、太いレンコンの穴から弾丸が飛び出すものはかなり後に改良された ものです。民放のテレビドラマで河井継之助役の中村勘三郎がポンポンと撃っていたのは、 この後世のレンコン型のものでした…レプリカとは言え、この由緒ある物騒なガットリング砲に出会えて幸せでした…



河井継之助記念館にて…(4)

五間梯子(はしご)


北越戊辰戦争中最大の戦闘が 行われた長岡城奪還作戦にあたり、1868年7月24日(新暦9月10日)河井継之助は長岡城奪還軍の諸隊長へ心得書を渡し、 進軍手配の詳しい指示を与えました。抜粋でご紹介します…
一、味方印白木綿振旗の事(戦場で別の隊と出合った時、敵味方を識別するために互いに白木綿の旗を振り合う事)
一、白木綿胴巻きの事(長岡藩兵は一様に白木綿の胴巻きを使用すること)
一、左の乳の所へ御合印を付くべき事(左胸に長岡藩印の五間梯子の印を付けておくこと)
その他、長岡城下に入って、家を焼き敵を追い立てる時は「長岡藩2000人が死にに来た、殺せ!殺せ!」と叫ぶ事など 細々としたものを言い渡しています…
そして、伏魔殿とも言われる沼(八町沖…今は埋め立てられて美田になっています)を 越えて長岡城に入るのです。その時の藩士の様子は、拙HP(読書感想のページ…長岡城奪還)の通りです。その時に藩士が 左胸に付けるよう河井から指示された五間梯子はこれなのです…私の祖先「弓削」もこの五間梯子と共に死んだのでしょう…

つづく



  • ホームへ戻る
  • James Favre-Brandtと日本の年表
  • 花鳥風月のページ
  • James Favre-Brandtのページ
  • ジェームス・ファブル・ブラントのページ2
  • 私のブログ
  • 横浜今昔物語
  • 読書感想のページ
  • Copy right (C)Shintaro, All rights reserved,画像及び記事内容の無断使用は禁止です